第10話 ハルニレの美しい木
私は高卒の資格を得た後、歯科技工士の学校を卒業して、今は市原市の歯科技工所に勤めている。27歳になった。一見では私がとんでもない女だということはわからない。お化粧もしているし、お洒落もしている。職場の人には微笑みを返すし、軽い雑談の相手にもなる。
そして自分が一番信じられないのだが、この私が恋をした。取引先の歯科医で四十代の人だ。チェロを弾くのが趣味。私のお気に入りは指が長いこと。都会的で繊細な人だった。お金があって趣味が良い。当然女性の扱いに慣れている。そんな男が私を清楚系と勘違いした。体は処女だったし、無口だったから、勘違いさせてしまったのかも。
男のもう一つの趣味は写真。市原の郊外の自然の中で、デートの度にポートレートを撮ってくれた。写真には美しい風景の中に見知らぬ若い女、笑顔のきれいな子が写っていた。時がたつにつれてその子は美しくなっていく。ヌードの写真も混ざるようになった。
その頃からやっと私はその写真の女が自分だと認識できるようになった。彼と撮影の続きでホテルに行き、自然とセックスするようになったからだ。彼は私の白すぎる肌から透き通る青い静脈を、長い指でたどるのが好きで、私もそれに快感を覚えるようになってしまった。
この人も私の妄想を消す一種の天才で、静脈をまるで弦のように弾く。そのたびに私は肌の1か所に集中して、その指の動きを感じる。そして気が付かないうちに声を出している。この声は私の願望駄々洩れで、感じるとか、いきそうとかだけでなく、犯してほしいとかまで言うらしい。
2年付き合った後、この人からは真剣にプロポーズされたが、私は結婚には踏み切れず交際を断ってしまった。この男は私の肉体を良く鳴る楽器のように開発してくれた。だが私の心はまだあの夢の男に縛られている。それに私に手を出してこないが、体の相性がいいのは隆君だという気がしていた。
隆君は希望の大学に入って確率論の経済学への応用に没頭している。市場を研究するのではなく、人間の選択という視点に立って、どういう選択肢があるのが最も豊かかに確率論を応用するらしい。
「一花さん。自動販売機に20の飲み物が入っているの。20種類の飲み物が入っている場合と、全部同じ場合とどちらが豊かだと思う?」
「それは20種類のほうに決まっている」
「いまのGDPは選択肢が多いと豊かだということを反映できないんだ。僕は人生のすべての場面で適切な選択肢の数が豊かさを決めるっていうことを数学的に計算できるようにしたい」
寝癖は変わらないが、たくましくなってきた。オスの臭いがする。私にとって隆君は何でも話せる相手だ。あの歯科医の話もセックスのことも含めて話してある。それに刺激されて、私を抱いてほしいから。でもまだ成功はしていない。ただ隆君と話した夜はいつもぐっすり眠れる。隆君にとっても何でも話せるのは私しかいないと思う。
隆君は時間がもったいないので、性欲は自分で処理して、いつも賢者だ。私はいつでも言ってくれれば何でもすると言ってあるのだが、その言葉をおかずにして、イメージだけで性欲を処理しているらしい。時々は「木の葉」を手伝いに来ている従妹に浮気していると言われた。これがまた両刀遣いの私の妄想を掻き立てる。
あと妄想ではなく、法律的に隆君は私の弟になった。長谷部先生は私の父と結婚して、北海道に去った。お照様の世話と夢解きの仕事は完全に私が受け継いだ。
もしかしたら私は騙されたの?でも私だけでなく、父もお義母さんも隆君も、幸せになったことは間違いない。数か月後に、私には妹ができるらしい。私はと言えば歯科技工士があっていたのか、最後は職人仕事であるこの道を究めたいと思っている。。
夢解きの仕事も、要するに近所のおばさんたちの話し相手だから難しくはない。夢解きには妄想する力も役に立つのだ。人づきあいが苦手だったのに、1200年続く旧家の一員であるということは、ひ弱な薄皮に包まれていただけの私を堅い殻で守ってくれる。
しかも私は神木から生まれた神の子だという噂が広がって、私がときおり放心するのも神が降りたと言って手を合わせる人まで出る始末だ。困るのはおばさんたちが私の結婚を心配してくれることだ。不倫でもいいから女の子を産めというのだ。半分くらいのおばさんたちは隆君との結婚を勧める。この家に女性後継者がいなくなると日本は没落するそうである。
のの花お義母さんから、美しい写真が送られてきた。雪原の中のハルニレの木だという。朝日に輝いている。実在するんだ。こんな美しい木が北海道の十勝にある。もしかしたら私はこの木の中に捕らわれていたのかもしれなかった。そして本当の運命の人と出会っていたのかもしれない。でも私はそれを選ばなかった。
写真の中の冬の朝のハルニレは切ないくらい美しい。
二つの夢 神森倫 @kamori
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