第6話 物語を組み立てよう

 翌日、やる気の出た未希が急に駒場に来ると言いだした。でも叔父さんの店は定休日だからどうしたものか。仕方ないから、ウチで作業をさせるしかないか。あまり気が進まないのだが……。

 二時間後、インターホンが鳴った。マンションのオートロックを解除して数分後、未希が僕の部屋にやってきた。

「急にごめんね、玲央兄ちゃん」

「みーちゃんのお願いなら構わないよ。さ、上がって」

 今日の未希は私服だ。まあ、当たり前か。この間の作業の続きをするには荷物が多いようなのだが、何だろう?

「玲央兄ちゃんのお部屋、すごい広いね! ここ一人で住んでるんでしょ?」

「それがねえ……じつは」僕はわざと声をひそめて言った。

「な、なに?」

「広さのわりに家賃が安かったんだよね。どうしてだと思う?」

 未希の顔が引きつった。

「え、まさか。え? ……どうして」

「この廊下の突き当りには――」

「やだああああ! 聞きたくなああああい!」

 首をぶんぶん振って未希が叫んだ。

「ごめんごめん。別になにもいないよ」

「……え?」

「みーちゃんが可愛いから、ちょっとおどかしたくなっただけ」

「お兄ちゃんのバカー!」

 涙目で怒る未希。やりすぎちゃったかな。

 僕は彼女をぎゅっとハグした。

「ごめん、みーちゃん。許して」

「玲央兄ちゃんのバカ」

 僕の腕の中でぼそりと呟いた未希は、僕の腰に腕を回して抱きついた。

「じゃ、こっちおいで」

 僕は未希を腰から剥がすと、昔のように手を引いてリビングに向かった。

 さっきコンビニで買ってきたお菓子やジュースの入ったレジ袋が、ダイニングテーブルにそのまま置いてある。僕はそいつを掴んでカウンター越しにキッチンへ放り込んだ。

「このテーブルで作業しよう。適当に座って」

「うん」

 未希は椅子に上着とリュックを引っかけると、手提げ袋をテーブルの上に置いた。

「これ……お弁当作ってきたんだ。いっしょに食べよ?」

 未希が、信じられないことを言った。

 まるでラノベのようなことを、ラブコメのようなことを言った。

「未希さん、いまなんと」

「これお弁当」

「そのあと」

「いっしょに食べよう」

「その前!」

「作ってきた?」

「ほ、本当ですか……」未希が料理を? あの未希が?

 脳内にパイプオルガンの美しい音が鳴り響いた。

 が、未希はぶすーっと機嫌を悪くした。

「ヤなら食べなくていーから」

「ちちち、ちがうって! 僕はいま、ものすごく感激してるんだから!」

「はい?」

「あのみーちゃんが、料理を作れるようになったことに感激、そして、女性の手料理に飢えているので感激、ダブル感激中なんだよ!」

「やった! あ、でも食べてから感激してよね。大丈夫だと思うけど」

「う、うん。ありがとう」

 なんだろう、この展開。何のご褒美なんだろうか。僕あした死ぬの?

 それなら僕は八年前にとっくに……いや、今は思うまい。

 目の前の未希に集中しよう。

「……で、みーちゃんはどうして僕の隣に移動してるのかな?」集中しようとして出鼻をくじかれた。

「やっぱここがいい。お店でもずっと隣じゃん」

「それは……みーちゃんが」僕とイチャコラしたいからだろって、あやうく自爆しそうになった。

「だから隣に座ってるんだけど?」

 ですよねえ……。この小悪魔め。

「今日は作業しに来たんじゃなかったっけ?」

「そうなんだけどぉ」

「僕だって身の振り方が定まらないと困るんだけど」

「たとえばぁ?」

 君、分かって言ってるんだよね?

