温泉宿



 ◆




 数日後、鶴姫から初めての返信が来た。


 “貴様は、出雲の神鎮、鹿乃子と知り合いなのか”――たった一言、美しい香りのする和紙にそう書かれていた。

 この神は大勢いる神鎮の名前を一つ一つ覚えているらしい。それも、実力が劣っているとして屋敷を追い出された神鎮の名前まで。やはり鶴姫は人を気にかける優しい神なのだろう。



「どうして鹿乃子さんだって分かったんだろう……」

「さすが鶴姫様ですね。ご自分との間に新しく結ばれた縁が視えたのでしょう。それを誰が結んだのかもお分かりになられるのかと」



 今日は少し調子が良いのか、鹿乃子は壁に背を預けて座っている。

 翼妃は手伝いを早く終わらせて鹿乃子の元に通うようになった。勿論勉強も疎かにしてはならないので、そう長くは居られないが、毎日会えたらと思っている。



「ところで翼妃様、柊水様とはどうなのですか?」



 手探りで翼妃が持ってきたお菓子を手に取った鹿乃子は、一息つくように聞いてきた。



「何で鹿乃子さん、そんなに私と柊水の仲を気にするの?」

「わたくしにとって柊水様は、恩人のようなものですから。落ちぶれた神鎮としての立場で、行き場を失っていたところを柊水様が拾ってくださいました」

「……柊水にとって都合が良かったから無理やり連れてこられたの間違いでは……」

「結果としてわたくしは救われたんです。それに、柊水様は昔から酷く翼妃様を気にしておられました。わたくしが廻神家のお屋敷に招かれたのもその一環でしょう。お二人の間には埋まらない溝のようなものがおありのようだったので、口出しはしませんでしたが……柊水様はずっと前から、翼妃様のことが大好きですよ」

「……」



 そう言われても、と困ってしまった。

 鹿乃子は和菓子を口にして、「あら、おいしいです。ありがとうございます」と笑顔になる。幸いなことに味覚は戻ってきたようだ。



「最近は柊水と喧嘩ばかりしてるよ」

「ええ? そうなのですか?」

「私は白龍の元へ行きたいのだけど、柊水は頑なに反対してて……」

「ああ……きっと心配なのですね」



 鹿乃子は白龍と会ったことがない。どんな神かもよく知らないまま、柊水から翼妃を守れと言われていたらしい。



「どう頑張っても説得できそうにないから、こっそり屋敷を抜け出すという選択肢も私の中に出てきた」



 そう言うと、鹿乃子がぷっと噴き出した。



「相変わらず大胆ですね、翼妃様。でも、お一人で行くのは危ないですよ」

「最近は交通の便も発達しているし、移動はそう難しくないと思うの。怖いのは、移動中に祟りが起きないかどうか……」



 柊水と一緒に貴月大社から逃げ出した日は、しばらく赤鬼から離れていた。翼妃の知る限りではあの日祟りは起きていないはずだが、それもたまたまかもしれない。どういう基準でまた祟りが発生するか確証が持てないため不安だ。



「一定の場所に留まらなければいいのかもしれませんね。鬼神様の傍にいないにも拘らず祟りが起こらなかった日は、ずっと蒸気機関車で移動していたのでしょう」

「成る程……?」



 それも一理ある。仮説が正しければ玉龍大社への道中は何も起きないということになるが、一つの例だけで決めつけてしまうのも……とまだ躊躇いはあった。

 前途多難だ。はぁ~と大きな溜め息を吐く。


 残された時間は少ない。停滞しているわけにはいかない。

 翼妃は昔と比べて多くのものを持っている。兄のように面倒を見てくれる宰神家の神鎮たちのことも、当主の炎寿のことも、我が儘だが何だかんだ翼妃を好いてくれている赤鬼のことも、無口な青鬼のことも大好きだ。鹿乃子も戻ってきた。


(死にたくないな……)


