3:虚実の標、限りなくゼロに近い願い

 そうして、父は好き勝手なことを言い散らかして去って行った。


 正確に言うなら、僕が理由をつけて追い返したのだけど。前向きすぎる性格の上、いろいろゆるい父には言外の意味を理解できなかったのだろう。いつものように満面の笑顔を僕に向け、こんな言葉を投げかけた。


「良い日はなるべく早く訪れるに越したことはない。早速明日、お前を迎えに来るとしよう」


 勝手すぎるとは、口が裂けても言えなかった。どう取り繕ったって僕は父のお気に入りの人形に過ぎず、機嫌を損ねれば息をすることも難しい。


 だから僕は、お行儀よく人形のように笑うんだ。それが父の望みで、僕に求められている嫡子としての姿。それ以外は何も求められていない。従順な息子であることが、僕にとって生きる唯一の道だった。


 それなら、本当の人形を嫡子にすればいいと、去っていく馬車を見つめ思った。

 日も暮れ始める時間帯、空に輝く太陽は赤く変わり始める。今日ももうすぐ終わってしまう。そう考えると急に、僕の体はひどく冷たいものに変わった気がした。


「僕は」


 どうすればいい? 遠ざかっていく馬車を見ていたくなくて、僕は目をそらし家の前から歩き出した。夕暮れ前の風は、まだ暖かさを残している。けれどこの手は、何かに熱を奪われたように冷えていく。


「……兄さん?」


 家の玄関が開く音が聞こえ、後ろからエンが僕を呼ぶ。それでも僕は立ち止まらなかった。今だけは、ひとりになりたい。ひとりにしてくれ、と。心に願えば、追いかけて来る足音は止まった。


 僕はそんなエンに感謝することも忘れ、ひとり夕暮れの迫る道を歩く。

 その先に広がるのは街外れの森。どうすることもできない痛みを抱えながら、僕はその道を進む。


(君は迷っているの? 嫡子として生きていくことを)


 不意に響いた声に、一度足を止めかけ——すぐに再び歩き出す。僕は一度首を振って、その何かを振り払おうとした。しかし声の気配は消えず、僕はイライラと地面を蹴りつける。


(どうして怒っているの)

「うるさいな、放っておいてよ……!」


 思わず叫んでいた。僕の怒りに、謎の声も流石に言葉を飲み込んだみたいだった。それでもイライラは収まらず、僕は唇を噛んで走り出す。


 どうしてこうなった? 道を走り抜けながら自問自答する。勢いよく景色は遠ざかっていくのに、心だけはずっと一つの場所を回り続けていた。まるで、行き止まりに迷い込んで動けなくなったみたいだ。


 苦しい。息が乱れること以上に、胸の奥が苦しかった。どんどん景色は後ろへと流れ、目の前には深い森が広がっていく。夕暮れに染まっていく木立の間を、あてもなく僕は走り抜ける。


 どうして。どんなに心の中で叫んでも、僕の苦しみは誰にも伝わらない。どうして、どうしてどうして……どうしてこんなに世界は、理不尽で満ちているんだ?


「なんで……っ!」


 苦しみと、少しばかりの悲しみ。短い叫びとともに、僕は地面に崩れ落ちた。両手を握りしめ、それ以上の声を押し殺す。こんな風に森の中でうずくまるなんて、バカみたいだ。


(泣かないで)

「泣いてなんか、いない……!」


 否定して顔を上げれば、赤い光が真正面から降り注いだ。血にも似た、真っ赤な色。世界は全てが赤く染め上げられ、その真ん中に——光り輝く金色の大樹が立っていた。


「これは……」


 僕は、目を奪われた。大きく金色の枝を伸ばし、その梢に芽吹くのは銀色の葉。天に輝く星のような煌めきが枝葉に宿り、そこから溢れた光が周囲を舞っている。


 夢の中のような、美しく儚い光。それに導かれるように、僕は立ち上がった。そしてゆっくりとその樹に近づき、恐る恐る輝く幹に触れる。


「……あったかい」


 触れた幹は、とても温かかった。胸の奥に染み込むような温度に、僕は堪えきれずに目を閉じる。全てを包み込まれたように、心は穏やかに変わっていく。それがとても不思議だった。


 不思議で、不思議すぎて……なぜか急に泣き出したくなる。しかし涙は出なかった。泣きたいくらいに苦しいのに、声一つあげられない。


 この苦しみはきっと、僕のものじゃないんだ。選ばれたのは僕で、幸せを約束されたのも僕の方。エンには何もない。僕たちは同じものなのに、この先で道は別れ違うものになっていくんだろう。


 それが、それだけが苦しくて悲しくて、僕は触れた幹に額を押し付けた。温かさが冷えた心と体に伝わり、少しだけ痛みが軽くなるような気がした。でもそれだけだ。明日になれば、僕たちは——


