第五章 十八歳

しつこいから






 数年前から見る夢がある。


 頻繁にその夢を見る時もあれば、数ヶ月間が開くこともあった。翼妃つばきは、最初にその夢を見たのがいつかもう覚えていない。おそらく火紋大社へやってきてしばらくした頃からだろう。


 夢の中で翼妃はある男と出会っていた。上質な漆黒の着物を身に纏った、長い黒髪の男だった。彼を見た幼い翼妃はその美しさに見惚れ、胸が高鳴った。


「――、可愛いな」


 彼は翼妃のことを翼妃とは呼ばなかった。聞き慣れない誰かの名で呼ぶ。

 そのうち、彼によく似た見た目をした男を紹介された。双子のように瓜二つ。違うのは髪の色と着物の色のみだ。


「なぁ、――。こいつの名前は白龍と言うんだ。これから――はこいつとも愛し合わないとな」

「愛し合うのは、男と女で一対一ではないのですか?」

「神の世ではそうとも限らない。俺たちはずっと一緒だ。愛しているぞ、――」

「わたくしもです。黒龍様、白龍様。わたくしは一生あなた達のものです」


 うっとりと黒龍と白龍の背中に手を回し、三人で抱き合う彼女は、確かに龍たちを愛していた。




 そこでいつも、はっと目を覚ます。


 夢の中で黒龍と接しているのは翼妃ではない。容姿も着ている物も喋る言葉も全て違う。あれはおそらく前世の記憶――神鎮の始祖の記憶だ。


(神鎮の始祖の初恋の相手は……黒龍なんだ)


 記録では、神鎮の始祖は、恋など知らぬ年齢で龍神二体に洗脳されていたというような書き方だった。

 しかし実際は違ったのだ。始祖は確かに黒龍が好きだった。後に白龍のことも好きになった。それは恋と呼んで差し支えない感情だっただろう。実情を何も知らぬ当時の廻神家の人間が、勝手なことを書き残したに過ぎない。

 けれど人の心は変わる。ずっと一緒にいると言ったにも拘らず、始祖であった女性は人間の男を好きになってしまったのだ。


 小さい頃、初めて水晶宮を見た時、翼妃はその美しさに対して恋慕のような気持ちを抱いたことがある。

 今思えばあれは――前世の自分の、あの場所に残る黒龍への感情だったのかもしれない。




 ◆



 廻神家の当主、柊水が二年間の長期休暇に入るという知らせに、國の人々は納得していた。


 玉龍大社の復興は既に一段落しており、急を要する問題はなくなったことから、民からは三年間若くして身を粉にして働いていた柊水を労う声が多かった。一部では過労死を心配されていたらしい。世間ではむしろ休んでくれという雰囲気だった。

 二年の間は元当主である柊水の父が当主の代理を務めている。反対する人々も多かったが、柊水が三年前の悲劇は父が原因ではないことを説明すると、徐々に納得する者が増えてきたそうだ。



 ――あの神無月から、柊水は翼妃に付いて火紋大社で暮らすようになった。

 龍神が嫌いな宰神家の神鎮たちは最初柊水をこの屋敷に置くことに反発したが、炎寿が許可を出した。翼妃が炎寿に事情を説明したからだ。当主である炎寿の判断に口を出せる者はこの屋敷にはいない。一部では炎寿様は翼妃に弱い、と文句の声が上がったくらいだ。


 柊水はわいわいと騒ぐ性質ではないため、宰神家の神鎮たちとは距離を置いていた。一度、その態度が鼻につくと言って宰神家の神鎮が柊水に勝負を挑んだことがある。

 結果としては――神鎮の権利も使って戦った宰神家の神鎮に、柊水は武道のみを使って勝った。柊水より一回り年上で体格もがっしりとしている彼らに勝ったところを見て翼妃も驚いた。それ以来、宰神家の神鎮は柊水に対し文句を言わなくなった。


 炎寿もその才能に感心し、宰神家に生まれた少年たちの武道の教師をするよう頼んだ。

 柊水が少年たちの世話をしているところは意外性がありなかなか面白かった。最初、気に入らないと言って虐待するのではないかとひやひやしながら見ていたが、柊水は意外にも少年たちと相性が良かった。