 このまま何もしなければ高確率で訪れる祟りと死。それを避けたいと強く願う程には、翼妃はこの日々を愛していた。




 診療所から屋敷へ戻ると、庭で柊水と神鎮の少年たちが遊んでいた。

 こんなに寒いのに少年たちは元気に薄着だ。楽しそうにしている彼らを縁側から眺めていると、柊水が翼妃の存在に気付いてこちらへやってきた。

 しまった、また見つかってしまった、と思う。柊水は翼妃を見つけると何をしていても話し掛けてくるのだ。



「鹿乃子さんの所へ行ってたの?」

「うん。お菓子を渡してきた」

「柊水、鹿乃子ってだれー?」

「翼妃ちゃんの昔の友人だよ」



 付いてきた一人の少年の問いに柊水が答える。

 そしてその瞳が今度は翼妃の方に向けられた。じぃっと見つめられ、翼妃は思わず目をそらす。



「翼妃ちゃん、最近僕のことよく見てるよね」

「……自意識過剰なんじゃない?」

「本当だって。目が合う回数増えたよ。翼妃ちゃんが見てないと目なんか合わないでしょ」



 翼妃が黙り込むと、少年がどこで覚えたのか「おあつ~い」なんて言ってからかってくる。ぎろりと睨むと彼はけらけら笑いながら他の少年たちの元へ走っていった。



「翼妃ちゃん、今日はこの後何かある?」

「早急にやらなければならないようなことはないけれど……どうかした?」

「火紋大社の隣に観光客向けの温泉宿ができたそうなんだ」



 そういえば、炎寿が何年も前から予算を割いて宿の建設準備をしていた。遠方の民からの信仰も受けるため、色々と画策しているらしい。信仰の中心となる地域の民だけでなく、観光しにくる人々も標的にするとは考えたものだ。



「あそこなら、翼妃ちゃんでも行けるんじゃないかなって思って」



 柊水の言わんとすることがようやく理解できた。

 薩摩國は日本有数の温泉地である。しかし翼妃はこれまで、週末に温泉へ向かう宰神家の神鎮たちを待っていることしかできなかった。火紋大社から離れれば祟りが起こる可能性があるからだ。


(温泉……)


 惹かれる響きだ。翼妃は温泉など入ったことがない。



「折角だし今夜、そこで一泊しようよ」

「……観光客でもないのに?」

「一応僕たち、丹波の人間だし。観光客のようなものじゃない?」



 随分長い観光だと思い、翼妃は噴き出した。するとそれを見た柊水も薄く笑う。その顔を見てどきりと心臓が鳴った。

 嗚呼――やはり、調子が狂う。翼妃は再び視線を逸らし、素っ気ない口調で言った。



「まあ、一度くらい行ってみるのも悪くないかも」

「本当? じゃあ、炎寿様にも伝えてくるね」



 そう言って去っていく柊水の背中を見つめながら、一緒に温泉宿に泊まるなど、まるで恋人みたいだ――と良からぬ考えを抱きそうになり、翼妃はぶんぶんと首を横に振った。




 夕方、約束通り柊水と宿へ向かった。炎寿は宿の今後の運営のために後で感想が欲しいそうなので、忘れないよう思ったことを箇条書きするための用紙を持っていくことにした。


 完成したばかりの宿は山間の渓谷に佇んでいた。自然の美しさに囲まれた、宰神家の屋敷よりも大きいのではないかと思える程の豪華な宿である。重厚さを感じる屋根と、淡い木の色の外壁は山の木々と並んでも違和感がない。



「部屋は一部屋しか取ってないから」



 玄関で履き物を脱いでいると柊水がそう言ってきた。



「ええ……」

「いつも一緒に寝てるんだしいいでしょ」



 それはそうなのだがとまごつく翼妃の手を引いて、柊水は中へと入っていく。女将が丁寧にお辞儀をして荷物を受け取り、部屋の案内をしてくれた。部屋は窓から山の景色が見える広い和室で、露天風呂も付いている。窓の近くに置かれている円卓に果実酒と和菓子が用意されていた。