「……泣かないで」


 そっと、誰かの両腕が僕を包み込んだ。優しいぬくもりに目を開くと、穏やかな瞳が微笑んでいた。不思議な色合いの銀の瞳、色あせたように毛先が鈍色に変わった金色の髪。それが灰色のフードの下から覗き、僕は一瞬、時を忘れた。


「泣かないで、エル。その苦しみは決して、君のせいじゃない」

「……お前は……誰……?」


 僕の問いかけに、銀色の瞳は少しだけ困ったように細められる。わずかな時間さまよった視線。それを追いかけて気づく。いつの間にか、あの樹が消えている。


「わたしは……銀葉。そう呼ばれるはずの、ただの樹だよ」

「樹……って、まさか。ここにあった金色の樹なのか……?」

「そう。信じられないだろうけど……わたしは、金耀樹。この世界を見守る神樹でもある」


 銀葉。そう名乗った相手は、自分のことをこんな風に語った。金耀樹がどんな存在なのかはわからないけれど、神樹と言うくらいだからすごい力があるんだろうか。


 考え込んでしまった僕に、銀葉は困ったような顔のままで首を振った。難しく考える必要はないよ。小さな囁きに顔を上げると、樹の化身は静かに笑いかけてくる。


「ただ樹が喋ってるだけ。その程度の認識でいいと思うよ。もし何か言ったとしてもわたしは樹なんだから、君の父親に告げ口したりもしないし」

「まあ、告げ口はしないだろうけど……って、あれ? もしかして、しばらく聞こえてた声って、お前なの……?」

「うん、まあ……そう、だね。ここにあった『わたし』は過去で、今のわたしは未来なんだけど」

「なにそれ。よくわからない」


 首を傾げてしまうと、銀葉は『わからなくていいよ』と苦笑いした。その言い方にさらに首をひねってしまう。すると背中を軽く叩かれ、僕は目を瞬かせる。


「君は、未来のことで悩んでいるんだよね? だったら未来のわたしなら、何か言えることもあるかもしれないよ」

「余計意味わかんないんだけど……つまり、お前になんでも言ってみろってこと?」

「うん、そういう感じかな。……ひとりで悩むよりは、いいんじゃないかと思って」

「ふぅん?」


 よくわからない。けれど、銀葉に悪意がないことくらいは、僕にだってわかる。穏やかな銀色の瞳を見上げた後、僕は少しためらいながら言葉を吐き出した。


「僕は、恵まれているんだと思う」


 独り言のような呟きを、銀葉は黙って聞いていた。本当に樹に話しかけているように思えて、僕は少しだけ笑う。恵まれている。そう、僕は恵まれているんだ。改めて口にすると、その意味の重さに気づいて身震いする。


「エン……弟よりもずっと、僕は恵まれているんだ。それがとても、嫌だ。僕たちは双子で、同じものなのに……他の人は、僕たちを引き離して違うものにしようとする」


 僕たちは同じなのに、一つになることはない。『ふたり』だから、いずれ別々のものになっていくんだろう。それがわかっていても、訪れる別れの瞬間を他人に決められたくはなかった。


 いつか、僕たちは分かたれる。その時が訪れるまで、せめて変わらずにいたかった。そうすれば、僕たちはそれを受け入れられるはずだと思っていた。。そのはずだった。


「他人が僕たちを決める、それがとても嫌だ。だけど僕は、嫡子になるしかなくて。もし僕がオルフェの嫡子になってしまったら、エンはきっと……」


 これは想像だ。震える僕の肩を、銀葉の手が撫でる。それでもとても怖かった。言葉にしてしまうことで現実になるなら、僕は口を閉ざしていたい。だけど、それは無意味なんだろう。


 噛み締めた唇が痛い。目をきつく閉じると、僕は訪れるはずの現実を告げる。


「きっと、消されてしまう。オルフェにとって双子が不吉だっていう、わけのわかんない理由で」


 エンが消えた世界に、意味があるんだろうか。目を閉じたまま僕は問いかける。僕はエンに生きていてほしい。エンを失いたくないんだ。ならば、僕はどうしたらいい?


