悪夢

 上司の死という衝撃的な一報のあと、俺は珍しく定時で仕事を切り上げ、早々に退社した。部長からの突然の呼び出しはあったが、特に圧力をかけられることもなく、平穏に仕事を終えることができた。何年ぶりだろうか?こんなに仕事が捗ったことはなかった。如何にくだらないことを延々とやっていたかがよくわかる。よくわからない評論家が、日本の生産性の低さを論じるテレビ番組を見るたび、自分の国を貶めるようなことを人前で話して、この人たちは恥ずかしくないのか?と、思っていたが、今日のように仕事があっさり進むと、評論家のいうことも正しいのかも知れない、などとくだらないことを考えていた。

 川崎に頼まれていたデータの整理で、幾つかの懸念事項を発見したが、今後、ゆっくり追求していけばいい。最悪、知らなかったとでもすっとぼけておいてもいい話である。プレッシャーはない。こんなにいい職場だったのか…。

 いつもなら、終業五分前というタイミングで、仕事を押し付けてくる奴がいるのだが、そいつはもういない。今更ではあるが、人は追い詰められると正常な判断すら難しくなるものとわかった気がする。俺も、若い部下たちに要らぬプレッシャーを与えてはいけないと、肝に銘じておこう。

 気になるといえば、部長の小林の態度くらいである。あまりにも誠実すぎるのだ。ほとんど一緒に仕事をしたことがないので、断定はできないのだが、川崎がどんな男か知っていながら放置してきた部長は、やはり信用する訳にはいかない。この男、何か裏がありそうだ。まあ、自分から尻尾を出してくるまでは、放っておいてもいいだろう。実際、部長が探りを入れてきたらどうするべきか?額が大きいだけに、下手な動きは命取りになりかねない。恐らく、川崎は、このことで命をおとしたように感じる。俺の直感であり、証拠はないが…。部長を含め、上層部は、俺の行動を監視しているはずだ。素人相手とはいえ、用心しておかなければならない。俺は、この会社のシステムを全て把握している。俺が構築したものだからだ。それを、運良く、川崎が自分自身の手柄であるように、上層部に吹聴していてくれたので、ネットワークのプロであることは、ほとんどの人間が知らない。都合がいい。少し癪には触るが。

 ただ、川崎の仕事を引き継ぐということは、俺は課長である。近々、辞令が出てくるのだろうが、それまでは平社員として、気楽にさせてもらうさ。これまで耐えてきたんだ、この程度の楽をさせてもらっても罰は当たるまい。

      

 夕方になり傾きかけた太陽はなお、容赦なく辺りを加熱し続けている。冷房のないバイク、薄手とはいえ必須の上着、おまけにグローブまで着用している。暑いなどという生易しいものではない。ヘルメットのシールドを開けていても、熱気が流れ込んでくるだけで、一向に涼しくはならない。

 赤信号で停まると、小さな水冷単気筒エンジンとはいえ、それが放つ熱は、フェアリングに沿って体にまとわりついてくるようだ。これじゃ、環境に悪いと言われても仕方ないか…。この暑さの幾分かは、俺のバイクが発しているのかも知れない。俺の横をすり抜けいくエコカーに乗っている人たちは、汗も流さず、夕方のラジオでも聴きながら、家路を急いでいるようにみえる。いかにもスマートだ。

 対して俺の方は、体中から汗が噴き出してくる。体内の水分、家に帰る前に、全部なくなってしまうんじゃないか?大袈裟ではなく、本気でそう思う。それでもエンジンの鼓動、オフロードタイヤが発する細かな振動、長いストロークの前後サスペンションによる鷹揚なピッチングに身を委ねていると、そんなややこしいことは頭から消し去られてしまうようだ。諦めよう。夏は元々暑い。俺のせいじゃない。

 通勤の相棒は、CRF250ラリーというバイクなのだが、俺は、名古屋市内で開催されていたあるイベントで、『発売予定』と銘打たれていた実車を見て、必ず買うと決意した。数年前のことだ。海外のラリーに出場しているマシンのフォルムを、市販車に忠実に再現している。数十年前に流行った、レース用車両を模したスポーツバイクと一脈通ずるところがある。

