夏のなき声

平椋

夏のなき声

ミーンミーンミーンミーン


---------


-----


---



「--」


--はて、ここだどこだろうか。俺は一体……?


 気づくと俺はそこにいた。見覚えのない建物の中で薄暗い個室の中途半端に片付けられた荷物が散乱しているこの場所に。

 ガムテープで封をされたダンボールが俺の足元に置かれていた。だがそんなことはお構いなしに俺は両手や服装を気にした。


--これって記憶喪失ってやつか?俺の名前もこの場所も全く思い出せん……!!でも、バイトか……?


 何がなんだがわからなかったけれど、なぜかすぐに「記憶喪失」という単語は頭に浮かんで、自身の服装と、周りを見渡してみたら、これまたなぜかわからないが一瞬で自分がバイトの作業中だということがわかった。

 記憶を失っているくせに状況把握が早いことに何も疑問を持たなかった。


「日野くーん、何やってるのー?」

「え……?」


 その一瞬で「日野」が俺自身であることを理解した。その甲高い女性の声に呼ばれて振り返る。


 --『一目惚れ』だと、この時はそう思ったんだ。


「え、あ、あの」

「これ、まだ残ってるよ。さっ、運んで運んで」

「……はい!!」


 彼女のその美しさに当てられて、口が自由に動けなかった。それが恥ずかしくて視線も斜め下を向く。

 しかし彼女はそんな俺など気にすることもなく仕事の指示を出した。もしかしたらこの作業は彼女の範疇外だったのかも知れない。そう思うと役立たずな自分に腹を立てるとともに、彼女と一緒にいられる時間ができて感謝する自分もいた。

 自分が何者かなんて二の次でただひたすらに彼女のことを考えていた。彼女の一挙手一頭足が俺の頭の中の全てだった。


「ふぅ……なんとか終わったねー」

「そうっすね」

「しばらくは休んでていいらしいから日野くんは休んでて。私はもうちょっとやることあるから」

「あ、はい」


 自分が誰だかわからないままだたけれど、不思議とそこまで気にならなかった。自然と体が動くというか、自分が示す体の反応が間違っていないと、そう感じていた。

 同時に彼女についてもわからないままだった。俺と彼女はここのバイトでは長いらしく改めて自己紹介なんてする雰囲気でもない。でもなんとなく彼女は俺よりも年上であろうことは想像できた。

 だから彼女のことを自然と「先輩」と呼んだ時は焦った。しかし先輩も気にすることはないようで、逆に焦って思考を止めている俺を不思議そうな顔を傾けていた。


「日野くん、はい」

「あ、ありがとうございます。先輩……」


 俺は休憩室でぼーっとしていた。そこに先輩がペットボトル飲料水を持ってきてくれた。

 先輩は俺より先にキャップを握りごくごくと喉仏を鳴らした。その姿に心を奪われた。汗が伝う白い肌。汗でしっとりと濡れたウェーブをかけた短い髪。爽快感から気持ちがよさそうに閉じられている瞳。ペットボトルにキスをする唇。先輩の全てが美しかった。


「飲まないの?」

「あ、いえ飲みます飲みます」


 先輩からもらった水は、この暑い夏の日にもってこいの冷たさだったことを覚えている。


===============


「暑い……」

「暑いねー」


 その日の太陽はやけに自己主張が激しく、先輩と二人で不平を言いながら、うちわで自分自身を仰いでいた。


「この部屋、クーラーつけてくんないかなー。今時うちわって。せめて扇風機くらい置いて欲しいよね」


 俺と先輩のいる休憩室には「休憩室」と呼ぶには名ばかりで、クーラーはおろか扇風機さえ置いていない時代錯誤な部屋だった。部屋といってもすぐ隣には売り場があり、そこを一枚の引き戸で仕切られている和室だった。


