5:時の終わりで君を待つ

 『変わらずにいたい』――

 そう願うことが間違いだとは思わない。だが結局のところ、些細な願いは無慈悲に壊れていく。どうあがいても時間は流れ、人は生きる中で様々のものを得る。


 何かを得ることが間違いだなどと、思うわけもない。けれど所詮、変わることの出来なかった者にとって、何かを得ることは自分と世界を壊すに等しいことなのだと——そう、気づけたなら、全ては変わったはずだったのに。




 夜が好きだ。誰にも邪魔されることのない闇が好きだった。僕はひとり夜の森を歩いていた。月のない夜空は暗く、手にした明かりだけが道を照らし出す。


 吹き抜ける風は冷たく、襟を立てても隙間から体温を奪っていく。思わず身震いすれば、それを嘲笑うように低い鳥の声が響いた。暗がりに反響する音を聞きながら、僕はその道を進む。


 時が止まったような森の中、足音だけが音を刻み——そして、僕は辿り着く。


 夜に沈む、鈍色の老樹。深い闇に向かって、枯れ果てた枝が伸びている。その枝先に光は宿らない。終わりへと向かうだけの時間が、そこには凝っている。


 僕は一度目を閉じ、ゆっくりと樹に近づいていく。暗闇ばかりの世界。全てを覆い隠す帳の中、誰かが樹の幹に背を預け立っていた。見間違えることなどあり得ない、灰色の髪。


「……エン」


 呼びかけると、男はゆっくりと顔を上げる。伏せられていた瞳がこちらを見た瞬間、僕は無性に叫び出したくなった。手にした明かりが意味もなく震え、周囲に歪んだ影を投げかける。


 そんな僕を、男は嘲るように鼻で笑った。僕は機械仕掛けの人形のように、ぎこちなく首を振る。だがそれでも、エンであったはずの男が向ける視線は、他人よりも冷たく僕を突き刺した。


「何をしに来た、エルンスト」


 突きつけられた言葉は、刃のように心を切り刻む。耐え難い苦しみが胸を襲い、僕の手から明かりが滑り落ちた。がしゃんと、音を立てランプが砕け、周囲に本物の闇が訪れる。


 僕は震える手を握りこみ、光の失われた世界を見つめた。心の中では、延々と同じ問いが回り続けている。なぜ、こんな。必死に心を押し殺す。だが想いは絶え間なく脈動し、僕を突き動かしていく。


「……エンジュ……! なぜ、⁉︎」


 声は無残に潰れ、悲鳴とも呼べないほど掠れていた。僕の叫びに目の前の男は、困ったような笑みを浮かべる。それだけならいつもの通りに見えた。しかし広げられた両手は闇の中でもわかるほど、どす黒く染まっている。


 その色が何を意味するかなど、考えたくもなかった。かすかに漂ってくる鉄錆に似た匂いの理由も、そして——エンジュがなぜ笑っていられるのかも。


「なぜ? ……わからないのかねぇ、オルフェの嫡子ともあろうものが」

「ふざけるな……! お前は何をしたかわかっているのか⁉︎ エンジュ、お前が……⁉︎」


 口にした瞬間、おぞましい感覚が背中を撫でていった。エンジュは、笑っていた。どす黒い、父の血で染まった両手を広げたまま、楽しげな笑い声を立て続ける。


「エンジュ……! 答えろ! どうしてなんだ⁉︎ 僕たちはずっと……上手くやってきたじゃないか。父もお前を認めるようになっていたし、何もかも上手くいっていた。なのに!」

「上手くいっていた? ああ、まあ、そうだろうな。。エルンスト、お前はよくやってくれていた。オレのために……そう、オレのためだったんだよな、全て」


 意味の掴み難い言葉を吐いて、エンジュは空を見上げた。相変わらず夜空に輝くものはなく、深い闇だけがこの場には満ちている。けれど、完全な闇に閉ざされないのは、かすかな光を放つ老樹のためだろう。


 だが、それも今となっては救いにもならない。光もなければ全て見なくて済んだだろうに、中途半端な薄明かりは、現実だけを無情に示し出していく。


「なあ、エルンスト。覚えてるか。昔、ここで交わした約束を」


 唐突に、エンジュはそんなことを口にした。弟は笑みを浮かべ、静かに老樹の根に触れる。その仕草は幼かった頃の優しい記憶を思い起こさせ、僕はやり切れなさに奥歯を噛み締めた。


