第四章 十九歳
最後の神隠し
太陽が東の山々の向こうに昇り、空は淡い青色に染まっていく。まだ冷たさを残す朝露が花々の葉の上できらりと輝いている。木々の新緑が穏やかな微風で揺れ動き、爽やかな緑の匂いが漂っている。満開に近付く桜の傍を飛ぶ雀の鳴き声が、新しい季節の到来を喜んでいるようにも聞こえた。
――そんな美しい朝、翼妃を乗せた蒸気機関車は玉龍大社へ向かっていた。隣には柊水が居る。
「翼妃ちゃん、体調は大丈夫?」
「うん。もう完全に治ったみたい」
翼妃は一週間前、柊水と結婚した。そしてその後数日熱にうなされた。本当は結婚してすぐ玉龍大社へ向かう予定であったにも拘らず、できなかったのはそのせいだ。
婚姻の儀を執り行った直後だったため、宰神家の者たちは黒龍の祟りなのではないか、このまま死んでしまうのではないかと騒ぎ立てた。翼妃も死を覚悟した。赤鬼は「我がいるから大丈夫じゃろ」と飄々としていたが、その実一番翼妃の寝床の様子を見に来る回数が多かった。彼も不安だったのだろう。
幸いにも翼妃は数日後に回復した。屋敷中が安堵の空気に包まれていた。たまたま風邪をひいたのか、それとも――。
「もう僕のお嫁さんなんだから、末永く元気でいてね」
柊水の母は病弱だったため、柊水は病気に敏感だ。冗談っぽく言ってはいるが、本気で心配なのだろう。
彼との結婚を受け入れた理由は二つある。
一つは、これから先のことは未知数であり、作戦が成功する可能性は低い。黒龍の意思を倒そうとして、失敗に終わり、結局祟りによって命を奪われる可能性だってある。柊水の女としての記憶を最期の思い出にしたかった。
もう一つは、柊水は翼妃が自分の者にならないのであれば頑なに白龍の元には行かせない気であったからだ。柊水の安心の材料として関係性を明確にした。これの方が理由としては大きいかもしれない。
当主と忌み子の婚姻など、廻神家の者たちが生きていれば猛反対したところだろうが、彼らはもう生きていない。まだ幼い廻神家の子供たちを一緒に教育することや、家の制度を変えていくことを条件に、翼妃は柊水と生涯を共にすることを決めた。
婚姻の儀は火紋大社で盛大に行われた。神鎮たちは快く祝ってくれたし、炎寿に至っては親のような気持ちなのか大泣きしていた。赤鬼は主役を理解していないようで用意された食事を横取りしてきてはうるさくはしゃぎ倒していた。滅多に喋らない無口な青鬼が「おめで、とう」と声を出した時は神鎮たちから驚きの声が上がったものだ。
「……私、生きるよ。大切な人たちを悲しませたくないから」
蒸気機関車に乗っている最中、柊水はずっと難しい顔をして黙っていた。
玉龍大社の景色は懐かしかった。桜が満開で、花びらが散っている。いつも賑やかだった川床の料亭が珍しく静かだ。それどころか、本宮へ向かう坂道の途中には参拝客が一人もいない。白龍が予め人払いをしておいたのだろう。翼妃を迎えるために。
赤い春日灯篭が並ぶ長い石段を上った先に、人の姿をした白龍が居た。
「本当に来たのか。よくのこのこと俺の領域に入ってきたものだ」
白龍は翼妃の隣にいる柊水を冷たい瞳で見下ろしていた。
本来玉龍大社を祀る家系の当主であるはずの柊水が戻ってきたのは、実に二年と数ヶ月ぶりである。役目も果たさず神を裏切り、姿を消していた柊水は白龍の目にさぞ醜悪に映っていることだろう。
そして、白龍の視線が今度は翼妃の方に向けられる。白龍は無表情のまま手を翳してきた。――命を奪おうとしている、と感じた。
柊水が苛立ったように白龍に近付こうとするのを制止する。
「白龍は私を殺せないよ」
「ほう。何故?」
「鶴姫様に貴方とのご縁を結んでいただいたの。鶴姫様に縁を結ばれた間柄の者同士は、相手を殺せないでしょう」
