似非作家とワナビ少女と作家に恋する編集さん

東雲飛鶴

ワナビ少女と美人担当さん

第1話 従妹、襲来

【縦書き推奨です】



 ――あれから、僕は何事もなく二十六歳になっていた。

 いや、むしろ色々あったというべきなのか。


 八年前のあの日。


 姉の政略結婚が行われることを、留学先のアメリカで知った僕は、研究も論文も何もかも放りだして日本に文字通り飛んで帰り、しかし姉を救うことも出来ずそのままアメリカに戻った。


 卒業後、帰国し四年経つ。


 それ以来、ずっと叔父の世話になっていて、しばらく居候をしていたが、近所にマンションを購入してからは一人暮らしをしている。


 今の僕は、神崎玲央れおの名を捨て、陰気で痩せぎすな容姿も捨て、明るく知的でオシャレな都会の知識人、マスコミに祀り上げられたベストセラー作家、山崎玲央として生きている。


 こう見えて、売れっ子だ。



     ◇



 二〇××年 四月。


 駒場の駅ちかくに、叔父の経営する喫茶店がある。僕はそこで、朝から小説の〆切と格闘していた。

 僕は店の一角をコワーキングスペースとして借りており、いつもそこで執筆作業を行っている。


 いま書いている新刊の原稿は、最終章を残すだけとなった。がんばれば今日中に終わる……はずなんだけど。


 この時期は花粉で目がかゆくなるから、作業が遅々として進まない。

 細いメタルフレームの眼鏡をちょいちょい押し上げては目をこすっている。こすりすぎるとまた、僕の愛しい担当さんに怒られる。


 ああ、花粉なんかなくなればいいのに……。

 そんな春の昼下がり、僕は恐ろしい出来事に遭遇した。


怜央れお兄ちゃん、ベストセラー作家なんだってね」

 背後から、知らない女の子が耳元でささやく。

『作家』――その言葉に僕は戦慄した。


 ちょ、ちょっと待て……。

 ごくわずかな人間しか知らない、その秘密を何故…………?


 ノートPCのキーを叩いていた僕の指が震える。

 怖くて画面から目を離せない。

 この席の椅子は背もたれの高い、ファミレスのようなベンチシートだ。僕はいつも店の入口に背を向けて座ってるから、背後からは死角になる。

 それゆえ、誰かが近づいてきても気づかないことが多いのだけど、この子は一体?


「ねぇ、ラノベの書き方おしえてよ~」

 今度は声がななめ前方から聞こえてくる。

 後方から回り込んできたのだろう。

 僕の背中を冷たい汗が流れる。

 どこからともなく漂う、いい香り。花のような……桜?

 ふと顔のそばに気配を感じて、ノートPCの画面から恐る恐る視線を上げる。

 と、そこには目をきらきら輝かせて、僕を覗き込む、十代半ば位の美少女の笑顔があった。

 ――息がかかるほど近くに。


「怜央兄ちゃんったらぁ」

 彼女は愛くるしく大きな瞳で、僕をじっと見つめる。

 時折、髪の毛を揺らしながら小首をかしげ、僕の返事を待っているようだ。一体彼女は誰なんだ? ファンにしてはおかしいし……。

 こんなにかわいい女子高生の知り合いは、僕にはいない……はず。

 ましてや馴れ馴れしく『怜央兄ちゃん』などと呼ばれる覚えも、

 …………ない?

 ……本当に?


 僕は、かつて自分をそう呼んでいた人物を、記憶メモリーから高速で検索した。

 【該当:一件】


 確信は持てなかったが、他に心当たりもなく。

 僕は目の前の女子高生に、こわごわ声をかけてみる。


「もしかして君、――未希みき……ちゃん?」

「もしかしなくても未希だよ、怜央兄ちゃん! ひさしぶり!」

 嬉しそうに言うと、彼女は勢いよく僕の首に抱きついてきた。


 従姉妹の未希だったのか……。

 びっくりした。それにしても大きくなったなあ。

 実の兄よりも未希に懐かれてる僕は、赤ん坊の頃から八歳になるまで、彼女を実の妹のように世話をしていた。妹が欲しかったのもあるけど、僕は陰気で友達がほとんどいなかったから。

 彼女の兄や僕の姉は友達と遊ぶのに忙しくて、幼い未希と遊ぶのはいつも僕だった。だから一番僕に懐いているのも当然で、留学の際は大泣きして引き留められるのは間違いなかったから、可愛そうだけど僕は黙って渡米したんだ。