 所謂レプリカであり、その造形に必然性があるのかと問われれば、微妙なところなのだが、砂漠を延々と走るイメージが湧いてきて、俺は大層気に入っている。イメージだけで、専ら通勤で淡々と走るだけなのであるが、頭の中は、しっかり冒険者になっていたりする。気分は大切である。ただ、レーサーとほぼ同じフロントスクリーンの効果は伊達ではなく、本当に風から体を守ってくれる。体に直接当たってくる風は、想像以上に体力を消耗する。長距離を走るとき、効果は絶大である。しかし、冬にはありがたいが、夏は熱気がこもって、仕方がない。

 買った当初は、混じり気のない真っ赤な塗装が、今となっては、若干橙色っぽく劣化しつつあり、年季を感じさせる。

 少し草臥れてきているが、それもまた、風情があっていいものだと思っている。あちこちにキズがついていたり、汚れがこびりついたりしているが、走る性能には影響はない。美術品でもないので、気にしないことにしている。しかし、機械部分が調子悪くなるのは耐えられない。先日、夏用に少し硬めのオイルを入れているので、エンジンの吹け方がやや重く感じる。走っているときには見えないが、ピカピカのゴールドのチェーンに新品のスプロケ、標準のものより少しオフロード寄りのブロックタイヤなど、少々のカスタムも施している。

 俺は、少し面倒ではあるが、バイクのメンテナンスは一通り自分で行うようにしている。妻のシトロエンも同様だが…。調子の良し悪しや、部品の状態など、自分の目で確認できるのが、一番の安心感につながる。偉そうに言っても、水冷の単気筒である。スパークプラグの交換も一本だけ、タペット調整も一本のピストンを上死点に合わせれば、一回で済む。慣れれば大したことはない。工具だって妻が揃えたものを拝借している。

 走らせているときの、ほんの少しの違和感が、妙に気になることがある。そんなときに、自分の目で異常を発見すると、自分の感覚の正しさに満足することがある。はたから見れば、バイク好きのおじさんの自己満足だろう。でも、これもバイクの楽しみの内の一つだ。面倒なことをわざわざやっているようにしか見えなくても、趣味というのはそういうものだ。俺が満足ならそれでいい。


 汗だくで家に辿り着くと、妻が夕食の準備をしてくれている。既にいい香りが漂っている。俺は、この瞬間に、大いなる幸せを感じている。一日、くだらない仕事をして、家に入ったときの、料理の香り…どんなことよりも感謝している。俺は、家族に恵まれている。これを、「幸せ」というありきたりな表現しかできない自分が情けないが…。

 いつになく早く帰ってきた俺を怪訝そうにみている妻に、

 「ただいま。今日は、急に早く帰ってきて悪かったね。俺の直属の上司が亡くなってさ。仕事が手につかなくなって…。」

 俺がいうと少し納得したように妻が応える。

 「そうなの?それは大変ね。ショックだったでしょ?大丈夫?」

 「平気だよ。苦手な上司だったし、清々してるよ…。と言いたいところだけど、実際亡くなると、少し同情してたりするんだよ。俺は、結構偽善者なのかも知れないね。」

 「そうでもないと思うよ。嫌いでも人は人。亡くなれば悲しくなるのは当たり前よ。変なこと考えなくていいのよ。ご飯、もう少しでできるから待っててね。先にビールでも飲む?」

 「うん。自分で用意するよ。喉がカラカラでさ。ありがとう。いただくよ。」

 俺は冷蔵庫から缶ビールを取り出すと、一口飲んでみた。この季節、仕事帰りの一杯はなんとも言えず美味い。ほろ苦く、冷たい液体が喉を通り、食道から胃に至るまでに体中に染みわたっていく感覚は、何にも代えがたい。スポンジに水が吸い込まれるように、失った水分が補給されていくようだ。一日の疲れが吹き飛んでいく。徐々に汗も引いていく。エアコンのありがたみを痛感する。

 所在なくテレビをつけてみる。いつものように賑やかな人々が、満面の笑みでこちらをみている。平和な世の中である。内容は、ほぼ分からないが、とにかく楽しそうに見える。

 忘れようとするが、川崎の顔が目に浮かぶ。俺の記憶に刻み込まれているようだ。死んでからも尚、俺の邪魔をするつもりか?こいつの仕事を俺は担当するのか…。少し気が重くなってきた。それにしても、本当に嫌な奴である。なるべく早く忘れよう。妻には、ポジティブな話題を伝えよう。

