第11話 夏に君と貴女と僕で

 新刊が出たら、もう七月だ。そう、未希の期末試験が目前に迫っている。先月はまるまる未希を放置していたので、僕は急いで教科書を読み込んで試験対策をしている。

「あああ~……時間がない」

 叔父さんの店の指定席で、僕はあたふたしていた。

「玲央兄ちゃんが慌てることないじゃない」

「慌てることあるの! 未希の成績が落ちたら僕がヤバイんだからね!」

「自分のためじゃん」

「そうだよ! 成績が落ちたら、僕は未希といられなくなっちゃうんだからね! 僕のためにがんばって!」

「うええ~~なにそれえ~~」

「というわけで、予想問題作ってきたから。これで勝てる!」

 僕は自宅で製作したプリントを取り出した。

「れおにぃ、すごい! なにこれ!」

「教科書の出題範囲と、前回のテストと、未希のノートの内容から出題内容を予測したんだ。満点は難しくても、全教科七割はいけると踏んでる」

「おおお……しゅごい……あたまいい」

 未希がキラキラした目で僕を見ている。僕が本気を出せばこの程度、造作もない。と思う。予想問題を作ったのは今回が初めてで、まだ結果は出てないからな。答え合わせはテスト後だ。

「未希、一緒に頑張ろう!」

「おー!」

「夏休みは小説の追い込みだからね! 絶対完成させよう!」

「おー!」

 なんだろ。部活かな。まあ、夏は挑戦だ。未希は出来る子。大丈夫だ。


 ――というわけで翌週、試験結果発表。

 なんと、未希は上の上くらいに入ってしまった。僕も叔父さんもビックリだ。

「見て見て見て見て見て! れおにぃ!」

 興奮した未希が、返却されたテスト用紙をビラビラさせる。

「あー、十回くらい見直した。僕、作家辞めたら塾講師になるよ」

 我ながら天晴な予想問題だ。まさにドンピシャだったのだ。これで未希の成績が上がらないわけがない。未希には今後もきちんとノートだけは取ってもらわなければ。それがなければ予想問題の精度が落ちてしまうからな。

「作家辞めちゃダメー! れおにぃ、未希とコラボするって言ったじゃん!」

「あー、やっぱ覚えてましたかー。というわけで、今日は僕がお祝いのケーキ作るから、マンガでも読んで待ってて」

 僕はコラボの件をさらっと流し、店に置いているマンガ雑誌を未希の前に積み上げた。

「えー、読みたいのないからいらない」

 まるごと雑誌置き場に返却されてしまった。解せぬ。

「たまには興味のないものも摂取した方が見識が広まっていいんだぞ。読もうよー。これ面白いんだから」と、僕の推し作品をお勧めする。

「じゃあ読む」

「よーし、いい子だ。じゃあ僕はキッチン行ってくるから」

 僕はカウンターに入って未希のために、お祝いのデコレーションケーキを作り始めた。叔父さんに教わった材料は業務用スーパーで全て揃えた。ホイップクリームの絞り方は動画で勉強したし叔父さんにも手ほどきを受けた。そして百均で飾り用のピックやグッズも仕入れた。今の僕に抜かりはない。やれる。僕は出来る子だ。愛する未希のために立派なケーキを作ってやるのだ。

「おまたせ! おあがりよ!」

「ギャ――! すごーい! ヤバイ!」

 未希が興奮してスマホで写真を撮りまくっている。

 どうよ。僕が本気出せばこのとおり。

「MIKIって名前のアイシングクッキーが飾りについててヤバイ! かわいいネコのピックがヤバイ! フルーツの飾り切りヤバイ! ちょーカワイくてヤバイ!」

 アイシングクッキーはがんばって事前に手作りした。研究職は手先が器用でないと務まらないから、この程度の細工は少し練習すれば僕だってできるようになるんだ。

「みーちゃん、ヤバイしか言ってないんだけど?」

 恋人のボキャブラリーがヤバイ。

「だってもーヤバイから!」

「あ、そうそう、写真アップするなら明日以降でね。位置情報は消すように。いいね?」

「はーい」

 僕の力作は、未希と僕と叔父さんと常連さんで美味しく頂きました。また次もがんばろうっと。

 未希は期末試験が終わって、明日からは試験休みに突入だ。

「あとは終業式でれば夏休み!」

「やっとまとまった時間が取れそうだね」

「れおにぃ、小説スパートかけていくよー」

 おお、未希がやる気を出している。だが――

「その前に。まずは夏休みの宿題を片付けてからだ」

「ええ~~~~」

「〆切は決まってる。だから最後まで執筆に全振り出来るよう、先に憂いは断っておく必要がある! というわけで先に宿題を片付けちゃおうね」

「う~~」未希さんは御不満の様子だ。

 高校初の夏休み突入の勢いで作品も仕上げたい、という気持ちだけは分かる。こういうものは勢いが肝心だからな。しかしそうはいかん。いかんぞ、未希。宿題を残したままでは最後までアクセルは踏めないし無理も徹夜も出来ないんだ。分かってくれ。

