Epilogue:『r』
「どういうこと、なんだ?」
理解が及ばないのは、この場にてたったひとり。背後を振り返ると、エンジュが戸惑いながらわたしと片割れを見比べている。その混乱は当然のもので、同時に彼がまだ至っていないことを示していた。
「銀葉……エルンスト。お前たちは知り合いなのか」
「エンジュ、わたしたちは」
「それに、なんでオレの名前を……オレ、お前に名乗ったことあったか?」
異常なことが起こっている。そう認識するにはこれだけでも充分だったのだろう。エンジュは一歩後退り、再びわたしとエルンストを見た。その瞳には、明らかな不信が宿っている。
「お前たちは、そもそもの知り合いだった。なら、オレは一体」
「待って、エンジュ。話を聞いて」
「銀葉、お前は……オレを騙してたのか」
「違う……わたしは!」
「違わない! だって、そうじゃなきゃ、辻褄が合わないじゃねぇか!」
わたしとエルンストが本当に知り合ったのは、今回はこれが初めてだ。意識に宿った存在としてではなく、わたし自身がエルンストである彼に出会ったのは『ここ』だけだ。
だが、そんな話は何も知らないエンジュに理解できるはずもない。今現在だけに当てはめて考えれば、
「銀葉、お前はエルンストと通じていた! それでオレを監視してたんだろ⁉︎ そうやって、オレを……!」
「違う」
否定の言葉が、強く響いた。エンジュは目を見開き、わたしの背後を見る。そこに立っているのは、エンジュの片割れである少年。わたしが半分だけ振り返ると、エルンストは憂鬱そうに地面を見つめていた。
「……違う、エンジュ。僕と銀葉は何の関係もない。会ったのも今日が初めてだし、だからお前の言うような事実は存在しない」
「な……何言ってんだよ! だったら、さっきの会話はなんだったんだ⁉︎ お前たちが知り合いじゃなかったんだったら、なんであんな」
そこまで言って、エンジュも話の不可解さに気づいたらしい。何かを振り払うように首を振り、本当の戸惑いを込めて片割れを見つめる。エルンストは無言で肩をすくめてみせた。
「そうだよ。お前の考えている通り、オレたちの反応はどう考えても辻褄が合わない。僕は最初から銀葉を傷つけるつもりだった。にもかかわらず、刺しておいてこんな風に動揺するのは……
「だ、だけど……それはお前たちがそもそも知り合いだったからじゃないのか?」
「知り合いを刺したから動揺している。お前はそう言いたいんだな。だが、それは結果であって『僕』の目的を考えれば……やはり辻褄が合わない」
自虐的に笑って、エルンストは顔を上げた。その黒い瞳は、疲れ切ったように光を失っている。
片割れの表情の暗さに、エンジュは目に見えて怯んだ。わたしですら初めて目にする顔は、果てしない虚無感に彩られていた。
「……僕は、銀葉を奪うことで、お前をひとりにしたかった。もし僕と銀葉が知り合いだったなら、こんな風に傷つける必要はない。ただ僕たちの関係を示せばいいだけだ。そうすればエンジュは勝手に壊れたはずだからな」
秘められた悪意と狂気を語り、エルンストはため息を吐き出した。語られた内容は、彼の心にあった暗闇を感じさせる。けれど今の彼にあるのは、諦念だけのように思える。
エンジュも、片割れの変化に気づいたのだろう。わずかに息を止め、ためらいながらわたしを見た。混乱しているのは確かだが、今ならエンジュにも言葉が届くかもしれない。
「エルンストの言っていることは本当だよ。わたしたちは、知り合いじゃない。……わたしたちが出会ったのは、この時間と並行して流れている、別の可能性をたどる時間の中でなんだ」
「どういうこと……? オレには何が何だか」
「今から説明するよ。……かなり、面倒な話になるけど、最後まで聞いてほしい」
——わたしたちの辿ってきた運命には、実は二つの流れが存在している。
まずは、わたしが最初にエンジュに出会った世界。仮に『n』と呼ぼう。
そしてもう一つは、双子が入れ替わらない世界。こちらは『r』……今のこの世界のことだ。