「柊水ってすげーよな! 神鎮の権利を使えないのにつえーんだもん!」

「おれ、おっきくなったら柊水くらい強くなる!」



 あの日から、柊水に神鎮の権利は戻っていない。未だに水を操れないままだ。

 しかし、少年たちはそんな柊水に懐いている。柊水にぼこぼこにされても笑顔でぎゃあぎゃあと騒ぐ少年たちを見る柊水の目は優しかった。


 その様子を縁側からぼうっと眺めていると、翼妃の存在に気付いたらしい柊水が近付いてきた。



「翼妃ちゃん。来てたの」

「お手伝い、今日は早く終わったから……」



 わざわざ柊水を見に来たと思われるのも癪なので、嘘をついた。



「柊水様が呼び捨てにされているの、珍しいね」

「まあ、廻神家では僕が一番偉かったからね。翼妃ちゃんも呼ぶ? “柊水”って」



 柊水が冗談っぽく笑いながら聞いてくる。

 幼い頃から柊水は絶対的な存在だった。忌み子である自分が柊水と仲良くしているだけで怒鳴ってくる神鎮だっていた。呼び捨てで呼ぶなどとんでもないことだ。

 ああ、でも――あいつらは全員、あの夜に殺したのか。

 柊水をどう呼ぼうとどう扱おうと、それが気に入らないと言って虐げてくる人間はもうこの世にいない。



「……じゃあ、柊水」



 翼妃は俯いて小さな声で言った。慣れない。むず痒い心地がする。



「柊水、隙ありーーー!!」



 その時、少年たちが後ろから柊水に体当たりし、柊水が翼妃の方に倒れてきた。いつも体幹がしっかりしているのに珍しい、などと思っているうちに柊水諸共床に倒されてしまった。



「勝ったぞー!」

「柊水に勝ったー!」



 少年たちはおかしそうにけらけらと笑いながら庭を走り回っている。

 柊水もさすがにこれには怒るのでは、と思ったが、見上げた先にいる柊水の目は翼妃しか捉えていなかった。



「翼妃ちゃん、口付けしてもいい?」

「嫌」

「嫌?」

「……嫌」

「そう……今日もだめか」



 柊水は不服そうにしながらも、あっさりと翼妃の上から退いた。どういう心変わりだか知らないが、柊水は子供の頃とは違い、翼妃が嫌だと言えば無理に手を出してこなくなったのだ。武蔵國を統治する雷神に何か言われたらしいが、詳しくは聞いていない。



「一緒に寝るのは?」

「それもだめって毎日言ってる」

「翼妃ちゃんが嫌がることは何もしないよ?」

「一緒に寝るのが嫌なんだってば」

「昔はよく一緒に寝てたのに?」

「無理やり一緒に寝かされてたの間違いでしょ」



 倒れたことで乱れた髪を結び直しながら言うと、柊水は残念そうな顔をする。



「翼妃ちゃんはつれないな」



 翼妃は吐き捨てるように返した。



「貴方のこと、嫌いだもの」



 ――そこで、どたどたと大きな足音を立てて近付いてくる者がいた。



「おお、翼妃、ここにおったんか。新しか酒が手に入ったんじゃ。我の話し相手をせんか!」



 上機嫌な赤鬼だ。片手には大きな焼酎の入れ物を持っている。

 そういえば、炎寿が新しく捧げ物を仕入れてくると昨夜言っていた。うまい酒さえあれば言うことを聞くのだから単純な神様だ。



「午後は勉強の時間を取りたいのですが……」

「そげんことゆーな。ちょっと後回しにするくれえよかじゃろ」



 赤鬼が翼妃の腕を掴み、部屋の中へと連れて行こうとする。

 その翼妃の反対側の腕を柊水が掴んで引き止めてきた。



「翼妃ちゃんに馴れ馴れしく触らないでくれる?」



 とても他所の属性の神への態度とは思えないほど、柊水は口が悪い。礼儀というものを知らないのだろうか。神を祀る家系にいたのだから、神への態度については散々叩き込まれただろうに。