「しょーがないのかなー田舎だし。じいちゃんばあちゃんは私たち現代っ子と違ってこういうのには強いからねー」

「田舎の性っすかね」

「そうかもねー」


 パタパタと明後日方向を見ながら自分を仰ぐ。胸元を摘み風を送り込みむ彼女をチラチラと見ていた。


「……日野くん」

「はい」

「なんかやって」

「いやですよ。暑いですし、疲れますし、暑いですし」

「そうだよねー」

「……」

「……」

「暇なんだよねー」

「暇ですねー」


 周りに田んぼが広がる田舎の小さな商店の昼間には来客は少なく暇な時間が多くあった。暇とは言いつつも俺自身先輩と同じ空間で先輩が俺の名前を呼んで、先輩が俺に声をかけてくれる、ただそれだけで楽しかった。

 ずっとこんな暇な日が続けばいいとさえ思っていた。


===============


「最近、この辺り事故が多いよね。高齢者の事故」

「田舎は建物同士が離れていますから、どうしても徒歩では厳しいですからね」

「うちのおばあちゃんもそれ言ってたよ。免許自体はまだ持ってるらしいけど、運転はお母さんがやってるよ」

「俺も近いコンビニまで15分くらいかかりますからね」

「それが当たり前だと思ってたよね。でも都会のほうに行くと数メートル先に違うコンビニがあったりするんだよ。すごいよね」

「でもこっちにもそんないるかと言われればいらなくないですか?」

「ふふ、まーね。もうこっちの感覚に慣れちゃったからね。でも田舎にはやっぱり車は必要だよね。事故には気をつけなーよ」

「お互い様っすよ」


 知らないうちに日は過ぎていき、カレンダーも7月から8月に変わる。それでも俺にはその時間が一瞬に感じて……気づかなかった。先輩との思い出以外思い出せないことすらも、この時の俺は気づかなかった。


