第20話 作家と修羅場

 翌朝、夕樹乃さんを見送ろうと駅まで行くと、登校途中の未希と鉢合わせてしまって、僕らも未希も固まってしまった。

 これは非常にマズい……。

 他の生徒や先生がいる前で痴情のもつれを開陳するのは、どうしようもなくマズい。ど、どうしよう……。

 とりあえずは……。

「それじゃ、また」と夕樹乃さんの腰を押して送り出す僕。

「ええ」と短く返事をした夕樹乃さんは未希から目を逸らしたまま、真っ直ぐ改札に向かっていく。

「待ちなさいよ」

 未希が夕樹乃さんの腕を掴んだ。僕がうろたえていると、

「行きなさい」夕樹乃さんが僕に命じる。

「はい!」僕は弾かれたように、その場から走り去った。

 危機管理能力は、夕樹乃さんの方が遥かに高かったようだ。僕はあの場で動けなくなってしまったのだから。

 僕を巻き込むまいと、自分が犠牲になって逃がしてくれた。未希が高校生の子どもで、不確定要素の塊で、何をしでかすか分からない爆弾だということを十分理解しての行動だ。

 未希は未希で意志が強く、行動力の塊だ。爆弾だとすれば、被弾範囲も飛距離も大きい危険物ってことになる。


 あんなことするなんて……未希。

「えらいことになった……」

 僕は一目散に自分の部屋に戻った。

 あまりの緊急事態にメンタルがぐずぐずになった僕は、ベランダで観葉植物にだぼだぼ水を注ぎまくって、ズボンのひざ下もサンダルの足もびしょびしょに濡らして、元の気弱な僕に逆戻りしてしまっていた。

 ピンポーン、と呼び鈴。

 絶対怖いことにしかならないので出たくない。

 シカトしてたら連打されてしまい、仕方なく出ると、

『玲央兄ちゃん、ちょっと開けて』

 モニターを見ると、なんと夕樹乃さんも一緒にいる。結局逃げられなかったのか……。タクシーで帰らせればよかった。

 ドアを開けると未希が飛び込んできて、僕に抱きついた。

「これはどういう……」

「捕まっちゃいました~」てへぺろしている夕樹乃さん。

「ぎゃー! なにそれ!」

 未希が床を指差して叫ぶ。

「ああ、ベランダで観葉植物に水やってたら大量にこぼして足がずぶ濡れになって、君らが来たからそのまま歩いてここまで来たので……」

「「ああー……」」

 未希と夕樹乃さんが渋い表情で顔を見合わせた。

「れおにぃそこ動かないで!」

「玲央さん、ベランダからここまでびしょびしょじゃない!」

 女性陣にすごい怒られてしまった。

「うう、ごめんなさい……」

 結局、未希に濡れたズボンを履き替えさせられ、夕樹乃さんは床の水をタオルで拭いてくれた。

「れおにぃの動揺がゲキヤバ」

「ですわね……」

「い、いじめないでぇ……」僕はソファの上でうずくまって頭を抱えていた。

 百%痴情のもつれバトルが繰り広げられるシーンなのだが、どうも二人の様子が不安げだ。

「未希さん、私を捕まえてどうするおつもりだったの?」

「考えてない」やっぱり。反射的に捕まえたんだな。

「登校中だったんですよ。ちょっと間違えたら玲央さんが大変なことになってたわ」

「ううう……れおにぃごめん」

「うん……」

「だけど、朝帰りってなに」

「ごめん」

「謝ってほしいんじゃないんだけど」

「ごめん」

「なんとか言ってよ」

「ごめん」

「れおにぃ!」

「ごめん」

「ちょっと待って、未希さん、やめて」

「なによ」

「ごめん」

「もうすぐ彼は地方のイベントに行かなきゃならないの。テレビ局や新聞社の取材も来るの」

「だからなに」

「ごめん」

「今から詰めて彼のメンタルをボロボロにしないでちょうだい! サイン会で使い物にならなくなっちゃうの! 地方のファンが彼を待ってるのよ! 昨日もうちの社でテレビ周りの打ち合わせをしたばっかりなのに、これじゃもうだめだわ」