 夕食はすぐに運ばれてきた。薩摩で取れた季節の旬の素材を盛り込んだ豪華な和食だ。



「こんなに美味しいもの初めて食べた……」



 感動した翼妃は無言で料理を食べ続け、最後に出された甘味まで綺麗に食べ尽くした。どうやら炎寿はこの宿の食事にも妥協していないらしい。一流の料理人を呼んできたとは聞いていたが、本当に美味しかった。

 ふと視線を感じて前方に座っている柊水を見ると、柊水は翼妃を見つめてにこにこしていた。



「……こっち見てないで食べたら? 食べないならそれもらうけど」

「頬張ってる翼妃ちゃんが可愛くて。りすみたいで」

「りす……」



 柊水には翼妃が野生動物に見えているのだろうか。どんぐりを食べるりすを想像して何だか恥ずかしくなった。「ご馳走さまでした」と早口で言って立ち上がる。



「どこ行くの?」

「温泉」

「翼妃ちゃん、何だかんだ楽しそうだよね。じゃあ、後で休憩所で集合しよ。飲み物も売ってるから」



 宰神家の神鎮たちから、温泉に浸かった後の珈琲牛乳は最高だと聞いたことがある。珈琲というものが日本に入ってきたのは明和初頭だ。最初は抵抗感を持つ者が多かったらしいが、今では西洋文化の象徴として受け入れられている。一度飲んでみたいとは思っていた。

 柊水と行動を合わせるのは嫌だが、少しくらいは付き合ってやってもいいという気持ちで頷く。柊水は満足げに笑っていた。


 その後、男湯と女湯に分かれて温泉を楽しんだ。できたばかりのためか、ほぼ貸し切り状態だった。遠くに見える景色と湯けむりを眺めながら湯に浸かって体を温めた翼妃は、神鎮たちが温泉が好きな理由を十分に理解した。

 さっぱりした気持ちで湯から上がり、体を拭いて浴衣に腕を通す。鏡の前で帯を巻き、髪を整えた。

 休憩所へ行くと既に柊水が椅子に座って窓の外を眺めていた。男の人は風呂が短いらしい。その横顔をぼんやり見つめていると、柊水の方が翼妃に気付いてゆるりと口元に弧を描く。柊水はいつでも翼妃を見つけるのだ。



「翼妃ちゃんが飲みたいって言ってた珈琲牛乳、そこで買えるみたいだよ」

「あ……お金部屋に置いてきちゃった」

「僕が持ってるから大丈夫」



 柊水からお金を借りて、売り子の女性に声をかける。「これ二つください」と言うと売り子は「これですか?」と何故か訝しげにちらりと翼妃の顔を見た。その後、お金を受け取り瓶を渡してくる。翼妃は瓶を受け取り、ぺこりと会釈して柊水の方へ戻った。

 瓶の蓋を開けてごくりと飲む。冷えたそれはとても美味しかった。飲んだことのない味だ。



「楽しい? 翼妃ちゃん」



 柊水に聞かれ、「悪くない」と答えると、柊水はくすくすと笑った。



「僕も悪くないかも。子供の頃は、翼妃ちゃんを泣かせたくてたまらなかったんだけど。笑顔を見るのもまた良いね」

「典型的ないじめっ子の思想だよね。地獄に落ちればいいと思うよ」

「辛辣」



 柊水は、随分変わったように思う。大人になったと表現するべきだろうか。昔のように、力に任せて言うことを聞かせようとするような子供っぽいところはなくなった。


(だからと言って、まだ許せるわけじゃないけど……でも、最近の柊水は優しくて調子が狂うし、昔のことも、ただ愛情表現の仕方が分からなかっただけって思えば……いやでも、倉に閉じ込められたのは本当に許せないし、全てを水に流して改めて関係を築くことなんて今の私には……)