===============


「日野くーん、こっち来てー」

「はーい……。どうしたんですか?」

「まぁまぁ、しゃがめしゃがめ」


 猫のような何かを企んでいるような表情で片手をうねらせている。


「……?はぁ……うわ、ちょっと先輩何やってるんですか!?」


 言われるがままに腰を落とすと俺の頭に手をやり肩に太ももを乗せた。そう肩車だ。

 先輩の程よい重みを全身に感じて、思わず首だけを後ろに回すが太ももによって顔がぐっと固定されていた。

 両サイドから加わる力でも太ももの柔らかさは健在で複雑な気分だった。


「うーん?ちょっとこの上のもが取りたかったんだけど届かなくてねっ、と」

「脚立、使えばいいでしょ!?」

「もーじっとしててよ脚立さん。危ないじゃん」

「これはただの肩車っすから!!」

「んーっと、取れたー。もう下ろしてくれていいよー」


 ゆっくりと膝を下ろすと先輩も俺から降りた。


「……はぁ、はぁ、はぁ、はぁ」

「もーそんな疲れないでよー、私が重いみたいじゃん」

「……はぁはぁ、いや、体はなんともないっすけど、精神的に疲れたと言いますか……」

「私が重くないなら良かったよ。ありがとう脚立さん」

「今度は事前に言ってくださいね」

「あれ?今度はちゃんと脚立使いましょうって言わないんだね」

「……まぁ、別に嫌ではなかったんで……」

「ツンデレか!?」

「いや、そんなんじゃないっす!!」


 この時の先輩の太ももの感覚は忘れられる訳がない。例え、もうあの時の温度を思い出せなかったとしても。


==============


「日野くん」

「はい」

「これあげる」

「これは?」

「お土産」

「ありがとうございます。鳩サブレー……神奈川っすか」

「そっ。この前行ってきたの」

「一緒に食べましょうよ」

「うん」

「俺、初めて食べました」

「鳩サブレ?」

「はい。俺ここから出たことないんすよ」

「へー。すごいね。こんな田舎で19年も過ごしてきたの?」

「言い方悪いっすね。でも、こんな何もない田舎で19年も過ごしてきたんすよ」

 モグモグモグモグ

「修学旅行とかは?」

 モグモグモグモグ

「あー俺行ってないんすよ。体調崩して。そう言った県外訪問的な行事は全部」

「えーそうなの?じゃ県外に憧れない?」

「んー逆にこの場所に落ち着いちゃいましたね」

 モグモグモグモグ

「私はこの場所で一生を終えるなんてやだなー。日野くんには悪いけどね」

「いや、それが普通じゃないですか?昔ならともかく技術が発展したこの現代では新鮮な空気より新鮮な情報や電波を求めますからね」

モグモグモグモグ

「じゃあ、私は日野くんとは結婚できないね」

「……あ、あんまからかわないでくださいよ」

「ふふ」

「……あれ鳩サブレ……もうない……?」

「あ、ほんとだねー」

モグモグモグモグ

「俺まだ二個しか食ってないっすよ?」

モグモグモグモグ

「あのー先輩?」

モグモグモグモグ

「なんで人へのお土産八割食べちゃうんですか」

「だって食べていいって言ったから、お言葉に甘えて」

「甘え過ぎでしょ」

モグモグモグモグ

「……ごちそうさまでした。ありがとう日野くん」

「いえいえ、どういたしまして。ってあれ?立場逆転してません?」

「さっ、休憩終わるよー」

「あ、ちょっと待ってください。せんぱーい!!」


===============


「昨日、私怪談の番組見たんだよね」

「時期ですよね。先輩そういうのは得意なんですか?」

「ううん全然。ちょー怖かったよー。観てる時はほとんど顔隠してたし」

「なんで観ちゃうんですか」

「あるあるだよね」

「まぁ、わからないでもないっすけど」

「でさー『地縛霊』って話が印象的でねー」


 先輩はいつもの通りの調子で語り出した。

 俺はそんな先輩の話に耳を傾けると同時に先輩の動く口元に、口を動かすタブに動く喉仏に、綺麗な首元に、呑気にも見惚れていた。


「『地縛霊』ってその未練がある場所から離れられないんだって。それってさ、ぜっっっっっったい楽しくないよね」

「楽しい楽しくないの問題ではないのでは?」

「だってさ、もし交通事故で死んだとしてらさ、その交通道路から離れられないってことでしょ?なんの娯楽もないんだよ?ただ車の通う数を数えるだけの毎日だよ?」

「いや、そうかもしれないですけど。別に交通事故で死んだら絶対交通道路ってわけでもないじゃないですか?要は未練のある場所なんですから」

「じゃ、好きな子がいたらさ、その子の家に住み着くってこと?」

「それもまたちょっと違う気はしますけどね」

「それって楽しいのかな」

「いや、楽しい楽しくないの問題ではないと思いますけどね」

「でも、それってどうやったら成仏できるんだろうね」

「……」

「だって相手からしたら姿も声もわからないわけだし、もし『好き』って言ったとしても聞こえない。抱きしめたとしても、ちゃんとできるのかもわからないよね?」

「好きっていうだけでいいんじゃないですか?相手の反応がどうであれ気持ちを伝えたならば未練は晴れるんですから」

「じゃあ、もし未練が『付き合えなかった』ことだったらどうなるの?」

「……わからないっすよ」

「ふふ、そうだね。こればっかりは本人に聞いてみないとね」

「できるといいですね」

「ねっ」


 先輩は気持ちの良い笑顔で答えた。その顔がいつまでも頭の中で釘を打たれたように張り付いている。


==============


ミーンミーンミーンミーン


『昨日午後2時ごろ〇〇県の××町で70代の女性が運転する車が歩道側に突っ込みました』


 そんなニュースが休憩室のテレビで流れていた。驚くべきことにその街は俺の住むこの街のことだった。身近に起こった事件に死神がすぐ後ろで鎌を研いでいるような恐怖があった。明日は我が身、そんな言葉もあるとおり。

 しかし俺は別の意味でそのニュースから目が離せれないでいた。現実を見ろと後ろから両手で顔を固定されているみたいに。変な汗が額から溢れて冷たいものが背中をなぞった。

 

