後編

 メロスがぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。


「待て」


「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ」


「どっこい放さぬ。お前は捕らえられ、奴隷商に売られるのだ」


 この山賊たちの頭目はアンテルノの子ペダイオス、妾腹めかけばらの子であったのを、貞淑な妻テアノが夫の心を思いやって、我が子と変わらぬ慈愛を込めて育て上げた子であった。この心優しき男は、メロスを討ち果たすことを暴君ディオニスに命じられていたのであるが、哀れみの心を知る彼は、いのちまでは取らず、メロスを奴隷として売払い、ディオニスの目の届かぬ異国の地に逃がそうとしたのである。


 ペダイオスが合図するや、山賊たちが一斉に棍棒を振り上げた。一介の牧人メロスに勝ち目はないと思われたが、この時、つわもの殺しの軍神アレスがメロスに加護を与えた。メロスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、その棍棒を奪い取って、


「気の毒だが正義のためだ!」


 と猛然一撃、山賊の一人、その青春も花の盛りのシモエイシオスの胸を打ち据えた。この若者はその母が、両親とともに羊の群れを見ての帰り、イデの山を降る時、シモエイスの河畔で産み落とした子、その故にシモエイシオスと名付けられたが、親たちに養育の恩を返すこともかなわず、メロスに打たれ、その目を闇が覆った。


 続いてメロスが襲いかかったのは、プリアモスの優れた子、容姿端麗のゴルギュディオン。トラキアのアイシュメから嫁いできた彼の母、その姿は女神にも劣らぬ美女カスティアネイラの産んだ子であったが、メロスが棍棒で頭を打つと、さながら庭先の芥子けしが、実も重く、春雨にも濡れて片方にこうべを垂れる如く、がくりと頭を片方に傾けた。


 メロスが最後に襲いかかったのは、ストロピオスの一子、狩りには手練のスカマンドリオス。彼こそは女神アルテミスが自らその手を取って、山間の木立の育むいかなる野獣をも、見事に仕留める術を教えた狩りの名手であったが、この時はもはや、弓矢の神アルテミスの加護も、かつては並ぶ者もなかった遠矢の術も、なんの用にも立たなかった。メロスが逃げるスカマンドリオスの両肩の間を棍棒で打つと、相手はうつ伏せに倒れ、身につけた物の具がカラカラと鳴った。


 このようにしてたちまち、メロスは三人を殴り倒し、残りの者がひるむ隙に、さっさと走って峠を下った。


 路行く人を押しのけ、跳とばし、メロスは黒い風のように走った。一団の旅人とさっとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。


「いまごろは、あの男も、磔にかかっているよ」


 ああ、その男、その男のために私は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。名前だけ出てきてその後どうなったのかわからぬ山賊の頭目なんかは、どうでもいい。


 メロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。塔楼は、夕陽を受けてきらきら光っている。


 そして陽が、ゆらゆら地平線に没し、まさに最後の一片の残光も、消えようとした時、メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。


「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。約束のとおり、いま、帰って来た」


 その翼ある声は群衆の耳にも、磔の柱に縛られたセリヌンティウスを徐々に釣り上げようとしている兵士の耳にも、暴君ディオニスの耳にも届いた。全員がぎょっとして凍りつくなか、メロスは磔台にのぼり、釣り上げられてゆく友の胸にすがりついた。


 この時、予兆の神ゼウスは、最もよく神意を伝える鷹を遣わした。鷹は刑場に舞い降り、メロスとセリヌンティウスを引きはがすや、セリヌンティウスの腹をくちばしで小突いた。


 察しのよい石工セリヌンティウスは頷いて曰く、


「メロス、私を殴れ。私はこの三日の間、たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、私は罪人のままだ」


 メロスはすべてを察した様子でうなづき、セリヌンティウスの腹を殴った。セリヌンティウスはたまらず、胃の中のものを全て吐きだしたのであるが、酸っぱい匂いのする液体と、黒い血とに混じって、小さな短刀が吐き出された。


 それはゼウスが命じ、鍛冶の神ヘパイストスが鍛え、足疾きイリスが刑吏けいりに化け、セリヌンティウスが眠っているうちに、彼に呑ませたものであった。


 メロスはその短刀を拾い上げ、セリヌンティウスをいましめていた縄を切った。セリヌンティウスの、猜疑の罪は贖われたのである。


「セリヌンティウス」


 メロスは眼に涙を浮かべて言った。


「この後、帰ってきた私が吊られるのがディオニス王との約束であるのだが、どうやらオリュンポスの主のお考えは違うらしい。私は先祖たちがそうしたように、神を崇め、その意に従わなければならないと思うのだ。なにせ神々は恐ろしいからな。しかし、野を駆ける馬よりも疾く走り続けた私の足は、今にも萎えそうだ。王のもとに届きそうにない」