 とはいえ、まだ宿題が出されていないようなので、それまでのあいだ、今出来そうな作業をしておくことになった。

「玲央兄ちゃん、なんかここうまくいかない」

「ん?」

「会話なんかへん」

 未希がノートパソコンの画面を僕に見せる。掛け合いのシーンのことらしい。

「えーっと……どれどれ」

「む~~」こまっている時の鳴き声を発する未希。

 どうやら、掛け合いの流れが不自然なので修正したいが、どう直せばいいか分からず困っているようだ。

「それじゃあ、セリフの読みあいをしようか」

「読みあい?」

「ここ二人の会話だから、僕と未希でそれぞれキャラを担当して、実際に掛け合いをやるんだ。お芝居みたいにね」

「おー。……で、どうなるの?」

「おかしいところがわかる」

「ほんと?」

「うん。ただし、どう直せばいいかまでは分からないから、あとは未希がどれだけ違和感を感じることが出来るかがカギかな」

「カギ……」

「もっとこうしたい、という気持ちが沸く力とでもいうか。まあやってみようよ」

「はーい」

 僕と未希はそれぞれに登場人物のセリフを演じてみた。声優みたいだね、と言ってたけど確かにそうだねと。

 実際に声に出して会話をしてみると、感情の流れやリアクションのおかしい部分への違和感が、黙読するよりもずっと強く感じられる。誰にでも勧められる方法でもないけど、可能であればこういった読みあいをするのがクオリティアップに繋がりそうだとは思った。未希はどう感じたろうか。あまり負担になるようなら、今後はやめておこう。

「ありがと。なんとなくわかった」

「よかった。またやりたくなったら言って」

「うん。お話し作るっておもしろいね!」

「そう。それは良かった」

 未希は再びノートパソコンに向き合った。彼女が楽しく執筆をしてくれているなら、何よりだ。あまり楽な作業でもないから、苦しくては続かない。ここまで僕についてきて作業を続けられている時点で、彼女には十分素養はあるのだと思う。

 憧れの人の職業を自分もやってみたいという気持ちだけで、ここまでやってのける彼女の根性は称賛に値する。弱虫で、自分じゃろくに何も出来ない僕とは大違いだ。どうしたら未希や有人みたいに強くなれるのだろう。彼女たちがうらやましい。

「そうだ、れおにぃ」

「ん?」

「れおにぃの本、全部読んだ」

「そうか。家宝から普通の本に戻れたんだな。よかった」

「お手本にするから」

「!! ……それは、オススメ出来ないなあ」

「えー。だってれおにぃ、未希の先生じゃん」

「だけど……。そ、そう、ラノベの作家さんにしなさい。君が書いてるのはラノベなんだから」

 公募対策的にも理にかなっている。

「そっか……」

 小説を書くことは、大変だし苦しいこともあるけれど、心に描いた物語を自分一人で形に出来るすばらしいものだ。愛する君には、どうか自分の書きたいものを、楽しんで書いて欲しい。

 僕みたいに、原稿用紙の上に自分の膿や毒、血ヘドを塗り付けるような書き方はしないでくれ。手本にするなんて、悪趣味もいい所、ナンセンス過ぎる。決して憧れてなんかいけない……。だから……。


     ◇


 終業式までに集中して執筆作業をさせたおかげで、未希の作品も順調に仕上がっている。多少虫食い状態ではあるが、すでに三分の一程度は完成だ。僕は未希のポテンシャルを完全に見誤っていたとしか言いようがない。実はどこかで修行でもしていたのか、あるいは僕のいない間、すごく読書をしていたんじゃないか等々、様々な憶測が脳を過る。ゆえに、空白の八年間にとても興味を惹かれるんだ。僕と交代し、彼女の人生の後半を担当した有人は彼女をどのように育ててきたのか。そして両親はどのようにしてきたのか。

「みーちゃん、君の宿題、一週間で片付けてもらうよ」

「え~~~~~~~~~~~!」

 終業式を終え、店で昼食を取っている未希を捕まえて、僕はそう宣言した。彼女が持ち帰った宿題一式を見ての判断だ。

「教科ごとに集中して処理するぞ」

「なんでー」

「頭を切り替える毎にロスが出る。国語脳を数学脳に切り替えたら、フルで思考できるまで時間がかかるだろう? 下道から高速道路、その逆のように、人の脳は状況の変化に対応するまでタイムラグが発生する。それだけでなく、疲れも貯まる。ならばいちいち切り替えずに一気にやり遂げるのが結果的に時短になる。という理屈……なんだけど、どう?」

「……なんか途中で飽きそう」

 うっ。やはり他の人間と僕は考え方が違うのだろうか。もしかして、僕はいわゆる『効率厨』という奴なのだろうか? でも未希の集中力を考えれば、そう遠い話をしてるつもりはないのだが……。

「その時は、僕とお散歩したりお買い物したりして気分転換しようね、みーちゃん」

「おけまる!」

 彼女のモチベーション維持も僕の重要な任務だ。

 未希は粛々と宿題のプリントを解き始めた。

 ところで、最近僕がお菓子を作っていることが、どこからか夕樹乃さんの耳に入ってしまったらしく、(どうせ叔父さんだ)コラボカフェのメニューを考えなくてはならなくなった。というのも、夏休みの来場者を当て込んで出版社が全社を上げてイベントを開催するんだとか。そこで編集部合同でコラボカフェブースを作りスイーツを販売すると。まったくもって迷惑な話だ。

