後編

 彼女は、伸びた歩道橋の鉄柵の斜め下を指さした。僕の目には、そこが特別なポイントであるようには見えなかった。少なくとも、周囲とその地点の間には何一つ変わったところがない。しかし、彼女の指は確かにそこを示している。


「降りるって……」


 僕は戸惑って言った。真夜中の海のように、僕たちが立っている歩道橋の下の闇は深い。不安とともに、いくつもの疑念が僕の頭のなかで渦を巻いた。


 この闇に飛び込んで、本当に元の世界に戻れるのだろうか?

 この闇の先はいったいどうなっているのか?

 そもそも彼女の言うことを信頼しても大丈夫なのか? もし何らかの(おそらく、あまり良いものではない)意図が僕をここに導いたのであれば、彼女自身もまたその意図によって動かされているのではないか?


 頭がくらくらしてくるようなそれらの疑念を抱きながら、僕は彼女が指示した先の暗闇をじっと見つめていた。


 どのくらいの時間が経っていたのだろう。ふいに、彼女が僕のそばで、「大丈夫」と、短く言った。


 声の方に視線を向けると、彼女は僕を励ますように、小さく頷いた。


 それから彼女は手すりに両手をつき、たぶんかなり苦労しながら、その上によじのぼって、腰を下ろした。そして僕を見ながら、


「信じてください」


 と言った。柔らかな声音だった。そして、それに続いて、彼女はほんのわずかだけ頬を緩めた。その笑顔に、邪悪なものは感じなかった。温かさを感じる表情だった。


 僕は今一度、住み慣れた街の風景からは変わり果てた周囲の暗い世界をぐるりと見まわした。そして最後に、妙にさめた意識で、「それ以外に選択肢はなさそうだ」と思った。こんなわけのわからない世界で、彼女の『案内』に従うほかに何ができるというのだろう。


 安心材料が増えたわけではない。けれど、不思議と僕のなかにあった疑念は小さくなっていた。


 僕は彼女と同じように、錆びついた手すりによじのぼって、そこに腰を下ろした。足もとには暗闇が広がっている。しかしよく見ればそこには、わずかに周囲よりも明るさがあるようにも思えた。暗闇の底に、光が滲んでいるような感じがした。夜の水面にうっすらと映る月の光のような……。そして、そのほのかな明るさをじっと見ているうちに、そこに、いつも通りの帰り道の風景がかすかに映っていることに気がついた。


 そのうっすらと見えた世界に、僕のなかの不安はさらに弱まった。理屈はなにもわからないが、たしかに、彼女の指示した場所は、元の世界に繋がっているようだと感じた。


 僕は最後に彼女の方を向いた。彼女はまた一つ頷いた。


 今のうちに飛び降りよう、と思った。躊躇ためらっていたら、また何かの疑念や、それに伴う恐怖が生じてくるかもしれない。そうなったら動き出せなくなってしまうかもしれない。僕はその状態に陥ってしまうことを恐れた。


 手に力を込めて体を浮かし、前方に身を投げ出した。そのたった一瞬の動作で、僕を支えるものは何もなくなり、瞬く間に僕は暗闇に包まれた。


 落下の感覚はなかった。けれど、ぐらりと世界が大きく揺れるような眩暈を感じた。


 大きな波に打たれたような感じだった。幼い頃、僕は一度、海で溺れかけたことがある。浮き輪に乗っていたらいつの間にか足の着かないところまで流されていて、高い波に揺られてひっくり返ってしまったのだ。幸い、近くにいた人にすぐに助けられたので、なんということはなかったが、海で溺れかけたときの、自分がなにか大きなものに飲み込まれていってしまうような恐怖は、僕の中の深いところで残り続けた。


 その激しい恐怖の感覚が鮮明に蘇り、息が止まり、全身が硬直した。


 しかし、それはほんの一瞬の出来事だった。その感覚は、感じた直後にすぐにふっと消え去った。闇の中でひらめくカメラのフラッシュのように、一瞬の直後、なんの余韻も残さずに消えた。


 気がついたら、僕は街の騒音に包まれていた。歩道橋の中央あたりに、一人で立っている。


 車が走行していく低い振動音が絶え間なく響いており、夜の道には街灯や車のライト、建物に灯った光が溢れている。厚いコートを着て歩いている人たちの姿も見える。


 音と光のなかで呆然としていたが、ふいに僕は、先ほどまで近くにいた女の子のことを思い出し、あたりを見まわした。


 しかし、どこにもその姿は見つけられなかった。


 ☆


 その後、僕の日常にはなんの変化もなかった。あの日、「通行禁止」の看板を立て、道を塞いでいた工事は、次の日にはもうすでに終わっていた。注意深くその道を歩いてみたが、僕に見える範囲では、工事の痕跡はどこにもなかった。その道も周囲の様子も、何一つ、以前と違わないように見えた。


 それでも最初の数日は、夜の帰り道を歩いている間、またあの世界に迷いこんでしまうのではないかという恐怖を感じていた。しかし結局、異常な出来事は何も起こらず、また普段とは異なる街の様子もなく、日々が過ぎていった。


 全く平穏な冬の日常を過ごしているうちに、あの夜の出来事、それからあの時に感じていた感情の記憶が、次第に薄れてきた。


 しかし、僕をこの世界に戻してくれた女の子のことは、ずっと頭から離れなかった。彼女はなぜ僕を助けてくれたのだろう。たぶん、理由なんかないはずだ。彼女自身、あの世界がなんなのかはわからず、ただ出入り口を知っているにすぎないと言っていた。なんの損得勘定もなく、彼女はあの世界に入り込んでしまった人に『道案内』をしているのだ。