 未希だと言われてみると、確かに目元には彼女の兄、有人あるとの面影がある。ショートボブの柔らかそうな髪。未希はシャンプーの香りを漂わせている。そうか、さっきの桜の香りの正体はこれか……。

 そんなことを考えていると、未希は子供の頃のように柔らかい頬を僕の顔にムニュっとすりつけてきた。痛くはないのだろうか、と心配になる。というのも、今の僕は〆切前で無精髭を伸ばしたまま。こんなことなら髭くらいちゃんと剃ってくればよかった。

 なんとか引き剥がそうとして彼女の腰に手を添えると、制服を通して伝わる彼女の体温は、久しく人肌の恋しい僕にはひどく刺激が強くて……。

 気が付けば、僕の心臓は早鐘を打ち、息は心なしか荒くなっていた。


 女子高生の未希なんて、僕にとっては正直別の生き物だ。

 恥ずかしながら僕は姉さん以外の女性を知らない。知らない、というのは恋人という意味だ。つまり僕と姉さんは……そういうこと。

 留学先で挨拶代わりのハグをしたことを除けば、こうして女性と抱き合ったこともない。偉そうに言えることではないのだが、有り体に言えば女性に対する免疫が極度に低い。ぶっちゃけ中学生レベルだ。僕の担当である女性編集者さんに慣れるのにも、かなり時間がかかったくらいだ。

 うっ……。

 このまま密着してたら、僕がドギマギしてるのが全部未希にバレバレになるじゃないか。こんなところを担当さんに目撃されたらと思うと気が気じゃない。

 ――ちょっと、いやかなりマズいのでは??


「玲央兄ちゃん、会いたかったよぉ……」

 未希が僕の胸に顔をうずめる。甘え方も小さいころと同じだった。

「なんでとっくに日本に帰ってきてたのに、お家に戻ってこなかったの? 未希ずっと玲央兄ちゃんのこと待ってたんだよ?」

 未希は顔を上げると、涙を溜めた瞳で責めるように僕を睨め付ける。

 恨み言のひとつも言いたげな表情だ。彼女に黙って日本を発って、戻っていたことを怒ってるのだろう。

 そのまま僕のことなんて忘れていると思ったのに。

 こんなことになっていたなんて、知る由もなかった。

 僕をずっと待ってただなんて。

 そんな……。

「ごめん……色々あって」

 僕はそう小さく呟くと、八年ぶりの「ゴメンのキス」を彼女のおでこにしてやった。申し訳ない気持ちが沸いてくると、ほんの少しだけ劣情が薄くなった気がした。

 すると未希が、いつのまにやら膝の上に乗って抱きついている。それはそれは愛おしそうに僕にスリスリしながら……膝?

 っておい!

「え……と。あの……みーちゃん、さぁ……」

 遠ざかりかけた劣情が回れ右をして戻ってきた。ビシっと彼女に苦情が言えない自分が、もどかしくも情けない。

「ごめん……みーちゃん、降りて」

 いつの間にか僕の膝上に陣取る未希。

「なんで? ここ未希の場所じゃん」

 彼女の声が怒っている。

 確かに八年前まではそうだった。

 毎日のように抱っこをしてやってたから。でも今はもう。

「あの……」僕は少し言い澱みつつ、「……恥ずかしいからどいて」

「え。なにが恥ずかしいの?」

 未希は不思議そうに訊いた。

 それを、僕に言わせますか? なんて無体な……。

「どうしたの? 怜央兄ちゃん」

「うう……」

 僕は意を決した。

「もう降りなさいっ、みーちゃん!」 これ以上刺激されたらたまらない。

 僕は彼女を抱き上げて膝から降ろし、脇に座らせた。

「やだ~、降りたくない~ぬいぐるみするの~」

 未希は身をよじって駄々をこねている。でも、ぬいぐるみって? まあ、いいや。

「みーちゃんはもう大きいんだから、お膝はないないです!」

 いつまでも幼少時のつもりで懐かれていたら、とてもじゃないがこちらの身がもたない。未希に最後に会った時は幼い少女だったのに、まさかこんなにかわいく成長していたなんてマジでかんべんしてほしい。