 「俺さ、秋くらいに課長に昇進するみたいなんだよね。万年平社員と言われた俺が…。」

 「本当?よかったじゃない。見てくれてる人は見てくれてるのよ。あなたが努力した結果ね!おいわいしなきゃね!」

 「正式な辞令はまだ出てないんだよ。部長から内々に話があっただけだよ。でも、嬉しくて、まず静香に報告しようと思ってさ。」

 「おめでとう。よかった。もう一本ビール持ってくるね。今日は特別サービス!料理はもう少し待ってね。」


 程なく妻が食卓に料理を運んできてくれる。 

 「今日はアスパラガスが美味しそうだったから買ってきたの。暑い日には、体にいいのよ。食べてみて。ビールにもとっても合うから。」

 妻は料理が特別上手い。若い頃から、近所の人を集めて料理教室を開く程の腕前である。

 絶妙な焼き具合のアスパラベーコンを口に運ぶ。見た目だけても美味そうだ。ベーコンの塩味と、アスパラガスの苦味が絶妙に混じり合い、恐ろしく美味い。他に形容のしようがない。しかも、ビールと良く合う。

 「美味い。」

 思わず叫んでしまった。

 「もう少しましな表現ないの?グルメリポーターだったらクビだよ。テレビみて勉強しなよ。」

 屈託のない笑顔で妻がいう。今見ているテレビのリポーターが、まさにそんなコメントをしている。俺は、こんなに上手く喋れない。残念だ。

 悩みを抱えたこういうとき、妻の存在が何よりもありがたい。本当に上手く気分を切り替えさせてくれる。感謝するしかない。

 「そうだな。もう少し勉強するよ。」

 勉強してどうにかなるものでもないのだが、何と表現すればいいのだろう?美味いものは美味い。他に何と言えばいいのか?

 いつもの通りの幸せな瞬間である。何故か落ち込みそうになるところを、救ってもらったようである。嫌いな上司がいなくなったんだ。お祝いしてもいいくらいなのに、酷く落ち込んでいる自分が、よくわからない。あいつ、仕事の邪魔はするし、くだらない説教もするが、それ程悪い人間じゃなかったのかも知れない。

 取り敢えず、あれこれ考えるのは止めて、美味い晩ごはんをいただくか…。

 いつも通りの大盛りのご飯が、あっという間になくなる。いつの間に作ったのか、茄子の味噌汁が運ばれてきた。茄子には味がないのだが、妻の作る味噌汁に入れられた茄子は、見事な味がつけられている。

 「あなた、明日の午後、瑠奈が帰ってくるんですって。何か美味しいもの準備しておくわね。」

 妻がうれしそうだ。

 「そうか。俺も楽しみだな。明日も早く帰ってくるか。瑠奈をみるのも久し振りだしな。」

 娘の瑠奈は、今年の春から関西の大学に入って、一人暮らしをしている。試験が終わってしばらく家に帰ってくると、数日前に妻が言っていた。暫く見ていないので、俺も楽しみにしている。