 こんなものを作らされるハメになった原因は、僕の本の売れ行きが芳しくないからだ。つまり販売促進。やっぱりねえ……。そんなに順調に売れるとは思ってなかったけど。とりあえず僕の作品『コーヒーミル』をイメージした一品と、商品に添えるSS(ショートストーリー)を書かなければならない。とはいえコストも考えると、あまり手の込んだものにも出来ないし、他の方の作品との兼ね合いもあるのだが……丸投げされてしまって困惑してる。というか今からで間に合うのか? こうなったらヤケクソだ。出来るもんならやってみろ。僕は知らんぞ。

「というわけでコーヒーを使って、コラボカフェのスイーツ作らないといけないんだけど、何かいいアイデアないかな、みーちゃん」

「は!? いま英語の時間だから話しかけないで!」

 ……怒られてしまった。集中しろと言ったのは僕だった。

 とりあえずコーヒーをテーマにしたスイーツを画像検索してと……うーむ。めんどくさいから、これでいいや。

 コーヒーゼリーにしよう。夏だし。

 女性が喜びそうな見た目のコーヒーゼリーを作って、写真を撮影したら、叔父さんが店でも出したいと言い出した。作るのが叔父さんならいいよと言ったら、やっぱいい、だって。なんなんだよ。

 出版社のイベント担当者に画像とレシピとSSのデータを送って、今日の僕の仕事は終了。これギャラをいくらくらい請求すればいいのかな。ちょっと見当がつかないんだが……。

「れおにぃ、さっきのコーヒーゼリーは?」

 勉強が一段落ついたのか、未希がおやつを催促してきた。言われると思って彼女の分も作って冷やしてある。

「はいはい、今持ってくるよ」

 未希にお出しすると、いきなり写真を撮ろうとするので、

「これコラボカフェのメニューになるやつだから撮影はご遠慮ください」

「えー、家宝にしようと思ったのに」

(なにそれ意味わからん)

「食べるだけにしてよ。イベント終わったら僕の撮った写真あげるから」

「忘れないでよ」

「はいはい」

 食べ終わったら、未希は宿題を再開。僕はヒマになったので、叔父さんと交代してカウンターに入った。ただでさえ夏休みの中途半端な時間だから、それはそれでヒマなのだけど。

 その日の夜。未希と入れ違いに夕樹乃さんがやってきた。例のコラボスイーツが完成したと聞きつけたからだと。やはり担当には連絡が行くんだろうか。耳が早い。

「玲央先生、私もコーヒーゼリー食べたいです~~」

「夕樹乃さんはイベントで食べられるでしょ?」

「玲央先生が作ったのが食べたい~~」

「しょうがないなあ……。これ僕のおやつ用なんだけど」

 自分用にとっておいたやつを夕樹乃さんにお出しする。

「あ~~、素敵ですう~~。写真より素敵~~」

 珍しく夕樹乃さんの目がキラキラしている。早速スマホで写真を撮りはじめた。

「アップするなら、イベントメニュー発表後に、『開発中のものです。山崎先生の手作りですよ!』とか書いてください。あ、位置情報は必ず消してくださいよ。店の場所がバレてしまうから」

「わっかりました、玲央せんせ~」

 彼女はお茶目な時や、僕をからかってる時はこんなんだけど、仕事中はスーパークールなバリキャリ。かと思ったら案外おっちょこちょいだったりと掴みどころがない。彼女の本心は一体どこにあるのだろうか。ちなみに見た目は似てるけど、僕の姉さんはしっかり者で年の割に落ち着いているし、肝っ玉が据わっている。根性ないのは僕だけだ。

「ん~~、ほっぺたがおっこっちゃいます~」

「いやいや、そこまでじゃないでしょ」夕樹乃さんはオーバーだ。

「こんなおいしいコーヒーゼリー初めて食べました」

 どこまで本気かわからんが、気に入ってくれたのなら良かった。

「デザートと前後しちゃいますが、晩御飯でもどうですか?」

「ええ、ぜひ」

 どういう心変わりだろうか。『コーヒーミル』が効いてきたのかも?

 それとも……これも、ご褒美なんだろうか。

 もう、それでも、いい。

 僕は今まで間違っていたのかもしれない。

 接待でも、ご褒美でも、それが夕樹乃さんとなら、喜んで受け取ろう。もう彼女を悲しませたくないから。

 ……多分、毎回記憶を飛ばさないといけなくなるんだろうけど。


 僕は彼女を代々木上原のレストランに招待した。


     ◇


 一週間後。未希の宿題が終わる頃に、例の出版社の夏休み合同イベントが始まった。期間中は、出し物を少しづつ入れ替えて、八月末までずっと開催するらしい。僕考案のスイーツが提供されるコラボカフェの方は土日祝&盆休み限定で会期末まで営業するけど、会期終了間近になると売切れが出るから早めに来いと、公式SNSで言っていた。未希が連れて行けとうるさかったけど、僕を知ってる人だらけなので、さすがにバレるから兄貴と行ってこい、と断った。だがその日の夜。