「はぁ~~~? なんじゃ。廻神家んやつはこれやから好かん。こん火紋大社では我が一番偉かど。逆らうな」

「翼妃ちゃんは僕と一緒にいた方が楽しいって言ってる」

「言ってないけど……」

「我の方が翼妃と仲ええもん。邪魔もんはどっか行け」

「僕は翼妃ちゃんが六歳の頃からずっと一緒にいたんだよ? 邪魔者はどっちかな」



 ぐぬぬっと赤鬼が押し黙る。そして、ふといいことを思い付いたようににやりと口角を上げた。



「我と翼妃はキッスしたことがあるんじゃ。知っとるか? 異国では口付けのことをキッスと言うんじゃ」

「――は?」



 柊水の声が、格段に低くなる。怒っている時の声だと察した翼妃の体がびくりと揺れた。今では対等な立場で会話できているが、幼少期から染み付いた恐怖はそう簡単に克服できるものではない。



「そうなの? 翼妃ちゃん」



 冷ややかな視線を向けられ、汗が額を伝う。

 赤鬼の方も、そんな何年も前の話を今更持ち出すとは何事かと思った。赤鬼とそのようなことをしたのは、神鎮の権利を与えられた時の一度きりだというのに、その言い方では随分親しくしていたように取られてしまうではないか。



「翼妃ちゃんは神様に大人気なんだね」



 言い方に物凄く棘がある。

 怖くなって赤鬼の方にすり寄ると、赤鬼は上機嫌な様子でにこにこと笑った。「翼妃ちゃん」と柊水がまた名前を呼んでくる。



「今日の夜、部屋へ行くから」



 ああ――有無を言わせない時の声音だ。

 この男の本質は昔から何も変わっちゃいない。気に入らないことがあれば力尽くで従わせようとしてくる。こういうところが嫌いだ、と翼妃は思った。





 ◆




 虫の声が聞こえる。月が明るく、晴れていることが分かる夜だ。

 昔はむさ苦しい宰神家の神鎮たちと雑魚寝していたが、十八となった今ではようやく翼妃は年頃の娘として扱われるようになり、個室を用意されている。廻神家にいた頃の離れの間とは違う、広くて綺麗な畳の間だ。



「……本当に来たんだ」



 外から呼ばれ、襖を開けて呆れた。柊水が偉そうに立っていた。

 温泉に入ってきたところなのか、毛先がわずかに濡れている。柊水は火紋大社付近の温泉を気に入っており、度々子供たちと向かっていた。


 無言で襖を閉めようとすると、それを柊水の手が制止してくる。



「こんな所に突っ立ってたら湯冷めしちゃう。僕が風邪を引いてもいいの?」

「さっさと自分の寝床に戻れば良いのでは?」



 ぐぐぐっと閉めようとするが、柊水の力に敵うはずもない。これ以上やっていたら襖が壊れると思った翼妃は、諦めて柊水を部屋に入れた。



「こんな時間まで勉強してたんだね」

「まだやるから、適当に床で先に寝ておいて。布団は一式しかないから使わないで」



 机の上に開かれた書物を見下ろして柊水は意外そうな顔をした。そして、翼妃が座布団の上に正座すると、その隣に座ってきた。翼妃はそれが鬱陶しくて、肘で追い返すような動作をした。



「先に寝てって言ってるのに……」

「今日は肌寒いから、翼妃ちゃんと一緒に寝るよ」

「ちょっと。距離が近い」

「ここの記述間違えてない?」



 柊水は翼妃が勉強していた書物を覗き込み、頁の最後の文字の羅列を指さして言う。



「部分的に開国していく方針を示したのは明和天皇じゃなくて上皇様だよ。年数も違う。ちゃんと新しくてしっかりした教科書を使った方がいい。こんな落書きみたいなものじゃなくてね」



 宰神家が用意した書物をあっさりと落書きと評した柊水は、今度は翼妃を覗き込んできた。



「というか、どうして翼妃ちゃんがこの國のことについて学んでいるの?」



 間近で見ると綺麗な目をしている。睫毛も長いし、肌も綺麗だ。寝間着の隙間から胸板が見えて、思わず視線を逸らした。



「炎寿様に、この力を活かして神鎮の始祖のような役割を担う人間になれと言われてるの。彼は明和の時代の神鎮にも抑止力が必要だって考えてるみたい」

「ふーん?」



 宰神家に預かってもらう代わりに出された条件だ。期待を裏切るわけにはいかない。

 始祖のような役割を担うには、神々やそれを祀る五家についての知識や教養が今まで以上に必要だ。それに加えて、國の歴史も学ばなければならない。

 仲の悪い廻神家で育った忌み子である翼妃を快く受け入れてくれた炎寿に恩を返したい。だから、翼妃は日々忌み子としての運命から逃れる手掛かりを集めるのと同時進行で他の勉学にも励んでいる。

 柊水が面白そうに笑った。



「いいね。廻神家の当主として僕が愚かなことをした時は、翼妃ちゃんに止められたいな。将来は、僕のこと監視してよ」



 驚いて筆を走らせる手が止まった。


(……“将来”?)