『この事故に伴い一人の男性が撥ねられ死亡しました』


『死亡したのは日野隆史ひのたかしさん19歳で---』


「---え?」


--日野隆史さん19歳で---


 何度もその文字を読み返した。


「どういうことだよ……」


 すると今までの記憶が電気のような一瞬の速さで脳内を駆け巡る。記憶の中から先輩が俺を呼ぶ声が聞こえてくる。


--『日野くん』『日野くーん』『日野くん!!』『日野くん?』『……日野くん』--


日野隆史ひのたかしくんだね。これからよろしくね。私の名前は--』


 記憶の中でそう呼ぶ先輩の声が聞こえる。その声と一緒に先輩の顔が浮かぶ。


「なんでだよ、どうして俺の名前が……!?」


 それでもまだ現実が受け入れられないでいた。


「生きてるだろ、俺は!!死んでねーよ」


 俺が死んだって?最初は何を言っているのか訳がわからなかった。同姓同名だってあり得るからな。でも、いつものように身体が受け入れたんだ。反射的にその事実を否定したが、本当にその一瞬だけで、数秒後の頭の中はひどく冷静でなんの疑問もなく、さも当然のように受け入れた。

 言葉が出てこなかった。だって否定できる自信が湧いてこなかったんだから。


「先輩!!、先輩!!、先輩!!……先輩!!」


 それが悔しくて、なんとか否定したくて走り出して、叫んだ。でも、先輩は見当たらなかった。それどころがひとっこ一人いなかった。

 あんなにうるさかった蝉の声も聞こえず太陽のうるさい光はあるのに暑さを全く感じなかった。

 見慣れた店先。その正面には木が一本立っていて蝉が一匹張り付いている。まるで無言で俺の様子を眺めているようにも見えた。

 日差しと日陰が引き戸の敷居で区切られている。あと一歩を踏み出せば、そこには熱い熱い太陽が支配する世界。何度も踏み出そうとするが、足は上がらずただ拳に力を込めるだけだった。


--先輩のシフトいつの何時だっけ?

--今日は何月の何曜日だ?

--この店の店長は?

--他のバイトの人は?

--昨日の晩御飯は?

--今日の朝ごはんは?

--先輩の名前は?