 思考がぐるぐるする。心なしか気持ちもふわふわしてきた。湯上がりだからだろうか、何だか体が先程よりも熱いような……と思っていると、瓶を開けて一口飲んだ柊水が言った。



「――翼妃ちゃん、これ珈琲牛乳じゃないよ」

「……へ?」



 舌が回らず、間抜けた返事をしてしまった。



「牛乳で割ったお酒だよ。かるーあって言って……って、翼妃ちゃんには分からないか。ごめん、買う時僕が付いていけばよかったね」



 売り子が訝しげな顔をしていた理由が分かった。翼妃が成人しているか疑っていたのだろう。



「美味しいのに、お酒なんだ……」



 ぽつりと呟くと、柊水が翼妃の前に置かれている瓶を奪った。



「やだ。何で取るの」

「翼妃ちゃんはまだ飲んじゃだめでしょ」

「柊水だけ狡い」



 ふらふらと立ち上がって柊水の隣へ行き、瓶を取り上げようとするが、柊水は瓶を遠ざけてくる。



「僕は大人だもん」

「私は大人じゃないって言うの」

「年齢的にはまだ大人じゃないよ。あ、こら、ちょっと……」



 無理に奪おうとしても柊水が押さえ付けてくるので奪えない。



「お酒弱いんだね、翼妃ちゃん。顔真っ赤だよ」



 柊水は苦笑していた。

 頭がふわふわする。柊水の膝の上に倒れ込むと、柊水が頭を撫でてきた。その手は冷たく気持ちがいい。



「部屋に戻る?」

「うん……」

「気分悪い?」

「ちょっと……」

「そっか。じゃあ、僕が運ぶね」



 柊水が翼妃を丁寧に抱え、休憩所を出る。視界の隅で売り子が心配そうにこちらを見ているのが見えた。




 部屋に戻ると、柊水がゆっくり水を飲ませてくれた。



「ここまで弱い子は初めて見たなぁ」



 馬鹿にされているように感じむっとする。不機嫌にさせたと思ったのか、柊水がいらぬ補足をしてきた。



「日頃から炎寿様たちを見てるから、それに比べたらって話だよ? 別に翼妃ちゃんがお酒に強くなくたって僕が面倒見るし」

「……柊水は、私よりも色んなことを知ってるね。閉じこもっていることしかできない私と違って」



 お酒の種類など知らないし、お酒の味も知らない。温泉だって今日初めて浸かった。

 書物を読んで手に入れた知識と、実際に経験を積んで知ったことでは、何か明確な差があるような気がする。柊水が羨ましかった。



「……だから、外へ連れ出してくれようとしたの、嬉しかった」



 頭が回らない。言ってはいけないようなことまで言ってしまいそうな感覚である。



「貴方のこと嫌いなのに拒絶しきれない……許しちゃいけないって思う自分と、受け入れたいって思う自分がいる」



 柊水は温泉宿ができたという情報を得て、すぐに翼妃を連れて行こうとしてくれた。幼い頃も、やけに屋敷から翼妃を連れ出し、紅葉を見せてくれたり川の近くの料亭へ連れて行ってくれたりした。翼妃の中には感謝と憎悪が共存している。



「僕が君をもっと外へ連れて行くよ」



 柊水がぎゅっと手を握ってきた。見下ろしてくるその瞳がやけに色っぽく見える。



「十年後も、二十年後も、翼妃ちゃんを連れて行く。ずっと傍にいてほしい」



 気持ちがぐらぐらと揺れる。



「……翼妃ちゃん、僕のこと好き?」



 柊水が頬に手を添えて聞いてくる。否定しなければと思うのに、抵抗するための理性がもう残っていない。



「――嫌いなら、拒否して」



 柊水の顔がゆっくりと近付いてきて、触れるような口付けをした。


 動くことはできたのに、避けなかった。理性を排除した上で、残った感情――これが本物なのだろうと思った。



  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る