 この男は、当然のように翼妃に未来を語った。



「貴方が私に将来って言葉を使う日が来るなんてね」



 怒りが芽生えてきて、柊水を睨み付ける。



「私は二十歳になったら神に捧げられ殺される、“可哀想”な、母親のお腹の中で死んでおけば良かった存在って言ったのは貴方なのに」

「実際そうだからね」

「最低」

「でもそうはさせない。絶対に」



 柊水はあっさりと、難しいであろう願いを言う。


 この二年柊水は、水晶宮に残る黒龍の意思を完全に消滅させるための仲間を集めていた。集めていたと言っても、空属性の雷神や風属性の鷲神は元々柊水に協力的だったようだが。

 問題は鶴姫だ。面倒事には手を貸さない、利がない、そもそもそんなことで成功するかも分からないだろうと言い、頑なに柊水を拒絶している。柊水は廻神家に保管されていた最重要機密である水晶宮についての情報を当主として記憶しており、この経路で行けば、とか、協力してくれた暁には必ず廻神家からも支援を、と伝えているようだが、鶴姫はそんなことよりも玉龍大社の縁者と関わりたくないらしく、最近では面会を拒否しているらしい。



「……柊水は、私の運命を変えられると本気で思ってるの?」



 俯いて聞いた。

 これまで何年もかけて手掛かりを集めてきたが、翼妃に残された時間はあと二年しかない。例え鶴姫が手を貸してくれたとして、柊水の計画が成功するかは分からない。そんな不確かなことのために柊水が全力を尽くしていることが不思議だった。



