フラッシュバック

 大騒動の翌朝、悪夢のせいで、安眠を邪魔された俺は、少し早く家を出た。早朝の街中はいつもよりひんやりとしていて、バイクで移動するには快適だ。時間に余裕があるので、少し遠回りしていくことにする。

 エンジンからは、まだ熱気を感じない。

 「そろそろ行くか相棒…。」

 俺はバイクに声を掛ける。そう、俺は人間以外にも話しかける癖がある。クラッチを切ってシフトペダルを踏み込む。ゆっくりクラッチを放して、早朝の住宅街に迷惑にならないように走り出した。ヘルメットのシールドを上げると、顔に当たる風が心地よい。早めにシフトアップを済ませると、広い通りに出る。車の通りも少なく、いつもよりゆっくり走る。低めの回転域を使うと、単気筒らしいビートを感じる。

 「俺は生きている!」

 当たり前のことだが、そう実感する。免許を取って、初めてバイクに乗ったときから今までずっとそうだ。そしてこれからも…。

 オフロード用のタイヤは、一般のタイヤと違い少し高めのパターンノイズを発し、ゴツゴツした感触をライダーに伝えてくる。サスペンションは、非常にスムースに動き、慣れないと大きくピッチングを発生させ、ぎこちない動きになりがちである。もう一台の方は、旧いリッターバイク、スズキのカタナという、これまた癖の強めなものだが、どちらも気に入って乗っている。カタナと比べると、スピードは出ないし真っ直ぐ走っていても、どこかフラフラしているようにも感じる。フレームの強度だって足りない気がする。本来、きれいに舗装された道を走るものではないのかも知れない。

 しかし、長らくバイクに乗っている俺にしてみれば、それらは些細な欠点である。

 「ああ、素晴らしい!これなんだよ。」

 俺は叫びたくなりそうだった。どこまでも走り続けて行きたくなる。まあ、しかし、今日も仕事がある。仕方なく職場へ向かうこととする。


 事務所の自分の席につくと、程なくして部長の小林から呼び出される。

 「高橋君、急ですまないが、北海道に飛んで欲しい。釧路の営業所だ。」

 昨日の小林とは打って変わり、いつもの威厳ある口調で俺に有無を言わせない。

 「例の件ですか?」

 俺は聞いてみた。川崎は北海道で仕事をしていた。釧路で取引先と打ち合わせをした後、何故か函館で事故をおこしている。

 小林は、穏やかな表情で

 「そうだ。川崎君の仕事を引き継ぎしてきて欲しい。…その後、事故のあった函館で相手先のバス会社にも行ってきて欲しいんだよ。何せ川崎君がセンターラインを越えて当たりにいってるからね。」

 「承知しました。しかし、葬儀はどうしたらよろしいでしょうか?」

 小林は軽く頷くと、

 「葬儀の件は心配せず、こちらに任せてくれ。君は彼の残した仕事を完遂してきて欲しい。資料はプリントアウトしてある。データは、君のPCに送ってある。飛行機の中かホテルで、一応目を通しておいてくれ。辛いだろうがよろしく頼む。行きの飛行機は5時頃発だ。予約してある。少し時間があるから、帰って準備に当ててくれ。釧路の営業所には私から連絡を入れておくよ。総務に寄ってくれたら、チケットを渡してくれるよ。」

 「承知しました。失礼します。」

 早々に部長室を辞すると、事務所で出張の準備を始める。どうなるのかわからず、少し不安を抱えたまま俺は、帰路につく。途中、妻に電話をして、午後からの予定を伝える。

 「わかった。気を付けて帰ってきてね。」

 妻は短く答えると電話を切った。

 俺もバイクを楽しむ余裕がない。早々に帰宅する。


 この日の夕方、俺は飛行機の中にいた。いつもバイクで振動には慣れているはずなのに、飛行機の微振動には違和感しかない。有り体に言えば恐い。大体、地面にくっついていない乗り物は信用できない。目的地には早く到着できるのだけがメリットである。時間があればバイクで来てみたい。今の時期、都会の喧騒を離れ、ツーリングを楽しめそうである。

 しかし、今回の用事を思い出すと気が滅入る。せっかく娘の瑠奈が帰ってくるというのに、俺は暫く家に帰れない。まったくついていないが仕方ない。少し寂しいが、さっさと仕事を片付けることとしよう。

 飛行機で暇を持て余している。少し今回の仕事のことを整理してみる。

 まず、川崎は、釧路にある商社との契約に向けて出張した。ある程度、商談はまとまったようで、あとは契約書を交わすだけという段階まで進んでいたようだ。これは、部長の小林から渡された資料に書かれている。恐らく、その翌日には、契約書を交わす予定であったはずである。ところが、川崎はその朝早く、函館で事故を起こして死んでしまった。あの出世欲の塊のような男が、仕事を放りだしてまで釧路から函館まで、車で移動するという奇妙な行動をとっている。飛行機が飛ばないような時刻に、急用ができたのか?それにしては、レンタカーを用意していて、理屈に合わない。

 あと一つ、俺が川崎から整理しておくように命じられた、あのファイル、明らかにおかしいところがあった。数億円単位の齟齬がみられた。後ろめたいところがあれば、もっと巧妙に隠蔽するはずだ。ところが、あのファイルには隠蔽工作をした痕跡がみられない。偉い人の目は誤魔化せても、俺の目は誤魔化せない。敢えて俺に不正を発見させるのが目的だったのか?