「ごめ」

「あ……」

「夕樹乃しゃん……僕もういきたくない。しにたい」

「あああ……」夕樹乃さんが床に崩れ落ちた。「なんてことしてくれたの。昨日まではイケイケドンドンでこのまま連れて行けると思ったのに、もうダメだわ……」

「ひいぃ、れおにぃ」

「彼がメンタル豆腐なの未希さんもご存じでしょう?」

「うん……ごめん、れおにぃ」

「もーしぬ」

「玲央さん、ほら、もう未希さん怒らないから」

「怒らないって言うやつは絶対に怒るんだ。僕は知っている。怒らないって言うやつは絶対に怒るんだ。僕は知っている。怒らな」

「れおにいいいいいっ」

「未希さん、お願いします。どうか月末まで彼を放っておいていただけませんか? もうスケジュールは組まれていて一ミリも動かすことは出来ません。書店様にも無理を言って突っ込ませてもらったイベントなんです。このサイン会に何百人ものスタッフが関わっていて、来場される方は合計で二千人を超えると予想されています。彼一人の体じゃないんです。どうかお願いします。彼をいじめないでください。来月になったら私のことはどうぞ煮るなりお好きになさってください!」

「ううう……べつに……れおにぃをいじめたいんじゃないもん……未希のものなのに、れおにぃは未希のものなのに」

「怒らないって言うやつは絶対に怒るんだ。僕は知っている。怒らないって言うやつは絶対に怒るんだ。僕は知っている。怒らな」

「れおにぃごめん~~~~~~っ」

「姉さんたすけて姉さんたすけて姉さんたすけて姉さんたすけて姉さんたすけて姉さんたすけて姉さんたすけて姉さんたすけて姉さんたすけて姉さんたすけて姉さんたすけて姉さんたすけて姉さんたすけて姉さんたすけて姉さんたすけて姉さんたすけて姉さんたすけて姉さんたすけて姉さんたすけて」

「「ああ……」」

「れおにぃこわれた……」

「こうなってしまってはもう、私たちに出来ることはありませんわ……最後の手段よ」

「最後の手段?」

 夕樹乃さんがどこかに電話をかけている。

 一時間くらいして誰かが来た。

「あらあら皆さんお揃いで~おじゃましますわね~まあいいお部屋じゃないの玲央くん」

「ファッ! ね、ねねねね、姉さん!?」僕はソファからずり落ちて床にひっくり返った。

「玲央さんのリクエストにお応えして、裕実さんをお呼びしましたよ。さあ、起きてください」

「うわ裕実姉ちゃんだ! わーい、裕実姉ちゃん!」

 なんか姉さんと未希がキャッキャウフフしている。

「玲央さん、しっかりして」夕樹乃さんに抱き起こされた。

「すみません……」

 なんだこの状況。全員集合じゃないか。

「裕実さん、交代したばかりでお呼び立てして済みません」

「いいのよ。この子いつもこんなんだから」

「交代ってなにー」

「私と夕樹乃さん、この子のお姉さんを交代したのよ」

「そうなんです」

「なんだ~、夕樹乃さんはお姉ちゃんなのか~」

 それでいいのか、未希。納得してくれるんならいいが。

「未希はれおにぃの妹だよね~」

「うん」他にいないし。

「やった~~」

 本当にそれでいいのか未希。僕には理解不能だ。

「じゃあ未希は学校行きなさい。夕樹乃さんは会社にどうぞ。姉さんは……」

「私は玲央くんの顔見たから渋谷に買い物に行って帰るわね」

「一人じゃ危ないよ姉さん」

「大丈夫よ、下に有人くん待たせてるから」

「げ! 兄貴に見つかったら怒られる!」

「有人に怒られると思うよ。裏口から出たらいいんじゃないかな」

「じゃーねー!」

 未希が慌てて出て行った。

「それじゃ私も会社行きます。また夜にでも」

「いってらっしゃーい」

 夕樹乃さんも出て行った。

「さて、みんないなくなったわね」

「そうだね、姉さん」

 急に雰囲気が変わった。まあ、有人と一緒ってことは色々聞いてるのだろう。

「がんばったわね」姉さんが僕をぎゅっと抱きしめた。

「僕だけじゃ……有人もいたし」

「それでも」

「うん……」

「ねえ、玲央くん。お願いがあるんだけど」

「なに? 姉さん」

「抱いて欲しいんだけど」

「え?」

「汚れたからイヤ?」

「そ、そんなことないよ! 絶対ないから! む、むしろ遅くなってごめん。待たせて……ごめん、ずっと……ごめん」

「私こそ……待てなくてごめんなさい」

「もういわないで」

 とはいえ、姉さんが奴とああならなければ、夕樹乃さんのことも発見できなかったわけで……ああ、なんというか、どうしても泥水を踏まないと進めない人生ゲームのような……。でもやっぱり悔しい。