 夕樹乃さんといい未希といい、まったく僕をなんだと思ってんだ。いっつもいっつも女性に翻弄されっぱなしなのも、ちょっと面白くはない。

「僕に指導されたいのか、それとも、こういうことを希望してるのか、だが」

 僕は未希の肩を抱き、もう片方の手で彼女の顎をつい、と持ち上げた。じっと見つめてやると、未希はすっと目を閉じて小さくうなづいた。顎は持ち上げたまま、親指の先で未希の唇をそっと撫でる。ぴくり、と身じろぎするのが、抱いた腕に伝わる。

 うっかり「僕でいい?」って訊きそうになったが口に出さなかった。むしろ彼女に失礼だろう。僕への気持ちは明確に表明しているのだから、彼女が愛する僕を卑下するのは、彼女への冒涜である。……と道理では理解しているのだが、自己評価の低さはなかなかに克服しづらいものがある。彼女のためにも何とかしなければ。

 落ち着いたフリをしながら、ゆっくりと彼女の唇に己のそれを重ねていく。彼女の息が甘くて、脳の深いところが熔けていく。未希の余裕のない吐息が漏れると、僕はたまらない気持ちになって、彼女の腰を抱き寄せた。八年ぶりの女性の唇が本当に美味しすぎて、僕は頭がおかしくなりそうなのをこらえつつ、ちゅぷ……とやさしく彼女の唇を食み続ける。未希も応えてリップ音を立てながら不器用に僕の唇を食む。いきなり貪るほど僕はケダモノじゃない。まだ舌は入れない。それはまだ未希には早い。

 僕らは元々スキンシップ過多な関係ではあったけれど、あくまで兄妹のそれであって男女のそれとは全く異なる。つまり今、一線を越えたわけで、(彼女はとっくに超えてたつもりかもしれないけれど)一線を越えるという経験で言えば、まあ、姉の次で二度目になるのかなと。

 ダイニングセットの椅子はテーブルが邪魔をして少し窮屈で、一旦彼女を戒めから解くと、僕は自分と彼女の椅子を引いて、彼女の手を取りソファにいざなった。

 やわらかくて開放的な場所に雪崩れ込んだらもう歯止めが効かなくなった。彼女をしばらく抱きすくめては柔らかい髪を撫でつける。未希も愛おしそうに僕の胸に顔をうずめて昔のようにぐりぐりしてくる。早速前言撤回。僕が耐えられなかった。彼女の顎をぐいと上向かせると、僕は乱暴に己の舌をねじ込んで、彼女の可愛らしい舌を舐り、唾液を啜り始めた。お互いの口の中はぐちゅぐちゅのドロドロで、脳みそまで溶け出しそうで、僕はなんかもういろいろダメなカンジになっていた。だがせめて最後の一線だけはガマンしようと思う。

「んん……きもち……い」

「僕も……」

 キスだけなんて、まだまだ序の口だというのに気持ちよくて仕方がない。こんな時、自分がスレてないことに感謝してしまう。一体脳から何が沸きだしてるんだろうか。未希も未希でとろけまくっている。僕らはまたゼロ距離を通り越してマイナス距離で絡みあう。

 しばらくして、未希が僕の背をバンバン叩くので唇を離すと、つうっと透明な糸が未練がましく伸びてぷつりと切れた。

「くる、し」

「ごめん、未希」

 未希がぜいぜいとはげしく息をしている。どこで息をしていいのか分からなかったのか、呼吸困難にさせてしまった。可哀想なことをする気はなかったのだが。

「ながいー」

 彼女が上気した顔で恨みがましく僕を見る。それがなんともそそるので、僕は目をそらした。

「鼻で息すればいいのに」

「あ」

 画期的な方法に思い至り、未希は恥ずかしそうに僕の胸に顔をうずめた。

「じゃあなるべく短く回数やるから」

 僕は何を言ってるんだ? 口に出してから、とんでもない奴だなと呆れた。

「うん、わかったー」未希もすんなり納得するんじゃない。

 あー……、やはり彼女を家に入れるんじゃなかった。僕の知能指数が50%OFFになってる。これは極力叔父さんの店で会うようにしないと、いろんなものが危険で危ない。最悪、僕の人権がしんでしまう。