本当は黒龍との縁を結んでもらおうと思った。しかし、黒龍は既に意思のみがある状態で世に存在しておらず、そんな曖昧な存在との縁は結べないと断られてしまった。だから白龍との縁を結んだ。
鶴姫と赤鬼、青鬼は龍神と相性が悪いために玉龍大社まで来ることができない。だから、前もって翼妃の中に彼らの力を施してもらった。
そして役者はもう二柱――遅れて本殿にやってきたのは、陸奥國の鷲神と、武蔵國の雷神。どちらも人の姿ではないが、空からここへ降り立った。
各属性を代表する五柱の神々の中で、水の神の世に入れるのはこの二柱の神のみ。この日のための事前準備にはかなりの期間を要した。神々にも自分の土地があり、守らねばならない民がいる。住まいとなる神社を留守にすることがどれほど大きな事柄か。当初、鷲神と雷神を祀っている神鎮の家系の者たちは大反対したらしい。
その説得には柊水や翼妃も協力した。特に柊水は廻神家の当主という立場であるため、柊水の言葉にはどの國の神鎮たちも耳を傾けていた。今後の玉龍大社との関係性が悪化しないよう、彼らも慎重に言葉を選んでいた。
「お前は何が望みなんだ」
「私を水晶宮に連れて行ってほしい」
「あの場は人の身で入れる場所ではない」
白龍が否定すると、翼妃の後ろにいる鷲神、嵐鷲が一歩踏み出した。
『分かってねーな。だから俺たちがここにいんだよ』
『そうよそうよ! あたし達、人の恋路は守るわよん』
便乗するように言ったのは雷神の春雷だ。彼女はどうやら人の作る恋愛物語が好きなようで、何故かこちらが頼む前から異常なまでに乗り気だった。
水の神の世は、翼妃が昔、夢の中で招かれていた場所だ。翼妃がいたあの部屋は水の神の世のほんの一部、水晶宮からはかなり離れた場所にある。水晶宮へ近付いたことは一度もない。昔白龍も言っていたが、人の身で近付いてはいけない場所だ。
だからこそ他の神々の力が必要だった。力の強い神が傍で常に守っていれば、ある程度は人の形を保っていられる。
「危険があるのは変わらん」
「……白龍は優しいね。白龍を裏切って逃げた私のことを、まだ守ろうとしてる」
白龍の眉がぴくりと動いた。彼は無言のまま翼妃に近付いてくる。そして立ち止まり、薄く笑った。
「――昔からそうだが」
唐突にぐらりと視界が揺れた。柊水が何か怒鳴っているのが聞こえる。
「お前は他者のことを、肯定的に捉え過ぎだな」
しかし、何を言っているのか分かるほどの意識は、もう翼妃にはなかった。
目を開けると、壁一面の金色が広がっている。水面のような透明な床の上に翼妃は立っていた。
幼い頃、夢で何度も見たあの光景だ。白龍が連れてきたのだろう。殺さずともそれくらいならできる。
――目の前に居るのは、恐ろしい龍だ。真っ白な雪のような鱗。氷のように冷たい深い青色の瞳。頭には銀色の細長い角が生えている。
子供の頃見た姿よりも迫力があり、憤怒の形相をしている。その威厳は見るからに“神様”だった。
白龍の自分への感情が憎悪であったことを受け入れるまで二年かかった。幼い頃から信じていた存在から憎しみを向けられる衝撃は、翼妃にとってかなり大きなものだった。それでも二年の年月をかけてその衝撃を自分の中で噛み砕いたのだ。
翼妃はまずお礼を言った。
「白龍。ここに連れてきてくれてありがとう」
『礼など。状況を理解していないようだな』
「理解してるよ。私、白龍と二人で話したかった。柊水は心配して二人にさせてくれないだろうから、無理やり奪ってくれてちょうどよかった」
――途端、龍の大きな爪が翼妃の体を掴んで壁に叩き付けた。
『二度とその名を俺の前で呼ぶな』
人ひとりの体など一瞬で握り潰してしまえるであろう手の大きさに、翼妃は少し怯んだ。だが目の前に居るのはあの日の白龍と同じ神だ。態度が違えど、翼妃の知る神であることに変わりはない。翼妃が大好きだった白龍だ。
