神説・走れメロス
しげ・フォン・ニーダーサイタマ
前編
【これまでのあらすじ】
メロスは激怒した。必ず、かの
◆
メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊んで暮らしてきた。
そのような男が何故、王の
怒り、荒れ狂うメロスは走った。王と、セリヌンティウスの待つシラクスから、妹の待つ村へと。
疲労困憊の様子で帰ってきたメロスを見てうるさく質問を浴びせる妹と花婿を、メロスは人殺しの神アレスとも見紛う、怒りの形相で黙らせた。
「村の人たちに伝えてこい、結婚式は今日だと」
しかし困り果てた花婿が答える。
「義兄上、それでは困ります。こちらには未だなんの支度も出来ておりませぬゆえ」
メロスは激怒した。花婿は畏れたが、食い下がる。
「せめて葡萄の季節まで待って頂かねば」
メロスは激怒した。ゼウスも激怒した。雷鳴が轟き、荒れ狂う
「いと足疾きお方、信義の人メロス、我が義兄上よ、せめて明日にして頂けませんか」
「私には待てぬ事情があるし、実際それは雷恐ろしきゼウスの神意であるのだが、一日であればお情けをかけてくれるだろう。よかろう、では結婚式は明日だ。そうだ、綺麗な衣裳も買ってきたのだ。うれしいか」
「アッハイ大変うれしいです」
震えて頷く妹と花婿を見て、メロスは善しとし、2人を解放すると、手早く神々の祭壇を飾り付けた。そうしているうち、女神が吹き込んだ「怒り」は薄れ、メロスは自分の行いに蒼白になった。メロスはゼウスの祭壇に
「クロノスの子、神々の王、雷恐ろしきゼウスよ、何故私にこのようなことをさせるのですか」
流石に哀れに思ったのか、オリュンポスの主ゼウスは地上に舞い降りて答えて曰く、
「メロスよ、聞くがよい。お前が私の目に留まったのは、お前の吹く笛が神々の耳を楽しませ、また、お前が育て、焼いて捧げた羊が、神々を喜ばせたからである。さて、シラクスの王、ディオニスは人を殺すのだ。奴めは人の心を疑い、多くを殺した。あろうことか、神々の声を届ける巫女さえも、残忍に殺したのである。もはや生かしてはおけぬ」
メロスは激怒した。必ず、かの暴智暴虐の王を除かねばならぬと決意した。しかし疑問は残る。
「それならば何故、私に、あの場でディオニスを殺す力を授けてくださらなかったのですか。ただの牧人、武芸拙き私は捕らえられ、さらに哀れにも無二の友セリヌンティウスは、私の身代わりとなってしまったではありませんか」
「メロスよ、私があの時お前に力を授けなかったのには理由がある。しかしお前は神々の遠大な計画を知る必要はないのだ」
権勢類なきお方がそう言うと、メロスは畏れ、神意に従うことを誓って平伏した。ゼウスは満足して去った。
メロスは一晩眠り、明くる真昼に妹の結婚式を執り行った。祝宴に列席していた人たちは、メロスとゼウスを畏れつつ、めいめい気持ちを引き立て、陽気にうたい、手を
メロスは、許されるのであれば一生このままここにいたい、と思った。
メロスは素朴な牧人である。神々の目に留まらなければ、王を弑逆することなど、考えもしなかったであろう。
その時、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつりと雨が降り出した。これは予兆の神ゼウスが、メロスに出立の時を知らせるために遣わせた雲であった。巻き上がる土埃をなだめ、乾く喉を潤してやろうという心遣いであった。
けれどもメロスは、「これはきっと、クロノスの子が私を憐れんで、今しばらく祝宴に留まらせようと図らってくださったのだ」と思い違えて、満面に喜色をたたえ、再び祝宴の興に身を任せた。
そうしているうちに、メロスはいつの間にか眠ってしまった。眼が覚めたのは、明くる日の薄明の頃である。妹の声で叩き起こされたのである。飛び起きてみれば、枕元に、きびしい表情をした妹が立っていた。
「どうしたことだ、妹よ。お前は今頃、花婿と初夜の褥を共にしているはずだ。ここにいるはずがない。それにその眼光、美しすぎる輪郭は、人のものとは思えない。さては、あなた様は、さる女神の一柱に違いない」
妹の姿に化けた女神イリスは頷いて曰く、
「メロスよ、その知恵を昨日働かせるべきでしたね! 雷恐ろしきゼウスがお怒りですよ。昨日の雨は、神々の王が貴方を慮り、出立の時を知らせ、土埃をなだめ、乾く喉を潤してやろうと遣わせたものなのです。だというのに貴方は、予兆を読み違えて祝宴の興に身を委ね、あまつさえ眠りこけていただなんて!」
メロスは蒼白になり、身支度もそこそこに外に飛び出した。外は、車軸を流すような大雨になっていた。ゼウスが操る稲妻が、空に荒れ狂っていた。
「許し給え、オリュンポスの主ゼウスよ、許し給え!」
メロスはそう叫ぶが、怒れるゼウスが遣わす雷の轟きにかき消され、声が神々の王の耳元に届くことはなかった。
メロスは、胸を衝くような焦りと後悔に駆られ、大雨の中を走りだした。
オリュンポスの頂におわすお方の怒りを買ったのは、自分の浅慮、誘惑に負けた軟弱な心根のせいである。この心の臓を雷の槍で貫かれ、冥府に落とされても文句は言えぬ。
だが、竹馬の友、セリヌンティウスが道連れになるのは、我慢がならなかった。
「セリヌンティウスよ、君は、いつでも私を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、本当に佳い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、君は私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくも私を信じてくれた。
それを思えば、たまらない。君は私の代わりに殺されてしまうのだ。王は、ひとり合点して、遅れてきた私を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。そうなったら、私は、死ぬよりつらい。私は、永遠に裏切者だ。地上で最も、不名誉の人種だ」
それはならぬと、長々と台詞を吐きながらメロスは腕振り駆ける。目前に、豪雨で氾濫し、橋桁を木っ端微塵にした激流が見えてきたが、メロスは躊躇いなくざんぶと飛び込み、百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う
満身の力を腕にこめて、押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと掻きわけ掻き分け、めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、雲を集めるゼウスも哀れと思ったか、ついに
激流に
メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、すぐにまた先を急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。陽は既に西に傾きかけている。
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