「できることは全てしたいと思ってる。僕は龍神と違って“今ここにいる”翼妃ちゃんが好きだから」



 柊水のそれは、愛ではないと思っていた。しかし――柊水の行動原理は、全て翼妃に関わることだ。

 翼妃は覚悟し、書物を閉じて柊水に向き直った。



「ねえ柊水。……私、白龍に会いに行こうと思ってる」



 柊水が分かりやすく眉を寄せ、即答してきた。



「それだけはだめだよ。あれは良い神じゃない」

「でも、私のことを守ってくれてた」

「まだそんなこと言ってるの?」

「始祖は私じゃない。私は生まれ変わりというだけ。でも神様にとっては、同じものなのだと思う」



 最近よく見る夢のことを思い出す。あの夢の中で翼妃は始祖の中にいる。始祖の気持ちも、その気持ちの変化の残酷さも実感として得ている。



「白龍から見て、先に裏切ったのは私なんだよ」



 ずっと一緒にいると誓った始祖は、その誓いを破って他の男の元へ向かった。その行動はどれだけ神々の心に傷を与えただろう。



「水晶宮へ行くにはどうせ白龍の手助けが必要でしょう」

「翼妃ちゃんは出てこなくていい。僕が全部どうにかする」

「白龍が柊水の交渉に応じると思えない。会ってくれるかも微妙でしょう。その点私が行けばきっとすぐに……」



 柊水が翼妃の手首を掴んだ。



「僕は一度龍神に翼妃ちゃんを奪われた経験がある。また翼妃ちゃんを引き渡すような真似はしたくない」



 幼い頃、翼妃は神隠しに合ったことがある。いなくなったのはたった三日間。しかしその三日感は、柊水に強烈な印象を与えたらしい。

 しかし翼妃の方も譲れなかった。



「私の運命を変えたいのは貴方だけじゃない」



 今でも鮮明に思い出すことができる。家族が目の前で死んだ日のことも、鹿乃子の姿が目の前で変形した日のことも。



「鹿乃子さんが犠牲になった時に決めたの。私はこの祟りの輪廻から脱却するって」



 あの日から、どうか鹿乃子が祟りの最後の犠牲者になりますようにと祈るばかりの日々だった。来世もその先も、祟りで死ぬ者がいませんようにとも。

 柊水はまだ納得できない様子で顔を顰める。



「翼妃ちゃん、僕の言うことを聞かなくなったね」

「貴方こそ、私の言うことを聞いたらどう?」



 手を伸ばし、柊水の首に手をかける。



「私は柊水のことを今ここで殺して黙らせることもできる。そうしたら私といることももうできないよ」

「……悪い子。いつの間に脅しなんか覚えたんだか」



 柊水は無表情のまま翼妃を見下ろしている。この脅しに屈するつもりはないのだろう。

 別に本当に手を染めてやってもいい。そうすれば復讐にもなる。けれど、この宰神家の屋敷で殺人を犯すことなど炎寿が許さない。それに、柊水に懐いているあの少年たちのことを考えると――。

 翼妃は大きな溜め息を吐いて、柊水に少し体を寄せ、寝間着の襟を引っ張って互いの顔を近付けさせる。そして、その唇に自分の唇を重ねた。まるでただの接触だったかのように一瞬で離れ、「これでいい?」と間近で聞いてみる。



「……は?」



 柊水はぽかんとしていた。いつもきりっとしている柊水のそのような間抜け面を見る機会はこれまでなかったため少し可笑しい。



「これでいい? って聞いてる」

「……今度は色仕掛けってわけ?」

「うん。これでいい? 口付けした代わりに私の言うこと聞いて」



 この程度のことを随分やりたがってたみたいだから、と馬鹿にしたように言ってみせると、柊水の目がぎらりと光った。



「いいわけないだろ。足りないよ」



 一瞬にして押し倒されたかと思えば、薄く開いた唇がまた近付いてきて、口唇が触れ合う。逃げる舌先を追いかけるような攻防があった後、吐息の熱を感じた。



「こういうこと、他の男にもやってるの」

「効果があるとしたら貴方くらいだからやらない」

「赤鬼にはした?」

「してない」

「でもあいつ、翼妃ちゃんと口付けしたことあるって言ってた」

「そんなことしたのは一度だけ。それも向こうがふざけてやっただけ。神様の気紛れだよ。よくあること」

「……殺してやる」

「祟られるよ。来世でまで」



 神を殺したことあるから言えるけど、と翼妃が自嘲したところで、また雨のように口付けが降ってくる。

 何十分そうしていたか分からない、長い長い時間が過ぎた後、柊水が翼妃の首元に顔を埋めて言った。



「やっぱり、こんな可愛い翼妃ちゃんを龍神の元に送りたくない……」

「……」



 逆効果だったかもしれない、と後悔した時、ぽつりと柊水が言う。



「行かせるにしても、翼妃ちゃんの全部、先に欲しい」



 柊水の目に情欲の色が見える。

 翼妃の手は柊水の手によって床に縫い付けられており、逃げられる体勢ではない。



「い、いや……だめだから……」

「そうしないと行かせないって言っても?」

「だめだって……」

「僕、翼妃ちゃんの初めてだけは大切に残してたのに。龍神が早まって翼妃ちゃんに手を出したらと思うと耐えられない。現に僕が迎えに行った時も襲われてたし。あいつ絶対手が早いと思う」

「な、何の心配してんのっ」



 足で蹴り飛ばしてみたがびくともしない。

 掴まれた手から炎を発して攻撃すると、ようやく手が退かされた。その隙を付いて体勢を立て直し、関節技に持ち込もうとした――が、柊水の動きは速く、掴もうとした手から逃れられる。



「いい動きするね。どちらが強いか勝負してみる? 負けたら翼妃ちゃんは僕のものってことで」



 柊水が楽しげに笑う。

 翼妃は宰神家の屋敷で筋骨隆々な神鎮たちの影響を受けながら武道も嗜んできた。そう簡単にはやられない。だが、“鍛錬”の時の嫌な記憶が蘇ってきて恐怖を拭い去れない。

 震える拳を隠すように握り締めて言った。



「私は誰のものでもない」



 そのまま柊水に殴りかかるが、彼はあっさりと避けて反撃してくる。それをうまくかわし、投げ技の姿勢へいこうとしたが距離を取られた。下手に神鎮の権利を使えば部屋が燃えかねない、もっと広いところへ移動したい――そう思って思いっきり柊水の腹を蹴り上げた。柊水の体が後方に下がり、襖が外れた。