 「暫くいるみたいだから、慌てなくても大丈夫よ。それより、ジョニーが落ち着かなくて。雰囲気で瑠奈が帰ってくるのがわかるのかしらね?犬って賢いのね。」

 今年十歳になる柴犬のジョニーは、家族の誰よりも娘の瑠奈に懐いている。

 二年前、散歩中に飛び出してきたミニバイクに轢かれて、右の前脚を切断する大怪我をしてしまったジョニーは、それでも健気に娘に愛想を振りまき続けていた。娘の不在を誰よりも悲しんでいるようで、見ている俺も少し切なかった。先日、お酒の影響で、夜中までリビングで寝てしまったことがある。エアコンの冷気で、体が冷えてしまったかと思うと、それ程寒く感じていないことに気づいた。俺の背中にぴったりとくっついて、ジョニーが寝ていた。俺を風邪から守ってくれていたみたいで、無性に愛おしく感じて、ジョニーの頭を撫でようとした。そのとき、彼は、小さく鼻を鳴らすと、前後の足をバタバタし始めた。まるで、草原を走り回っているかのように…。実際には、彼は、前足の怪我で、外に出ることを怖がっていた。大好きだった散歩にもほとんど行っていない。でも、草原を走り回る夢でも見ているのだろうか?その先には、おれではなく、瑠奈の姿がみえているんだろうな…。大好きな瑠奈の姿を追いかけて、大好きだった広い公園を走り回っている夢をみている。もちろん、俺の想像なのだが…。穏やかで、楽しそうなその寝顔をみていると、暫し夢を楽しませてやりたくなった。もう少し、一緒に寝転んでいてやろう…。犬の健気さに、俺は声を上げて泣きたくなったのを覚えている。次に気づいたときは、朝の六時であった。大急ぎで出社の準備をしたのは言うまでもない。


 動物の勘なのか?妙に鋭いところがある。俺たち人間が犬の言葉を理解できないだけで、犬は俺たちの言葉を理解しているのかもしれない。だとすると、犬の方が俺より賢いな、などと考えてみる。酔が回ってきたのかもしれない。ともあれ、ジョニーは、娘の帰宅が俺達夫婦以上に嬉しいようだ。なんだか微笑ましくて俺はジョニーの頭を撫でてやった。

 「ジョニー、明日は楽しみだね。」

 俺は犬にも話しかける。それをみて、妻は静かに微笑んでいる。外は、漸く暗くなってきたようだ。蝉の声が静かになってきた。混乱の一日を過ごしたことと、ビールの影響もあり、睡魔が襲ってきた。

 「風呂に入って寝るね。」

 もう少し妻と話をしていたかったが、頭が混乱しすぎて、何を話していいかわからない。

 「お疲れさま。ゆっくりしてね。」

 風呂で寝てしまっては命に関わる。俺は、少し冷たい位のシャワーを浴びると、早々に風呂を出て、寝室に入った。


 布団に入ると、若干寝苦しかったが、エアコンの冷気でなんとかごまかし、眠りに就くことができた。眠りは浅く、何度も夢をみては目を覚ますということを繰り返した。ほとんとが、どうでもいいような下らない夢である。だが

俺は、こういうときに最も見たくない夢を、最後まで見ることになった。


 こいつイヤだな。俺の前から消えてくれたらいいのに…。そんなふうに思っていると、本当にそいつが怪我をしたり、病気になったり…。単なる偶然であるのはまちがいないのだが、何か自分の願望が叶ったようで、快哉を叫びたくなるような、後ろめたいような…。とにかく複雑な心境に陥ることがある。一度や二度ではなく、何度もこういう経験をしてきた。子供の頃にはなかったことたが、中学のあるときを境に、こんな経験が立て続けに起こっている。俺にはそんな力があるのか?夢の中で俺は問いかけている。

 お前には、そんな力はないという声が聞こえてきたところて目が覚めた。誰の声だったか?わからないが、聞き覚えのある声だ。取り敢えず寝よう。明日も早い。少しの時間で俺はうとうとしてきた。


 俺は中学の制服を着て、バスの一番前の席に座っていた。実家からは学校まで距離があるのでバスで通っていた。いつも通りの通学路。あと少しで学校に着く。俺は今日のテストのことを考えて、少し暗い気分だった。数学というものが、大の苦手だった。

 『どうしてただの計算を、ここまで難しく解釈しなきゃいけないんだよ?』

 俺は、いつも考えていた。ただの数字の羅列である。どうして一般化して、より一層難しくするのであろうか?もっとシンプルな考え方があるはずだ。より難しく考えるのではなく、より簡単に解く方法があるはずだ。しかし、俺にはわからない。どうしても理解できない。

 参考書を鞄から出し、今更大して効果がないとは思いつつ、それに目を通そうとしたそのとき、唐突に「大丈夫!」という女性の声が聞こえた。俺は、何が大丈夫なのか?と声のした方を振り返ると、急ブレーキでバスのタイヤが軋む音が聞こえ、直後に激しい衝撃を感じた。車内の照明は消え、白い煙が周りを覆った。

