惑ふ水底、釣り灯籠






 翼妃を乗せて、夜の空のような水の中、大きな大きな龍が舞い上がる。外へ繋がる門から飛び込んできたのは、大きな翼を持つ嵐鷲と春雷だ。彼らは翼妃の後方、白龍の背中に降り立ち、その鱗をしっかりと掴んだ。鮮やかに輝く魚たちが龍神の道を開けるように泳ぎ去っていく。

 下方に、きらきらと光る城がある。装飾された大きな城門の上に、二体の龍の姿が刻まれている。眩い光を放つ門の中に、白龍が勢いよく入っていく。

 美しい城の中は広い宿のようにいくつもの部屋があり、その一つ一つの門の前に釣り灯籠が吊るされている。中で休んでいたらしい水属性の神々が慌てたように外へ出てきて白龍に向かって土下座をしていた。

 『龍神様ノお帰リナリ』『祝ゐノ花火ヲ整ヱヨ』――ざわざわ、ざわざわと、人間ではない者の声が一気に翼妃の中に入ってきて気分が悪くなってきた。頭がぐるぐるする。視界も揺れる。吐きそうになって白龍の鱗を掴む手の力も弱まってきたその時、後ろにいる嵐鷲と春雷が翼妃の肩を掴んで支えた。吐き気と頭痛がすることに変わりはないが、そうされると意識は保っていられた。

 水流で釣り灯籠が大きく揺れている。白龍が真っ直ぐに向かっているのは、水晶宮の奥にある真っ黒な祠、黒龍の意思が残存している場所だ。そこへ向かうまでに、神々の用意した花火が打ち上げられる。水晶宮の主である白龍を出迎えるためのものだろうが、おかげで暗い水の中、目的地がはっきりと目視できた。



『げえっ』

『何よあの気配! あたしもけっこー嫌なんだけど!?』



 嵐鷲と春雷が悲鳴にも似た声をあげた。祠の周りに、禍々しい黒い靄のようなものが渦巻いていたからだ。見るからに力の強いもの、悪質なものがそこに居る。

 目が合った・・・・・。その存在に目などあるはずがない。けれど、翼妃ははっきりとそう感じた。次の瞬間、黒い靄が翼妃に向かって襲ってくる。



『――まずいな。撤退だ』



 白龍がそれを避けるように方向を変え、上昇する。あまりに急な方向転換だったため、白龍に抱き着いていた翼妃は均衡を崩して宙へ身を投げた。



『翼妃ちゃん!?』



 離れていく翼妃を春雷が掴もうとするが、その手は届かず、翼妃は水の流れに拐われた。黒い靄が翼妃に切りかかるように飛んでくる――死を覚悟したその時、翼妃の着物を掴んで引き上げたのは嵐鷲だ。大きく翼を動かし、上昇する。ぎりぎりで黒龍の手から逃れられた翼妃は、「あっ……ありがとう!」とお礼を言った。嵐鷲は水の中でも飛べるらしい。



『油断してる場合じゃねぇ! ったく、死んだ神ってのはあんな邪悪なのかよ。ああはなりたくねーな!』



 前を見ると、黒い靄が形を作り、大きな黒い龍のような姿になっていた。その恐ろしさを見て、他の水属性の神々も部屋の中へ隠れてしまったようだ。本来こうして祠の外に出てくるような存在ではなかったのだろう。

 黒龍の爪が翼妃を襲ってくる。あれにもう意識はない。ただ憎悪のみで翼妃を殺そうと、祟ろうと襲ってくる。それを嵐鷲が飛んで避けていく。


 その大きな翼を見て、頼もしさを感じると共に、涙が出た。


   ――――『だから名に翼と付けたの』


 思い出すのは、いつかの母の言葉だ。


   ――――『龍神さまから、逃げ切れるように』




(私にもまだ翼があったんだ)


 雀を殺されたあの日、自分の翼、自由などないのだと覚悟した。けれど今、沢山の仲間が居て、自分で自分の運命を変えようとしている。それが翼でなくてなんと言うのだろう。


 うっ……とまた酷い吐き気がしてきて口を押さえる。しかし、その押さえようとした手が水に溶けるように形が崩れていっているのに気付いた。



『まっ……まずいまずいまずい! このままじゃおめーが人じゃなくなる! 早く春雷たちと合流するぞ!』

「待って! 今しかない、このまま行く!」

『はぁ!?』



 慌てる嵐鷲を止めた。



「翼、貸してくれたでしょう」



 そう言って、嵐鷲を祀る颯神家の神鎮の権利を行使する。颯神家の神鎮の権利は、翼を生やせることだ。彼らは空を飛び、どこへでも行ける。本来他家の者に力を貸すなど不可能だが、始祖の生まれ変わりの翼妃には譲渡できた。