「よかった。穢れを落としてほしいのよ……玲央。一度だけでいいから」

「僕で……姉さんが清められるのなら」

「もちろんよ」

 姉さんにとって最初の男が僕で、僕も最初の女性が姉さんで。僕を助けたい一心で、あんな痛がって、あんなに血を流してたのに無理して笑って、本当に、本当に僕にとって、この世で一番尊い、姉さん。今でも姉さんにとって僕が唯一の――。

 僕は姉さんを抱き上げ、寝室に連れて行った。

 姉さんは全ての着衣を脱ぎ捨て、儚げに笑った。

「ごめんね、これで玲央のこと、おしまいにするから」と。

 なんて悲しい、いや悲しいなんて言葉で言い表せやしない、この胸を抉り取られるような痛みを伴う言葉なのだろう。僕のことをおしまいにする、なんて。でも……姉さんは僕のために犠牲になったんだから、自由になってほしい。

「こちらこそ、僕を背負わせて、ごめんね……姉さん」

 僕は姉さんを隅々まで清め、そして、暖めた。


 マンションの外に出ると、路肩に止めた車の脇で有人が佇んでいた。この間の夜と同じ、黒装束だ。

 僕は姉さんをそっと送り出した。この男になら安心して任せられる。

「ありがとう、玲央。二人と仲良くするのよ」

「ああ。元気で」

 どうやってだよ、と内心で毒づいた。

 姉さんは僕に微笑むと、有人が開けた車のドアから優雅に乗り込んだ。

「姉さんを頼む」

 ドアを閉め、有人が言う。

「俺の命に代えても」

 僕は頷いた。


 今晩は業界のパーティがある。夜に夕樹乃さんと待ち合わせをしているのだが、午後には未希が来てしまうから、さっさと着替えて出かけてしまおうと思う。というか、もう一件、隠れ家でも作った方がいいのかなと思う。

 というわけで、会場近くに宿を取り、そこで仕事をして夜まで時間を潰す。ノートパソコンとネットさえあれば、どこでも仕事が出来るのだから便利な話だ。場所を変えたせいか、筆の進みが早い。たまにはこうして気分転換をした方が良さそうだ。そう思うと、セカンドハウスも考えた方がいいのか、それともマンスリーでホテルを転々とするのも飽きなくて悪くないのかもしれない。そうだ、スイーツブッフェをやってるホテルにすれば、いつでもデザートが楽しめるから悪くないな。えーっと……

 スイーツブッフェを検索していたら、あっという間に夕方になってしまった。なんということだ。でも楽しかったから、まあいいか。デコレーションや盛り付けのアイデアも結構貯まったし、帰ったら家のPCの画像フォルダに保存しなおそう。

 コンコン、とドアをノックする音が。

「はい、どなた」

「岬です」

 夕樹乃さんが仕事を終えてやってきた。

 ドアを開けると、衣装カバンを下げた彼女が入ってきた。挨拶がわりに軽いキスをした。

「急いで着替えなくちゃ。手伝ってくださる?」

「それはいいけど、その服はどこから?」

「いつでもパーティや式典に参加出来るように、会社のロッカーにいくつも保管しているのよ」

「さすが出来る編集さんは違うな」

「当たり前じゃない。私は貴方の担当なのよ」

「それは頼もしい」

 僕は彼女から仕事カバンを預かると、フフ、と笑った。

「一時はどうなるかと思ったけど、さすが裕実さんね。すっかり元通りになって良かったわ」

「いやあ……ははは。やっぱり朝は良くなかったね。次から車を呼ぶよ」

「そうね」夕樹乃さんが苦笑した。


 パーティの時間になり、僕らはバラバラにホテルを出て会場前で合流した。今日のパーティは複数の出版社や関係者が集まるもので正直知人は誰もいないはずだ。僕は夕樹乃さんの引き立て役として存分に笑顔を振りまくのが仕事だ。彼女に言わせれば自分が僕の引き立て役だと言いそうだけど。こういうのを世間ではパワーカップルとか言うんだっけ。ドレスアップした夕樹乃さんが眩しすぎて、ずっと見ていたい気分だ。