     ◇


 さんざん舌を絡め合った後、未希が満足するまで甘えさせた僕は、観葉植物に水をやると言っていつものベランダでクールダウンしていた。どのみち今日は最後の一線は越えられないのだからこれ以上さかっても無意味だし(結局トイレで処理した)そもそもせっかく彼女がやる気を出してウチに来たのに、僕が色ボケポンコツのままでは申し訳が立たない。

「おかえり~」

 部屋に戻ると何事もなかったように衣服と髪を整えた未希が僕を出迎える。僕はといえば、きっと情けない顔をしてるんだろう。水やりには長すぎる時間をベランダで過ごしてきて、これ以上はダメだろって思って戻ってきたところだし。つまり、クールダウンはしたんだろうけど気分はあまりよろしくはない。

 勢いであんなことしたけど、もうちょっと大人の男な振る舞いをしたいのに全然余裕がなくて、あまりに情けなくて自己嫌悪しっぱなしだ。そりゃそうだろう、そもそも僕は姉さんとの関係は全くの受け身で、女性との交際経験なんて皆無に等しい。顔だけは賢そうだけど、ただ年を食っただけの中学生とたいして変わらない。余裕なんてあったらおかしいだろって話だ。だが仮にこんな調子で夕樹乃さんと交際してたらもっと大惨事になってたかもしれないから、つきあってなくてよかったのかもしれない。十も年下の女の子相手なら、頑張ればボロは出ないかもしれない。そう、今がその頑張り所なのだ。なのだががががが……。

「おまたせ。じゃあ始めようか」

「うん!」

 ようし、なんとか正規ルートに戻せたぞ。やれやれ。極力脱線しないようにしなければ。さもないとまた醜態を晒すことになってしまう。

 未希は、先日作成したストーリーのカードをテーブルの上に広げた。僕はリビングの隅にある仕事用のデスクからコピー用紙の束を持ってきて、数枚をテーブルの上に置いた。

「みーちゃん、このコピー用紙を大きなストーリーのまとまりだと思って、カードを置いてみて。何枚使ってもいいよ。はじっこには順番の数字を書き込んで。メモを書き込んでもいいからね。必要なら色ペンも持ってくるよ」

「はーい。起承転結ごとに分けるみたいな?」

「まあ、そういう。べつに四つじゃなくても、章ごとでもいいし。自分でまとまってるなあと思うカードをグループ分けすればいいよ」

「なんかおもしろいね!」

「これは小学校で物語を作るワークで使われてるのをヒントにした方法だよ。慣れないうちは物語ってどうやって作ったらいいか分からないから、迷子になっちゃうんだよね」

「たしかにー」

「でも時系列の島に分けてシーンを配置してあげると、自然に物語になっていくんだ」

「おおー」

「それで繋がりがおかしいところはシーンを追加してやればいいし、シーンが多すぎるところは移動させたり削ったりすればいいわけで」

「これだとすごいわかりやすいね!」

「じゃあやってみて。僕は自分の仕事するから、出来たら教えて」

 僕は自分のデスクからノートパソコンを持ってきて、未希の向かいの席に座った。少しムっとしてたけど、見ないふりして座って作業を始めた。僕は新刊の何度目かの直しをしている。さすがに大きい修正は減ってきたけど、校正するたびに新しい誤字が見つかるのはどうにかならないものか。って僕が悪いのだけど。う~ん。

 未希は飲み込みが早いのか地頭がよいのか、勝手にカードを並べては入れ替えたり、足りないものを見つけては新しくカードを作ったりしていて、僕の出る幕があまりない。それもそうか。土壇場で上のランクに志望校を変更して、根性だけで合格するわけがない。一番この子を見くびってるのは僕なんだ。毎日見ている有人ならともかく、いきなり高校生になった幼女の成長を正しく把握するなんて今の僕には不可能だ。