 何事かわからずにいたが、どうやらワンボックスカーがバスの運転席側に衝突してきたらしい。運転手は青ざめていて、何やら喚いているが、俺には意味がわからない。車内が騒然としている。割れたフロントガラスの欠片が散らばっているが、俺は無傷だ。荷物もしっかり握りしめている。

 「助かった…。」

 しばし呆然としていると、

 「おい、大丈夫か?」

 友人の博が声を掛けてきた。彼は、憔悴しきった表情で俺の後ろの座席を指差している。意味が分からず振り返ると、そこには大量の血を流した同級生がいた。身体が不自然な方向にねじ曲がっていて、恐らく息をしていない。事故の衝撃で何かの部品が飛んできて、同級生はその直撃を受けたみたいだ。

 「博、こいつ…。」

 「ああ、死んでる…。とりあえず外に出よう。話はそれからだ。下手すると車が燃えてしまうかも知れないからな。」

 憔悴していたはずの博は、なぜか冷静にそういうと、損傷の酷くない左側の扉に向かった。俺もその後に続く。自力で動ける乗客もぞろぞろと俺達に続いてくる。怪我した人を救助するにも満員の車内では無理がある。一旦外に出よう。

 「運転手さん、このドアは開けられますか?」

 どこまでも冷静な声で博が聞く。

 運転手がドア開閉のレバーを操作すると、異音混じりながらも、人が通れる程度にドアが開いた。

 俺は、外に出ると大きく息を吸った。胸のあたりが少し痛い。どこかにぶつかっていたみたいだ。詳しくは分からない。博が、

 「助かったみたいだな。とりあえず鼻血拭けよ。酷い見た目だぞ。」

 俺は博に言われた通り鼻血を拭いた。博は冷静な表情のまま、ポケットティッシュを手渡してくれた。俺は、無言で鼻の下辺りを拭く。

 「あとは警察と消防でなんとかしてくれるさ。俺達は学校に行こうぜ。」

 と言って、博は歩き出した。俺は黙って博の後を追った…。


 体中に汗をかいている。これは、実際に俺が中学生のころ遭遇した事故のようすなのだが、ときどきこの夢を見る。最初から最後まで…。 

 これまで何度も見る夢である。たまにはダイジェスト版でもいいのに…。


 上司の死というショックを受けた日というタイミングである。俺は動揺しているのだろうか?

 この事故の日、俺の苦手な同級生は死んだ。喜びたい反面、同級生を亡くすという衝撃的な場面を目の当たりにし、少なからず動揺したのは間違いない。そいつの家族の悲しみも分かる。如何に嫌いだった同級生とはいえ、ここは、喜ぶべき場面ではない。大人しく時が経つのを待つべきだ。少年の俺は、本能的にそう感じていた…。そもそも、俺が後ろを振り返らなければ、部品に当たって死んでいたのは俺だったかも知れない。恐ろしい偶然である。そうなっていれば、俺は、今この夢をみることもなかったはずである。そして、この平和な家庭も…。


 しかし、この夢で俺は何かを見逃している気がする。過去何度も見た夢だ。しかし、今日は不自然に思える。

 「何を見逃しているんだ?」

 俺はこの事故のあと、博と並んで歩いているとき、誰かに見られていたような気がする。一体誰なんだ?俺を見ていたのは?

 そして、あの声。そう、『大丈夫!』って声、聞き覚えがあるが、まったく誰の声なのか?見当もつかない。

 気になって眠れそうにない。時計をみると午前五時を少しまわったところだ。俺はそのまま起きることにした。嫌な汗が体に纏わりつく。俺は、明け方ではあるが、シャワーで汗を流すことにした。外は明るい。

 「まだ涼しいから、バイクでも走らせるか。」

 俺は、いつものようにバイクを走らせる。涼しい。何とも言えず爽快だ。気分の悪い夢で叩き起こされたことも忘れ、空いた一般道をひたすら走る。何の目的もなく、ただひたすら…。

頭の中には、バイクを走らせること以外の思考はない。ただ、前方を見つめ、周囲の安全を確認しているだけである。文字通り、無の境地である。…と思っていたが、腹が減ってきたことに気づく。俺は、まだ悟りをひらくような人間ではないなと、ひとり苦笑して、コンビニで握り飯を買った…。


 


 

 

 

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