「僕はどうしたらいい? どうしたら、僕はエンを守れる?」


 問いかけは、自分でもわかるほど苦しげな響きを持っていた。目を開き、銀葉を見上げる。銀色に夕日の赤が映り込み、不思議なほど温かな瞳が僕を見つめ返す。


「君は、弟を守りたいんだね」

「当たり前じゃないか! そのためだったら、僕はなんでも捨てられる。何でも……そう、譲れるなら嫡子の立場だって」


 心から溢れた想いを口にした瞬間、僕はに気づいた。僕とエンは双子で、見分けられる人間は誰もいない。それなら、、誰も気づくことはない。


「そうだ……僕が、


 僕が出した結論は、最良の答えのように思えた。僕がエンジュになれば、エンはエルンストになれる。そうすればエンは、何も失わずに済む。


 僕は、決意とともに銀葉の目を見返した。こうすることが、一番良い結末だ。たどり着いた答えに意味を見出した瞬間、銀葉は静かな声で僕の考えを遮った。


「それは、駄目だよ。


 はっきりした否定。動かしがたい一言に、僕は銀葉を睨みつけた。なぜそれが駄目なのか、考えても理解できない。僕がエンを守れる方法なんて、それ以外にない。


「どうして。エンを助けるにはそれしかないじゃないか!」


 声を張り上げれば、銀葉は僕の肩に両手を置いた。温かな手のひら、優しくも寂しい眼差し。穏やかで、同時に不穏な光を瞳に宿して、樹の化身は静かに首を横に降る。


「駄目なんだ……それでは、弟を本当に守ることにはならない。だってそうだろう? ?」


 僕が、エンジュになったら。エンを、守ることは——できない。そのことに思い至り、僕は思わず足元を見た。夕日が作り出す影は暗く、地面に沈み込んでいくようだった。


 僕が代わりに消されたら、エンは『ひとりきり』だ。想像してみればわかる。僕が望まない場所を、エンが望むわけもない。『ひとり』になることが幸せだなんて、僕だって思うわけがなかった。


 肩に置かれた手に力がこもった。。銀葉ははっきりした口調で、うつむいた僕に声をかける。


「君は、エルンストのままで、エンジュを守るんだ。そうでなければ、君は永遠にエンジュを失うことになってしまう。君がエルでなくなったら、エンが君を失うのと同じように」

「わからない。わからないよ……なら、どうすればいいっていうんだ⁉︎」


 想いだけでは、誰も救えない。そう知っている。だから僕は顔を上げても、前を向けないんだ。


 銀葉は僕の想いをどう捉えたんだろう。銀色の目を閉じた樹の化身は、長い息を吐き出し——何かを決意したように目を開いた。そして、僕をまっすぐ見つめ、優しくない言葉を投げかける。


「逃げてはだめだよ。……辛くても、君は君の役割を全うしなければ。そうしなければ、運命は歪んでしまう。君も弟も……すれ違ったまま、分かり合えなくなってしまうんだ」


 結末を、知っているかのような言葉だった。いや、もしかすると知っているのだろうか。僕が選んだ先で起こることを。そしてそれが、幸せな結末でないことも。


 空を見つめると、夕日が消えていこうとしていた。僕がただの僕でいられる、。明日の夕日を見る頃、僕は本当の意味で『エルンスト』になる。


 エルンストなら、エンジュを守れるだろうか。夕日が残像を残し消えていく。一日が終わっていく瞬間、僕は銀葉の腕に触れ、自分の中に残った想いを吐き出した。


「わかった」


 太陽が落ちていく。銀葉は目を見開き、どこか切なげに微笑んだ。僕も笑い返したけれど、ちゃんと笑えていただろうか。僕は決断したんだ。その想いは、決して覆さない。


「僕は、嫡子エルンストとしてエンジュを守る。そう、決めた」

「……ありがとう——」


 光が消えていく。太陽が消え去るのと同じ速度で、銀葉の姿は薄れていく。幻に変わっていく銀の瞳を見つめ、僕はその手に触れる。温かい手、優しい陽だまりのような温度。


「また、会える?」

「わからない。君は、わたしを忘れているかもしれない」

「そうかな。たぶんだけど、銀葉。


 僕の手を握り、銀葉は最後に優しく頬んだ。穏やかな声が小さく言葉を刻み、すべての光が散った瞬間、何もかもが夜の中に消え去った。触れていた手も、その温度も。そして、あの銀色の瞳すらも。


「……夢、じゃないんだよね」


 目の前にあるのは、鈍色をした枯れかけの老樹。あんなに美しかった金色の梢も、銀色の葉もどこにも存在しない。本当に夢だったのか。その考えに首を振る。いや、あれは夢なんかじゃない。


 なぜなら僕の手の中には、銀の葉が残されている。飾り物なんかじゃない、本物の銀の一葉が。


「……兄さん」


 鈍色の幹を見つめていると、背後でエンの声がした。僕が戻ってこないから探しに来たのだろう。ゆっくりと振り返った僕は、そこに立っていた弟に笑いかけた。心配そうな僕と同じ顔。同じ黒い瞳、灰色の髪。


「なあ、エン」


 エンに近づき、手を握る。はっきりと今、ここに生きているという証明の温度。それがかけがえのないものなんだと、改めて心に刻み込む。大丈夫だ、僕たちはきっと、僕たちのままでいられる。


「約束しよう。エン、僕たちはずっと変わらずにいようね——」


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