孕む

空き巣薔薇 亮司(あきすばら りょうじ)

孕む

 アブデロ・ノクアールについて、そろそろ話してみようと思う。


 彼は僕の住んでる安アパートの隣の部屋に越して来た人間で、肌は黒々として、しかし、僕の漠然とした黒人像、おそらくネグロイドと呼ばれる人々とは明らかに異なる顔立ちを備えていた。


 そのパーツの平坦さはむしろ日本人的で、体格だけはがっしりとして良く筋骨隆々で。

 ただ、肌の色だけは墨汁で塗りつぶした様に真っ黒だった。

 どこで生まれたのか、両親や先祖に至るまでそんな皮膚をしているのか、もしくは後天的にボディアートとしてその様な刺青を入れたのか、などなど聞いてみたが、結局のところ違うらしくて、なんでも遠い遠い所から引っ越して来たらしい。

 いや、彼の言葉を借りれば「やって来た」か。


 だから、


「遠い所?」


 と聞いてみたら、


 そこは一年中青々とした果実の実る桃源郷、森の中では常に花の芳香が芳しく、そこにいる人々は皆々が服を着ることはなく、ただ、毎日動物の様に食べて、寝るだけの生活を繰り返すか、時折交配に耽るらしい。


 なんじゃそれはと、その時の僕は思った。

 それじゃあまるで動物じゃないか、と。

 これを聞いているあなたも多分同じ様なことを考えていると思う。

 ただ、彼はそれが人間にとって1番自然な形だと言って譲らない。

 この世界の人間は人の本来持っている本能、自然の中に潜み、眠る芸術性から目を逸らし、人と人との間に物理的にしろ心理的にしろ固定された壁を築いている。


 それは根源的に満たされぬ孤独を生み出し、死ぬまで癒えることはなく。

 死んだ後の、死体が朽ちて、骨に至るまで魂がその物体から解放されることもなく輪廻転生の祖であるアショーカに帰ることもなく、ただただ、辺獄に似たこの世で、時には別の生き物に生まれ変わる。命を費やす煉獄の一欠片となっている。


 と、言っていた。

 意味がわかる様な、分からない様な、と、その時の僕は考えながら聞いていた。

 ただ、そのうち涙を流しはじめたので手で拭い取ってやった。


 畳の上、2人で寝そべりながらだ。

 彼も僕も服は身につけていない。

 ここ数日はその様にして過ごした。


 そして不意に彼が僕の膨らんだ乳房を掴み始め、顔を近づけ口の中に舌を差し入れ始める。

 何か気持ち悪い生き物の触手のような心地。人は、体内をこねくり回されることに何か原始的な快楽を見出している。彼曰く、これのみが、かの楽園たる異世界とこの世とを結びつける唯一の方法なのだという。


 そして、彼との交配を繰り返す。


 快楽の繰り返し。人は子孫を残すために快楽を貪るのではなく、快楽が先にありその結果子供が生まれるという事実は、確かに世間一般では不埒な概念とされている。


 しかし、それは現実を見ていない。


 または、あまりにチェリー。


 処女的、童貞的な思考の狭量さに他ならない。

 一度、その棒の太さを味わって仕舞えば、そんな考えは本能に塗りつぶされてしまうだろう。


 だから、そうして、それから……


——彼が僕の前から去ってから随分経った


 今、僕の胎の中には1人の子供がいる。

 妊娠3ヶ月目に達している大きさ。

 病院へ初診に行ったのはつい一昨日のことだ。


 なぜもっと早く行かなかったのかと言えば、それが人間の形をしているのか自信が持てなかったからだ。

 だが、つわりに耐えかね診察に行ってみればそれはきちんと正常な胎児の形をしていた。

 だが、肌の色はどうなのだろうか?


 生まれ出てみれば彼のように全身墨を塗りつぶした様に真っ黒なのだろうか。

 その確認が少し楽しみでもあり、不安でもあるが、それが彼との間に残した唯一のよすがとなってしまった。


 かつて、彼が私に語った世界の律。


 それが忘れられずにいる。

 

 

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孕む 空き巣薔薇 亮司(あきすばら りょうじ) @akisubara_ryoji

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