 まあ二人してガチでキメてきたものだから、思いのほか小物は寄ってこなかった。そのかわり、他社や別業界のえらい人が大量に押し寄せてきて、僕の前に名刺を渡すための行列が出来てしまった。サイン会ツアーに先駆けて夕樹乃さんが名刺を追加してなかったら、あやうく切らすところだった。さすがは夕樹乃さん、僕の自慢の担当さんだ。まあ名刺をもらったところで、他所の仕事をする気はないのだけど。

 一通り挨拶が終わって壁際で一服していると、夕樹乃さんが、

「公の場に出るのは初めてだから、すごい人気だったわね」

「有名だからでしょ。どうせ中身なんて読んでる人いないよ」

「そんなものよ。私だって分かってるわ。彼らが求めているのは、売れるもの。中身はどうでもいいのよね。……もったいない話だわ。世に出さなければならない作家はたくさんいるのに、最初から売れるものだけ作ろうとするなんて。絶対成功する技術だけ開発しろって科学者に言うようなナンセンスな話よ。バカみたい」

 夕樹乃さんが珍しく業界に文句を言っているのは、僕らが気の置けない関係になったからだろう。もっと彼女の本音を聞いてみたい。いや、今までも言っていたのかもしれない。僕がそう思っていなかっただけで。だから、改めて色んなことを聞いてみたい。本当は彼女って、熱い心の業界人なのだから。

「そういえば、さっき作家のエージェント会社の人から名刺もらったんだけど、どういうことする会社なの?」

「作家に代わって、作品を出版社や映画・アニメ会社などに売り込んだり、代理で契約したり、って面倒事を引き受ける会社。うちの会社でやってくぶんには私が全部やってるから必要ないけど」

「じゃあ、僕が他のところで仕事するとき困るなあ……」

「するの?」

「いや、何も考えてないけど。でももしやってみたくなったら……夕樹乃さん、独立してエージェント会社やらない?」

「えー! 売り込みとかよくわかんないわよ。コネクションとかないし。せいぜい窓口になれるくらいかしら……」

「ふうん。じゃあやめとく」

 夕樹乃さんが、心なしかほっとしてるように見える。

「どうしたの?」急に夕樹乃さんが僕の影に隠れた。

 なるほど、こいつが原因か……。

「こんばんは、山崎先生。ようこそ、お越しくださいました」

 数日前にボコボコにしたばかりの島本が、恭しく礼をした。顔を殴らせなくてよかった。奴はどうやら今日の主催側みたいだ。着飾った彼女に会いたくて寄ってきたようだな。――このクソムシめ。

「ああ、もう帰るところですが。僕の夕樹乃・・・・・が気分を悪くしてしまいましたので」

「それは、どうぞお大事に」苦虫を噛み潰したような顔をしながら、夕樹乃さんをちらちら伺っている。

「ところで、奥方はお元気ですか?」

 島本の顔が引きつった。やはり何か動きがあったようだな。

「ええ、いま実家に帰っておりまして」

「そうですか。それはゆっくりと羽を伸ばしておられることでしょう。島本さんもお気楽なのでは?」

「そう……ですね。では私はこれで」すごすごと去っていった。

 ふうん。そっか。でもそう長くはいられないだろう。あの場所は危険だ。

「ねえ、夕樹乃さん」

「なあに?」

「僕、少しは君のこと護れる男になれたかな……」

「なってるわよ。すごく」

「だといいんだけど……朝あんなに取り乱して……みっともない」

「しょうがないじゃない。修羅場に慣れてる人の方が、私イヤですよ」

「それもそっか。おなかすいたし、そろそろ帰らない?」

「そうね」

「じゃあルームサービスでも一緒に」

「いいわね」

 夕樹乃さんが僕に手を差し出した。僕はその手を取って、彼女をエスコートした。

 今夜の舞台は彼女が一番美しい。


 ホテルに戻って、二人でゆっくり夕食を取っていると、夕樹乃さんが何か言いにくそうに、

「あの……未希さんのことなんだけど」

「うん……ごめん」

「そうじゃなくって……えっと」

「ん? どうしたの?」

「彼女は、どういう子なのかしら。貴方とはどういう関係だったのか、とか興味があって」

「未希のこと、あまり知らないよね。会って早々、気まずい関係になってしまったし」

「そうなのよね……」

 だからと言って、正直に語るのも少し憚る話なんだよな。

 それに――最終的にどちらを選ぶのかなんて、僕には分からない。現段階で、片方を選べるとも思っていないけれど。

「あまり食事時に話すようなもんでもないけど……まあ、夕樹乃さんならいいか」

 無理にとは言わないけど、と彼女はいうけど、気になるのなら話しておいた方がいいと思った。

「未希のことなんだけど。あの子は八歳まで僕が育てた子なんだ。家が隣でさ、両親が共働きだった。自分の家庭がぶっ壊れてた僕は、小さい子どもが寂しい思いをするのがいたたまれなくて、留学するまでの間、ほぼ毎日面倒を見てたんだ」