 そうであれば、川崎は、死を予見していたことになる。そして、俺がこれから向かおうとしている釧路の商社との契約は、大した意味をもたないのか?あるいは、ダミーの取引であるのか?あのファイルをみた以上、俺も命が危ないのだろうか?寒気が俺を襲う。

 「これは、北海道でツーリングなどと気楽なことを考えるような旅ではないな…。」

 独り呟いてみた。実際、我が社には、以前から、ある政治家との癒着が噂されており、そのお陰で業績を伸ばしてきたと、まことしやかに囁かれたり、ライバル社から目の敵にされたりしてきた。業界では、評判が良くないのである。政治家への裏金問題の尻尾を掴まえた川崎が、口封じで消されたとしても、おかしくはない。彼の奇妙な行動は、まったく理解できないが…。

 俺も、会社の不正に首を突っ込むと、命の保証はないかも知れない。慎重に、真面目な仕事をしにきた冴えないおじさんを演じなければ、とにかく尻尾を出さないように注意が必要だ。


 空港に到着すると、我が社のロゴの入った社用車で迎えがきていた。迎えにきてくれたのは、釧路営業所の木下という若い社員で、俺は電話で何度か話したことのある好青年である。

今風のいわゆるイケメンである。

 「どうも。今回はお世話になります。」

 俺は軽く挨拶すると、木下は車に乗るように促してきた。用心に越したことはないが、木下の爽やかな風貌からは、我が社の不正に手を染めているとは、想像できなかった。あまり警戒すると、相手に怪しまれてもいけない。

 「高橋さん、お疲れさまでした。川崎さん、大変でしたね。

 先方との折衝はできてまして、あとは契約書にサインをいただくだけとなってます。」

 木下は仕事が早い。ダミーの契約であれば、それも当たり前のことではあるが…。

 「手間を取らせて申し訳ないです。本来こちらで片付ける案件なのに…。」

 「いえいえ、ほとんど川崎さんが詰めておられた仕事ですよ。僕はチェックしただけです。

 それより高橋さん、今夜はゆっくりできるんでしょ?一杯いきましょうよ。」

 「いいですね。じゃあ、こっちの美味い魚をいただきたいですね。」

 「じゃあ、僕のお気に入りの店に向かいますね。釧路じゃあ一番の店です。但し、僕の独断ですけどね。」

 木下はそう言うと車を走らせる。滑らかな走りである。社用車はお世辞にもいい車ではないのだが、そんな車も運転次第で滑らかに快適に走ることができる。俺は少し感心していた。

 「高橋さん、着きましたよ。僕のお気に入りの店です。魚が美味いんです。高橋さんも、きっと気に入ってくれると思いますよ。」

 木下に促されて入ったその店は、古びていて薄暗い印象である。今どき珍しいフィラメントの電球を使っている。柔らかい灯り、落ち着いた佇まいといえば聞こえはいいが…。

 しかし、木下が注文した魚が運ばれてくると最初の印象が完全に覆される。恐ろしく美味い。疲れていて何と言う料理であったのか覚えていないが、こういう料理は俺の地元ではなかなか食べられない。舌鼓をうつ俺に木下が真面目な顔で話し掛けてくる。

 「高橋さん、ココだけの話にしておいて欲しいのですが…。事故の前日、僕と川崎さんでここに来たんです。その時、川崎さんが妙なことを話されていて…。」

 「妙なことって?」

 緊張が走る。

 「ええ、近いうちに高橋さんがこちらに来るから、ここに連れてきて旨いものを食わせてやって欲しいって、三万円渡されまして…。」

 何だと?川崎は今回のこと、全てがわかっていたというのか?