 こんな、こんな美少女、誰だってきっと、いや絶対に――。

 あ……そうだ。

 彼女のふんわりやわらかな感触に、うっかり大事な事を忘れる所だった。

 僕は、小悪魔の誘惑を振り切るかのように首から彼女を引きはがし、精一杯平静を装いつつ尋ねてみた。

「僕が作家だって事……なんで知ってるの?」

「えっとー……」彼女はちらとカウンターを見やった。

「あー…………なるほど」

 その視線の先にいる、この喫茶店の主――叔父の文雄をじろりと睨むと、彼は目を逸らしてカウンターの下に隠れてしまった。

 この件に関しては、後でみっちり尋問しなければ。

 とにかく、バレてしまったものは仕方ないとして、これ以上機密情報の拡散は是が非でも防がなければなるまい。

 ベンチシートなのをいいことに、未希がいつのまにか華奢な体を僕に密着させて、細い腕を僕の腕に絡ませている。

 僕の心臓は相変わらず跳ね回っているし、頭はパンク状態だ。

 理性? ああ、普段の僕なら決して手放さない必需品だったはずだが……。はて、今はどこのコンビニまで出かけているのだろう?

「で、ラノベの書き方教えてくれないの? 怜央兄ちゃん」

 そう言いながら、小鳥のように首をかしげて僕の顔を見ている。

 未希、そんな目で僕を覗き込んでも……だ、だめなんだぞ? 


 昔、僕が彼女にとても甘いのを分かっていて、未希は僕にあれこれお願いをしていた。お菓子を買ってとか、どこに行きたいだとか。度が過ぎることも多く、あまり甘やかすなと彼女の兄にもよく注意されたものだ。

 だけど今回ばかりは全力で抵抗させてもらうぞ、未希。僕には〆切があるんだからな。原稿を飛ばしたら、愛しい担当さんを悲しませてしまう。

 僕は必死に平静さを保とうと努力するのだが、すでに己の目は左右に泳いでいる。


「そもそも、何でラノベ書こうと思ったの?」

 僕は書きかけの原稿データを保存しノートPCの蓋を閉じると、テーブルの向こうに押しやった。もう作業なんかやってらんない。パニックだ。

「作家さんになりたいから」

 なん……だと?

「みーちゃんはプロを目指してる、ってことでいいのかな」

「うん、そう……だよ」照れくさそうに自分の指をいじっている。

 えええ……。

 やめてくれ。身内に作家なんぞ増やしたくもない。

 しかも女子高生だぞ? あんなひどい目に遭わせてなるものか。

「ねぇ、なんでプロになりたいの?」

「怜央兄ちゃんがやってるから」

 え? な……に?

 何だって?

 理由が、僕が作家だから?

 僕は一抹の不安を覚えた。出来れば一過性であって欲しい。

「で、でも僕の書いてるのは普通の小説で……」

 これは最悪の展開だ……。

 全く理解不能だ。思いつきよりも始末が悪い。

「うん、だからラノベなら未希でも書けそうかなって思って」

 ちょっと待ってくれよ。どういう意味だ?

 だめだ。本格的にマズい。

 完全に僕の処理能力を超えた事態が、いま目の前で発生している。

 このままでは確実に〆切に間に合わなくなる。

 ああ、何とかしなくては、何とか……。

「み、みーちゃん、僕ラノベって読んだことないんだよね。だから……」

 と言い訳が終わらぬうちに未希が「あ、ここにあるよ!」と、カバンからテーブルの上に大量のラノベをバラバラとぶち撒けると、彼女は楽しそうにどんどん高く積み上げていった。

「ああぁぁ、ちょっと。そこの資料のコピーまでぐちゃぐちゃにしないでくれよ、それまだこの先使うんだからー」

 なんかえらいことになってきたぞ。どうしよう……。

「だいじょぶだいじょぶー」

 得意げに文庫本をうずたかく積んでいく未希。

「え……ちょ、ちょちょちょっと……崩れちゃうよ~」

「こんだけ資料あればいいよね!」と、積み上がったラノベの塔を前に満面の笑みで力強く言う。

 事態はますます悪化していく一方だ……。

 マジでどうしたものか。

「いいよねって……みーちゃん」

 普段、大物作家を向こうに張っている僕が、今は女子高生にいいように翻弄されっぱなしになっている。……我ながら、なんとも情けない状況だ。

 気が付くと、目の前のラノベの山は五十センチほどの高さにそびえて、少しの振動でも与えればいつ倒れてもおかしくない状況だ。

 見れば蛍光色やビビッドカラーのカラフルな背表紙が地層を成し、様々なレーベルから集められたことを物語っている。地味な色彩の僕の本とはえらい違いである。だからといって、派手にしたいわけじゃないんだが。

