鹿乃子との再会
◆
季節は巡る。真冬だというのに薩摩國には滅多に雪が降らない。ただ空気が冷たいだけの庭を見つめ、手紙に時候の挨拶を書いた。
翼妃は貴月大社に祀られている縁結びの鶴神・
鶴姫は丁寧な神だ。民からの好意的な手紙に和歌を返しているという話を何度も耳にしている。返事は来ないが、手紙の内容は確認しているだろう。それに――鹿乃子も過去、鶴姫のことを良い神だったと言っていた。信じるにはそれだけで十分だ。
手紙の内容は、龍神の祟りを終わらせるために協力して頂きたい、というもの。本当は現地に赴いて直接頼みたいところだが、黒龍の祟りの力がいくら弱まっているとはいえ、完全に誰も死なないと言えない以上火紋大社から積極的に離れることはできない。だから毎月手紙や捧げ物を送っている。
直接的な交渉ができないことにもどかしさを覚えるが、それに関しては柊水も面会を拒否されているためにできていない。おそらく誰がやっても同じことだ。
異国に倣った郵便制度が導入されたおかげで、手紙のやり取りは以前よりも楽になった。切手を貼って立ち上がった翼妃は、先に洗濯物を片付けてしまおうと庭へ向かった。一通り籠に入れて運んでいると途中の廊下で柊水とすれ違った。柊水は翼妃を探していたようで、走って息を荒らげていた。
「鹿乃子さんの意識が戻ったらしい」
その言葉を聞いた時、翼妃は驚いて洗濯物を床に落としてしまった。
“鹿乃子”――その名を他人の口から何年ぶりに聞いただろう。
「意識が戻った? 何を言ってるの?」
「言葉通りの意味だよ。まだ体は不自由なようだけど」
意味を理解できず、数秒柊水の顔を凝視する。
鹿乃子は死んだのだと思っていた。異形と成り果て、あの水害に巻き込まれ、もう命はないものだと。
「……生きてるの……?」
声が掠れる。床に落ちた衣類を拾う気にもなれなかった。
「鹿乃子さん、生きてるの……?」
柊水の着物に手をかけ、縋るように聞く。
柊水が頷くが、実感が湧かず反応ができない。頬を涙が伝っているのに遅れて気付いた。ぽたぽたと涙が床に落ちていく。
人は嬉しいことがあった時にも泣くことを、翼妃は初めて知った。
「どうしてそんなっ……大事なこと……!」
「期待させるのもよくないでしょう。目を覚ますかどうかは正直分からなかったし。それで翼妃ちゃんが自分のせいだって思い詰めても嫌だし」
「あいたい」
ひく、ひくと啜り泣きながら漏れたのは切実な願望だった。遅れてはっとした。あまりにも無防備な希望を柊水に晒してしまったことに不安を覚える。
大切な物は全て奪われてきた。また奪われるのではないかという恐怖が襲ってきたが、見上げた先にいる柊水の目は優しかった。
「会えるよ」
「会える……? 本当に?」
「翼妃ちゃんが望むなら、薩摩國の病院へ運ばせる。鹿乃子さんはまだ自分では歩けないようだから、少し大変にはなるけれど」
確かに、黒龍の影響を受ける可能性がある場所よりも、火紋大社付近にいる方が安全だろう。けれど、鹿乃子の実際の状態が分からない分心配でもあった。
「それって大丈夫なの? 道中で状態が悪化したりしない?」
「そうだね。医者に聞いてみて、危険性が高いようであればやめさせるよ」
安堵の涙が溢れる。いつの間にこんなに涙脆くなってしまったのだろうか。
柊水は、鹿乃子だけは翼妃から奪わなかったのだ。
翼妃が柊水に心から感謝することがあるとすれば――鹿乃子と出会わせてくれたこと、そして、鹿乃子の命を救ってくれたことだろう。
鹿乃子に会えることを楽しみにしながら夕食の場に赴いた翼妃に、隣の席で飯を食べている神鎮たちが聞いてきた。
「翼妃ちゃんってぶっちゃけさぁ、あの廻神家の神鎮のことどう思ってんの?」
ごほっと噎せた。平静を装いながら湯呑を置いた翼妃は、「どうって?」と聞き返す。
「いやなんか、噂で最近一緒に寝てるって聞いてさ……二人の仲気にしてる奴多いぜ」
「そーそー。俺ら翼妃ちゃんのことは妹みたいに思ってるからさ。血の繋がりはねーけど、心配ってか……」
「あいつ何かいけ好かねえじゃん? 餓鬼共は懐いてるみてーだけど、実際の所翼妃ちゃんを幸せにできるのかってずっと話しててよー」
そこまで話が広まっているとは知らなかった。屋敷に住む人の数が多いとはいえ噂は回りやすい狭い世界である。
「赤鬼様も『あいつらはアベックじゃ!』とか言ってるしよー」
「最近赤鬼様、異国語好きだよな」
「意味分かってんのか疑わしいけどな。適当に使ってる気がするぜ」
翼妃が何も言わずともお喋りな神鎮たちの話題が赤鬼のことに移ったので黙っていると、悲しいことに話題が戻された。
「で、実際どうなの?」
どうやら二人は翼妃の恋愛沙汰が気になって仕方がないようだ。
逃げられないことを覚悟し、翼妃は黙って考え込んだ。