 竹馬の友、察しよきセリヌンティウスは頷き、メロスの前にひざまずき、首と肩を差し出した。メロスがセリヌンティウスの肩に乗るや、セリヌンティウスは立ち上がった。今やセリヌンティウスはメロスの足となり、メロスの手には贖罪の短刀が握られていた。


「ありがとう、友よ」


 メロスの言葉にセリヌンティウスは笑い、頷くと、ディオニス王に向けて歩きだした。


 ディオニスは、ぎょっとした。お互いに殴り合った二人が、抱擁し泣きだした折を見計らって、「おまえらの望みは叶ったぞ。おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい」と言えば落着すると思っていたから、驚いたのである。


「待て、その短刀で何をするつもりであるか。言え!」


 暴君ディオニスは静かに、けれども威厳を以って問いつめた。その王の顔は蒼白で、眉間の皺は、刻み込まれたように深かった。


「雷恐ろしきゼウスの意に従い、市を暴君の手から救うのだ」


 とメロスは悪びれずに答えた。


「お前がか?」


 王は、憫笑びんしょうした。彼に付き従う兵は多く、メロスとセリヌンティウスを捕らえるのは容易いと思われたからである。しかしその時、雲集めるゼウスが、空に稲妻を走らせた。メロスがオリュンポスのあるじの意を受けていることは、明らかであった。


「お前がか」


 神にはかなわぬと、王は気色を失い、逃げ出そうとした。しかし、王の身体を、何者かが後ろから掴んで、引き留めた。王は狼狽ろうばいし、尋ねた。


「誰だ」


「フィロストラトスでございます。セリヌンティウス様の弟子でございます」


 その若い石工は、王の後につきながら叫んだ。


「もう、駄目でございます。むだでございます。逃げるのは、やめて下さい。もう、あなた様が助かることはありません」


「さては、神々の王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな」


 ディオニスは激怒した。もはや神意など関係ない、やすやすと冥府に落ちてなるものか、必ず、この者たちを除かねばならぬ決意した。


「兵士たちよ!」


 そう叫ぶと、ずんずん進んでくるメロスとセリヌンティウスの前に、青銅の脛当て輝く兵士たちが立ち塞がった。きらめく槍の穂先が、2人の行く手を阻む。


「このに及んであきれた王だ」


 メロスは激怒した。あの兵士たちの壁を超えねば、王に刃は届かぬ。しかし、いかに軍神アレスの恩寵受けしメロスといえど、物の具麗しく、腕より長き槍をもつつわものを、短刀で倒すことはできぬ。


 だが、この時メロスの耳元に、白きかいなの女神ヘレが知恵を吹き込んだから、メロスには迷いがなかった。セリヌンティウスの両の肩に、足をかける。


「私を殴れ。ちから一杯に足を殴れ」


 そう叫びながら、メロスは飛んだ。その足はすっかり萎えていたから、拳ひとつぶんも飛び上がることはかなわなかったのだが、察しよきセリヌンティウスは、すぐさま、メロスの足の裏を、ちから一杯殴りつけた。


 セリヌンティウスは、市の石工である。神々をたたえ、神像を彫って暮らしてきた。見事な神像と、それを彫り上げるセリヌンティウスの腕は、神々に愛されていた。それがゆえに神は、応えたのである。いくさも強き女神アテネは、シチリア島を投げ、巨人エンケラドスを殺したその剛腕を、セリヌンティウスの腕に重ねた。


 パラス・アテネに愛されしセリヌンティウスの拳に押されたメロスは、飛んだ。足をばたつかせながら、ディオニスの兵士たちが構える槍をも越えて。それはまるで、空を走っているかのよう。


 メロスは、フィロストラトスがいましめる、ディオニスの前に舞い降りた。


「罪の無い人を殺して、何が平和だ」


 すかさず、えいやと暴君の胸に短刀を突き立てる。黒い死が、ディオニスの目を覆った。


 どっと群衆の間に、歓声が起った。兵士たちは逃げ散り、セリヌンティウスはメロスに駆け寄り、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。


 やがて、ひとりの少女が、のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。佳き友は、気をきかせて教えてやった。


「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、世にもあでやかな首筋と、男心をそそる胸元、またきらきらと輝くまなざし、美しい体の線、威厳に満ちた物腰をお持ちだ。女神に違いない。彼女は、メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ」


 勇者は、ひどく赤面した。女神は、メロスを連れ去った。

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神説・走れメロス しげ・フォン・ニーダーサイタマ @fjam

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