「玲央先生、イベント会場までコラボカフェの宣伝に来てください」

「は?」

 夕樹乃さんから出動命令が下された。気まずいのか、最近は未希と入れ替わりに店にやってくる。

「いやですよ、そんな場所。おまけに暑いし」

「私が来いと言ってるわけじゃないですよ。実行委員からの依頼です」

「依頼じゃなくて命令でしょうが」

 カウンターの椅子をくるりと回してそっぽを向いた。

 夕樹乃さんが背後からトーンを落として言う。

「玲央先生、あまり言いたくないんですが……」

「な、なんですか?」

「売れてないから」

「やっぱり……」僕は頭を抱えた。


 翌日、出版社上層階のイベントホールにやってきた僕は、人の多さに驚いた。ホール内は見本市会場のように作品毎、媒体毎にブースがいくつも作られていて、色鮮やかな展示が来場者の目を引いていた。

「やっぱりマンガやアニメのコーナーはすごいですね、岬さん」

「特に夏休みですから。グッズもたくさん売れているようで良かったわ」

「それでコラボカフェはどこですか?」

 夕樹乃さんが奥の一角を指差した。二人で近寄っていくと、入店待ちの客が結構行列している。この場に来て初めて知ったが、コラボ作品は一応、喫茶店やレストランが登場する、飲食系作品で構成されているようだ。

「え、コスプレの人がいるじゃないですか。ゲームショーみたいだ」

「コラボしている作品の衣装みたいですよ」

「僕なんか場違いじゃないですか」

「いえ、あそこにほら」

「え? どこどこ……」

 なんと。喫茶店のマスターに扮した美男子が数名。これは……女性をおもてなしするのだろうか。まるで執事喫茶のようではないか。うーむ……。

「注文したメニューに応じて、対応する作品のコスプレイヤーさんが提供するんです」

「なかなか凝ってますねえ。それで、合同でも大丈夫ってからくりなんですね」

「そういうことです。さすが山崎先生、察しがいいですね」

 店の脇で社内のカメラマンさんと合流した僕らは、店頭で本とコラボメニューを持って撮影することになった。

「え? 私もですか?」

 なんと夕樹乃さんも担当編集者ということで、本を持って立つ係をカメラマンさんから任命されてしまった。もしかして初ツーショット? カメラマンさんが、美男美女のお二人は絵になりますね、とかなんとか言っている。気分をアゲるのが上手い人だ。