 とりあえず僕は、我が領土たる卓上の大惨事を未然に抑えるべく、高速で文庫本の塔を分割したのだった。

「玲央兄ちゃんが作家だってお正月に分かってから、未希にも読めそうなの集めたんだよ! 受験終わってから一気読みしたんだ~」

「え! 終わってからって――この二か月くらいでこんなに?」

「うん!」

 なにかさらっと、とんでもないことを言ったぞ。

 たった二か月で読める量なの?

 僕なら可能だが高校一年生の女の子がこの量をか?

 ……いや、そんなことを気にしてる場合じゃない。

 とにかくこの場は、彼女を説得しないと僕の身が危ない。

 多分〆切に間に合わなくなる。

 めまいと頭痛と劣情に耐えながら、僕は最後の気力を振り絞った。

「みーちゃん、聞いて。僕は今までラノベなんて読んだことないし、読んだところで正直君の役に立てるか自信がないんだ。たしかに僕は濫読家と言えなくもないけど、一般文芸や純文学、ミステリーにSF、ファンタジー、仮想戦記、ホラー……まあラノベは含まれてない。漫画は読んでるからラノベに近いかもしれないけど……。えーっと……。その分じゃ僕の本を読んだことないんだろうけど、書いてるものはラノベと全然違うし……」

 我ながら、歯切れの悪いことこのうえない。

 グダグダすぎる。頑張れ僕。

「お兄ちゃんの本読んだことないよ。でも小説だから一緒でしょ」

 痛いほど完璧すぎるほどの返しだ。

 こういう手合いには何を言っても無駄だ。

 激しい脱力感を下さるお言葉に、僕の気力がごりごりと削られていく。

「一緒じゃないってば。……とにかく、僕に出来るのは文章の体裁を指摘することくらいだ。しかし、それがラノベで通用するかどうか、僕には分からないんだ。だからいま僕から習うことは、とてもお薦め出来ないんだがね――」

 正直僕は自分の文章に全く自信がない。修行もせずに作家になってしまったから。

 僕の駄文を読んでいる人たちは、どうして作者に苦情を言ってこないのだろうか? お金を払っているんだから、もっと言ってくれても……と思うのだが。ついでに担当さんも、あんまり文句は言わない。不思議だ。

「それでもいいから! ね! ね!」

 くそ、こっちの攻撃が全く通用しない。理屈じゃだめならもうヤケだ。

「もう、かわいく言ってもダメ! 僕は〆切で忙しいんだから諦めろ!」

 よし、ちゃんと言えたぞ! よく言った玲央! これで引き下がってくれれば。

「だーめぇ~?」

 逡巡する僕の気持ちなんか全くお構いなく、未希は潤んだ瞳で僕の目を見つめ胸をぐいぐい腕に押しつけて食い下がってくる。わざとか? それとも天然?

 小さい頃のつもりで懐いてきてるようだが、なんて卑怯な攻撃なんだ!

 おかげで僕の顔はさっきから赤面しっぱなしだ。

 こんな奥手をいじめないでほしい。


 仕事の邪魔をされたくない、というのが本音だったが、自信の持てない事に手を貸す行為自体もポリシーに反するので、全力で断わってみる――。

 が、僕の言い分を華麗にスルーし、あくまでも強引に、まるで開国を迫るペリーの如く己の要求を通そうとしている。


 自分の〆切を目前に控えた僕に、神はなんて残酷な仕打ちをするんだろうか。これは僕への罰なのか? ならば、もうちょっとそれらしいのにしてくれればいいのに。

 そもそも、僕がこの大量の『若年向け中二病推進大衆萌え小説』を読破するのは、最早決定事項なのか?