「覚えている。当然だろう……僕が、お前に言ったことだ」


 苦い思いとともにエンジュを見つめる。かつて、僕はここでエンジュに誓ったのだ。変わらずにいよう——その想いは今も、胸の奥で生き続けている。


 だからこそ、この男がしでかしたことが理解できないのだ。全ては、上手く回っていたはずだった。エンジュは消されることはなく、父も存在を認めるようになっていたのだから。


 そんな僕の心が理解できないのだろうか。エンジュは笑みを穏やかなものに変え、心から安堵したように息を吐き出した。本当にそれだけを見れば、いつもとなんら変わりない態度。


「そうか。良かった……エル、お前はきっと忘れてしまったと思っていた」

「忘れるわけはない。ずっと、その約束が僕にとっての道標みちしるべだった」


 想いを投げかけると、エンジュはゆっくりとまぶたを下ろした。優しげにすら見える表情に、僕は理不尽なものを感じる。どうして、どうしてこうなった。なぜ、お前は


「……道標、だったんだよ……! なのに、それなのに! どうしてお前が、何もかも壊してしまうんだ⁉︎ 僕が、ずっと。ずっと耐えてきたのは、お前のためだったんだぞ⁉︎」


 叫びは、あまりにも空っぽに響いた。エンジュは薄い笑みを浮かべ、目を開く。その目は暗く淀み、僕が向けた感情の分だけ壊れていくかのようだった。かすかに震える瞳がこちらを見て、虚ろに笑う。


「……お前はそればっかりだな、エルンスト」

「お前には、この言葉が嘘に聞こえるのか」

「いいや、まさか。その言葉に嘘はないと知っているよ、。だからこそ……いや、そうじゃないな。どのみち、これはオレのエゴには違いない」


 エゴだと、そう告げた時だけ、エンジュの表情は寂しげに沈んだ。あとに続くはずだった言葉を飲み込んだ弟に、僕は胸をかきむしりたくなった。苦しい、こんなに苦しいのは……こいつのせいだ。


「エル、オレはな……ずっと、苦しかったよ」


 独白は、暗闇の地面に落ちて砕けた。まるで僕の心が伝染したかのように、エンジュは苦しげに顔を歪める。胸元を掴み、荒い息を吐き出した男は、血走った目で僕を睨みつけた。


「お前はオレのためになんでもしてくれたよな? 生きる場所も、欲しいものも、知りたいことも何もかもくれた。今までオレが歩いてきた道は、お前がオレのために用意したものだった……」

 一歩、鈍色の樹から踏み出した男は顔を歪めた。目をそらすこともなく、僕を捉え続ける瞳は爛々と輝いていた。そこにあったのは、疑うまでもない狂気――僕は我知らずと後退った。


「エル、。だけど、お前はその意味を、一度でも考えたことがあったか?」


 何がエンジュを駆り立てているのか、まだそこに至れない。どう考えたところで、狂気の奥にある心が見えなかった。答えに至れないままの僕を見据えたまま、エンジュが近づいてくる。血走った目に縛り付けられた僕は、ただ恐れることしかできない。


「わからないのか? なあ、本当にわからないのか……⁉︎ お前は、オレを——」


 エンジュの手が僕の腕を掴む。その瞬間、腕の骨がきしんだ音を立てた。痛い――悲鳴の代わりに涙が一筋こぼれた。それでもエンジュは力を緩めることなく、僕の耳元で狂ったような言葉を投げつけてきた。


「オレを、対等のものとして扱わなかった! オレを、お前と同じものであったはずのオレを……! まるで、愛玩動物のように扱い——飼い殺しにしたんだ!」


 ちがう。そう言いたかった。しかしエンジュの力はそれすらも許さず、小さな呻きを漏らすことさえ難しかった。そんな僕にエンジュは絶望したような表情を向けてくる。一息分の空白。そのあとに訪れたのは、今までの心の痛みをぶつけるかのような絶叫だった。