 二人並んで静止画と動画を撮影していると、ヤバイ人と遭遇してしまった。

「あ! れおに、むごごっ」

 一瞬で口を塞がれた未希と、保護者の有人だ。未希を押さえ込んでいる彼が僕にアイコンタクトをする。「こいつは俺に任せろ」と。把握した。

 僕は全力で平静を装って撮影を続行した。この状況下で騒がれたら本格的にヤバイことになっていただろう。有人に感謝だ。

 ツーショット撮影が終わると、今度は登場人物に扮したイケメンウェイターさんたちを後ろにずらっと立たせて記念撮影。これで終了だ。

 次は書籍物販ブースでサイン本を五十冊ほど作成。売るためなら手段を選ばないな、この会社は。

 ……と、その前にバックヤードに移動してとりあえず電話をしよう……どちらに? 少し悩んでから僕がかけたのは、

「僕だ。さっきは助かった」有人だ。

『俺の方が先に気づいて良かった。横を向いていたらアウトだったぞ』

「すまん。僕も急に召喚されてしまって……」

『とにかく仕事だと言って聞かせる。これからどうすんだ?』

「まだ仕事があるから適当に楽しんで帰ってくれ」

『分かった。じゃあな』

 野郎は必要最低限で切ってくれるので助かる。未希ならこの十倍は通話時間を要するだろう。

 ようやくサイン本の作業が終わった僕と夕樹乃さんは、速やかにイベント会場から離脱し、文芸編集部に逃げ込んで隅の応接コーナーに落ち着いた。ここまで来れば安全だ。

「大丈夫ですか? 山崎先生」

「きわどかったです……」

 夕樹乃さんが、気遣わしげに僕を見る。

「仕事で来るって先に言っておけばよかった」

「撮影は滞りなく終了しましたので、あとは帰宅されても大丈夫ですよ」

「はあ……」

 僕は応接セットの椅子でぐったりしてしまった。

 その後は夕樹乃さんに地下駐車場までタクシーを回してもらうことにして、彼女を残し編集部を後にした。


 ようよう自宅に戻ってくると、すでに日が傾いていた。どおりで腹が減るわけだ。僕はシャワーを浴びて着替えると、叔父さんの店に顔を出した。

「玲央、ひどい顔してんな。何かあったか?」

 カウベルを鳴らして店に入ると、いきなり叔父さんが声をかけてきた。開口一番これということは、相当ひどい顔だったんだろう。

「暑かったし疲れたしお腹すいた」

 僕はカウンター席に腰を下ろして叔父さんに空腹を訴えた。

「まずは水分補給しろ。お前さんは体力がないんだから、最悪倒れるぞ」

「うん……」

 叔父さんは、レモネードに塩を混ぜたのを出してくれた。一見マズそうなんだけど、飲んでみると美味くて体に染み渡っていく。グラスを空けると、もう一杯作ってくれた。

「ちょっと待ってろよ」

 店のランチメニューは胃腸にあまり優しくないので、別のものを作ってくれるという。僕は大人しくカウンターにへばりついて、叔父さんが調理するのをしばし眺めていた。

「ほら、できたぞ。めしあがれ」

 叔父さんが僕の前に出したのは、豚しゃぶ冷製パスタ梅肉添えだった。暑さにやられた体にぴったりのまかないメニューだ。

「いただきます!」

「パスタは少し柔らかめに茹でてあるが、よく噛んで食えよ」

「ありがとう」

 今日の食事は普段よりおいしく感じる。体が要求してるせい……だけじゃない。叔父さんの愛情も入ってるから、だと思う。いいや、そうじゃない。普段はあまり有難みも感じずに漫然と食べていたが、最初から叔父さんの愛情は入っていたはずだ。それを僕は、米国にいた頃のことを、食事がおいしくないという感覚を帰国後も引きずって、ずっと味わおうともしなかったんだ。未希の弁当はおいしいと感じるのはきっと……。ごめん、叔父さん。

「泣くほど旨いか? ははは」

「あ……」気づくと僕は泣いていた。「うん、すごくおいしいよ」

「そうかそうか。よかったな。お前は少し体を鍛えた方がいいぞ。暑さ寒さにも強くなるし、疲れにくくもなる」

「うん、考えとくよ」

 僕は自分のことばかり考えすぎてたみたいだな。どうすれば、みんなみたいに他人に興味を持てるのだろう……。


     ◇


「れおにぃーおはよー」

 翌日。朝っぱらから店に未希がやってきた。

 夏休み中、子どもの昼食の世話は何かと親御さんに面倒がられる昨今だが、朝食から丸投げというのはどうなんだろうか。毎日叔父さんの店で朝、昼食べて帰るようにとのこと。まあ部活の合宿や夏期講習だと思えば、似たようなものかもしれない。食費を寄越してきたが、そっくりそのまま突き返した。彼女の飲食代は全部僕が出すのだから。

 未希は僕と一緒にモーニングを食べ、執筆作業を開始した。本番部分が全て出来るまで僕はヒマなので、自分の仕事を始める。今日の僕の仕事は、『コーヒーミル』英語版の確認作業だ。データで預かっているのを何度も読み返すんだ。普通はやらないけど、一応英語が読めるのでいつも組版前のデータをもらってる。論文ならともかく、さすがに文学を英語で書けるほど僕の英語力は高くないので翻訳は専門家が担当してるけど、読む方なら、まあなんとか。こんな日本人向けの、ぼんやりしたストーリーを英語圏の人が喜べるか僕には疑問だけど、売り上げに貢献できれば良しということで。

「れおにぃ、『コーヒーミル』英語版でるの?」

「うん。出るよ。もう一つのシリーズ『エーゲの薔薇』は舞台がギリシャだから、欧州を中心に、十数か国語で出版されてるよ。日本未公開だけど海外で映画化もしてる。出来は正直ビミョーだけど」だから日本で公開しないんだよね。一応DVDは持ってるんだけど、ネット配信が行われるかビミョー。とにかく色々ビミョー……。

「ヤバイ」

「みーちゃんや……もうちょっとボキャブラリーを豊富にしませんか。兄は貴女の国語力が心配です」

「む~……。ところで昨日」

「昨日がどうした?」

「イベントで岬さんとツーショット」

「コラボカフェと本の宣伝の仕事だけど」

「聞いてない」

「急に呼び出し喰らったんで連絡しなかっただけ」

「お兄ちゃんに電話してたし」

「みーちゃん、僕は社会人なの。仕事で行ってたんだよ。お前の本が全然売れてないからイベントで自分で宣伝しろって。あの後もウェイターさんたちと記念撮影したり、書籍販売コーナーで新刊のサイン本作ったり自分のとこの編集部行ったりしてたんだ」

「うー……」相当ご不満の様子だ。

「君じゃなくて有人に電話したのも時間がなくて簡潔に状況を説明しなければならない事情があったからだ。別に君をないがしろにする意図は全くないんだが……理解してくれないかな」

「うう……。わかった」

「ありがと、みーちゃん」

 これでも僕は著名人の端くれなわけで、あの場で仲良くイベント見物なんて出来るわけがないのだ。もうちょっと意識してもらえないものだろうか。まあ、コスプレでもして顔が見えなければあるいは、だけど。

