終章「オルフェ・フィロ」

0:永遠の一葉

「あんたは銀葉。……呼び名がないの面倒だし、それでいいだろ」


 わたしは君に出会った。再び君に出会ったのだろう。それはであり、に至る道筋だった。


 わたしは戻る。最後の果実が導く時の先に。わたしは、へと戻っていく。


「銀葉?」


 目を開くとなぜか、彼の顔があった。何度か瞬いていると、目の前で手を振られる。どうやら意識がなくなっていたらしい。しかし、どうしてそんなことになっているのか意味がわからない。


「おい、大丈夫なのかよ。幹の間にはまったまま動かなかったけど」

「うーん、たぶん。わたしもよくわからない」

「まさかなんか変な病気とかじゃねえだろうな。オレさすがに樹の病気とかわからんぞ」

「大丈夫だと思うよたぶん。……たぶん」


 たぶん。繰り返してみたが何か違和感があった。けれど目の前に広がる光景は、いつも通りの静かな森のままだ。宙を睨んで固まっていると、彼がわたしの目を覗き込んでくる。


「……本当に大丈夫なのか? お前なんか変だ」

「いや、大丈夫。大丈夫だよ本当に。ちょっとぼうっとしてただけだから」


 珍しく不安げな彼に笑って見せ、わたしは幹の間から立ち上がる。我ながら謎だが、なぜこんなことになっていたのだろう。こうなるまでの記憶がないのが不気味ではある。


(戻ったようだな。時の終わりから、本当の分岐点に)


 え、と。わたしは小さく呟いた。何か今、どこからか声が聞こえた気がする。彼が何か言ったのかと思ったけれど、少年の口元は一文字にも結ばれている。


 首をひねっていると、彼は無言で根に腰を下ろした。じっとこちらを見つめる目は、不安というか不満げでどうにも居心地悪い。わたしが軽く目をそらせば、少年の指が突きつけられる。


「な、何かな?」

「お前さあ、なんか隠してねぇ?」

「え?」


 突然問われ、わたしはぽかんとしてしまった。隠しているとは一体何のことか。


(この少年は、なんだろうな?)


 まただ。確かに誰かの声が聞こえる。わたしたち以外の誰かがそばにいるのか。そう思って周囲の気配を探っても、わたしたち以外に誰かがいる様子はない。


 そもそも、誰かがいるのだとしたら、目の前の彼に聞こえないのはおかしな話だ。だとしたら、幻聴か——樹にも幻聴ってあるんだろうか?


 本当に色々理解できず、じっと彼を見返してしまう。すると彼もわたしを見つめ返し、しばらく無言でお互いの顔を眺め——結局互いに何もつかめず首をかしげる。


「なんだよ、ホントに何もないのか」

「ないと思うよ。というか何でそう思ったの。かなり唐突だったけど」

「いや、何となくそんな気が……べ、別にいいだろそういうこともあるって!」


 あるんだろうか。わたしにはよくわからない話……でもない気がする。しかし正直に告白するが、何かおかしな感じはするけど確証が持てないのだ。だからそれが勘違いとも言い切れない。


 自問自答を続けるわたしを横目で睨んで、彼は不満げに鼻を鳴らした。涼しい風が長くなった灰色の髪を揺らし、その下の黒い瞳が一瞬だけ遠くを見つめる。


(お前の心は、一度経験した時には留まれない。だとすれば、これはだ。だから、同じに見えたとしても、決して同じものではない)