 善意なのだろう、と僕は思い、そして、『出口』で戸惑っている僕に「信じてください」と言った時の、励ますような笑みを思い出した。そして、あの時一言のお礼も言えなかったことに、後悔の念を覚えた。


 どこかで会えないものだろうか、と僕は思い始めていた。もしまた会えたら、あの時のお礼を伝えられるのに。


 そうして、ひと月ほどが経ったある日のことだった。あの日と同じように、ひどく寒い夜だった。


 帰りの電車に乗っているとき、僕のスマートフォンに、大学生の姉からのメッセージが届いた。帰りに市内のパン屋で総菜パンを買ってきて欲しいという頼みだった。


 メッセージを読み終わった直後、あの日渡った歩道橋が頭をよぎった。そのパン屋は、あの歩道橋の近くにあるのだ。


 僕はメッセージアプリを起動したまま、断るべきかどうか、考え込んでいた。あの近くには行きたくない、と感じていた。


 しかし、電車が駅に着く直前、僕は『わかった』と返事をした。あの歩道橋は僕の生活圏内にある。今後も避け続けるわけにはいかないし、今感じているような、誰にも話すことが出来ないような奇妙な不安感を、早く克服したかった。


 駅から出て夜道を歩き、古い商店街にあるパン屋に向かった。商店街の店のほとんどはシャッターを年中下ろしているが、そのパン屋だけは、毎日夜まで明かりが点いている。古びた通りのなかで、その建物だけが綺麗に塗装され、看板も真新しい。ガラス扉から見える店内も清潔そうだった。姉はここの店が気に入っているようだったが、僕はあまり立ち寄ったことがない。


 暖色系の明かりが漏れてくるガラス扉を押し開けて、店のなかに入った。店内は暖房が効いていて暖かだった。二人の客が、トレーを持って歩いている。閉店時間が近いので、商品は残り少なくなっていた。


 姉が頼んできたチーズポテトパンがあるかどうか探しに歩き出したときだった。ふと視線を感じ、僕は顔をカウンターの方に向けた。


 そこには、エプロンをつけた若い女性が立っていた。


 彼女は僕をじっと見ていた。目が合うと、小さく頭を動かして、こちらに会釈をした。


 すぐに、あの日、僕をこの世界に送り返してくれた女の子だと気がついた。


 僕は小さく息を吐いた。そして、気持ちを落ち着かせるように努めながら、姉に頼まれたパンを再び探し始めた。


 ちょうど、最後の一つが残っていた。僕はそれをトレーに乗せ、それから自分用にソーセージパンを選んだ。

 

 レジに向かい、カウンターにトレーを乗せると、彼女は手早く会計の処理を始めた。僕はバッグから財布を出し、切り出すタイミングを計ったあとで、こう言った。


「この間は、ありがとうございました」


 パンを紙で包んでいた彼女の手がぴたりと止まった。が、それはほんのわずかな時間のことだった。再び手を動かしながら、「いえ。無事でなによりです」と、短く答えた。


 僕は頷き、「また会えてよかったです」と続けた。


 すると彼女は、きょとんと首を傾げた。


「どうして?」


「あの時、お礼を言えていなかったから」


 そう言って、改めてあの時のお礼の言葉を伝えた。彼女は小さく笑みを浮かべ、


「当然のことをしているだけですよ」と言い、パンを包んだ紙袋を僕に差し出してくれた。


 僕はその包みを受け取った。そして踵を返そうとしたとき、ふと彼女が呼びかけてきた。


「あの」


 僕が顔を上げると、彼女は声をひそめてこう言った。他の客に聞こえないようにだろう。


「しばらくの間は、大丈夫だと思います。あの世界が現われる気配がありません。歩道橋も渡って問題ないと思います」


 僕は頷き、最後に一度彼女に頭を下げて、店のドアに向かった。


 店の外に出た瞬間、ちょうど冷たい風が吹きつけてきた。暖かい場所にいたから、いっそうの寒さを感じた。


 なんとなく、そのまま真っ直ぐ帰る気にならず、僕は少し歩いた先にある公園に入った。四阿あずまやがひとつといくつかのベンチ、それから水道があるだけの小さな公園だ。日中はたまに子供が遊んでいるところを見かけるが、すでに日の暮れた今のような時間には誰もいない。


 僕はベンチに座り、空を眺めた。冬の短い夕暮れが過ぎ、漆黒の、澄んだ夜空が頭上に広がっていた。歩道橋の上には大きな月がのぼっていた。その光は歩道橋の直線的なシルエットを、夜空を背に浮かび上がらせている。


 手に持っていた紙袋から、自分の分のパンを取り出して一口食べた。この時間帯で、もちろんもう作りたてではないと思うが、まだほんのりとした温かさが残っていた。


 その温かさに、なぜか少しだけほっとした。そして、再び歩道橋に視線を向けた。


『しばらくの間は、大丈夫だと思います』


 伝えられた言葉が脳裏をよぎる。たぶん、そうなのだろう。理由はわからないが僕自身もそう感じる。あの夜に僕を包んでいた異様な雰囲気が、今夜は全くない。


 それになによりも、彼女の言葉を僕は信じていた。おそらくはもう何度も、たった一人で、なんの見返りもなく、あの暗い世界に迷いこんでしまった人を助け出してきたあの人の言葉を。


 この歩道橋を通った方が、家に早く着く。僕はパンの残りを食べると、ベンチから立ち上がり、月明かりを浴びている歩道橋に向かって歩き出した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

月と歩道橋 久遠侑 @y_kudo

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る