 何もかも思い出せない。

 再び足に力がこもる。この一歩。あとたった一歩が踏み出せなない。金縛りにでもあっているようだ。

 目を瞑り力を振り絞る。


『死亡した男性は日野隆史さん19歳で---」


 あと一歩。


『日野隆史くんだね。これからよろしくね。私の名前は--』


 たった数ミリが。





『『地縛霊』ってその未練のがある場所から離れられないんだって』





「--っ!?」


 もういつの日の思い出いかもわからないその内容で我に帰った。


「……はぁ、はぁ、はぁ」


 視線を下に向けるが、目を閉じる前と寸分の狂いもない。どうしてもその一歩、敷居の先に踏み出すことができなかった。


「……今までの俺はなんだったんだ……今までの先輩は?」


 それはもう身体が理解していた。


「全部、俺の記憶……?」


 気づいた時には先輩が目の前にいて。日を跨いでいる怠さはなくて。途切れ途切れになっている時間軸。先輩以外の顔が思い浮かばない。


「俺、死んじまったのか……、しかも『地縛霊』なのか……?」


 見えない誰かが「そうだ」と頷いた気がした。


『『地縛霊』ってその未練がある場所から離れられないんだって』


 先輩の声で思い出が再生される。


「俺の未練か……。やっぱり先輩のことだよな……」


 先輩のことしか思い出せないくらい彼女が好きだったのだ。


『でも、それってどうやったら成仏できるんだろうね』

『だって相手からしたら姿も声もわからない訳だし、もし『好き』って言ったとしても聞こえない、抱きしめたとしても、ちゃんとできるのかわからないしね』


「俺の先輩に対する未練……」


 しばらく考える。自分は何を思い残したのか。


「---わかんねっ……」


===============


ミーンミーンミーンミーン


「----っ!?……」


 蝉の声がうるさかった。

 だけどその音に安心した。ああ、俺は戻ってこれたんだと。あれはただの夢だったのだとそう思えた。けれどその音は現実のこの暑さを嘲笑うが如く、とても冷え切っていた。


「……」


 休憩室にいた俺はテーブルを挟んで目の前に先輩がいることに気がついた。ほら、これが現実だ。

いつものように話しかけてさっきの夢の内容をネタに先輩との至福の時を過ごそう。


「……せ、先輩……?」

「……」

「先輩……」

「……先輩……!!」

「……」

「……」


 何度呼びかけても反応をしてくれない。頼むから「冗談だよ」と言って笑ってくれ。

 擦り切れそうな声で呼び続け、その残酷な現実に首を下げた。

 冷たい氷の刃が俺の腹に突き刺さっているようだ。現実は冷たいものだったが、少しもこの気温を下げてはくれなかった。もっとも温度は今でも感じることはできなかったが。

 それからはただただ、むさ苦しい毎日か続いた。


==============



 休憩室にはいつの間にか扇風機が設置されいて、うちわで仰いでいたあの頃の面影はなかった。

 よく喋っていた先輩は休憩室で喋ることはない。ずっとスマホをいじっている。


--そういえばいたな、こんな人。


 田舎の小さな商店だとしても、他にもバイトの人はいて、そのことを今思い出したのだ。

 この現実を見れば今までのことが本当に俺の記憶の中の世界だったってことがさらに傷つけた。血が出ない代わりに、この傷も癒えることはない。


===============


 何日経ったか。外に踏み出す勇気も出ずにずっとこの休憩室の座布団に座っていた。


 俺は日野隆史ひのたかし19歳。この田舎の小さな店で品出しのバイトをしていた。8月13日に車に撥ねられて死んだ。


 思い出せたのは、これが現実だからだ。今まで夢の中にでもいたようだ。

でも、いくら現実でもそれ以外は思い出せなかった。


「くそ……!!大切なら、名前くらい覚えておけよ!!」


彼女に関することだけが、未だ思い出せていなかった。


『でも、それってどうやったら成仏できるんだようね』


 思い出せるのは記憶の先輩しかいない。


「未練ってなんだよ……!!成仏……させてくれよ……!!辛いんだよ……!!楽しく、ないんだよ……」


 テーブルに項垂れなから力を込める。しかし何も変わりはしない。


「今までありがとうございました」

「……!?」


 それは先輩の声だった。靴を剥がず靴下のまま休憩室から飛び出した。そこでは白髪を生やした年配の店長と先輩が重苦しい雰囲気で話していた。


「やっぱり辞めちゃうの?君はよくシフトも入れてくれたし、仕事もよくやってくれた。いなくなちゃうと寂しいよ」

「そう言っていただけるのは嬉しいです。でも……八月いっぱいまでって決めてましたし……勉強、頑張らないといけないですから……」

「日野くんのことはとても残念だったよ。君が一番仲良くやっていたからね。気にするななんて不謹慎なことは言えないけど、私は君にここにいて欲しいよ。君が復帰できるまでシフトを融通を効かせたって--」

「店長、今までまでありがとうございました」

「……そうか。残念だよ。これから頑張ってね。いつでもここは大歓迎だから、またいつでも戻ってきてくれていいからね」

「はい。失礼します」


--そうか……先輩ここ、辞めるのか……。先輩言ってたもんな。


--もう夏が終わるのか……。



--先輩、今までありがとうございました。さようなら……。


ミーンミーンミーンミーン


--------


----


--


==============


ミーンミーンミーンミーンミーン


「--俺は……?ここは……?」

「……くん。……のくん。……日野くん。日野くん!!」

「はっ……!?」

「お、起きたー。よかったーこの暑さに負けたのかと思ったよー」

「……」

「私せめて扇風機でも置いてくれないかって店長に頼んでくるよ。日野くんには悪いけど、日野くんを引き合いに出せば、流石に置かざるを得ないと思うから。これで、私たちも少しだけ涼しい思いができるよ」