「すぐに戻るよ」

『本気で急げよ!? 見た感じ人間として形を保ってられんのあと一分もねぇぞ!』



 翼妃の服を掴んでいた嵐鷲の足が翼妃を解放する。翼妃は神鎮の権利によって生やした翼を動かし、一直線に祠へ向かった。

 迫りくる黒龍に宰神家の神鎮の権利を行使しようとしたが、発生させた炎は黒龍の姿をすり抜けていってしまう。実体ではないために効かないのかもしれない、と焦ったその時、ずっと上方にいる白龍が吠えた。不思議な、聞いたこともないような鳴き声だ。何か喋っている。歌のような、美しい音色。


(龍の言葉……?)


 翼妃がそれに気を取られていると、黒龍が白龍の方へ舞い上がっていった。仲間や旧友と再会したような嬉しそうな表情で上へ上へと移動していく。

 祠が無防備になった。翼妃は今だとそれに近付き、祠の両端を掴む。一番使い慣れている宰神家の神鎮の権利で祠を熱していく。上方から、おぞましい雄叫びが聞こえた。黒龍がこちらへ戻ってこようとするのを遮るように春雷が立ちはだかる。



『あたしが好きな、人の世の都々逸どどいつに、こんなのがあるのよ』



 この世の水は人の世の水とは別種の物質だ。しかし、それでも水の中の雷は強い。



『人の戀路を邪魔する奴は、馬に蹴られて死んじまえ――ってね!』



 春雷が踊ると、水の中の空に浮かんでいた雲から雷が落ちた。その衝撃で祠の近くにあった木々が崩れ、黒龍の道を阻む。


 翼妃はそのうちに祠を熱で融かしていくが、途中で脳内に途切れ途切れに声が聞こえた。




    背信ノ 者 ヨ 


  我 汝 ヲ赦サヌ

 

     生キ ザラ シノ身ト 成リ果テ


 苦シ ムコト トナレバ


       許シヲ乞フベシ




 まるで泣いているような声だ。



「……貴方のことが好きだった。だけどそれももうおしまい。私は今好きな人との未来を選ぶ」



 憎み続けるのが苦しいのは、人も神も同じだろう。



「さようなら。黒龍」



 千年の想いに終止符を。

 祠にある龍の彫刻に口付けをしたその瞬間、祠が溶けて崩れ去った。



(あ……もう無理かも)


 頭が割れるような感覚がする。おそらく溶けているのだ。


(嫌だ……柊水と会いたい)


 体が失われていく感覚がする。

 今際の際に思い浮かぶのが、幼い頃手を引いてくれた柊水の背中とは。


 自嘲していると、上から水晶宮の屋根を壊しながら勢いよくこちらへ向かってくる龍の頭が視界の隅に映った。

 不思議な感覚だった。もう大丈夫だと思ったのだ。白龍なら守ってくれるだろうと思った。翼妃は白龍をまだ信頼している。

 そして同時に、水に拐われるように意識が遠くなった。





 ◆




 明平十三年、年が明けたばかりの冬。丹波では春日灯籠に雪が積もるその季節、柊水は龍神様がようやくお戻りになられたという知らせを聞いた。

 柊水は廻神家の当主という立場に戻って働き、翼妃たちの帰りを待っていた。



「遅かったね」



 本殿の前に、びしょ濡れの白龍、春雷、嵐鷲――そして、眠る翼妃がいた。翼妃は白龍が抱きかかえているため、少し不快に思う。

 春雷と嵐鷲は息を切らして「しんどかった~」と床に蹲っている。周囲の参拝客が神々の神々しさを見て驚いたように距離を取り、頭を低くしている。


(……これは目立つな)


 柊水は黙って白龍たちを手招きし、屋敷へと向かうことにした。

 坂を登りながら、白龍が問いかけてくる。



「何年経った?」

「十ヶ月。随分待たされたよ」

「神の世と人の世では時の流れが違う。それはお前も知っているだろう」

「まぁね。どこぞの神が以前も翼妃ちゃんを攫ったことがあったから」



 水晶宮に近付けば近付くほど、人の世と時間の流れはずれてくる。本来ならばもう少しかかるだろうと予想していた。



「翼妃ちゃんの二十歳には間に合わせたから許してあげる」

「自分が祀っている神に偉そうな口を利くようになったな。お前は」

「君は恋敵だからね。前世からずっと」

「……」



 白龍が立ち止まり、濡れた翼妃を柊水に渡してきた。



「……何のつもり?」

「“翼妃”は、お前に譲ってやる」

「譲るも何も、もう僕のものだよ」

「あぁ。そのようだな」



 そう言って柊水を通り過ぎた白龍は、悲しげに、しかし納得したように笑っていた。






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