二つは、表面上は同じ運命をたどる世界だ。この場合の運命とは、エンジュはエルンストに殺されるということ。もしわたし以外に見ている誰かがいたなら、理解してくれると思う。
けれど、二つの世界には根本的な違いがある。それは『n』世界において、わたしが出会ったエンジュは兄であるエルンストであり、『r』世界においてのエンジュとは別の存在だということなんだ。
整理してみよう。『n』世界のエンジュは、『r』世界ではエルンストである。
『n』世界でのエルンストは、『r』世界においてはエンジュである。
わかりにくいかな。でも、二つの世界において、双子の立場が入れ替わっているのは理解できると思う。
わたしの出会ったエンジュは、『n』世界の過去において双子の兄エルンストだった。兄が弟に嫡子を譲るために、名前を取り替えたんだ。だから『n』世界の二人の関係性は、エンジュが『兄』でエルンストが『弟』になっている。
一方、『r』世界で入れ替わりは起こっていない。だからそのまま、エルンストは『兄』であり、エンジュは『弟』として存在している。
つまり、入れ替わりが起こる世界が『n』であり、そのままの世界が『r』なんだ。
ここまでは理解できただろうか。ここからはそれぞれの世界についての話をしようと思う。
わたしが最初、エンジュ『兄』に出会った世界は『n』だった。
そこでエンジュはエルンストに殺される結末を迎え、わたしは時を繰り返すことになった。
時を繰り返すことで従者と少女を動かし、エルンストを止めることには成功した。けれど結局、エンジュがエルンストに殺されるという結末を変えることはできなかった。
……それは、なぜなのか。今ならわかる。『n』世界において、エンジュが殺されるという結末は、すでに確定していたため、細部を変えたところで流れは変えられなかったのだ。
だからわたしは、枝葉を変えるのではなく、根本を変えるため——始まりの時間へと飛んだ。
それは、運命の分岐点と呼ぶべき時間だったと思う。エルンストが嫡子に選ばれる前の時間に飛んだわたしは、エルンストに働きかけ、双子が入れ替わるのを防いだ。
そうして生まれた世界が、『r』世界なんだ。『n』世界とは違い、『r』世界には双子が憎み合う原因は存在しない。だから、全てが丸く収まると思っていた。だけど幻視した未来は——
「わたしが樹として見続けていた、エンジュがエルンストに殺される、という結末は変わらなかった。二人が憎み合っていた原因は、入れ替わったことが問題ではなかったんだ」
『r』世界では、エルンスト『兄』がエンジュ『弟』を殺した。それは『n』世界のエルンスト『弟』がエンジュ『兄』を殺す図式と同じではあったけれど、双子の立場が入れ替わってしまっていた。
要するに、このままではエルンストがエンジュを殺すことは避けられない。二人の立ち位置を入れ替えたために、そのまま二人の運命を入れ替える結果になってしまったんだ。
だからわたしは、最後の力を使って『わたし』の中へと飛んだ。
だけど、『n』世界ではもう、わたしは過去を変えることができない。誰かの中に宿ることを含めて、わたし自身が経験してしまった時間は、結果が確定してしまっているんだ。
だから、わたしは『r』世界の『わたし』の中へ飛んだんだ。
『r』世界なら、わたしがエルンストに宿っていたのは分岐前。幻視した未来は樹の記憶であって、『わたし』が経験したものではない。そして、この時間に飛んだ一番の理由は——
「この時間で何が起こったか。わたしを含めて誰も知らないからだ」
かつて、『n』世界で語られたことを覚えているだろうか。
この
そのことを、『n』世界のエンジュは記憶していなかった。そしてわたし自身、何が起こったのか覚えていない。いや、正確に言えば、エルンストが突き出した剣が誰を傷つけたのか知らない。
だからこそ、わたしはここを最後に選んだんだ。唯一、可能性が未確定な時間。ここならもしかすると、定められた未来から抜け出す分岐があるんじゃないかと考えたんだよ。
そして、たぶんわたしは、最後の賭けに勝った。
どうしてかって? それは何の因果か、エルンストがわたしのことを思い出してくれたからだ。