 二人とも作業をしていると、あっという間にランチタイムになった。毎日、未希が朝・昼食を食べることになったので、何故か叔父さんが張り切っている。

「わ~、かわいいオムライス!」

 叔父さんが未希のオムライスにケチャップで猫の絵を描いている。

「ネコだ……。叔父さん、いつからウチはメイドカフェになったの?」

「おいしくな~れ! 萌え萌えにゃん!」

「叔父さんそれ絶対やめろ。客が減る」

 常連さんの顔が青くなっている。おっさんのコールは禁忌にしなければ。

「ん~! おいひ~!」だが未希はご満悦だ。

「ちっ。料理の腕はさすがだな、叔父さん。ふわとろ卵でかなり美味いよ」

「ありがとにゃん」

「だから、にゃんやめろ。そういうのは未希がやるべきで」

「メイドやっていいの?」

「やってくれるの?」

 飯の最中にリクルートするのやめろ、叔父さん。未希も乗っかるんじゃない。

「未希は執筆作業のために来てるんだから、余計なことさせないでよ」

「昼時だけでもいいじゃないか。どうせお客さんも少ないんだし」

「「ねー」」

「ねー、じゃねえわ。……まあ、気晴らしにはなるか。仕方ないな。あとでメイド服ポチっておくよ」

「「やった~」」

 なんなんだこの二人は。己の部屋で猫の着ぐるみを女子高生に着せて遊んでる僕が言えた義理ではないが……。

 食後、ネット通販サイトでメイド服をポチったが、ここはアキバのメイド喫茶ではなくコマバの純喫茶なので、クラシカルなロングスカートのメイド服を注文した。ついでに僕用の、バリスタのユニフォームも注文した。ここはやはり、黒のホルターネックのベストにロングのソムリエエプロン、そしてピンタックのウイングシャツ、黒の蝶ネクタイにカスケットをチョイス。ふっ、完璧だな。……って、何やってるんだ僕は。

 夜になって有人が店に迎えに来たのだが。

「未希、飯食って帰るけど何喰いたい?」

 夏場は暑いからと車でやってきた有人。バイクは乗る人に優しくないな。

「今日は叔母さんいないのかい?」

「おう。二人で新国立劇場・・・・・に芝居見物だとよ」

「「うっ」」

 僕と未希が同時に渋い顔になった。二人とも芝居にトラウマが……。

 有人がきょとんとしている。

「それじゃ店閉めてから四人で初台・・のファミレスでも行かないか?」と僕が提案した。

「俺も連れてってくれるのかい?」と叔父さん。

 未希も僕も、いやな記憶を家族団らんで上書きしたいんだよ。それだけだ。

 僕にとっては、甘くて苦い想い出だけど。


     ◇


 僕と未希が店でカフェ店員ごっこをしつつ、粛々と投稿作を綴る作業を続けて七月が終わった。

 いよいよ、虫食いが無くなった章が増えてきたので、僕の出番だ。軽くブラッシュアップをしていこうと思う。とはいえ細かい誤字脱字は校正AIで直すけどね。まったく便利になったものだ。全文完成したら、通しで整合性のチェックをして、また修正だが。この地味な作業、未希は大丈夫なのだろうか。……いや、ここまで努力してきた子なんだ。僕が信じてやらねば誰が彼女を信じるというのだ。僕も気合を入れなければッ!

「またね~れおにぃ」

「はーい、お疲れ様」

 夕方、僕は店で未希を見送ると、自分の仕事に手をつけた。未希には時間がないので、とかく自分の作業が後回しになり、結果彼女が帰ったあと店で居残り作業をすることが増えた。日によってはそのまま二階で眠ることも何度か。でも、こんなこともそう長く続くわけでもないので、よほどのことがなければ未希のバックアップに全力を尽くそうと思っている。〆切まであと一か月なのだし。

 書きものの仕事は、のべつ幕無し切れ目がないか、まったく作業も何もないかと極端で、あまり計画的に作業出来ないのが難点だ。今がそんなかんじで、編集部からの無茶ぶりと格闘している。その無茶ぶりというのが、同業他社の飲食系雑誌に寄稿せよ、という命令だ。無論、僕の売れないあの本のため。自社の雑誌は既に手を打っていて、あとは外部しか出し所がなくなっている。よくもまあ、そんな思い切った施策をと毒づいたが、在庫が残れば困るのは版元だ。僕も頑張らないと……。幸い、外部へのアプローチは全て編集部がお膳立てをしてくれているので、僕はただ書けばいい状態だから内部向けとやることはほとんど変わらないのだけど。

「はあ……」思わずため息が出る。だけど今日はもう少し仕事を片付けないと明日もあるし……。

 確かに、他人の金で盛大にラブレターを刷らせたんだから、売る手伝いくらいしろと言われればぐうの音も出ないんだけど。

 カラコロ、とカウベルが鳴る。

 こんな時間に……と思ったら、

「玲央先生、お疲れ……あーっ!」

「ん? 夕樹乃さんどうかされました?」

 両手で口を押さえて、目をキラキラさせている。何があったんだ?

