月と歩道橋
久遠侑
前編
夜になるまでは、いつも通りの一日だった。
サッカー部の練習が少し早く終わった日の帰り道、自宅最寄りの駅で電車を降りて、普段通りに家に向かっていたら、住宅街の道が通行止めになっていた。「通行禁止」と大きく書かれた看板が、道路の真ん中に立てられていた。
なにかの工事をしているようだった。看板の先、少し離れたところにはトラックが二台ほど止まっており、いくつかの照明と、ヘルメットを被った作業員らしき人の姿もあった。発電機を使っているのか、低い振動音が小さく耳に届いてきた。
その看板を見て、だるいな、と最初に思った。この通りが使えないと、道を引き返して大きく迂回しなくてはならない。ここから家まで真っ直ぐに帰れば十分もかからないが、迂回するとなるとニ十分は歩くことになる。疲労と眠気を感じていたから、僕は早く家に帰りたかった。
時刻はまだ午後六時を過ぎたばかりだが、あたりは真夜中のように暗く、そして静かだった。冬至が過ぎたばかりの、冬のもっとも深い頃だった。空気はすっかり冷えこんでいる。時折吹く風もひどく冷たく、指先は凍りついたかのように固くなっていた。道の両側に並んでいる住宅にはぽつぽつと窓明かりが灯っていて、それがやけに暖かそうに見えた。
ここ数日、ずっと晴れの日が続いていたので、空気は乾燥している。そしてひどく澄んでいる。空に散らばる星や、重々しく浮かんでいる満月の姿がくっきりと見え、その光は冷たく冴えている。
道を引き返した僕は、静かな住宅街の道を、一日の終わりの疲労感と寒さを耐えながら歩いた。数か所の角を曲がり、ほとんどがシャッターを降ろしている古い商店街を抜けると、幅の広い車道にかかった歩道橋がある。この道順で家に帰るには、それを渡っていかなくてはならない。
大きな歩道橋だが古く、いたるところで塗装が剥がれ、赤茶色の
おかしい、と思ったのは、その歩道橋を渡り始めたときだった。僕はその違和感を、あたりの暗さと、深い静けさによってまず感じた。そして何がおかしいのか、歩道橋から街を見下ろしたときに、ようやく具体的に気がついた。
歩道橋から見下ろす車道に、車の往来がなくなっていたのだ。いつもそうと意識しているわけではなかったのだが、帰宅時の時間帯にこの道を通る車がないというのは、ひどく珍しいことのように感じた。
この道にはいつもひっきりなしに車が行き来しており、混雑する時間帯は渋滞気味になるほどだった。先ほど通行止めになっていたところでの工事が影響しているのだろうか、と思ったけれど、僕が見た限りでは、住宅街の小道で行われている小規模な工事にしか見えなかった。この街でも主要なこの道路の通行に影響を及ぼすとは考えづらい。
それに、もしこの道が何らかの理由によって通れないのだとしたら、その分、ここ以外の周囲の道が混雑するはずだ。しかし、この歩道橋から見渡す限り、近辺の道路が混雑しているようには見えなかった。ヘッドライトの光もないし、エンジン音も走行音も聞こえてこないのだ。浅い夜の街は、まったくの静寂に包まれていた。
僕は歩道橋から、しばらく周囲を見渡してみた。その間も静寂は続いていた。まるで空間全体が凍結してしまったみたいに、あたりは無音だった。
どうしたのだろう、と僕は思った。
電車を降り、駅から出た時には街はいつも通りだった。多くの人が駅前の道を歩き、並んだ商店は明るい光を灯し、音楽を流して営業していた。ロータリーにはタクシーとバスが止まり、迎えの自家用車に乗りこんでいる人たちの姿もあった。
僕はじっと街を見下ろし続けた。そうしているうちに、車だけではなく、人の気配も感じられなくなっていることに気がついた。見わたす限り、氷のように透明に澄んだ冬の夜空の、どこまでも深い暗闇の下に、沈黙した街が広がっている。
僕は制服のポケットからスマートフォンを取り出した。画面に表示されているのは「6時31分」という時刻だった。
電車を降りた時点での時刻と、ここまで歩いて来た道のりを考えあわせ、おそらく正しい時刻だと思えた。まだひとけの途絶えるような時間ではない。
そのときだった。
気づきましたか? という声が、背後から聞こえた。女性の声だ。女性にしては少し低いその声は、静けさのなかでひどくはっきりと響いた。
僕は弾かれたように後ろを振り返った。赤色のマフラーを巻き、白いコートを着た女性がそこに立っていた。歩道橋のすぐ近くに設置されている車道を照らすライトの白い光をほぼ真横から受けていて、その姿はまるで闇から浮き上がっているように見えた。
彼女は足音をほとんど立てずに、僕の近くまで歩いてきた。すらりとした体型で落ち着いた雰囲気をまとっていたので大人びて見えたが、近くで見ると、十代後半から二十歳くらいに思えた。
「こんばんは」と彼女は言った。
わけのわからない状況のなかにいて、常識的な思考力がほとんどなくなっていたが、僕は反射的に挨拶を返した。
「迷っておられるようですね」と、彼女は続けた。
「いえ、家に帰る途中ですけど……」
道に迷っているわけではない、はずだ。確かになにか異常なことが起こっているようだが、僕が今いるのは、小さな頃から住んでいる街だ。地理は把握しているし、家までの道順だってもちろんわかる。
しかし、彼女は首を傾げて、
「帰り道がわかるのですか?」と、言った。少し驚いたような、意外そうな口調だった。
その後、ふいに彼女は小さく身じろぎし、周囲をさっと見回した。彼女のその動きにつられ、僕もあたりに視線を向けた。そのときに、僕はこれまで以上の異変に気がついた。
