終章

翼を持っている






 水底で溺れているような感じがする。深い深い水の中、誰かが翼妃を呼んでいる。目を開けると眩しい光が見えた。水の外から差し込む光だ。その光へ向かいたいと思うのに手足が動かない。

 その時、二体の龍が、水の底から翼妃の背中を押した。


 次に見えたのは見知った天井だ。水の中よりも体が温かい。翼妃は布団の中にいた。



「翼妃様……!? 翼妃様っ!」



 横を見ると、鹿乃子が感動したように翼妃の名を呼んでいる。



「翼妃様が目を覚ましたとお伝えしてください!」



 鹿乃子の言葉で、使用人たちが走り出す音がした。

 ――この場所のことはよく知っている。翼妃が閉じ込められるようにして育った、廻神家の屋敷の離れの部屋だ。

 上体を起こそうとするが体が動かない。唇と舌を動かすので精一杯だ。



「鹿……乃子さ……げほっ」



 言葉を発しようとして咳き込んでしまった。口の中が随分乾いている。鹿乃子が水を用意して飲ませてくれた。すると、少しずつ体に力が湧いてくる。



「ゆっくりで構いません。何せ、人でなくなりかけたのですから。満足に動くにはもう少しかかると思います」



 庭は桜が満開で、春が訪れていた。しかし翼妃が水の神の世に向かった日とは何か違うような気がする。あの時は桜が既に散りかけていた。



「今って何年……?」

「明平十三年です」

「年が明けたんだね」

「はい。翼妃様がお戻りになられたのが今年の真冬で、今は春です」

「随分眠ってたんだ……」

「ええ……本当に。心配しました。玉龍大社の龍神様が、生きてはいるとおっしゃっていたそうなので、それだけが安心材料で……」



 鹿乃子の目はしっかりと翼妃を見つめている。以前のような少し焦点のずれた視線ではない。黒龍の意思が消えたことで、視力が回復したのだろう。爛れた顔の皮膚は治っていないようだが、少しでも良くなっていることにほっとした。



「翼妃様、気付いていますか?」



 鹿乃子がその瞳に涙をいっぱい溜めている。



「もう貴方は、二十歳ですよ。翼妃様」



 ――“忌み子”の運命が変わった。翼妃は、龍神に連れて行かれず、こうしてここにいる。


 とたとたとこちらへ走ってくる足音がしたかと思えば、勢いよく襖が開かれた。一瞬、その姿が小さな頃の柊水と重なる。もうすっかり背丈も伸びた柊水が、あの日のように翼妃を抱き締めた。

 痛いくらい強い力だ。本当に目覚めるか分からない状態の翼妃のことを、柊水も心配していたのだろう。



「……柊水、痛いよ」

「……ごめん」



 柊水の腕の力が少しだけ弱まる。



「戻ってきて、本当に良かった」



 会いたかった、という気持ちは、柊水だけのものではない。あの水底で、翼妃も柊水を焦がれていた。

 まだうまく力が入らない腕を伸ばし、柊水の顔に触れる。そして、優しくその額に口付けた。



「……約束する。これからはずっと貴方の傍にいる」



 十四年ぶりの、あの日の返事だ。



「愛してる。柊水」



 人の命は短い。それを延命してまで少しでも長く一緒に居たいと思った相手は、幼い頃からずっと傍にいた人間の男だった。





 ◆



 翌年の春、陛下が天啓を受け、五家の神鎮に対する新たな抑止力が誕生した。

 翼妃を筆頭とし、他の神鎮の政治を見張る役割の組織が生まれたのだ。その役割は神守かみまもりと名付けられた。これは権力の分散にも繋がった。

 翼妃は火の神と風の神に力の全てを返上し、始祖の力のみで他家の政治を見張った。神鎮の始祖の生まれ変わりであり、神鎮の権利を打ち消す力があり、政治に関する教養もあり、更には悪神の一柱を殺した過去がある翼妃に逆らう者など誰もいなかった。


 おかげで風属性の神鎮たちの悪政も改善し、陸奥國の民は神守に感謝した。

 たまに薩摩に赴けば、炎寿がやけに褒めてくれるようになった。炎寿は、このまま神鎮たちの立場ばかりが強くなれば、民たちの不満が溜まり続け、何れどこかで勢力が崩壊すると考えていたようだ。その状態をより良いものに変えることは、炎寿の夢でもあったらしい。


 今日も雷神を祀る飛神家に視察へ向かう予定だ。黒龍を倒すため、無関係であるにも拘らず特に貢献してくれた春雷、嵐鷲には廻神家から予算の半分を使って毎年高級な捧げ物を送っている。そのおかげもあってか、その二家とはとても友好的な関係を築けている。


 出かける準備をしてから少し時間があったので縁側に座っていると、当主として忙しいはずの柊水が翼妃の方へやってきた。



「翼妃ちゃーん。今日くらい一緒に過ごさない?」

「忙しい。柊水だって忙しいでしょ」

「翼妃ちゃんとゆっくりする時間最近全然ないじゃん。だからこそ作らないとだめじゃない?」

「夜は一緒にいるでしょう」

「それだけじゃ足りないんだって」



 柊水が拗ねたようにずいっと顔を近付けてくる。そして、翼妃の隣にいる存在にふと気付いたように視線を落とした。



「何それ。……雀?」



 翼妃の手元にいるのは、二匹の雀だ。翼妃があげた餌を美味しそうに啄んでいる。



「この子たち、最近よくここへ来るようになったの」

「ふーん。仲良くするのも程々にね。翼妃ちゃんに変なものうつったら困る」

「またそうやって……」

「翼妃ちゃんを心配してるんだよ。鳥から人にうつる病気もあるからね」



 それは翼妃も知っているので、触った後はきちんと手を洗っている。余計なお世話だという目で柊水を見返すと、柊水はくすくすと笑って肩を揺らした。

 そうこうしているうちに、お腹いっぱいになったらしい雀たちが仲良く空へ向かって飛んでいった。翼妃はその様子を眺めながら、太陽の眩しさに目を細める。



「翼妃ちゃんは鳥が好きだね」

「うん。翼を持っていて、どこへでも行ける自由さがあるから」



(今は私も、同じようなものかも)


 改めてそう感じた翼妃は、柊水の方に向き直る。



「今日は忙しくて難しいけれど、今週末は一緒にどこかへ行こうか。今は私も、どこにでも行けるし」

「え? ほんと? どこ行きたい? どこでも連れてってあげるよ」

「じゃあ、空の上とか」

「空の上? うーん、嵐鷲様のお力をお借りするしかないなぁ」

「白龍に乗せてってもらうとか」

「えー。あいつ? それ、僕がやなんだけど」



 笑い合いながら、縁側を後にした。




 これから先の残りの人生を使って、これまで見られなかった外の世界を沢山見にいきたい。

 翼妃はもう、自由だ。






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惑ふ水底、釣り灯籠 淡雪みさ @awaawaawayuki

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