∞:いずれ、出会う君に
わたしは歩く。君の手を握りしめ、死の淵から本来あるべき場所に向かって歩いて行く。
だが、決して振り返ってはいけないんだ。どんなに君の顔を見たくても、最後まで振り返ることはできない。振り返ってしまえば、君は死の淵に引き戻され、二度と会うことは叶わないから。
だから、わたしは前だけを見て歩いて行く。いつしか全ての感覚を失い、何もかも見えなくなっていても。それでもわたしは歩き続けるんだ。永遠に近い時を、ひとりきりで。
そうして、いつしか気づくんだ。わたしは一体、何のために歩いていたのだろうか、と。
理由も忘れて歩く果てに、光が待っているはずもない。わたしはひとり、暗闇で足を止めた。意味もなく歩くには、この暗闇は深すぎる。うずくまったわたしの上には、温かな光は降り注がない。
冷たい闇の底で、いつまでうずくまっていただろう。ふとした瞬間、顔を上げると、誰かが目の前に立っていた。目深にかぶったフード。細い首、小柄な体。
そんな姿の誰かは、無言でわたしを見下ろしていた。いつからそこにいたのか。全く気づかなかったわたしは、驚いて立ち上がる。するとその誰かは、わたしを見上げ小さく呟いた。
「もう、忘れてしまったのか」
わたしは戸惑って、目の前の誰かを見つめた。無感情な声は、わたしの中で虚しく響く。忘れたもなにも、わたしはなにも覚えていない。言葉もなく立ち尽くすわたしに、誰かは静かに語りかけてくる。
「お前は、戻ると約束したんだろう」
約束。その単語に、わたしは胸を押さえた。何かを忘れている気がした。絶対に忘れはならなかった何かを。一度目を閉じ、再び開く。けれど、心に感じた痛みは遠ざからない。
「お前は、死の淵から大切な相手を救い出した。だがお前自身は死の淵へと落ち、時の暗闇を漂う
わたしは何も言えなかった。たぶん、わたしには大切な人がいたのだろう。その人を理不尽な運命から救い出すために、わたしは全ての力を使い——この暗闇に落ちた。
その結末に、わたしは後悔を感じていない。しかし目の前の誰かは、納得できないと言いたげに暗闇を蹴りつけた。苛立ちを含んだ動作を繰り返し、誰かはわたしに向かって声を張り上げる。
「納得してんじゃねぇよ、バカ。お前は今更諦めるつもりか?」
諦める。口に出されると、わたしの心は激しく揺れた。忘れていること、思い出さなければならない想いが、胸の奥で騒ぎ出す。ここにいる、と。まだここにいると訴えている。
「そうだよ、お前は戻らなくちゃならない。待っているやつのためにも、お前自身のためにも……もう一度、歩き出せよ。この暗闇は深いが、限りがないわけじゃない」
進めと、誰かはわたしの背中を押す。思わずつんのめって数歩進んだわたしは、背後を振り返ろうとして、誰かの腕に止められる、
「振り返るな。前だけ向いていろ。そうすればきっと、この先に光が見えるから」
君は、誰なんだ。心の中で呼びかけると、誰かは——少年のままの声音で笑った。
「言ったはずだぜ。俺は『お前の運命』だってな」
わたしの運命。動きを止めたわたしの背を、少年は強く抱きしめた。暗闇にあっても、失われない温かなもの。それをわたしに分け与えて、彼は再びわたしの背中を押した。
「さあ、行け。お前を待っているやつのところへ、会いに行ってこい」
声とともに押し出され、わたしは暗闇を走り出す。遠くなって行く少年の気配。しかし彼が微笑んだことだけはわかった。
わたしは振り返らない。迷うことなく暗闇を走り抜け——そしてまた、始まりへと辿り着く。
『わたし』の記憶の始まりには、真白の雪が降っていた。
鈍色の巨木の下、顔を上げれば空はくすんだ灰の色が見える。そこからはらり、はらりと、真っ白の雪が降り注いでいた。空は灰色なのに雪の白さがとても不思議で、目を離せなかったのを覚えている。
ぼんやりと見上げていると、強い風が身を叩いていった。身を切るような鋭さにはっと息をつめれば、足元が雪に沈んだ。指先を伸ばして触れると、雪が少しだけ溶ける。
冷たい。一言呟いたのが、思えば初めて紡いだ言葉だった。声が出たことが不思議で、喉に触れてやっと気づく。ああ、そうか。『わたし』には体があるのだ、と——。
そのとき初めて、『わたし』はわたしを知ったように思う。それはとてもおかしなことで、同時にとても不安なことで、『わたし』はそっと自らの体を抱きしめた。
『わたし』は、わたし。わたしは
だから『わたし』は、この世界の全てが愛おしい。たとえいずれ朽ちていくだけの樹でしかなくとも、『わたし』はこの世界の全てを愛している。
けれど——どうしてだろう。それがおぼろげに変わるくらい、たった一つが愛おしい。
さくりと、雪を踏みしめる音が響いた。ゆっくりと、なぜか優しくも聞こえるその足音。近づいてくる誰かの息が白く流れて、しばし、世界に静寂が満ちた。
彼は、わたしを見つめていた。灰色の髪、その下からのぞく穏やかな黒い瞳。白い雪の中でも、紛れることなくあり続けるその色は、佇んだわたしだけを捉えている。
だからだろうか。わたしの瞳は、一番最初の雫を落とす。
「やっと会えたな」
少し皮肉っぽい笑顔。遠く変わっても、心の奥底に刻み付けられたもの。わたしの目から流れ落ちた雫のぶんだけ、彼の姿が滲んでよく見えない。
だが、きっともう良いのだろう。わたしはやっと、戻りたかったこの場所に——
「お帰り、銀葉」
わたしは雪を蹴って駆け出す。滲んだ視界の中、彼の手がわたしに伸ばされる。
冷たい雪の上で足跡が重なり、今、遠ざかっていた時間はゼロになる。触れた手の温かさ、滲んでも消え去らないその笑顔。その全てが君に至るための
きっと、これがわたしの運命。だから今度は、最初に君にこう言おう。
君はわたしのすべてではなかったけれど。
『わたし』にとって君は、どれほど時が流れようとも、ただひとりの人です。
——Fin.
オルフェウスは銀の花冠を抱かない。~悲劇の双子に救いをもたらすための物語~ 雨色銀水 @gin-Syu
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