「……どうかした?」


 何気なく尋ねると、黒い色をした瞳がわたしを見た。わずかに瞳の奥で形のない何かが揺れる。けれど彼は捉えどころのない笑みを浮かべて、ゆっくりと首を横に振るのだ。


「いや? ……気づいたら、夏ももうすぐ終わりだなって思ってさ」

「嫌いじゃなかったの? 暑いの」

「暑いのは嫌いだけどなぁ。夏自体は嫌いじゃないじゃねぇよ。なんていうか……日差しの下にいると、生きてるって気がするもんな」

「そういうもの?」

「そういうもん、だなー。……それに、夏の間は『アイツ』がいないし」

「……『アイツ』?」


 わたしが首を傾げた時だった。ぱきりと、枝が折れるような音がした。わたしたちが同時に視線を動かすと、そこには——


「……え」


 。穏やかに微笑みながら、黒い瞳がこちらを見つめている。思わず傍を見れば、は現れた少年を睨みつけていた。


「やあ、。久しぶりだね、元気だったかい?」


 知らないはずの相手なのに、その声を耳にした瞬間、心が震えた。わたしは訳もわからず立ち尽くす。どうして、と、唇が音もなく震えた。


「……


 瓜二つの少年は、対照的な表情で見つめあう。一人は穏やかに、もう一人は剣呑に。だがそれでも二人はどこか似通った雰囲気を持っている。灰色の髪、黒い瞳。そして、わずに掠れた声。


 わたしが混乱している間に、そばで彼が立ち上がった。険しく寄せられた眉の下で、漆黒の瞳が強い輝きを帯びる。もう一人の少年は、笑みを浮かべたままそれを受け止めた。


「なぜ、ここにいる。父上と王都に向かったはずのお前が」

「予定が変わっただけさ。……夏の間に帰ってこられて良かった、とは言ってくれないんだね。相変わらず冷たいな、エンは」


 エン。そう呼ばれた彼は、忌々しげに舌打ちした。どうしようもないほどに、似通った二人の少年。だが二人の心は、決定的なまでにすれ違う。


「オレが、わざわざお前の心配をすると思うのか。お前がいなければ、オレが今より不幸になることもないっていうのに?」

「僕は君のことが心配なんだよ。……二人きりの兄弟じゃないか。たまには双子らしく、素直に話をしてもいいと思うけれどね」


 わたしは何も言えなかった。どこかで見たような光景、耳にしたことのある会話。心の中で誰かの声が反響する。なぜ、わたしはこの光景を知っているのか。


 曖昧な感覚ばかりが心を満たし、わたしはひとり混乱するしかない。なぜ、どうして。そんな想いばかりが行き場もなく巡り続け、閉じた唇は音も紡がず震え続ける。


 しかし、わたしの混乱などお構いなしに、時は流れ続ける。二人の少年は、すれ違った心のままに、相反する感情を秘めた瞳を互いに向け続ける。


「双子らしく……ね。その事実がオレを『無いもの』として扱わせているってのにさ。それでもお前は、オレと『話』をしたいって仰るわけか?」

「それについては、済まないと思っているんだ。エン、君にとっては不本意な状況だと理解している。だけど、それとこれは話が別だろう? 僕と君が兄弟であることは事実だし、僕が君と対話することを望んでいるのも本当のことだ」


 少年は笑みを浮かべながら一歩近づいた。しかし彼は、そのぶん一歩後退る。わたしはそれを見ていることしかできない。それほどまでに彼らの間には、何者にも入り込めない隔絶がある。


(どうする、?)


 声が無感情に囁く。わたしは口に手を当て短い息を吐き出す。どうするって、一体わたしに何を望んでいるのだ?


「オレはそんなこと望んでない。オレの意志をお前に縛られる覚えなんてない……!」

「君が望むかどうかは関係ない。僕が望んでいる、そのことが重要なんだ。……わかるだろう、エン。君は僕にとって必要な存在なんだよ」

「……オレに、お前は必要ない。いい加減、オレにこだわるのはやめろ。エル……!」

「それは、『ソレ』がいるからかい?」


 すっと、少年が何かを腰から抜きはなった。鈍く輝く、鋭い刃——その切っ先を、彼と瓜二つの顔で少年は笑う。


「だったら、『ソレ』は君に必要ない。エン、君は」


 ……僕だけのそばにいればいいんだよ。


 いつかどこかで、同じ意味を持つ言葉を耳にした。あれはどこだっただろう。暗闇に落とされた記憶の底で思う。夜の中、向かい合う二人の青年。今ではない時、しかし遠い過去でもない。


(思い出せ、銀葉。お前は一体何を願い、時を渡り繰り返したんだ?)


