出雲からの来訪者




 そこからのことはよく覚えていない。ただ優しく浴衣を脱がされ、体に触れられたことだけ分かる。柊水の言葉も声も、これまで聞いたことがないくらい優しかった。


 目を覚ますと同じ布団の中に柊水がいた。寝顔まで綺麗だと改めて思った。

 できるだけ音を立てないように起き上がり、昨日飲みかけていた水を飲んだ。

 窓を開けて外の空気を吸い込む。遠くから、鶴の鳴き声が聞こえた気がした。


 椅子に座って外を眺めていると、ゆっくりと昨夜の詳細な記憶が蘇ってきた。柊水の指や舌の感覚がまだ体に残っているような気がする。急に顔が熱くなってきて、水をがぶがぶと飲んで恥ずかしさを殺した。

 宰神家の神鎮たちになんと言えばいいのか。ずっとかわかわれ続けてきて、その度に何もないと否定してきたというのに。

 炎寿にもなんと言おう。酔っ払ってこの宿の感想について何も書けていない。食事や温泉の心地についてくらいなら書けるが、と紙を取り出す。

 ……柊水とももう顔を合わせられない。どんな態度を取ればいいのだろう――そう考えていた時、柊水が寝返りをうった。びっくりして恥ずかしいくらい体が揺れた。しかし、柊水はまだ起きる気配がない。酷くほっとした。


(柊水が起きても、どんな顔して話せばいいのか分からない……先に戻ろう)


 “先に屋敷に戻っています お金は後で返します”と書き置きして立ち上がった。


 上着を羽織って宿の外へ出ると空気が冷え込んでいた。朝方は身震いするほど寒い。

 しばらく歩きながら山を見上げていると、一瞬にして周囲の空気が変わった。異様な雰囲気を感じて宿の中へ戻ろうとしたが、その前に“それ”が目の前に現れる。


 見たこともない程大きな鳥――美しい鶴が舞い降りた。


 その姿から、只者でないことは感じ取れる。書物で見た普通の鶴よりも何倍も体が大きい。それにこの神聖な空気には覚えがある。



『久しいな。人間』

「……鶴姫様……」



 出雲の貴月大社で祀られている鶴神、鶴姫だ。

 神は人の姿で長く社から離れることはできない。だから鶴の姿でここまでやってきたのだろう。鶴姫の周りには何羽もの兎が飛んでいた。おそらく鶴姫を守る使者だ。



『別に来たくはなかったのだが、縁を結ばれてしまったものでな。遅かれ早かれ会うことになるのであれば、早い方が良いだろう』



 翼妃は慌てて頭を下げる。



「出雲から薩摩までは長旅でございましたでしょう。遠路はるばるお越しいただき、誠にありがとうございます」

岩神がんしん家の神鎮は聡明だ。その一人である彼女が妾は貴様に会うべきだと判断した。であれば、できるだけ早くここへ来ることが最善だ。妾は妾の神鎮を信じたのみ。頭を下げずとも良い』



 岩神家というのは、鶴姫を祀る鹿乃子の一族だ。鶴姫は鹿乃子の判断を信じたらしい。信頼の厚さが窺える。



『とて、要件は何だ』



 鶴姫が羽で頭を掻きながら問いかけてくる。



「黒龍の意思を消すために協力してほしいのです」

『その件は廻神家の当主から聞いている。水の神の面倒事には首を突っ込まないと返答したはずだ』

「お願いです。貴女のお力が必要なのです」

『妾に何の得がある?』



 大きな鶴の目が細められた。やはり乗り気ではないらしい。

 まさか鶴姫の方からこちらへ赴くとは予想できておらず、交渉の材料が今はない。翼妃はぐるぐると思考を巡らせた結果、あることを思い付いた。



「――おもてなし致します」

『…………は?』

「折角来てくださったのですから! 火紋大社を楽しんでもらえるよう、屋敷でもてなさせてください。鬼神たちとは仲がよろしいのでしょう。彼らもきっと鶴姫様にお会いしたいはずです」



 翼妃は貴月大社の歴史についての勉強もしている。戦国時代、鶴姫は疲弊して貴月大社を離れたことがあった。そしてその際、山奥のとある庶民の家の娘にもてなされ、その娘の生涯を見守ったという。鶴姫はしてもらったことへの恩は返そうとする真面目な神なのだ。