 そして理性がお留守の僕に、トドメの一撃が打ち込まれた。

 ――『かぷっ』と未希が僕の首筋に甘噛みをした。

 ぁ……。

 思わず吐息を漏らしてしまった。

 未希の目は、獲物を狙うハンターのソレだった。

 うっ……、だめだ……。

 もうどうにでもなれ。

 僕は降参した。


「……それじゃぁみーちゃん、ホントに手直しするくらいしか出来ないけどいいかい?」

 あ~あ……。

 やってしまった。まさか引き受けてしまうなんて…………。

「うん、それでもいい! やった!」

 嬉しそうにぎゅっと僕の腕を抱きしめてくる。

「ところで玲央兄ちゃん」

 未希が僕の髪を珍しそうにもてあそんでいる。

「髪、すごい伸びたね。もしかしてアメリカ行ってた間もずっと伸ばしてた?」

「そう……だね。うん、伸ばしてたよ」

「どうしてとっくに日本に帰ってきたのに教えてくれなかったの?」

 未希が淋しそうな顔で言った。

「それは……忙しくてつい。ほら、僕まだ学生の時にデビューしちゃったからさ、日本に戻ってきてからも色々と大変だったんで……」

 ――嘘だ。僕は出来るだけ身内には顔を合わせたくなかった。この店にいる、身元引受人の叔父を除いて。特に、君の兄には会いたくなかったんだよ、未希。

「ふ~ん……そうなんだ」とりあえず、今の説明で納得したようだ。

「みーちゃんは今年から高校?」

 未希の真新しい制服が、初々しさを感じさせる。

「うん、このすぐ近所だよ」

 え、ちょっと待て。ということは……しょっちゅう来る気だな?

 どおりで制服に見覚えがあると思った。やや難しい学校だったはずだけど、未希はお勉強が出来る子に成長したのか。ちょっと胸熱。

「そうなんだ。おめでとう、みーちゃん」

「ありがとー。ねえねえ、制服みてー」

「うん、よく似合ってる。かわいいよ、みーちゃん」

 えへへー、と嬉しそうに未希が笑う。

「玲央兄ちゃんどこに住んでるの? 近くだよね?」

 叔父さん、そんなことまで漏らしたのか。参ったな……。

「まあ、近いけど」


 今の住まいは、叔父の店にほど近い場所に建つ分譲マンションだ。

 実家に戻らなかったのは、とても一人であの「惨劇の舞台」となった家に住む気にはなれなかったからだった。

 未希は、気づいたら僕の家から誰もいなくなって寂しかったと言っていた。

 最初は自死した母、次に留学した僕、そして政略結婚で家を出た姉、最後に入院したのち死亡が、あの家を後にして空っぽになったんだ。子どもだった未希が得心しなかったのも無理はない。

 父の亡き後無人となった僕の実家は、姉も僕も使わなくなったまま隣に住む未希の両親に管理を任せたきりになっていた。相続したのは僕だけど、住む気もないから、そろそろ売却してもいいかもしれない。


 僕らは、しばらく会わなかった間のことを(ほとんど一方的に未希が)話した。

 そうそう、大事なことを忘れるところだった。

 僕はわざと声を低くして、

「ひとつ約束して欲しいことがあるんだ」

「なぁに?」未希まで小声で返事をした。

「僕が作家をやってるってことは、誰にも言わないで欲しいんだ。守れる?」

 僕は、人差し指を口元で立てた。「うん、守れる。……でも、それだけ?」

「それだけ」

「やった! ありがとう」再び未希が嬉しそうに首に抱きついてきた。

 今は他に客がいないからいいが、十も年上でなおかつ〆切前のむさくるしい状態の僕じゃ、端から見たら援交まがいだ。おまわりさんここですー的な状況は、是が非でも避けたい。せめて無精髭を剃って、腰まであるもつれまくった長髪をかさないことには、今の僕は全く見られたものではない。


 キリの良さそうなところで彼女の話をぶった切ると、僕は未希を追い出すことにした。

「とりあえず今日は忙しいからまた会いにきて。資料はあとで読んでおくから。で、何か書けたら持ってきて。それでいいかな」

「わかった~。じゃ、またあした来るから。お仕事がんばってね~!」

 はーい、がんばりまーす。と気の抜けた返事をする。

 でも今日はもう仕事にならないな。

 彼女への対応で、僕の気力ゲージがごっそり削られてしまったから。

「みーちゃん、気をつけて帰るんだよ」と、僕はなんとか大人らしく取り繕ってみた。

「うん。じゃあね、玲央にいちゃん」

 未希は去り際に僕の頬にキスをして、店を出て行った。

 え…………?

 数年来味わっていなかった柔らかな感触に、僕は惚けていた。

 テーブルの上に桜の花びらが載っていたことに気づいたのは、未希が帰ってしばらく経ってのことだった。

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