 ああ、俺は記憶喪失なんだなって思った。そしてこの人に一目惚れしたんだって。

 自分が何者かもわからないけど、彼女の言う「日野」ってのが自分なのだろうと思う。残念ながらそこから思い浮かんでくるものは何一つなかった。


===============


「先輩はなんでこのバイトをしてるんですか?」

「バイトする理由なんて数あってないようなものじゃない?」

「お金ですか」

「お金なのです。大学生は暇な時間が多いの。その時間を使ってお金をもらうためにバイトをしているのですよ。日野くんは?」

「お金ですね」

「素直だね」

「まぁ、高校を卒業して、こんな田舎で叶えたい夢もないまま育ちましたからね。バイトだけはしておかないと親に申し訳が立たないと言いますか……」

「大学行ってないんだっけ?」

「やりたいこともないまま高い金を親に払わせるの嫌だったんですよ」

「だからフリーターとは相当な勇気だね」

「もちろん一生する気はないっすよ。ぼちぼちやりたいことを見つけて、今よりも多くのお金を稼いで、そのお金を好きに使ったり……親に返したり……」

「ふふ。ちゃっかり親のことを考えててえらいね」

「せ、先輩はど、ど、どうしてここから出なかったんですか?ここ何もないじゃないですか。先輩のやりたことはここなんかよりも良いところなんてたくさんあるじゃないですか」

「……なんでだろうね。出ようとはしてたんだけどねー。でも怖くなっちゃって。ここから出て一人で暮らしていくって言うのが私には想像できなかったからさ」

「じゃ、一人じゃなかったらよかったんですか?」

「んーそうでもないのかも。なんて言うーのかな……自分に好きって言ってあげられなかったからかな。自分を信用できるかった。将来に。自分の能力に。だから、ここを出てもやっていけると思えかった」

「ここを出るには好きって言ってあげることですか……」

「いやー照れる……」


===============


「--よいしょっと。ふー終わったねー」

「一気に疲れましたね」

「田舎といえど、こんなにも仕入れる必要あるんかね。売れているところを見たことないんだけど」

「まぁ俺たちはずっとここにいるってわけでもないっすからね。違う時間があるんじゃないですか?」

「そのおかげでこっちは、暇できてるから感謝だね」

「でも、売れなかった分だけの仕入れは俺たちで、しかも結構な力仕事……」

「そう?そんじゃない?私はまだ余裕だよ」

「そりゃ先輩は一目散に小さい方に走っていくからじゃないですか」

「わかってないなー。すぐさま見つけて走り、次のをとられまいとダンボールをもったまま走る。その繰り返しは常人には無理だと思うよー?」

「た、確かに……?」

「わかったなら、働きたまえよ」

「絶対におかしい……」


===============


「夏といえば蝉だよね」

「なんすか急に」

「蝉イコール夏で夏イコール蝉だよね」

「え、本当になんすか」

「蝉ってどうして夏に出てくるんだろうね」

「カブトムシやクワガタだって夏を代表するものだと思うんですけど」

「でもさ、カブトムシやクワガタよりも夏といえばの昆虫は蝉が出てくるよね」

「まぁ、そうっすね」

「なんでなんだろう」

「そりゃ、四六時中ミーンって鳴いているからそれを聞いている人間は姿が見えなくても蝉の存在を認識するからじゃないですか?カブトムシやクワガタも特徴的に鳴いてたらまた変わってくるんじゃないですかね?」

「どうして蝉はなくんだろう」

「求愛行動でしょ」

「求愛行動ならさ、泣くことで同情をかうよりも笑って気を引いた方がいいと思うんだけどなー」

「『泣く』じゃなくて『鳴く』なんですけどね。それに蝉側からしたら笑うことよりも意味のある行動なのかもしれないじゃないですか」

「でも人間からはないてるとしか言えないんだよね。それじゃ蝉の神聖なる求愛行動を貶しているようだから私だけでも蝉が『笑ってる』って言うことにするよ」

「そうですか」


===============


ミーンミーンミーンミーンミーン


「みーんみーんみーんみーん」

「何やってるんすか……?」

「蝉のまねー」


 先輩は店の中で外の暑さを紛らわしている俺とは違い、灼熱の太陽の下、表に出てその白い肌を晒している。


「もう7月なんだね」

「遅くないですかもう8月の方が近いですよ」

「……」

「……」


ミーンミーンミーンミーンミーン


「私……8月いっぱいでここ辞めるんだよね」

「え……?」

「本気で目指そうかなって、自分の夢実現させたいなって思ってさ。今は時間があって息抜きも兼ねてバイトしてたけど、それが甘えになってたのかなって。別にここが嫌とか、ここのせいでとかじゃないよ?これは私が覚悟を決めないといけなかったの。だから、夏休みが終わる前にここを辞めて、勉強しようかなって」