『人間のもてなし如きで妾の心が揺れると……』

「鶴姫様をその気にさせられるよう、尽力致します。さぁ、宰神家の屋敷へ参りましょう」



 手を差し伸べるが、鶴姫は『……羽では手を繋げん』と言って歩き始めた。兎も跳ねながら鶴姫の後を付いていく。その方向は火紋大社だ。少しは付き合ってやってもいいと思ってくれたのだろう。




 ◆




「おお、鶴姫ど。こげんところで何しよる?」



 屋敷の門を潜ると、神鎮たちをからかって遊んでいたらしい赤鬼が驚いた表情をして翼妃たちの方へ近付いてきた。鶴神と鬼神は昔から親しい仲であると聞くが、こうも気安く呼びかけるとは驚いた。



『この娘に連れてこられた』

「おおっ翼妃、鶴神まで従えるとはさすがじゃなあ」

「赤鬼様、炎寿様はどこにいらっしゃいますか?」

「今日は一日仕事がなからしく、部屋で休んどるみたいじゃ」



 奇跡的に、いつも忙しそうにしている炎寿の休みと被ったようだ。翼妃は急いで炎寿の部屋へ向かい、「お休みのところ失礼します」と鶴姫がここへ訪れたことを伝えた。完全に寝ていたらしい炎寿は飛び起き、豪華な着物に着替えて走り始めた。翼妃もそれに続く。



「鶴姫様が来たぞーーー!!」



 炎寿の大きな声が屋敷中に響き渡り、「何だって!?」と朝の準備をしていたらしい神鎮や使用人たちが一斉に廊下に出てきた。



「酒と食事を用意しろ!」



 様々な場所からばたばたと足音が聞こえる。他國の神の突然の来訪に皆慌てているようだ。少し申し訳ない気持ちになった。


 炎寿は鶴姫を屋敷で一番大きな部屋に招き、鶴の嘴でも食べやすい皿になかなか食べられない貴重な薩摩の料理を用意した。酒も一級品を用意し、使者の兎たちの分も運んだ。翼妃も使用人たちと一緒に屋敷を走り回った。