「出来たー」

 なぜかバンザイをして作業完了をアピ―ルする未希。どれどれと成果物を見てみると……なんだこれは。立派なプレゼン資料が完成していた。エグいなこれは。

「よ、よくできました」

「こないだ玲央兄ちゃんからもらった本、ちゃんと読んで勉強してきたからね!」

「おお……それにしたってなあ、成長著しすぎませんか未希さん」

 もしかしたら僕は逸材を発掘してしまったのかもしれない。えらいこった。

「やったー! で、おなかすいた」

「うん、僕も。そろそろお昼にしようか。お茶入れてくるね」

「はーい」

 僕はキッチンでやかんに水を入れながら横目で未希を見ると、彼女は持ってきた弁当をテーブルの上に広げている。叔父さんの店が定休日だと聞いてから作り始めたのなら、かなりのスピードで調理したことになるのだが。この子は料理も得意になって……あ。少し怖い想像になってきたので、僕はそれ以上考えるのをやめた。

 それにしても、なんで未希はあんなことのあった後なのに平気な顔をしていられるんだろうか。僕なんか思い出してキョドってキッチンの隅で震えているというのに。まあ、あの兄の妹だと思えば肝っ玉が据わってるのは当然なのかもしれないが。

 僕が二人分のお茶を持ってくると、すでに弁当のセッティングが終わっていた。弁当箱はご丁寧にバンダナで包まれていて、割り箸の包み紙にはマスキングテープとシールのデコレーションが施してあった。僕は嬉しい気持ちとともに、その用意周到さに少し寒気がした。――未希の愛が重い。僕が言えた義理じゃないのは重々承知しているが、素直には喜びづらいものがある。

「お茶、おまたせ」

「ありがと~。じゃーたべよ~」未希はとても嬉しそうだ。それはいいのだけど。

「うん。いただきます」僕と未希は、手を合わせた。

 包みを広げてフタを開けると、中身はがっつり系の生姜焼き弁当だった。これはこれで、とても美味しそうなんだけど、ちょっと意表だった。もうちょっと女の子らしい内容だとばかり思ったんだけど。

 肉を一口かじると、男の舌を刺激する旨味たっぷりな豚の脂と濃厚なたれが、早く米を寄越せとばかりに主張してくる。要望どおりに白米を頬張るとたまらない快感が口いっぱいに広がって、そのまま飲み下すのがもったいないくらいだった。それなのに、箸がどんどん肉も米も突っ込んでしまうので、あっというまに完食してしまった。

「ふふん」未希が勝ち誇ったような顔で僕を見ている。

 そうさ。僕は完敗だよ。というか、お代わりが欲しいよ。もっと食べたい。こんなに食が進んだのは何年ぶりだろうか。姉さんを失って以来、あまり食事がおいしいと感じられなくなった。(ただしスイーツは大丈夫なようだ)

「ものすごくおいしかったです。また作ってください未希さん」

 僕はごちそうさまも言わずにリピート宣言をしてしまった。なんて奴だ。

「ふっふっふー。これお兄ちゃんも好物なんだよねー。絶対玲央兄ちゃんも喜ぶと思ったよー」

 なるほど。これは常備菜だったのか。

「ねえ、普段からあいつに弁当作ったりしてるの?」

「うん。前はお母さんが作ってたんだけど、高校行くようになって、自分のお弁当と一緒にときどき作ってるよ」

「なるほど。それで手馴れていたんだね」

「えっへん。じゃあ、また今度ね」

「ありがとう! 今日はごちそうさま、みーちゃん」

 僕が大喜びしたので、未希はご満悦だ。実際にすごく美味かったんで、近所で営業してたら毎日通ってるところだ。参ったな。僕は胃袋まで未希に鷲掴みされてしまった。

 食後二人で弁当箱を洗っていると、未希が嬉しそうに言った。

「新婚さんみたーい」

 うお、その発想はなかった。

「え……そう、だね」

「結婚したら、未希ここに住むの?」

「うん……まあ……そうなる、かな。この物件を売ってどっかに引っ越さなければ。でも住むにはちょっと不便だと思うけど」

「買い物なら自転車で代々木八幡とか上原とか下北沢とか池尻大橋に行けばいいじゃん」

「自転車……その発想はなかった。代々木八幡の業務用スーパーまで、叔父さんの食材買い出しに何度も付き合って行ったことあるし、下北とか池尻なら大きいスーパーや百均もあるから生活必需品は揃うと思う」