「それって好きになれそうってことですか?」

「多分。それにはまず知らないといけないから自分自身を」

「……そう、ですか……」

「……応援、してくれる?」

「……あ、当たり前じゃないですか……」

「ありがとう」

「……」


===============


ミーンミーンミーンミーンミーン


『昨日午後2時ごろ〇〇県××町で70代女性が運転する車が暴走し歩道側に突っ込みました。この事故に伴い19歳の男性が撥ねられ、死亡しました』


『死亡した男性は日野隆史さん19歳で--』


「え?」


『日野隆史さん19歳で--』


「どういうことだよ」


--『日野くん』『日野くーん』『日野くん!!』『日野くん?』『……日野くん』--


『日野隆史くんだね。これからよろしくね。私は--』


「なんでだよ、どうして俺の名前が……!?生きてるよ俺は!!死んでねーよ!!」


「どうなってるんだ……」


 ひどく冷静だった俺は周りを見てみる。和室の休憩室。二箇所に扇風機が設置されている。いつぞやか自分が倒れたことで先輩が店長に頼み込んで設置してくれたものだ。


「せんぱーい……?せんぱーい……」


 先輩を探しに休憩室から出て商品の並ぶ売り場へと出る。店の出入り口である引き戸は開け放たれていて、目の前には木が一本立っている。その木に留まるのは蝉が一匹。

 その向こうには蒼い空と入道雲が揚々と続いている。


「……」


 入り口に着いたところで俺の足は止まった。そこから先をどうしても踏む気になれない。

 足を何度も上げては戻し、上げては戻した。

 

『『地縛霊』ってその未練がある場所から離れられないんだって』


「----!?」


 上げた足を下ろした。


「地縛霊……未練ある場所から離れられない……」


「俺の未練……----」


ミーンミーンミーンミーンミーン


「----っ!?」

「----あ、はい……はいわかりました。では失礼します……」

「先輩?」


 聞きなれた声だった故に、久しぶりに聞いた気がして安心した反面、その現実は受け入れられないものだった。


「先輩……?先輩……!!」


 俺の声は先輩には届かなかった。そこからは暑いあの外には出ずに見慣れたこの休憩室の座布団に座っていた。

 その間気づいたことがいくつもある。

 先輩は休憩室にいる時間は思った以上に少なく、他のバイトの人たち全員と仲良くそうに喋っていた。

 先輩のシフトの時間さえ、こうしていなければ思い出せなかった。先輩はずっとこの休憩室にいたわけではなし、俺だけと仲が良かったわけでもないのだ。


===============


「今までありがとうございました」

「……!?」

「やっぱり辞めちゃうの?君はよくシフトも入れてくれたし、仕事もよくやってくれた。いなくなちゃうと寂しいよ」

「そう言っていただけるのは嬉しいです。でも……八月いっぱいまでって決めてましたし……勉強、頑張らないといけないですから……」


 ああそうか、先輩辞めるのか。


『私8月でここ辞めるんだよね』


 自分を好きになるために。


『……応援、してくれる?』


 あの時俺はおざなりに答えたのだ。

 応援したい気持ちはあった。だが先輩にここを辞めてほしくなかった。先輩の存在は俺にとってとてつもなく大きなものだった。

 やりたいこともないまま、時の流れに抗うこともせず、先輩のおかげで彩を得て、それが楽しいと感じるようになったのだ。感謝をしても仕切れない。だけど俺は先輩に声をかけてあげられなかった。最終的に自分を優先してしまったのだ。


