Epilogue:『n』

 こうして、二つの『死』の運命は一つの終着点を得た。

 エルとエン。兄と弟。限りなく同じ運命の双子。彼らは互いの想いを理解することで、狂った運命の袋小路から解き放たれていく。


 閉ざされた現実を越え、その先に未来に辿り着いたことで、『わたし』の役割も終わりを告げた。


 だからこれから語る物語に、わたしの願いは含まれていない。

 けれど、ただ、少しだけ。彼らの行く末を見届けたいだけなんだ。


 どうか、わたしの——最期の我がままを、叶えて欲しい。




 季節は巡る。時は流れていく。枯れ果てた『わたし』の梢にも、時は積み重なる。穏やかな風に吹かれ、鈍色の枝は落ちてく。ひとつ、また一つと折れ落ちて、わたしの時間は終わりを告げていく。


 空を見上げても、わたしの目には曖昧な光景しか映らない。淡い光と、穏やかな色彩だけが満ちた世界。そんな優しさに満ちた場所で、わたしは君と語り合う。


「眠いのか、銀葉」


 幹に背を預け、君はわたしに語りかける。幼かった横顔は、いつしか大人の表情に移り変わっていた。気づけば、あれからそれだけの時が流れていたのだと、改めて思い知る。


 あの、運命の日。エルとエンは、お互いの想いを語り尽くし、足りない分は拳で伝え合った。それはわたしの目から見れば、「なんで今更」と言いたくなるような他愛ないことばかりだった。


 しかし、ずっとすれ違ったままの二人には必要なことだったのだろう。

 最後には意味もわからず泣いていた二人だったが、その涙の中には確かに笑顔があった。


 確かに運命が動いたと、確信できた瞬間から——もう、何年経っただろう?


「何だよ……うん? ああ、最近どうしてるかって? お前寝てばっかりいるから、時間の感覚がなくなってるんじゃないのか? まあ、いいんだけど。そうだなぁ……」


 君は語る。穏やかな何気ない日常のことを。街の雪が溶け始めて、道が水浸しになったこと。それを街の住人と一緒に片付けて回ったこと。その時、なぜか焼き芋をもらったこと。


「色々あるよな。街も、関わってみると結構面白いよ」


 笑って君は言った。昔、いや……かつて存在していた時の中では、叶わなかったことばかりだった。何気なくても、何でもないことであっても。君がそれを当たり前にできたことが、わたしにはとても嬉しい。


 暖かい日差しが、膝の上に降り注ぐ。枝の影が風に吹かれ、静かに揺れている。目を閉じるまでもなく、空気の柔らかさを感じられる日だった。思わず微笑んでしまうほどに、幸せな日常。


「銀葉、聞いてるか?」


 聞いているよ。わたしはゆっくりと微笑む。君はいつも、わたしの知らなかったことを教えてくれる。それが楽しくて、嬉しくて、どうしようもなく幸せなんだ。


 だから、もっと君の話が聞きたい。君の話を……ずっと聞いていたい。


 すると君は少し目を見張り、すぐに照れたような顔で頰をかいた。仕方ないやつだ。そんな風に呟きながらも、優しげな目でわたしに笑いかけてくれる。


「そうか。だったら、もっと色んな話をしよう」


 君は、わたしに語り続ける。様々な、本当に他愛ない日々のかけらの話を。

 雪が溶ける頃、窓辺に鳥がやってくること。その鳥が近くの木に巣を作り、その雛が巣立っていくこと。その雛がまた、雪が溶ける頃に戻ってきて、木に巣を作ること——。


 季節は巡り、命は繰り返す。けれど、こうして話しているとわからなくなるんだ。

 わたしは今、まだ君の前にいる? あの日から少しずつ薄れていったわたしの輪郭を、君は確かに目にしていたはずだろう?