 失われてしまった命を、奪われてしまった心を取り戻すため。そしてなにより、。わたしは願い、時を渡り、そして彼を失った。


 落ちていくだけの暗闇の中で、わたしは思い出す。彼は、いやわたしにとって——


 緩やかに、剣先がわたしに向かって突き出される。まるでかつての時間をなぞるように、わたしの体は動くことを拒否する。迫る刃を前に、わたしが見ていた光景は——


「やめろ……っ!」


 飛び出してくる小柄な姿。突き出される剣先は止まることなく、ただわたしは。



 たどり着いた光景の意味を、わたしは。それ以上の思考は必要ない。目の前の少年の腕を引き、背後に庇ったわたしは、目前に迫る剣先に手を突き出し——




「……ぐ……っ」


 ざくりと、肉を割く嫌な音が響いた。見れば剣先が手のひらを貫通している。冗談みたいな状態だったけれど、貫かれた痛みを冗談にすることは難しい。


 顔を上げると、剣を突き出した少年と視線が絡み合う。わたしの視線を受けた黒い瞳は、激しく震えていた。この状況を生んだのは彼自身なのに、自分の行動を否定するように首を振る。


「……なん、で」


 さて、と心の中で呟いて、わたしは彼から剣を奪う。そして眉を寄せると、奥歯を噛み締め剣先を手から引き抜いた。その瞬間、馬鹿みたいな量の赤い液体が流れ出し——わたしの足元に水たまりを作る。


「銀葉……っ!」


 わたしの後ろで、彼——のエンジュが叫ぶ。わたしは肩越しに頷き、『大丈夫』と呼びかける。だが、当然のことながら痛いものは痛い。樹だって生きている。……体液が赤いことは予想外だったけれど。


 しかし今は、そんなことに構っている暇はない。わたしは再び前を向くと、目の前の少年を見つめた。彼は時が止まったように、呆然と地面の水たまりを目に映している。


「……ねえ、君」


 呼びかければ、少年の肩が小さく震えた。わたしは一歩彼に近づき、無事な方の手を伸ばす。指が触れる一瞬前、彼は顔を上げる。その瞳はわたしを見ていた。、瞳の色で。


「——、は」


 過去ではない。そして未来ですらない時間が、混ざり合う。この時この瞬間に、わたしたちは二度目の出会いを果たす。それは本来ならあり得ない出会い。流れ消えていった時が紡いだ、もう一つの答え。


「やっと、辿り着いたね」


 本当に手が届く瞬間は、ただ一度きり。わたしは今この時に願う。これが本当の最後なら、わたしの全てを賭けて君に届かせよう。決してこの運命が、無意味に変わらぬように——


「久しぶりだね、。そして、やっと出会えたね……


 二つの死の運命は絡み合う。エンジュ、エルンスト。二人の想いは、分かたれた時の流れを再び紡ぎだし——この一点に収束する。


 少年の襟元で、小さな金色の枝が光を弾く。それが示し出した過去の証。閉ざされた未来の暗闇を超えて、今、私たちの運命は新たなる道筋を描き出す。


「——銀、葉」


 指先が君に届く時、わたしは思い出すのだろう。夕日に照らされ笑う君の顔を。かつて誓った想いの片鱗を。


「守ってやるよ、絶対にな」


 それは彼の想いで、同時にわたしの願いでもあった。刻まれた心は時を巡り、消え去りそうになりながらも、ここに舞い戻った。優しい現実ではなかった。穏やかな想いだけではあり得なかった。だがそれでも——


 最後から二番目の夕日を超えて、わたしたちは最後にたどり着いた。


 本当に手が届かなくなってしまうこの瞬間に——わたしはやっと、君に触れることができる。



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