最後から二番目の夕日は、『n』と『r』の分岐前ぎりぎりに存在していたことが関係しているのかもしれないけれど、奇跡的であることには違いない。
わたしは確定していた現実を超えて、今、未確定な未来の始まりに辿り着いた。
……もう、ここまでくればわかるんじゃないかな。
このまま憎み合っていたら、君たちは殺しあうしかない。
もしそれを少しでも変えたいと思う気持ちがあるのなら、どうか。
「どうか、お互いの気持ちをちゃんと確かめて欲しい。わたしが今まで見てきた君たちは、互いを想いながらも……結局最後には諦めて全て壊してしまった。だけどそれでも、今ならまだ間に合うかもしれない。まだ完全に壊れきっていない今なら。……今の、君たちなら」
わたしの想いは届くだろうか。エンジュは無言で兄を見つめた。エルンストはじっと地面を睨んでいたが、視線に導かれるようにゆっくりと顔を上げる。
「銀葉、一つ聞かせてくれ」
エルンストは、かつてのエンジュの瞳でわたしを見る。その瞳には、過ぎ去って行った時間への痛みが凝っている。まるであの夜にとどまっているかのような錯覚を起こす、暗く悲しい色。
寂しげな表情をわたしに向けながら、エルンストはそっと、迷い子のように問いを投げかけた。
「お前には、今のオレがどう映っている? あの頃のエンジュか、それとも……全てを壊すだけのエルンストか」
「これは難しいことを聞くね」
わたしは少しだけ困って、目を伏せる。おそらく、彼が求めているのは『かつてのエンジュ』としての想いだろう。そう告げることは容易い。しかし、それでは駄目なのだといい加減気づいている。
「そうだね……君は『わたし』のすべてではなかったけれど」
だから、わたしに言えるのはこんなことくらいだ。彼が求めているものとは違うかもしれない。それでも、わたしの想いが少しでも届いてくれればいいと思う。
エルンスト、そしてあの頃のエンジュと視線が絡み合う。わたしは笑った。彼の心が、遠くなってしまった記憶や想いが、未来へ向かって歩き出せるようにと願いながら。
「わたしにとって君は、最初からずっと、ただひとりの人でした」
この言葉を、贈ろう——君だけに。
「……何だよそれ」
エルンストは、苦笑いして地面を蹴った。良かったとも、違うとも言わない。しかし何度も地面を蹴りつけ、わたしを見た顔は明らかにふてくされていた。
「答えになってねぇだろ。逃げてんじゃねーぞ」
「い、いやあの、逃げてはいないんだけど。だ、だから、君がエルでもエンでも、わたしにとっては」
「わかったわかった。なんか恥ずかしくなってきたからもういいよ。ホントに、変なやつだな」
「うううるさいですー」
恥ずかしいのはわたしの方だ。完全に白くなっていると、エルンストはニヤリと笑う。何てやつだ。思わず拳を振り上げてしまったら、華麗にそっぽを向かれた。
「さて、良い感じにユルんだとこで」
わたしを息抜きに使ったのか。何でやつだ。いやそもそものエンジュはこんな感じだったけれども。固まるわたしを放置して、エルンストは無言のエンジュに向き直った。
「とにかく、銀葉の作ってくれた機会だ。お前とは本当に腹を割って話し合わないとな」
「……そうだね、兄さん」
納得してくれたかどうかはわからない。だが、今、二人が本当の意味で向き合おうとしているのは確かだった。
「さあ、言えなかったことも、言いたくなかったことも全部言おう。ムカついたら殴り合いでも何でもすれば良いさ。オレたちは、お互いの心が見えなくなってることにも気づいてなかったんだから」
エンジュもエルンストを真正面から見つめる。それはわたしがずっと望み、果たされる前に砕け散って行った光景。ここに至ったのならば、かつての悲劇を越えて、この先にたどり着けると信じる。
そう、わたしは信じている。わたしが出会った君だけでなく、わたしが過ごした彼のことも。
鏡合わせのような双子。運命に翻弄されてきた二人。
彼らは自らが辿る結末を変えるため、お互いの想いを語り始めた——
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