「日野くんのことはとても残念だったよ。君が一番仲良くやっていたからね。気にするななんて不謹慎なことは言えないけど、私は君にここにいて欲しいよ。君が復帰できるまでシフトを融通を効かせたって--」

「店長、今までありがとうございました」


--ああ、夏が終わる--


「……そうか。残念だよ。これから頑張ってね。いつでもここは大歓迎だから、またいつでも戻ってきてくれていいからね」

「はい。失礼します」


 先輩は回れ右をして後ろ姿だけを俺に見せる。


『『地縛霊』ってその未練がある場所から離れられないんだって』


「俺の未練……先輩に対する未練……!?」


『でも、それってどうやったら成仏できるんだろうね』


『だって相手からしたら姿も声もわからない訳だし、もし『好き』って言ったとしても聞こえない、抱きしめたとしても、ちゃんとできるのかわからないしね』


 どうすればいい……!!どうすればあの人を止められる……!!声は届かない、この夏の暑さだってわからないのに俺に何ができる……?


----いや、もう何もできないのか。


 結局何もできなかったからこんな風になっちまったんだ。……何もできなかったんだよ。


『……自分に好きって言ってあげられなかったからかな。自分を信用できるかった。将来に。自分の能力に。だから、ここを出てもやっていけると思えかった』


『ここを出るには好きって言ってあげることですか……』


----!?


 臆病者の俺を神様は見てたんだな。ここから出ようとしなかった俺を。時の流れを恐れていたこの愚かな俺を。


----ああ、そうか。だからいつもそこで笑ってたんだな。


ミーンミーンミーンミーンミーン


 引き戸は開け放たれている。そこから広がる夏の綺麗な蒼空。

 先輩の向かう出入り口の先に木が一本と蝉が一匹堂々と止まっている。そいつは俺を嘲笑うが如く、届かない場所から俺を挑発していたのだ。


 店の出入り口に向かう先輩。もっとも先輩にとってはもう入口になることはないのだろう。

 --そして俺にとっても。


「せんぱぁぁぁぁぁい!!」


 届かないその後ろ姿に、けれども届けと願いを込めて大きく叫んだ。


「聞こえないかもしれないけど!!俺、ずっとずっと先輩のことぁぁぁ好きでしたぁぁぁ!!死んでも死にきれないくらいに、死んでも未練たらたらで地縛霊にまでなっちまうくらいにぃぃぃ!!」


 店全体に響き渡る声量だ。しかし先輩はおろか店長にだって気づかれていない。気づかない声に先輩は歩みを止めることなどするわけもない。


「ずーっと先輩のことがー好きでしたぁぁぁぁぁぁ!!言えなくてすいません。俺ずっと怖かったんです。この幸せの時間を自分の手で壊してしまうのが、ありきたりていてでも俺にとってはものすごく大切な時間だったんです……先輩……。先輩……!!っクソ……」


ミーンミーンミーンミーンミーン


 喉が燃えるほどだが先輩の鼓膜を揺らしているのは俺の声ではなくあいつの声なのだろう。

 だからあいつの声が聞こえなくなるほどさらに喉を震わした。血管がちぎれても死んでる俺には関係ない。


「せんぱぁぁぁぁぁい!!今まで!!ありがとうございましたぁぁぁ!!。ずっと好きです」

「……」

「頑張ってください!!絶対絶対、先輩ならできますから!!俺のことなんて気にしないで……!!--」


 伝えられなかったことを全て伝えた。好きだったこと、応援の言葉、全部。それでも先輩は出口の敷居を跨いだいく。


ミーンミーンミーンミーンミーン


「----ああ、やっと思い出せました。

   

    天野蒼あまのあおい先輩……----」


ミーンミーンミーンミーンミーン……………


--そしてそこには誰もいなくなった。


 彼女が出ていくと店長は箒で床を履き始める。

 ただ店先には木が一本と太陽の『ひ』が叫ぶように熱く、『蒼い』空がどこまでも続くだけだった。


-----

 

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夏のなき声 平椋 @kangaeruhito

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