 広い所へ行きたかったのは柊水も同じであるようで、誘い込むように戦いの場が庭へと移行する。


(ここなら炎で燃やしてやればいい――)


 そう判断して庭へと踏み込み神鎮の権利を使おうとしたが、不意に柊水を火傷させてしまう可能性が脳内を過ぎってわずかに躊躇した。

 その一瞬を柊水が見逃すはずもない。襟を掴まれ、綺麗に投げられる。

 気付けば、縁側に倒されていた。自分の荒い息の音と、虫の声が夜の庭に響いている。



「――はい。翼妃ちゃんの負け」



 柊水の後ろに月がある。悔しいくらい月の似合う人だと思った。



「弱いくせに僕に歯向かうからこうなるんだよ」

「……うるさい……」

「それとも、僕相手に本気になれなかった?」

「……は?」

「今、神鎮の権利を使おうとして使えなかったでしょ」

「……」

「神鎮の権利は凶器と同じだ。僕も使ってたからよく分かる。翼妃ちゃん、僕を殺しちゃうのが怖かったんだ」



 ――そうだ。何故か翼妃はいつも、柊水だけ殺せない。十三歳のあの夜も、柊水の首に手をかけて絞め殺そうとまでしたのに、最後までできなかった。

 悔しさでいっぱいになって唇を噛むと、それを窘めるように柊水が口付けをしてくる。



「可愛い。翼妃ちゃん」



 その目が優しく、おかしな動悸がした。



「優しくするね」



 そう言って柊水が翼妃に触れようとした――その時、どたどたと大きな足音がして、曲がり角から炎寿が現れた。



「大丈夫か!! 翼妃!!」



 炎寿は何故か刀を持ってこちらを睨み付けている。おそらく、翼妃たちが暴れる音が響いていたせいで心配して駆けつけたのだろう。

 炎寿は翼妃と柊水の姿を見ると、雷に打たれたような表情をした。



「あ、ああ……成程……夜這いか……」



 刀を引っ込めた炎寿は、気まずそうにくるりと踵を返した。



「盗人に襲われているのかと思ったが……まあ、柊水なら大丈夫だろう……」

「え、炎寿様……!? この人の人間性のどこをどう判断して大丈夫だと思ったのですか!?」

「そうか……翼妃ももうそのような年齢か……すまない」



 翼妃の制止も無視して、炎寿は走り去ってしまった。

 柊水と翼妃の間に、数秒の沈黙が流れる。



「じゃあ、続き、やろっか」

「やるわけないでしょ!」



 今度は悲鳴のような怒声と、綺麗な平手打ちの音が庭に響いた。






 ――結局、翼妃と柊水は同じ布団で寝ることになった。互いの意見がぶつかりあった結果の妥協案というところだ。



「あーあ。もっと翼妃ちゃんとくっつけると思ったのにな」



 柊水からは距離を置いて縮こまり、布団の端だけを使っている翼妃に、柊水がわざとらしく文句を言う。



「どうせ今日だけだし、ちょっとくらい甘えさせてくれてもいいのに」

「どうせ明日も来るでしょ……」

「来てもいいってこと?」

「……一緒に寝るくらいならいい。子供の時もしてたし」



 翼妃の言葉が予想外だったのか、後ろの柊水が黙り込んだ。



「柊水、しつこいから」



 だから仕方なく――という意図のことを伝えたかったのだが、突然柊水の手が腹に回ってきて抱き寄せられる。



「ひゃあっ!!」

「翼妃ちゃん、可愛い。好き。愛してるよ」

「ちょ、どこ触ってるの。吹っ飛ばすよ……?」

「色々したいところを翼妃ちゃんが嫌がるからやめてあげてるんだから、これくらい許してよ」

「ほんと最低……」



 ぶつぶつと文句を言いながら、柊水とくっついても別に嫌な心地はしない自分に驚いた。

 幼い頃から一緒に過ごしていたが故の妙な安心感のようなものすらあり、はっとしてそう感じてしまう自分を心の中で叱咤する。


(こんな奴に、心を許したらだめなのに……)


 最近、調子が狂って嫌になる。





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