 ――まて。この子はそこまで読んで下調べしていたというのか。未希、恐ろしい子。

「そういえば玲央兄ちゃんにあんま自転車乗せてもらったことない」

「ないだろうなあ。僕は運動神経が死んでるから、怖くて人なんか乗せられないよ」

「え~、乗りたかったな~」

「道連れにしたくないんだけど。有人でガマンしときなさい」

「ちぇー」

 食後で頭の回らなくなった僕は、ラノベアニメの観賞会を始めることにした。原作既読の上での視聴であれば、未希にも何がしか得るものもあるだろうし、お互いに感想や考察を述べ合うことで彼女の学習にプラスが見込めるからだ。

 ネットの配信サービスが視聴できる大型テレビの前に陣取った僕は、未希にリモコンを渡した。

「みーちゃんが持ってきたラノベのアニメ化されてるやつ、みんなブックマークに入れてあるから好きなの選んでね」

「玲央兄ちゃん流石すぎでしょー」

「僕を誰だと思ってるの。本当ならアメリカでバイオテクノロジーの研究者になってた男だよ?」

 コップにジュースを注ぎながら、ちょっとドヤってしまった。これが失言だったと気づくのに一分もかからなかった。

「じゃあなんで作家になったの?」

「あー……成り行き?」

 本当のことなんて言えないよ、未希。姉さんを失って、アメリカにいる理由がなくなったからだなんて。

「ふうん。じゃーいつか教えて」

 見透かされてた。まったく女の子ってやつは……怖い。

「はいはい」

「昔は玲央兄ちゃんとよくアニメ観てたよね」

「そうだね。懐かしいな」何を観てたかぜんぜん覚えてないけども。

 彼女の子守りをしてたとき、夕方になると子ども番組を見せていたっけ。おやつとテレビを与えておけば大人しいので、そのスキに僕は勉強をしていた。短時間での詰め込みが得意になったのは怪我の功名か。

 ジュースを入れたコップにストローを差し、袋菓子を開封してソファ前のローテーブルに並べた。カウチポテトの準備が揃ったところで未希が選んだアニメは、都市伝説でスパイスを利かせた学園ラブコメだった。未希は怖がりだけど、こんなの観て大丈夫なのかな……。

 二話観終わったところで、

「玲央兄ちゃん……お手洗いついてきてぇ……」

 ほれ見たことか。ジュースを飲み過ぎてトイレに行きたくなったのはいいけれど、その場所がさっきの怪談話に出てきた廊下の奥だ。怖くて一人で行けなくなってる。仕方ないので付き添って、パチパチと廊下の電気を点けてやる。

 トイレに到着すると未希が、

「もういいから」

「いや、待ってるよ」

「いいってば!!」

「だって怖いんでしょ?」

「もー! あっち行って!」

 せっかくついてきたのに、用済みとばかりに追い返される。このまま粘って漏らされても困るので、渋々リビングに戻ってきた。

「――あ」僕は追い返された理由に気が付いた。

 なるほど。用足しの音を僕に聞かれたくなかったのか。

 僕はついうっかりしていた。彼女は幼女ではなかったのだ。

 赤ん坊の頃から子守りをしていた僕は、保護者目線で物を考えていたわけで。確かに夕樹乃さんに同じことをするかと言われれば絶対しないな。

「おかえり」

 トイレから帰ってきた未希は、ムスっとしながら僕の股の間にちょこんと座った。

「む~~~~~」

 未希が唸っている。これは甘えたい時の鳴き声。

「はいはい」

 僕は頭を撫ででやると、腹に腕を回した。ひらたく言うと抱っこである。怖いからホールドしててほしいのだろう。僕はリモコンで、一時停止していた動画を再生して、彼女の肩に顎をのっけた。