柊水のことをどう思うか。白龍に襲われそうになっているところを迎えに来てくれたのは感謝しているし、鹿乃子のことで見直したのは事実だ。ただ――最近言動がましになったとはいえ、幼い頃やられたことがなくなるわけではない。柊水は生粋の廻神家の人間だ。自分が憎むべき存在だ。
「……お互い、幼い頃から知っているというだけ。何もないよ」
漬物を箸で摘みながら淡々と返すと、神鎮たちはつまらなそうに「なんだよーやっぱ何もねえじゃん」と食事に戻った。
翼妃は無言で汁物を吸いながら、柊水のことを考えていた。
柊水は昔と比べればまるで人が変わったようだ。昔は子供であったが故に好意の示し方が分からなかったのかもしれない。けれど、子供のやったことであると思ってもまだ許せない自分がいる。
人への憎悪はいつか消えるものだろうか。全ては時間が解決するだろうか。十八年しか生きていない翼妃にはまだ分からない。
だから、二十を過ぎても、その先も、生きたいと願う。
◆
一月ほどした頃、火紋大社の周辺にある小さな診療所に鹿乃子が運ばれてきたという知らせを聞いた。
翼妃はその日ばかりはお手伝いを休ませてもらい、柊水と共に診療所へ向かった。
「翼妃ちゃん、早いよ」
早足で一歩先を歩く翼妃に後ろから柊水が声をかけてくる。
「貴方に合わせる必要ある?」
早く会いたいのだ。不満があるならそちらがもっと早く歩けばいい、という意味を込めた視線を送れば、柊水は苦笑していた。
「嫉妬するね」
「何に?」
「鹿乃子さんに。僕が異形と成り果てて死にかけても、翼妃ちゃんはそんな風に心配してはくれないだろうから」
歩きながら一瞬その姿を想像した。柊水が無惨な姿で死ぬとしたらと考えた時、もやっとした気持ちが胸を埋め尽くす。
「……心配はしないけれど、良い心地もしないかも」
ぼそりと呟いた言葉はしっかり柊水の耳に届いたようで、先程まで後ろを歩いていたはずの柊水がいつの間にか隣に来ていた。
「翼妃ちゃん、今何て言ったの」
「さあ。忘れちゃった」
食いついてくる柊水に対してとぼけながら、診療所の中へ入った。医者は柊水と翼妃を視界に入れると瞬時に深々と頭を下げてきた。そういえば、柊水は神を祀る家系の当主なのだった。翼妃は全くそのような姿を見ていないためぴんと来ないが、柊水はこの國ではかなりの身分として扱われる存在だ。医者も何か不躾なことをしてしまわないかと緊張しているのだろう。
「鹿乃子様は奥の床で眠っております」
奥には数名の怪我人と、寝転がったままぼんやりと天井を見上げている鹿乃子が居た。その姿を見た翼妃は彼女に駆け寄り、その顔に顔を近付ける。
「鹿乃子さん……、分かる? 私、翼妃よ」
そのやせ細った手を取って必死に声をかける。鹿乃子の虚ろだった瞳に僅かに光が宿ったような気がした。
「翼妃……様……?」
「そう、私、翼妃」
「夢でも見ているのでしょうか……」
「いいえ、夢じゃない」
「ごめんなさい。わたくし、もう目が見えなくて……」
「ううん、目を覚ましてくれただけで嬉しい。ごめんなさい、私のせいで。私の傍にいたせいで」
泣きそうになりながら謝罪すると、目の見えない鹿乃子が手探りして翼妃の頬に触れる。
「謝らないでください。翼妃様のご両親のように、わたくしも望んで翼妃様のお傍におりました」
「……っ」
「またお会いできて、光栄でございます」
鹿乃子を強く抱き締める。鹿乃子も翼妃の背中に手を回してきた。その時、背中がぽうっと温かくなる感じがした。
「……鹿乃子さん、今、何かした?」
「状況は柊水様から聞いております。翼妃様と、鶴姫様の間に、縁を結びました」
そう言った次の瞬間、鹿乃子は酷く痛そうに顔を押さえた。
「っ何で……お願いだから無理はしないで。鹿乃子さん」
「いいえ。今しなければなりません。多少無理をしてでも……。だって、翼妃様に残された時間は少ない」
翼妃に執着する黒龍の影響で失明までしたにも拘らず、鹿乃子はまだ翼妃のためを思っている。我慢していた涙が溢れた。
「わたくしが使える神鎮の権利はおそらく先程のものが最後です。温存していました。翼妃様に使うために」
「そうだよ。鹿乃子さん、僕にも使ってくれなかった」
後ろから柊水が入ってきて言った。柊水の存在に気付いたらしい鹿乃子は「申し訳ございません……」と小さな声で謝罪する。どうやら柊水に使うのは断っていたらしい。
「ちょっと柊水、鹿乃子さんを怖がらせないで」
「え? 今の、怖がらせたことになるの?」
涙を服の袖で拭きながら厳しい口調で注意した翼妃と柊水のやり取りを聞いて、鹿乃子がふっと安心したように笑った。
「そう……。翼妃様、柊水様とは和解されたのですね」
「和解っていうか……元々仲良くもないけど」
「翼妃様が、思ったことを言えるようになったのなら、良かったです」
笑う鹿乃子の、まだ完全に治りきっていない焼けただれたような皮膚に、嬉し涙が伝っていた。
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