「……銀葉」


 わたしはもうすぐいなくなる。あの時を渡る果実は、そのままわたしの命の刻限だった。

 果実を使い果たした時、わたしの運命は定まったんだ。世界の時に根づく金耀樹——すでに尽きかけていた命を使ってでも、わたしは君を死の運命から救い出したかったんだよ。


「そう、だったんだな」


 確かに、君は『わたし』のすべてではなかったかもしれない。

 けれど、わたしにとって君は——最初から、ただひとりの人だった。たぶん、ずっと、初めから。


 その理由を考えてみたけれど、よくわからなかったよ。もしかすると、君を想う理由がどこかに存在しているのかもしれない。だけど、もう、良いよね。理由なんてなくたって、君は今ここにいて、これから先もずっと生きていけるんだから。


「なあ、銀葉。オレは思うんだ。もし、お前が諦めてしまったら、どうなっていただろうって」


 君は微笑んで、私の肩に手を伸ばす。指先が触れた瞬間、少しだけ私の心に温かさが広がる。消えかけていた光景が、本当にわずかだけど、色を取り戻した気がした。


 顔を上げ、もう一度君の顔を見た。穏やかな光をたたえた、黒い瞳。灰色の髪、皮肉っぽく笑う口元。私が取り戻したいと願った、君の面影を心に焼き付ける。


「きっと、オレとあいつは、わかり合うこともなく殺しあうしかなかっただろう。それを思えば……今はずっと良い。だけど聞いてくれよ、あのやろう……最近オレに対して小言ばっかりなんだぜ? 『これだから兄さんはダメなんだ。もう僕が君の代わりにこの家を背負うしかない』ってさ。オレだって努力してるっていうのに、なんて事言いやがるんだよ。なあ、そう思うだろ」


 片割れに対する愚痴を言いながらも、笑う顔にはかつてのような陰はなかった。

 ため息を吐き出しても、君の心があの暗闇に落ちて行くことはもうない。だから、きっと大丈夫なんだ。君たちにあんな悲劇が降りかかる日は永遠に訪れない。


「オレも、そう思うよ。オレとあいつは、もう二度とお互いを見誤らない。たとえ同じでいられなくても、変わっていったとしても。オレたちはオレたちのままでいられる。そう、信じられるようになったのは、お前のおかげだよ」


 良かったと、口に出して言えることは幸せなことだ。この世界は理不尽に満ちていて、変えたくても変えられないことばかり。それでも君たちは、最後は自分たちの意志で未来を掴み取った。


 だからわたしは、満たされた心のままで遠くへ行ける。それは、とても……良いこと、だろう?


「銀葉」


 君の声が聞こえる。失われて行く世界の中で、君の温もりを感じた。わたしの目には、淡い光しか映らない。色彩も、君の姿形も、あらゆるものが遠ざかって行く。


「……いくなよ」


 そうだね、もう少しだけここに居たいよ。もっと、君と話したい。君の声を聞いていたいよ。


「ずっと、ここにいれば良いだろ」


 そうだね、そうできれば良いな。春が過ぎたら、短い夏が来て。夏の終わりの夕日の先で、秋を迎えたい。そうすれば長い冬も、きっと耐えられるよね。


「ああ……きっとな。また焚き火でもすれば暖かくなるだろう?」


 それは嫌だなぁ。わたしを燃やそうとしたの、まだ覚えているんだよ?


「そんなことあったっけな」


 あったよ。覚えてないふりしてもわかるんだからね。


「そうかぁ?」


 そうだよ。何でも……どんなことでも、覚えているんだ。


「……銀葉」


 何かな。


「……。……あのさ」


 本当にどうしたの? そんな風に口ごもると変な想像をしてしまうよね。


「……オレは、お前が」


 ねえ、君! 覚えているかな。わたしを守ってくれるって、君は言ってくれたよね。


「……。ああ、確かに言ったよ」


 だったら、今、その約束を果たしてよ。お願い——また、会える時まで。


「銀葉」


 お願いだ。わたしは、今は遠ざかって行くけれど。必ず、また戻ってくるから。だからどうか、その時まで『わたし』を守って欲しいんだよ。そうすれば、きっとわたしはまた——


