4:そして僕らの時は止まる

 朝が来る。最後の、僕たちの朝が。

 僕とエンは、その日をいつも通り迎え、最後まで変わることなく過ごした。


 今までの日々が、遠く変わっていくこの瞬間。何気ないことを積み重ねても、意味はないのかもしれない。けれど僕たちには、必要なことだった。


 僕が呼びかけると、エンが応える。たったそれだけのことが大切だった。とても温かくて幸せな時間があったのだと、僕たちは互いの心に刻みつける。


 そうしてわずかばかりの日常が消え去り、別れの時がやってきた。


 父が寄越した迎えの使者は、無表情に僕の前で膝を折る。それは嫡子に対する敬意の表れだった。僕は、本当の意味で嫡子エルンストになったのだと思い知る。


 けれど後悔はなかった。嫡子としての力があれば、エンを守ることができる。それが一番大切なことで、僕がこれから生き続けるための意味だった。


 僕は、エル。嫡子エルンスト。オルフェを受け継ぐもの。だけど僕はいつまでも、エンの兄だ。


 僕は従者とともに歩き出す。ずっと暮らしていた場所が遠ざかっていく。そこまで豊かな暮らしではなかったけれど、ここには僕たちの思い出が詰まっている。振り返ればきっと、変わらず温かい世界が僕を包んでくれるだろう。


 だから僕は、振り返らない。頰を風が撫でて、少しだけ冷たい感触が涙のように伝った。それでも振り返ることはない。振り返ってしまったら僕は、二度と前へは進めない。


 たとえ、エンの気配が遠ざかっていくのを感じたとしても。振り返ることはない。顔を上げ、前だけを見つめる。その先にあるのが『ひとりきり』の暗闇だったとしても、今だけは決してうつむかないように、僕は前を見る。


 けれど、本当は悲しい。物言わぬ人々に囲まれ進みながら思う。自分の決断に納得しているのに、僕の心はみっともないくらいに震えている。悲しい、苦しい、そして辛いんだ。


 そんな中で、同時に思う。こんな感情を、エンに押し付けることにならなくてよかったと。納得した僕でもこんなに辛いんだ。もしエンにエルンストを譲ったとしたら、弟はきっと耐えられなかった。


 そう考えてみれば、あの幻想の中で交わした言葉は無駄じゃなかった。僕が間違った道に進まないように、あの樹は——銀葉は僕を導いてくれたのかもしれない。


 なあ、そうなんだろう? 過ぎ去っていく光景の中で問いかける。これでお前の望む未来が手に入るんだろう、銀葉?


 銀葉の望んだ未来が間違えでないなら、僕たちはきっと、幸せな場所にたどり着けるだろう——?


「——兄さん!」


 エンが、僕を呼んだ。心からの叫びにも似た声が、去ろうとした僕の背を引き止める。僕は一瞬ためらった後、結局耐えきれずに振り返り、叫ぶ。


「エン……!」


 従者が止めるのに構わず、僕は駆け出した。僕の目にはエンが、エンの目には僕が映っている。鏡合わせのような僕たち。二人だけで完成していた閉じた世界。それが壊れる瞬間に、僕たちはお互いの手を握り合う。


「兄さん、ぼくは……ごめん、兄さん……!」

「エン、いいんだよ。これは僕が決めたことなんだ。嫡子として生きても、エンの兄としてお前を守れるように……頑張るから。僕たちはずっと変わらないって、約束するから……!」


 どうしようもなく悲しかった。僕たちはどんなに望んでも一つにはなれない。だから引き離され、別々のものとして生きるしかない。いつか受け入れなければならないとわかっている。だけど今だけは、こうして手を握りしめていたい。


「守ってやるよ、絶対にな」


 決意を込めて告げる。エンの瞳に光るものは、鏡写しのように僕の目にも流れた。これから先、変わっていくものもあるだろう。変わらざるを得ない時もあるんだろう。それでも僕たちは今この瞬間を、忘れずにいるだろう。


「兄さん、ぼくもきっと守るよ。忘れない、絶対に忘れないから」


 従者が僕の方に手を置き、道行きを促して来る。僕たちは最後にお互いを見つめた後、そっと手を離した。離れていく僕の手の中には飾り物の金の枝。そしてエンの手には、銀の葉が輝く。


「これを持っていて。僕たちが確かに『ふたり』だったっていう証に」

「……わかった。大切にする」


 笑い合い、それを最後の挨拶に代えて。

 僕たちの道は分かたれる。どんなに近くを歩いたとしても、僕たちは決して同じにはならない。それでも僕とエンがともに生き続けるために、僕はこの道を往く——






 そして、時は巡り。


 分かたれた双子の物語は、最後の時を迎えることになる。

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