五十メートルほどの長さだったはずの歩道橋が、終わりが見えないほど長くなっていた。それから今まであったはずの、沈黙した街並みも、もう見えなくなっていた。手すりの下にあったはずの道路は見えず、冬の夜空のように深い暗闇が広がっていた。夜空がそのまま地上を飲み込んでしまったようだった。
錆びついた鉄に囲まれた道だけが、果てしなく先へと伸びている。僕は今一度、手すりに近寄り、目を凝らしてあたりの景色を見ようとした。けれど、やはりそこにはなにもなかった。黒々とした、夜の海のような闇が広がっているだけだった。
その光景に僕は息を飲んだ。ただ立ちすくんでいることしかできなかった。そのうちに、彼女が、「大丈夫です」と言った。
僕は彼女の顔を見た。その顔色に、動揺の気配はまったくなかった。無表情で、どこか同情めいたニュアンスが浮かんでいたような気がした。それから静かな声で言った。
「ここから出ることはできます。わたしが案内します」
ついてきてください、と言って、彼女は
「ここは一体なんなんですか」
聞きたいことは山ほどあったが、僕はそのなかで最も大きな疑問を最初に口にした。
すると彼女は少し歩調を緩め、一度視線をこちらに向けてから、首を横に振った。
「わかりません」
は? と僕の口から声が漏れた。
彼女は、僕をどこかに導こうとしている。それなのに、ここが何なのかわからないというのだろうか?
彼女は、補足するように言葉を続けた。
「ここがなんなのかは、私にはわかりません。けれど、私はこの場所をよく知っているのです。すでに何度も出入りしているものですから」
「どういうことですか?」
僕の問いに、彼女は歩きながら答えた。
「初めてこの場所に来たのは、五年ほど前のことでした。夜、ここからすぐ近くの通りを歩いているうちに、いつの間にかここに迷いこんでいました。幸いなことに、その時にも、今のわたしのように『道案内』をしてくれる人がいたため、わたしはすぐに元の世界に戻ることが出来ました」
僕は黙ったままその話を聞いていた。
「その日から、わたしはしばしばここへ迷いこむようになりました。初めてのとき、わたしを出口まで案内してくれた人に、出口を見つける方法を教えてもらっていたため、二度目以降は自力で元の世界に戻っていました。
そうしてこの世界への出入りを繰り返しているうちに、わたしはだんだんと、この世界が生じるときに漂う気配を感じ取れるようになってきました。
なんと言えばいいのでしょうか、今ここに漂っている空気感のようなものが、わたしたちの元の世界にいても感じられるようになってきたのです。そして、それが濃くなってきたときには、かなり高い確率で、人が迷い込んできます。
そして今日は、そのような気配が濃密に漂っていました。誰かが迷いこんでしまうかもしれないと思ったので、先にこの場所に来ていたのです。迷いこんでしまった人を、もとの世界へ戻すために。そうして先ほど、あなたが迷いこんできました」
「いつから、僕はここに迷いこんでいたのでしょうか」
そう尋ねた。僕は見知らぬ道を通って、ここに辿り着いてしまったわけではない。どの時点で僕はこの世界に迷いこんでしまったのか、それがわからなかった。迷いこんだというよりも、いつの間にか世界が変容してしまっていた、というような感じだった。
彼女は首を傾け、言葉を選び直すような数秒の間を取ったあと、こう言い直した。
「もしかしたら、『迷いこむ』という表現は適当ではないのかもしれません。わたしにもどう言えばいいのかはわかりませんが、そうですね……。『招かれた』という表現が近いのかもしれません。わたし自身の経験と、それからここに来てしまった人の話を聞く限りでは、その過程に、何らかの意図のようなものを感じざるを得ません。多くの人は、常日頃にはない何らかの出来事を経た後で、この世界に入りこんでいました。ここに来るように誘導されていたというか……。あなたもそうだったのではありませんか?」
彼女は、大きな、そして深い黒色をした瞳で僕を見て言った。
僕は「通行禁止」の立て看板を思い出した。あの看板を見て、僕は帰り道を迂回し、普段は通らない、この歩道橋に到る道を歩いていた。そして気がついたら『この場所』に入り込んでいた。
あの「通行禁止」の立て看板は、僕をここに誘導するためのものだったのだろうか?
そう考えたとき、思わず足がすくみそうになった。他の誰でもなく僕がこの異様な世界に招かれた、と考えると、なにか底知れない恐怖を感じた。
「どうして、僕だったのでしょう?」
思わず、そう口にしていた。
彼女はまた首を横に振った。
「さぁ、どうしてなのでしょう。それはわたしにはわかりません。先ほどもお話しした通り、わたしはこの世界の『出入り口』がわかる、というだけですので」
それから、こう付け足した。
「心配しないでください。出口に辿り着いて、この世界から出ることが出来れば大丈夫です。これ以上なにか良くないことが起こるということはありません。わたしにこの世界からの出口の見つけ方を教えてくれた人もそう言っていましたし、わたし自身の経験からもそう言えます」
それから少し歩いたあとで彼女は足を止めた。一度何かを確認するように鉄柵の下を見下ろしたあとで、僕の方に顔を向けて、「ここです」と言った。
「ここから降りてください」
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