幼児と殺人鬼の夏

川詩 夕

おやすみ

 築二十数年のマンションの五階に住んでいる俺は夜勤を終えて帰宅したところだった。

 ほとんど観もしない朝のニュース番組をテレビで流し、ウトウトしながらコンビニの不味い弁当を食べていた。

 食欲を満たした後、睡眠欲が音もなく押し寄せる。

 鬱陶うっとうしいテレビのボリュームを低めに設定し、簡素かんそなリビングでゴロンと仰向けに寝転がった。

 開いた窓の外からは蝉の鳴く声がまばらに聞こえてくる。

 気温は高いが風通しの良い朝だった。

 仕事でたくさん汗を掻いたから風呂へ入らないと安眠できない。

 そう思いながらも俺は両方のまぶたをゆっくりと閉じて眠る体勢へと入った。

 疲れた身体を優しくでる風に対し、心地良さを覚えながら眠りへ落ちる寸前の事だった。

 マンションの玄関を開けてすぐの通路側から「きゃっきゃっ」と幼い子供がはしゃぐ声と共に、ドタドタと通路を走り回る音が聞こえてきた。

 使い古した腕時計に目をやると午前六時五分を示していた。

 近所迷惑だろ、親は何を考えているんだ、半ば眠りかけの思考でそんな思いが込み上げていた。

 五分、十分が経過しても、その子供のはしゃぐ声と走り回る音が止まる事はなかった。

 屋外では刹那せつなに生きるせみの鳴く声がだんだんと増している様に感じられた。


 眠れない。


 いつの間にか、窓を吹き抜ける優しい風が止んでいた。

 夏の暑い気温の為、じわじわと全身の毛穴から汗が滲んでくる。

 寝転がっていた俺はのろのろと立ち上がり、リビングから玄関横にある部屋へと移動した。

 開かれた窓の網戸越しから外側の通路を無言でのぞくと、二、三歳くらいの可愛らしい幼児が声を上げながら走り回っている姿が見えた。

 周囲に幼児の親が居る気配は感じられない。

 俺は部屋からゆらりと玄関へ移動し、素足のままサンダルを履いた。

 ゆっくりと鍵を開け、音も立てずにそっと扉を開いた。

 周囲をのそっと確認してから通路へ一歩出ると、走り回っていた幼児が目の前の足元でふと動きを止めた。

 俺は笑みを浮かべながらしゃがみ込んで、幼児の耳元でこうささやいた。


「高い高いしてあげる」


 無表情のまま立ち止まった幼児の背後へと周り、両脇の下へ手を入れ、そっと抱え上げた。

 俺はもう一度、幼児の耳元でささやいた。


「ここを両手で触ってごらん」


 抱え上げた幼児に通路壁面上部の手すりを両手でしっかりと握らせた。

 

「おやすみ」


 再三、幼児の耳元でそう囁いた。

 両腕に力を込め、壁面上部の手すりを越える様にして、幼児を放り投げた。

 二秒後、重くてにぶ破裂音はれつおんが鳴った。

 落下した幼児の姿を確認せず、音も立てずに玄関の扉を開けて家の中へ入り施錠せじょうした。

 清々しい気分だった。

 とにかく眠たかった為、再びリビングで仰向けになり就寝しゅうしんした。

 十五時過ぎに自然と目が覚め、だらだらとシャワーを浴びた。

 濡れた髪にバスタオルを巻いて、冷蔵庫からキンキンに冷えた麦茶を取り出した。

 マンションはやけに静かだった、眠る前に幼児を五階から放り投げたというのに。

 救急や警察どころか、住民の声もなく、あんなに騒々しかった蝉の鳴き声すら聞こえてこない。

 夢だったのだろうか。

 時間の経過と共に、夜勤の為に身支度を整える。

 玄関の扉を開けて周辺を確認しても、何ら変化は見受けられなかった。

 しかし、通路壁面上部の汚れた手すりには幼児の手形がはっきりと残っていた。

 夢じゃない、現実だ。


 程なくして、常日の夜勤を終えて帰宅した。

 リビングのソファに座りウトウトしていると、玄関先の通路側から「きゃっきゃっ」と幼い子供がはしゃぐ声と、ドタドタと通路を走り回る音が聞こえてきた。

 昨日と同じだった。

 違和感を感じながらソファからゆっくりと立ち上がり、玄関横の部屋へと移動した。

 開かれた窓の網戸越あみどごしから外側の通路を覗くと、昨日五階から放り投げた幼児がはしゃいでいるのが見えた。

 恐る恐る室内からその様子をじっと伺っていた。

 今日も周囲に親の居る気配がしなかった。

 玄関へ移動しサンダルを履いてそっと扉に手を掛けた。

 周囲を確認しつつ通路へ出ると、幼児は目の前の足元で動きを止めた。

 しゃがんで、幼児の耳元でこう囁いた。


「高い高いしてあげる」


 微笑んだ幼児の背後に周り、両脇の下へ手を入れて抱え上げた。

 もう一度、幼児の耳元で囁いた。


「おやすみ」


 両腕に力を込め、昨日と同じ様に壁面の手すりの上を越える様にして幼児をすっと放り投げた。

 二秒後、重くて鈍い破裂音が鳴った。

 落下した幼児の姿を確認した後、普通に玄関の扉を開けて中へ入り勢い良く施錠した。

 相変わらず清々しい気分だった。

 

 翌日も、翌々日も、同じ事を繰り返した。

 ある日の事だった、定期的に幼児を放り投げた後、突然横から声を掛けられた。


「あなたが毎日毎日、その子を此処ここから放り投げていたんですね」

「何の事ですか?」

「私、一つ上の階に住んでいる者です、いつも六階と五階に繋がる非常階段からあなたの行いを見ていました」

「はぁ、そうですか」

「はい」

「警察に通報する気ですか?」

「いえ」

「じゃあ、どうするつもりなんですか?」

「私、あなたに感謝してるんです。その子、毎日毎日早朝から大声を上げてドタバタとうるさかったので、清正しました」

「そうですか」

「はい、明日もよろしくお願いしますね」


 どこにでもいそうな若い女性はそう言って背を向けて歩き出し、ふいにこちらを振り返った。


「その子、私の子なんです。去年の夏、このマンションの五階から放り投げたんですよ。放り投げる前に壁面の手すりに手形をわざと残す様にしてね。あなたが事故に見せかけようと偽装工作をしていたみたいに。殺したはずなのに、毎日毎日その子が出てくる様になっちゃったから、私が怪談を作った様なものですよね」


 若い女性は幸薄さちうすそうに笑った。

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幼児と殺人鬼の夏 川詩 夕 @kawashiyu

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