 そして、準備が一段落した頃に少し屋敷を離れることにした。別の準備をするためだ。



「炎寿様、あまり鶴姫様に飲ませすぎないでくださいね」

「ああ。分かっている」



 本当だろうか、と日頃から神鎮たちに無理に飲ませている炎寿を思い浮かべて不安に思ったが、今は信じるしかない。

 翼妃は山を駆け下りて昨夜泊まった宿へ向かう。途中でこちらへ向かって歩いてくる不機嫌そうな顔をした柊水とすれ違った。



「――柊水!」

「あれ、僕が起きる前にいなくなってた翼妃ちゃんじゃない。僕は翼妃ちゃんと朝も仲良くしたかったのにな」



 ちくちくと嫌味っぽいことを言ってくる柊水の腕を掴んで引っ張った。



「そんなこと言ってる場合じゃないよ。鶴姫様がお越しになったの」

「は?……火紋大社に?」

「そう。精一杯おもてなししよう。今は炎寿様がご対応くださっているから、夜はこのお宿にお招きできないか女将さんに交渉してみる」



 昨夜の美味しい料理や、心地良い温泉を鶴姫にも経験してほしい。

 基本的に同じ場所に留まり閉じこもっているのは神も同じだ。翼妃と同じ感動を味わってほしかった。



「……地属性の神鎮の結ぶ“縁”っていうのは、こんなに強力なのか」



 柊水は少し感心しているようだった。



「柊水も一緒に準備手伝って。人手が足りない」

「んー……どうしようかな」



 柊水はわざとらしく悩む素振りを見せたかと思うと、翼妃の後頚部に手を回してきた。



「翼妃ちゃんの方から接吻してくれたら考えてやらないこともないけど」

「は、はぁ!?」

「だめ? 昨夜はあーんなに可愛く甘えてきたのになぁ」



 かぁっと顔に血が上るような心地がした。



「あれは……………………酒の勢いよ」

「一夜の過ちで済ませたいってこと?」



 目の前にいる柊水が眉を下げて少し悲しそうな表情をするので、思わず「ち、違う」と否定してしまった。するとその口角がゆるりと上がった。



「じゃあ、僕たち恋人ってことでいい?」

「……ま、まあ、そうなんじゃない? そうとも言える」



 恋人などできたことがなく、どぎまぎしてしまう。しかしそんな子供っぽい態度を柊水に見せて舐められたくなくて、必死に平静を装おうとする。

 柊水は翼妃の緊張を見透かすように笑った。



「嬉しい。翼妃ちゃん、やっと僕のものだね」



 柊水が翼妃を引き寄せて口付けをした。

 翼妃はある種の悔しさを覚えながらも、結局こうなるのかと諦めの境地に至る。



 その後は宿の女将にも協力してもらい、宿で鶴姫をもてなす準備をした。そもそも鶴の姿で温泉に入れるのか? 温度はどれくらいが適切か? という話や、食事は何を好むのかという話もした。ここでは柊水と翼妃の神々に関する造詣の深さが役に立ち、順調に準備が進んだ。

 女将は「神様をもてなすなんて初めてですよ。一番最初にもてなすとしたら鬼神様になると思っていたのですけれど、まさか出雲のお方になるとは」と笑っていた。




 ◆



 月の綺麗な夜、鶴姫が宿で寝ているであろう時刻に、翼妃は明日鶴姫に渡すものの準備をしていた。急いで取り寄せたそれを口に含んで味見し、高級な箱に詰めていると、ばさりと大きな羽の音が近付いてきた。

 はっとして箱を閉めて隠そうとするが、味見していたものまでは隠せなかった。目の前に降り立ったのは鶴姫だ。



「こ……こんばんは。宿でお休みにはなられなかったのですか? 何かお気に召しませんでしたか」

『妾は眠らん』



 そういえば、昔話のような不確かな情報として、鶴姫は睡眠を取らないという記述があった気がする。あれは本当だったのかと翼妃は驚いた。



『……それは何だ?』



 翼妃の膝の上にあるそれを見つめた鶴姫が問うてくる。

 本当は思いがけない贈り物としたかったのだが、見つかってしまっては仕方がない。



軽羹かるかんです。私が薩摩へ来た時に、炎寿様が出してくださった思い出の和菓子です」



 明日、鶴姫が帰る時にお土産として渡そうと思っていたものだ。

 翼妃は軽羹を小皿に乗せ、和菓子切と共にそっと差し出した。木製で漆塗りの和菓子切だ。


 鶴姫は無言で翼妃の隣に座り、軽羹を食べ始める。

 軽羹は山芋が原材料の和菓子で、真っ白な見た目ともちもちした食感をした美味しい食べ物だ。



「原材料の山芋には疲労回復の効果があります。長旅でお疲れのお体に効きますようご用意しました」



 鶴姫は特に何も言わなかったが、翼妃が乗せた軽羹は全て食べていた。



『……何故ここまでする?』



 そして、ぽつりとそう聞いてくる。



『例え延命できたとしても、人間は所詮六十年ほどしか生きられぬだろう。たかがそれだけの年月に執着するとは、人間はやはり理解できん』



 人間を馬鹿にしたような言い方だ。しかし、そこには別の意味が含まれていることを翼妃は知っている。“理解できない”と思うのは、理解しようとしたことがあるからだ。



『脆く生命が短く、合理的でない判断をする。群れなければ何もできないか弱い生き物。一人では生きていけぬ。哀れだな』



 翼妃は鶴姫のための茶を用意しながら聞き返した。



「だから鶴姫様は、人と人との縁を結ぶのですか?」



 鶴姫が少し驚いたように翼妃を見つめる。



「人間は弱い生き物です。一人では生きていけない。だから鶴姫様は、人を正しく人へと繋げるのでしょう。私は鶴姫様のことを、神々を代表する五柱の神様の中でも、一番人間想いの神であると思っています」



 鶴姫は茶を受け取り、翼妃から目を逸らした。



『……ふん。物好きめ』



 不器用で、人間を見下していて、しかしだからこそ人間を守ろうとしてくれている、縁結びの神様。

 彼女は茶を一口飲んだ後、翼妃に最大限の称賛の言葉を送った。



 『薩摩も悪くないな』――と。






 翌年の春、四柱の神々が動き出すこととなる。






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