 いきなり降って沸いた女子高生彼女が未希なわけだけど、僕と彼女が一緒に過ごした時間を計算すると、彼女が記憶している期間は物心ついてからの四年間くらいだろう。そこから八年間のブランクを挟んでいるので、どうしたって今と昔の振る舞いが混在してしまう。だからといって無理に卒業するのもさせるのも不自然だと思うし、特に誰かに迷惑をかけてるんじゃないのだから、もうこのままでいいんじゃないかと思ってる。どうせ子ども扱いも保護者扱いも、ほっとけばそのうちなくなるだろうから。あ、子ども扱いはもうちょっと続きそうだな。とにかく、僕らの関係性が二重構造なのは僕ら特有なのだから、いまのところ他に合わせる必要はないってことだ。だから僕は未希を猫っ可愛がりするのをやめない。……有人に怒られない程度には。


 きりの良いところまで数話視聴したあと、未希と少々ディスカッションを試みたが、怖いしか言わないので失敗だった。仕方ないので、僕の感想をあとでまとめておくことにした。そんなもの、何の役に立つのか正直分からないのだが、参考になればいいかなと。

 僕らはダイニングテーブルに移動して、小説の作業に戻った。今度は、コピー紙毎に集めたカードを後で移動できるようにマスキングテープで固定し、「箱書き」と呼ばれる小説の下書きを書くために使えるよう、さらに細かいチェックを始めた。慣れてくればそこまで細かく決めたりカードを使ったりしなくても箱書きくらいは書けるようになるが、未希は初心者なのでなるべく失敗のないよう事前準備を徹底している。


 本来なら好き放題に書かせるべきだとは思うのだが、彼女が狙う新人賞――先日遊びに行った編集部の――には〆切がある。間に合わなければスタートラインに立つことすら出来ない。ならば厳しいようだが最速最短で完成させるしかないのだ。まあ、ぶっちゃけ僕と同じ出版社からデビューしたい、という未希の単なるわがままなのだが、たとえ初回は落選したとしても、試行回数は増やすに越したことはないので直近の〆切に間に合わせる方針は変わらない。僕は何度でも何年でも彼女が飽きるまでは付き合うつもりだ。


「れ、山崎先生しつもん」

「なんですか、神崎未希さん。というか玲央兄ちゃんでいいでしょ」

 別に強要してないんだけどその山崎先生呼びはちょっとなんかイヤ。

「なんとなく、師匠っぽいかなと」

「僕の肩書増やすのやめて。ただでさえ複雑なんだから僕ら」

「はーい、玲央兄ちゃん。書いてる途中でセリフとか思いついた時はどうするんですか」

「いい質問です。思いついたら全部記録しましょう。体裁はなんでもいいです。後で本文を清書する時に使うので、どこの場面か分かるように保存しておきましょう」

「はーい」

 ほう。ストーリーの解像度が上がってきてるんだな。なかなか筋がいいぞ。

「箱書きを作るときにも、セリフとか地の文とか思いついちゃったら、とりあえず一緒に書いておこう。あとで使うから」

「おけまるー」

「ストーリーの骨組みを作り、おおざっぱに肉付けをしていると、時々登場人物の会話や具体的な場面や動き、地の文などが脳に浮かんでくることがあるんだ。全部の部分をコレで埋め尽くすと、小説が出来上がる。だから、貴重な「浮かんだもの」は出来るだけ記録しておいた方がいいんだよね」

「なるほどー。プロットとかから、どうやって小説にするのか今わかったよ~」

「プロットとかはストーリーの流れの下書きみたいなもので、今のみーちゃんみたく、登場人物のセリフは清書した文章に出てくる部分なんだよね。下書きの時は遠くから眺めてたカンジで、映像の解像度が低い。清書のは直接目の前でキャラたちを見て描写するイメージ。近くで見るから映像の解像度が高い。みたいな。伝わるかなあ」

「なんとなく。解像度……かー」

「うーん……そうだな。衛星写真ってすんごい遠くから撮影してるから、人とか見えないよね。でもすんごい拡大すると人とか車とか見えるようになる。この見えるようになったのが、「解像度が高い」って僕は呼んでるんだ」