「君の元に戻って来られるから」


 君の手が、わたしの肩に触れている。一番最初に目覚めた日の雪のように、穏やかに優しく。わたしはそれだけで、どうしてか泣きたくなってしまうんだ。幸せでも涙が出るのだと、今になって初めて気づく。


「なあ、銀葉。本当にまた会えるんだよな」

「疑い深いなぁ。こんな時まで冗談は言わないよ。それに、わたしが君に嘘をついたことがあったかな?」

「さあ、な? 色々適当なことは言われた気がするけどな」

「なにそれひどい」

「お互い様だろ。お前だって結構ひどいんだからな?」


 薄れて行く。消えてしまう。手を伸ばしても、君の手は掴めない。何もかも遠ざかって行く世界で、君の声だけが残されたわたしの中に響く。


「なあ、銀葉。忘れても思い出せば、また会えるっていうんなら。オレは……さよならは言わないよ」


 微笑んだ気配が、わたしの肩越しに届く。わたしも、君に向かって微笑みかける。ちゃんと笑えているだろうか。君に笑顔を残して行けるように、精一杯の想いを投げかける。


「うん……さよならじゃないよ。少しの間のお別れだ。だからその時は」


 感覚の消えた手で、君がいるはずの場所に触れた。もう温もりも、気配も感じられない。それでもわたしは、君に向かって手を伸ばした。


「また、名前を呼んでよ。わたしが忘れていても、すぐに思い出せるように」

「ああ……わかった。必ず、お前を呼ぶよ」


 良かった。そう呟くと、世界の全ては無に変わった。わたしの体も、わたしの声も。君の姿も、君の面影すらも遠い場所へと追いやられて行く。


 これで、わたしの物語は終わりを告げる。しかしなぜだろう。それを悲しいとは思わないんだ。


 闇夜に輝く星のような、あるいは夕日が消える一瞬前のような儚さ。本当にわずかばかりの希望を込めて、君が囁いた言葉がわたしを導いていくから。


「またな」


 いつかの約束のように、君が囁いた言葉。

 応えることができなかった想いに今、わたしはやっと、最期に届くことができる。


「ああ——またね」




 時は流れる。季節は巡る。どんなに凍てついた世界であろうと、いつか雪が溶け、新たな緑が芽吹くだろう。


 けれど『わたし』の梢には、新たな緑が芽吹くことはない。春になっても変わらず、鈍色の枝を空に伸ばすだけの老樹。朽ちていく時を数えるだけの神樹。


 だがふとした瞬間、うつむいたままの顔を上げれば——暖かな日差しは、わたしの上にも降り注いでいる。そんな何気ないことを、わたしはいつか思い出すのだろう。



『わたし』は忘れる、忘れ去っていく。どれほど大切な記憶であろうと、わたしの心は想いをこぼれさせてしまう。わたしにとって長い時は苦痛で、覚えているということは残酷だから。


 だからいずれ、君のその姿も、その声も。向けられた眼差しの温度すらも、こぼれ落ちてしまうよ。


 君は『それでいい』と笑うのかもしれない。それでもわたしはいずれ忘れていく。けれどそれでも、わたしの心は君の面影を追い求めている。



 手を伸ばしても、届かないものもある。いつだって命は足早に通り過ぎて、『わたし』はひとり取り残されていく。


 追いかけても、呼びかけても届かない。だからいつもわたしは、去っていく背中を見送ることしかできない。それを『仕方ない』と諦めるために、記憶は薄れていくのだろうか。


 それでも、何度でも出会いを繰り返す。いずれ別れが訪れると知っている。



 だが、それでもわたしは——もう一度、君に会いたいと願うんだ。



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