「それであんなに懐いてるのね」

「うん。その後僕は留学し、その二年後夕樹乃さんと会った。だけど彼女は、僕がいなくなった八年間ずっと待っていて、僕を想い焦がれていた。気づかなかったと思うけど、帰国しても事情があって神崎玲央としては雲隠れしていたんだ」

「今の貴方、作家の山崎玲央とは真逆なのね」

「そうなんだ。文雄叔父さんのうっかりで僕の消息が判明した今年の正月、彼女は志望校を変更し、ずっとランクの高い駒場にやってきた」

「二か月で志望校変更なんて、とんでもない子ね」

「ああ見えてすごいんだよ、未希は」

「それで小説もいきなり書くなんて……」

「うん。未希は本当にすごい子だよ。特に根性とか。まあ、ここまでが概要」

「概要……?」

「ここからは、メシ時にする話じゃない話」

「おねがい、します」

「当然だけど恋愛感情なんて僕にはなかった。それどころか、政治家の父の虐待から逃げるための口実に彼女を利用していたくらいだ」

「お父様の……それで、裕実さんも」

「そう。母を父に殺されたから。選挙活動による過労で自殺した。僕を父から護ってくれていた母が亡くなって僕は絶望し、狂乱して後追い自殺を繰り返した。こうして生きてるのは、姉さんが体を張って僕を護ったから。その方法に文句のある奴はいるだろうが……」

 夕樹乃さんの手が止まる。どう考えてもメシ時にする話じゃあない。

「そんなこんなで、僕は未希のことも父からの逃げ道にしてた。僕は彼女をぬいぐるみの代わりにして抱いて、よく泣いていた……そうだ。僕は彼女に再会するまで、ぬいぐるみにしていたことを忘れていたんだ。確かに記憶していたい過去ではないから。毎日会いに来て世話をして抱きしめて……そんな毎日を繰り返してきたら、彼女はそれを愛情と誤認してしまった」

 誤認、と一言で切り捨てるにはあまりにも残酷な話だ。

「僕は泣かれるのが面倒で、彼女に黙って留学した。ところが、僕が消えて彼女は毎日を泣き暮らし、今まで世話を僕に押し付けていた有人がシスコンに変貌するのに時間はかからなかった。そのくらい、彼女をなだめるのに手を焼いたそうだ」

 僕よりも共感力の高い夕樹乃さんが、未希の生い立ちに同情してか涙を浮かべている。まあヒドイといえばヒドイのだが。

「そのせいで未希は、誰かを失うことに強いストレスを感じるようになってしまった。まあPTSDだ。だから、僕を取り戻したくて全力を尽くした。彼女の瞬発力はたった二か月の話ではなく、そこに八年間の執念が乗っかっているんだ」

「そんなに……」

「だから……八年ぶりに現れたあの子を、僕は追い返すこともできなかった。有人を含め、家族ぐるみで僕の退路を断ってね。あとはずるずると……。特に夕樹乃さんの存在があいつを過激にしてしまってね」

「うう……なんかごめんなさい」

 いや未希のことは事故だから、謝らないで~~。

「僕を絶対逃がしたくない、その一念で僕を落とそうとして。まあ簡単に堕ちてしまったわけだけど。それで、なんだかんだで、いつのまにか、あの子を手放せなくなっていた」

「玲央さんも未希ちゃんも……大変だったのね」

「だからって君は身を引くの?」

「まさか」

「だよね……。それは向こうも同じこと。だけど……。これって浮気なの? 優柔不断なの? 僕はどちらも……」

「双方に義があって一歩も譲らない状況と言えるかしら。だけど片方を失えば、貴方が悲しむ……。それは私の望むところではないのだけれど」

「僕には……」

 夕樹乃さんが僕の唇を指で押さえた。首をふって僕を優しく見つめる。

「いわないで。わかってるから」

 僕はうなずくしか、できなかった。

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