「あーあーわかった! なるほどねー。さすが玲央兄ちゃん。わかりやすい~」

「いやさすがにこれは……分かりやすく説明出来た自信ないな。みーちゃんの理解力がすごいんだよ」

「そうかなー」

「本って、解像度が一番高い状態で文章が書かれてるから、みんないきなり高い解像度で書こうとするんだよね。でもすごい大変じゃない。絵だっていきなり紙のはじっこからプリンターみたく完成した図を書き込んだりしないじゃん。ラフスケッチとか下書きとかするじゃん。文もそういう風に書かないと、たいがいの人は完成出来ないんだ」

「未希もいきなり書くのかと思ってた」

「じつは僕も。いきなり本文を一発書きなんて文豪じゃあるまいし、そういうのは一部の天才がやることだよ。だから、凡人のぼくらは、下書きもラフも、プロットも箱書きも、いくらでも間違えていいし書き直していい。人物画を描くとき、下書きの段階で手足がおかしかったら、そのまま清書しないで、いったん下書きを消して、正しいラフを描いて、下書きを描いて、それで清書するでしょう。文章もプロットや箱書きがおかしかったら、何度でもやり直せばいいんだ。だから最初から上手に書こうとしなくていいんだよ」

「おけまるーおけまるー。つまりガンガン書けばいいんだね!」

「そゆこと。フォローは僕がするから安心してやるといいぞ」

「はーい」

「ところで……家には小説を書くためのパソコンとかあるかい?」

「え、スマホで書くんじゃないの?」

 あちゃー……。これは想定外だった。

「長編書くならパソコンないとつらいなあ」

「えー、どうしよう……持ってないし」

「大丈夫。僕のお古をあげるよ」

「ホント? やったー!」

「出来れば新品を買ってあげたいんだけど、また有人に怒られちゃうからさ。OSやソフトを最新版に入れ替えたりするから、明日以降に店へ取りに来て」

「ありがとう~! 玲央兄ちゃん」

「みーちゃんに有効利用してもらえてパソコンも喜ぶと思うよ」

「家宝にするね!」

「いやいや、そこは使おうよ……」


 本当に不思議なんだけど、ただの情報だったストーリーやキャラクターが、いつのまにか自分でしゃべったり動いたり、あるいはそういう場所というだけの情報が、明確な情景を持ち始めたりする体験は、小説を書いたことのない人には理解し難いものかもしれない。

 ものすごく想像でしかないのだが、きっと物語に必要な材料を脳に入力すると、バックグラウンドで世界や人が構築されて、ある日を境にAI制御のMMOのように動き出す。脳の不思議としか言いようがないのだが、でもそうだとしか言えない。

 これを一次元の文字情報に圧縮して書き連ねていくのが作家の仕事で、読者はその文字情報を己の脳内にある解凍ソフトに入力して解凍し、脳内のグラフィックカードで再生して楽しむわけだ。

 この解凍ソフトやグラフィックカードの性能に個人差があるから、読み取れる内容にも個人差が出てしまうのは致し方ない。本を読み慣れていない若年層が対象のライトノベルにおいて、その差を少しでも埋めようと用いられるのが、美麗な表紙や追加情報と情景を描いた美麗イラストや地図などの図版やキャラクター設定や挿絵である。ぶっちゃけ僕の本にもそういうのが欲しいんだが……ダメなのかな。西沢先生は描いてくれる気マンマンなのだが。


「お話しを作るっておもしろいね!」

「そっか。未希が楽しんでやってるなら、僕はうれしいよ」

「未希がんばる! 玲央兄ちゃんとコラボするんだ」

 え! そんなことまで考えてるのか。マジで驚いた。

「そ、そうだね! 楽しみにしてるよ」

 コラボかー……。何すりゃいいんだろう?