(怯むな)
翼妃は、鶴姫から聞いたことを白龍に伝える。
「私と柊水の縁は、太く強く結ばれてる。来世もその次の世でも、きっと結ばれるんだろうってくらい」
『そんなことは分かっている。だから俺はお前を何度でも捕らえる。人間の男とのうのうと幸せになれるなどと思うな。お前の幸せは全て俺が奪う。そうして永遠を作るのだ』
喜怒哀楽の“怒”と“哀”の出方は、神によって違う。“哀”が“怒”として出てくる者もいる。それは、人も神も同じだ。
「……ごめんね。白龍」
――白龍は哀しんでいるのだ。大切な人を奪われた千年以上前からずっと、泣いている。
「手を……離してほしい」
震える手を白龍に向かって差し出す。
「貴方を抱き締めたい」
そう言った次の瞬間、白龍の目が見開かれ、青い眼が揺れる。そして、水が流れるようにその大きな体が崩れていき、人の姿の白龍が蹲る形で残った。
翼妃は彼に駆け寄りその体を抱き寄せる。見上げると、彼の頬には涙が伝っていた。
「何度も置いていってごめん。白龍は何度も私を守ってくれたのに」
「……今更」
「私が好き? 私は貴方が知る神鎮の始祖じゃないけれど、生まれ変わっていても、貴方たちと愛し合っていた頃の記憶がなくても、同じくらい愛してる? 永遠に?」
「――ああ。永久に愛している」
この千年以上の時の中で、白龍は何を思っていただろう。長い年月はきっと始祖への憎悪を増大させただろう。
「じゃあ、来世の私を白龍のものにして」
通常、何度生まれ変わっても変わらない縁などないのだ。翼妃と柊水が何度も結ばれているのは、翼妃が黒龍の執着によって“忌み子”としての輪廻から抜け出せず、ほぼ同質の存在としてこの世に生を成すからである――と、鶴姫が言っていた。
「黒龍の意思を消す。そうしたら、次に生まれる時は“三百年に一人の廻神家の女児”じゃない。柊水との縁もなくなる。それで――来世の私の縁は、白龍と結んでもらう」
翼妃は自分を捧げられない代わりに、来世の自分を白龍に捧げたのだ。
「“お前”は、駄目なのか」
「うん。今世の私は柊水のもの。好きになっちゃったから」
そこはどうしても譲れなかった。不器用で、言わなければ分からないような感情を隠し続けて、勝手に翼妃のために行動をして、再会してからは毎日愛情を伝えてきて翼妃の憎悪ごと受け止めてくれた存在。所詮神には敵わない人の身で、翼妃を助けに来てくれた。
この気持ちを覆すことはできない。だから。
「何百年後になるか分からないけど。また私がこの世に生まれたら、迎えに来て。――来世の私は、きっと白龍のことを好きになる」
千年前から続く愛憎をここで完全に終わらせる。そして、新しい自分で白龍と向き合いたいと願った。
幼い頃の翼妃の心の拠り所だった、優しい神様。その存在に来世の自分が懐かしさを覚えないはずがない、と翼妃は確信している。
「それは誓いか」
「そうだよ。神に誓う」
「人の誓いなど、俺はもう信じていない」
「信じさせてみせるよ。もしも裏切ったら、私のこと、今度は白龍が祟っていい」
白龍の手を掴み、その小指に小指を絡めた。幼い頃、白龍と約束をする時、こうしていたから。
「それがお前の覚悟か」
「うん。でも、私の周りの人は祟っちゃだめだよ。白龍は倫理観が欠如してるから、私の周りのことなんてどうでもいいかもしれないけど」
付け加えて注意すると、白龍が少し可笑しそうに笑った。
「俺はきっと――どれだけ憎くとも、お前を祟ることなどできないだろうな」
そして、諦めるように言ったのだ。
「――――開門する」
水の神の世への扉が、外に向かって開かれた。
最後の神隠しが始まる。
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