「ヤバイ……」

「は。夕樹乃さんともあろう方まで。語彙力しんでますよ?」

「ああ……毒舌冷酷銀縁眼鏡長髪長身痩躯イケメン執事……尊すぎてしねる」

 !! そういえば、バリスタコスチュームのままだった。

 夕樹乃さんが萌え死んでいる。

「ど、どうしたんですか、性癖盛りまくった心の声がダダ漏れてますが大丈夫ですか」

「大丈夫じゃありませんよ……玲央さん」

 夕樹乃さんが呼吸困難になっている。ヤバイ。

 長髪? ああ、帽子被ってると頭が熱くなるから、今は髪を解いてゴムでまとめもせず、前髪だけカチューシャで持ち上げて、全部後ろに流してる状態だ。

「やっぱそろそろ髪切ろうかな……暑いし」僕も心の声が出てた。

「らめえ」

「最早発音すらヤバイのですが」

「玲央さん、写真撮っていいですか」心なしか息が荒い。こんな夕樹乃さん見たことないぞ。

「まあ、いいですが……」

「じゃ、じゃあ」

 以下シチュエーションの指示があれこれと彼女の口から滝のように流れてきた。まあ作品の参考にさせてもらうからいいのですが。

 面白いので、彼女のリクエストに全部答えている。そうか、こういうのが女性の喜ぶシチュエーションなのか、と非常に勉強になる。

「それにしても……あーん、まで撮るんですか? 最早乙女ゲーですよねこれ」

 だが、想定顧客のニーズもたまにはリサーチするべきなのだろう。顧客に、いや人間に興味がなさすぎて、リサーチ不足になりがちなのが僕の欠点だ。

 僕が興味あるのは、貴女だけですよ、夕樹乃さん。

「さ、最後に、玲央さんとツーショット、いいですか?」

 ……それ、僕も欲しい。

 ただのコスプレイヤーでも構わない。貴女に望まれて、同じ画角に二人で写ることが出来るのならば、それは僕の『家宝』だ。

「はい。あとで僕にもデータ下さいね」

「よろこんで!」

 かなりの枚数を撮影していたため、夕樹乃さんがクラウド越しに画像フォルダを送って寄越した。

「写りの良さそうなのレタッチして後で送りますよ」

「ホントですか……神」

「家のPCじゃないと出来ないんで後日にでも」レタッチソフトは普段使ってるノートパソコンには入れてないんだ。

 自宅のPCはFPSゲームや3Dモデリング、動画編集、メタバースビルドにAI生成も余裕で出来るハイエンドマシンだ。でも僕にとっちゃ宝の持ち腐れなのは否めないが。……僕なんでこんなPC買ったんだろ。酔った勢いかな? うーん、思い出せない。未希がお絵描きでも始めたくなったら、液晶タブレットでも添えて、あげてもいいかな。

「ありがとうございます!! できれば背景透過素材も下さい!」

「可能ですが……何に使うんです?」

「ヒミツ♡」

 夕樹乃さんはホクホク顔だ。微妙にイヤな予感がする。

「ところで夕樹乃さん、今日のご用は?」

 ポカンとした顔で僕を見る彼女。

「――あ。何でしたっけ」

 ダメだこりゃ。今日の夕樹乃さんはポンコツ決定。


     ◇


 盆休みウィークになり、全国的に祭りシーズンだ。無論うちの地元でも祭りが開催される。未希の実家も地元に含まれるわけで。

「玲央兄ちゃん! お祭り行こうよ!」メイド服もだいぶ板についてきた未希が言う。

 確かに、実家にいた頃は、僕と姉と有人と未希の四人でよく行ったものだったが。

「うーん……」

 行けば顔を合わせたくない地元の人間と鉢合わせてしまうことになる。困ったな。

「ねーねー」

 未希が悲壮な顔で僕を見上げる。

「連れてってやりゃあいいじゃねえか」文雄叔父さんが未希に助け船を出す。

「れおにぃ……だめ?」

 うっ。やっぱり僕は――

「わかった。行くよ」

「やったぁ! れおにぃも浴衣着てね!」

「え……浴衣……か」

 実家を漁れば出てくるかもしれないが、正直あまり中に入りたくない。

「じゃあ、渋谷にでも行って買ってくるか」

「お兄ちゃんの借りればいいよ」

「じゃあ、それで」


 というわけで数日後、僕は未希の自宅で叔母さんに浴衣の着付けをしてもらうことになった。髪は、帽子が使えないので、多少編んだりエクステで誤魔化す作戦だ。眼鏡も普段のメタルフレームではなく、今日は無理してコンタクトを入れてきた。未希のためならこのくらいの苦労は屁でもない。

「すみません……恵子叔母さん」

「いつもウチのがお世話になってるんだから、気にしないで。未来の旦那様」

「は、はい」

 やっぱり僕はこの家では未希のフィアンセなんだな……。

 着付けが終わった僕と未希は玄関先で履物のフィッティングをしていた。

「下駄、大丈夫? 玲央君の足に合わなかったらパパのビーチサンダルもあるけど」

「大丈夫です。未希は大丈夫?」

「おけまる! ビーサンだし!」まあその方が靴擦れの心配もなくて安心だな。

「では行ってきます」

「いてきま!」

 嬉しそうに玄関を飛び出していく、浴衣姿の未希。ああ、なんて可愛いんだろう。

 祭りに大きなカメラを持参するわけにもいかず、今日はスマホ撮影でガマンだ。というわけで、まずは自宅前で一枚。まだ着崩れもないし、多少は日照もある今のうちにベストなコンディションの未希を撮っておきたかった。

 しばらく歩くと祭りに行く人の姿が道にちらほら。未希は無邪気に喜んでいる。そう、あの頃のように。

 彼女はこうして、過去の僕との時間をやり直していると感じることがよくある。それを咎めるつもりもないし、理解できないとも言わない。だけど、彼女が愛おしいと思うその時間は、僕が自分の苦しみをそそぐため、自分のための行為だったに過ぎないので……いつも胸が痛い。まだ僕との未来の時間を重ねてくれた方が……いや、これも罰なのだろう。