「オレは自分自身である意味さえも奪われた! 他でもないお前自身に! どうしてなんだ、どうしてそんな理不尽をを赦せるって言うんだ⁉︎ 答えろエルンスト……‼︎」


 エン。叫び続ける弟に呼びかけたかった。僕はお前を、そんなふうに考えたことは一度もない。

 けれどその言葉も、確かに心にある想いすらも——エンジュには届かなかった。

 かつての僕たちは分かち難く存在し、何も言わずともエンは僕の心を理解できたはずだった。


 しかしもう、この声が届くことはないのだろう。


 『僕たちはずっと、変わらずにいようね』

 ただそれだけを願った想いは、気づけば歪み壊れ果てていた。


 僕は、そのことに気づけなかった。エンは、ずっと……僕と『同じもの』として生きて行きたかったのだろう。守られるだけのものとしてではなく、昔と同じ対等な双子として——


「エン」


 もう、エンジュは僕を見ない。そして、罪を犯した。全てを壊すために、父を殺してしまった。


「エンジュ」


 こうして触れることさえ、手遅れなのだ。掴んだエンの手は血にまみれている。半ば乾き、肌に染み付いた色は、決して拭うことはできない。


 エンジュの罪は、僕の罪でもある。僕が間違えなければ、エンはもっと幸せでいられたはずだった。


「……エンジュ……!」


 僕は、エンを抱きしめた。かつて同じだったはずの片割れの髪からは、鉄錆の臭いがした。背中に手を回し、怨嗟を吐き続ける体を受け止める。そうして初めて、エンジュが震えていることに気づいた。


「なあ、エン。僕を赦せないっていうなら、それでもいいよ」


 エンジュは何も言わない。震えるその肩に触れて、僕は静かに言葉を紡ぐ。二度と戻ることのできない場所に僕たちはいる。ならば、今更想いを偽ってなんになるのだろう。


「赦さなくていい。お前の怒りは……正当なものだ」

「エルン、スト」

「怒ってもいいんだ。泣きたければ泣いてもいいんだ……だからもう、やめよう? これ以上は……お前が苦しいだけだ」


 寂しさが心を満たした。こんな結末を望んでいたわけではなかった。かつて、おぼろげに変わってしまった記憶の中で、誰かが言った。エンを守れるのは僕だけだと。


「だから、もう」


 僕はエンを守る。その心は遠ざからない。だから僕は——


「もう、終わりにしようエンジュ。全てを忘れて、一緒に眠ろう」


 ずぶり、と。静寂に似つかわしくない音が響き、エンジュは短く息を吐き出した。離れようとする体をしっかり抱きしめ、僕は弟の背中にナイフを突き立てた。


「エル……?」


 僕が大切なエンにしてあげられることは——こんなことしか、残されていない。虚しく笑って、僕はナイフの柄をさらに奥に沈めた。エンジュの口から血が溢れ、僕の方に落ちる。


「なん、で」

「ごめんな、エンジュ……だけど、僕も疲れてしまったんだ」


 どうあっても、こうなるしかないなら。僕は痺れたように動きを止めた感情の中で思う。突き立てたナイフを引き抜けば、鮮血が溢れた。足元にぼたぼたと赤い雫が落ち、すぐに水たまりになる。


 抱きしめたエンジュの命、それが終わるのを感じていた。いつしか弟の体は力を失い、ゆるやかに僕に向かって倒れ込んでくる。その体を受け止め、僕は地面に座り込む。


 こうなるしかないなら、終わらせるべきだった。エンジュの頭を膝に乗せ、目を閉じる。悲しいとは感じなかった。仕方なかった。そう、全てはここに帰結するものだったのだから。


「もう、いいよな」


 エンジュの額に触れ、目を閉じたまま笑う。まぶたの奥には暗闇がある。誰にも侵せない、自分ひとりの暗闇。そこで眠ってしまいたい。永遠に、終わることのない場所で——


「ごめんな」


 エンジュではない誰かに、そっと呼びかけて。僕は手にしたナイフを見つめた。銀色だった刃は真っ赤な血に染まり、映り込んだ僕も夕日に照らされように赤く染まる。


 ごめんな、もうは耐えられない。こんなことなら、『最初』で終わりにしたかったよ。


 笑みが消え、ナイフを一閃する。赤いきらめきが虚空に散らされ、地面に落ちたのは——無意味な塊と化した、金の枝と銀の葉。












銀葉ぎんよう


 呼びかけに、わたしは顔を上げた。馴染みのない声、どこか懐かしいような呼び方。心のどこかで誰かが囁いている。——


「あんたは銀葉。……呼び名がないの面倒だし、それでいいだろ」



 ——こうして物語は、零に戻る。


 壊章「時の終わりで君を待つ」了


 →next 終章「オルフェ・フィロ」


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