 日暮れ近くになって有人から電話がかかってきた。道も混むだろうから、前もって迎えにいく時間が知りたいとのこと。彼らの家の夕食時間を考えると、そろそろ未希を帰した方がよさそうなので、すぐに来いと返事をした。

「みーちゃん、そろそろ晩御飯の時間だから帰る準備して」

「はーい」

 彼女は紙やら筆記用具やらをリュックに詰め始めた。僕は残ったおやつを弁当の入っていた手提げ袋に入れた。もともと未希のために買ったもので、僕はあまり食べない種類だったから、お土産に持ち帰ってもらった方が僕も助かる。

「玲央兄ちゃん、今日はありがと~」

「こちらこそ。お弁当おいしかったよ。またご馳走してくれる?」

「うん! 嫌いなものとかアレルギーとかある?」

「特には。好き嫌いもないよ」

「おけまるー」

 上着を着てリュックを背負った未希が僕に抱き着いてきた。

「帰るから……して」物欲しそうな顔で至近距離から僕を見上げる。

「なにを」分かってるくせに言う僕もたいがいだ。

「時間ないしー」

「わかったよ」

 僕は未希を抱きすくめて唇を貪った。もう軽いキスだと満足できないのはお互い様だ。彼女も僕の首に手を回して唇をぐいぐい押し付けてくる。帰り際にこんな熱いのを交わしてしまったら……なんて後先を考えてしまうのは、僕も年なのかな。しばらく玄関先で舌を絡め合っていると、階下からのインターホンが鳴った。

「もう着いたのか。気の利かない奴だな」

「だよねー」

 僕は手の甲でよだれを拭うと、訪問者に返事をし、オートロックを解錠した。


 自宅玄関で未希と有人を見送った僕は、今まで未希に感じたことのない喪失感にやられて、その場に立ち尽くしていた。正直自分でも驚いている。少しは未希に恋、できたのかなと。いや、でもまだその域には達してはいないだろう。そこまでではないと。


 僕には確信がある。本当に未希に恋焦がれているのなら、有人に肩を抱かれて連れ出される様を冷静に見ていられるはずがない。それが姉や夕樹乃さんであったなら、絶対に取り乱す自信がある。ならば一体何が違うのか。

 未希と、姉や夕樹乃さんとの決定的な違いは何かを考えてみる。

 未希は自分に恋しているけど、自分は未希に恋していない。いやゼロではないのだろうけど現在はまだ恋心はわずかで、ただ浮かれてただけ、実際には家族愛と愛玩対象への愛と劣情で構成されているように思う。

 僕は、劣情だけで今の未希に接するのはどうにも不誠実だと感じてしまう。不誠実だとは分かっているが、欲望に抗えない。とはいえ合意どころか彼女の家族が総出で僕とくっつけようとしている。だから不誠実ではないのだろう。でも、不誠実だという気持ちが拭えなくてどうすればいいのか……わからない。家族として愛しいし、愛玩動物的に可愛いし、やっぱり食べてしまいたい。

 姉さんはどうか。家族としても愛しいし、恋人として惚れているし、食べられたい。夕樹乃さんは、仕事相手として誠実で信頼してるし、恋人として惚れてるし、食べたいし食べられたい。

 ふうむ……。恐らく、惚れている、という点がキーポイントなのだろう。自分が惚れていないのに食べてしまうのは、不誠実ではないかと僕自身が思っている、ということになる。しかし、惚れていなかったとしても、お見合い結婚とか、何か事情があって(たとえば余命がないなど)頼まれて抱くとか、そういうのは筋は通っていて、かつ不誠実ではなさそうだが……。

 では未希とは何故不誠実だと感じてしまうのだろう。あれだけ強く望まれて交際を始めたにもかかわらず。何故だろう。それは一体……?


 姉を奪われ喪失感に苦しんだ八年間。

 夕樹乃さんが愛しくて手を伸ばしても届かず苦しんだ四年間。

 未希の幼少期、共に過ごした八年間と、僕の知らないところで育てられた八年間。


 ……そうか。未希は子どもとしての付き合いが長かっただけで、想う対象としてはゼロ年だ。もしかして、ここに秘密があるのかもしれないが、これは検証しなければ分からないな。検証……それはつまり、恋人としての経験を積み重ねることだろうか。イベントを? エピソードを? 自分のことになると、てんで分からない。

 頭が煮えてきたので、未希にプレゼントするPCの準備でも始めよう。

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