 神社が近い。沿道には提灯がぶら下げられ、祭囃子が遠く聞こえてくる。人波も濃くなってきた。屋台で何かの焼ける匂いが混ざり合って流れてきた。

「みーちゃん、有人は?」

「友達とお祭り行ったよー」

「ふうん。一緒に行きたくないの?」

「べつに。もう子どもじゃないもん」

「へー」君からそういう言葉が出てくるとは思わなんだ。

 未希は片手に巾着袋をぶら下げて、もう片方の手を僕と繋ぐ。カラコロと僕は下駄を鳴らして、君は巾着袋の鈴を鳴らして。通り過ぎる親子連れを見て思う。いずれこの間に子どもの手を繋ぐ日が来るのか、来ないのか。まあ、僕にはあまり実感はないのだけど。姉とはそんな未来を望むべくもなかったのだから。

 普通にお祭りデートを楽しんだ僕らは、地元のへんな奴に見つかることもなく無事に帰路に就くことが出来た。もちろん未希の可愛い浴衣姿はバッチリ撮影したので、あとでゆっくり吟味してプリントしようと思う。カメラがちょっと心もとないぶん、レタッチの手間がかかるかもしれないが。

「ん? お兄ちゃんからだ」未希のスマホが鳴っている。

 家で花火をやるから適当に切り上げて帰ってこいとのこと。もう帰るとこだから、と未希は電話を切った。

「花火か……」それも留学以来、長らくやってなかったな。未希は家族と毎年楽しんでいたのだろうけれど。

「楽しみだね!」

「うん。未希とお祭りに来られて楽しかったよ。誘ってくれてありがとう」

 未希は満面の笑みで頷いた。

 家に近づくと、火薬の匂いが流れてきた。

「もう始めてるのか、気の早い奴だな」

「自分がやりたいから買ってきてるんだよ兄ちゃんは」

「あはは」奴ならきっとそうに違いないな、と思った。


 こんな楽しそうな家に、生まれたかったな。

 未希と結婚したら、このうちの子になれるのかな。

 家族との楽しい思い出なんて、僕には――何もない。


     ◇


 花火のあと、未希のお父さんにしこたま酒を飲まされて泥酔、翌朝二日酔いのまま有人に車で駒場まで送られた。逃げ時を逃したといえばそれまでだが、婚約者(仮)の父親の酒が飲めないとは、さすがの僕でも言えないので……。

 寝直した僕を昼時に起こしたのは、夕樹乃さんからの電話だった。

「え、屋形船ですか?」

 なんと水上から花火を観ようという『接待』のお誘いだった。

「行きます」

 電話を切った後、僕は急いで渋谷に出かけ、浴衣一式とソフト帽を購入した。一旦自宅に戻って着替えた僕は待ち合わせ場所までタクシーを走らせた。電車で行っても良かったのだけど、草履なんて慣れてないから、絶対転ぶ自信があった。だから安全策を取ったんだ。

 下町の屋形船乗り場に着くと、すでに夕樹乃さんが待っていた。――見目麗しい、和装の彼女だ。髪もセットしていて、かんざしで彩られている。浴衣の方は、彩度を落としたシックな柄にも関わらず、決して地味にはならない絶妙なバランスで品がある。

「とても、お似合いです」心からそう思った。

 彼女のこんなにも美しい和装が見られたなんて、来た甲斐が会った。接待最高。接待最高。大事なことなので二度言った。

「ありがとうございます、玲央さん」彼女は少し恥ずかしそうだったけど、恥じることなど何もない。本当に美しい人が美しい着物を纏うと破壊力がハンパない。死にそう。

「写真撮っても?」

「ええ」夕樹乃さんは、恥ずかしそうにはにかんだ。

 お写真、家宝にします。

 さすが大手出版社様の接待だけあって、川からすばらしい花火や帝都の夜景が楽しめたり、美味しい料理と酒がたくさん出てきて、いつも売れっ子はこんなものを飲み食いしてるのかと驚いた。接待恐るべし。

「お気に召しましたでしょうか? 次回はヘリで東京湾クルーズでもいかがです? 豪華客船ディナークルーズもいいですね。どちらも夜景が美しいですよ。ご要望がありましたら何なりと」

 どんだけ予算あるの。まあ夕樹乃さんとのデート代が会社から出るだけなのでいいけども。というか普通に僕が自腹でデートしても良いのだけど。

「特に行きたいところもないので、お任せします」

「欲のない方ですね」

 欲ならある。そう、目の前に。

「強いて言えば……宿泊出来る場所とか」

 またその顔。さみしそうに笑うのやめてよ。

「接待なので、船を降りたら終了ですよ」

「ですよね」

 やっぱり。でも、それでもいい。

 もう十分僕は楽しんだ。貴女との夜を。


 屋形船が岸に着くと、夕樹乃さんがタクシーを止めた。

「お送りします」

「……ありがとうございます」

 これは、延長戦か。

 まったく、うちの担当さんはサービスがいいんだから。

「玲央さん……ちゃんと忘れないとダメですよ」

「心得ております」

 馬喰町のあたりから駒場まで、もうしばらく夕樹乃さんを独り占め。

 浴衣が着崩れないよう、丁寧に、デザートを味わった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る