 「ええ?私がここに来るって川崎課長が?」

 「そうなんです。まるで今回のことを予想してたみたいで、正直怖いですよね。本社の方で、何かあったんですか?高橋さんなら何かご存知かと思いまして。」

 「いや、私は今朝こちらに来るように部長から命じられまして、ここの契約だって、飛行機の中で資料を読んだような次第で…。私など、本社に勤務してるっていうだけで、詳しいことなんかはまったく知らされてませんよ。」

 「そうでしたか…。こんな話、高橋さんにしかできなくて。すみません。」

 「いやいや、気になさらないでください。それにしても、川崎課長の話、確かに得体のしれない不気味な感じがしますね。私は、今朝部長に言われるまで、こちらに来る予定がなかったわけですからね。彼はどんなつもりで木下さんにそう告げたんでしょうね?さっぱり分からないですね。まあ、善意でお金をくれたわけで、しっかり使わせてもらいましょう。彼への供養ですよ。…私は明日、彼の行動を同じように辿ってみようと思っているんですよ。そうすることで何か分かることがあるかもしれないと思うんです。」

 「止めても無理ですよね。正直、心配なんですよね…。あんなことがあった後ですからね。何か得体のしれない力が作用してるみたいで、怖いなあって…。明日、仕事終わったらすぐ出発されますか?せめて、昼飯くらいはご一緒できるといいのでが…。」

 「ありがとうございます。しかし、ここでゆっくりしてしまうと、私も事故しそうで…。

 昼前にこちらをでれば、夕方には函館に着けると思ってます。彼と同じようにレンタカーで…。心配かけてしまってすみません。」

 「わかりました。車の手配はこちらでやっておきます。川崎さんと同じグレードでいいですか?しかし、くれぐれもご注意くださいね。」

 「ありがとうございます。木下さんにはお世話になりっぱなしで…。」

 「いいえ。今日は高橋さんとお会いできてよかったです。ずっと川崎さんの言葉が気になっていたものですから。」

 「木下さん、本当に美味しかったです。ありがとうございます。明日の仕事もよろしくお願いします。」

 「こちらこそ。よろしくお願いします。ホテルには朝八時過ぎに迎えにあがります。何度もしつこいですが、本当に気をつけてくださいね。」

 木下の心配そうな顔をみていると、決心が揺らぎそうなので、早々に引き上げた。最初の印象通り、木下は「事件」には関与していないとみて間違いなさそうだ。


 翌朝、木下に案内されて取引先を訪れた。目鼻立ちのスッキリした女性事務員に用件を伝えると、立派な工場施設の向かいに建つ真新しい事務棟の応接室に通された。


 仕事は順調に終わった。川崎がほとんど詰めていたところに、木下がフォローしてくれたお陰でほとんどすることはなかった。俺は契約書に目を通して、サインをしただけである。この立派な工場で作られた製品を、うちの会社で扱うようだ。この取引は、ダミーではない。そう思える。通常の取引を、通常の手続きでこなしていた川崎が、どうしてあんなことに…?

 一段落ついたところで、先方の営業課長の村山という中年の男が

 「高橋さん、この度は川崎課長の件、大変でしたね。お悔やみ申し上げます。これから函館まで行かれるのですか?」

 既に木下から聞いているようだ。川崎に対するお悔やみに礼を述べた後、

 「はい。その予定です。川崎と同じルートを車で辿ってみようかと思っております。時間帯は違いますが、川崎がどんな気持ちで車を走らせたのか?私も知りたいと思いましてね…。」

 少し不安気な表情を浮かべ村山が言った。

 「本当に気を付けて行ってきてくださいね。高橋さんに何かあったら大変ですから。あの日、川崎さん上機嫌でウチを出ていかれて、まさかあんなことになるなんて思ってもおりませんでした。しかも、朝五時頃に函館で事故だなんて、本当に信じられなくて。だって、川崎さんは、事故のあった日の十時頃、うちにきて契約書にサインする予定だったんですからね。信じられませんでした。何があったんでしょうね?くれぐれも運転にはご注意くださいね。」

 「ご心配ありがとうございます。慎重に運転します。本日は本当にありがとうございました。」

 礼を述べると、取引先をあとにした。


 午前十一時を少しまわっていたが、釧路営業所の木下が手配してくれたレンタカーで俺は函館に向かうことにした。どう考えても効率が悪い移動であるが、川崎と同じ行程を辿らなければ真相に迫れない気がした。心配してくれる木下に礼を言い、釧路営業所を発った。

 本州の移動と異なり、北海道の大地は異常に広い。車での移動を少し後悔し始めたが、引き返す訳にもいかず、そのまま車を走らせる。写真で見る北海道の景色を楽しむ余裕のない移動である。幾何学的な直線道路をひたすら走る。そこには、楽しみや情緒などというものは存在しない。

 午後二時前、トイレに立ち寄ったサービスエリアで、ついでに昼飯を食べることにした。三時間近く車を走らせたので、少し疲れもでてきた。俺も歳には勝てないなと苦笑した。

 こういう所で食べるのは、慣れてはいるが、無難なメニューを頼んでしまう。今日は、カツカレーにしよう。空腹の俺には、素晴らしく美味しいものに感じた。細かい印象を言葉にしたいが、美味しいという感想以外出てこない。残念である。


 木下と村山の忠告を聞くことにして、食事のあと少しの仮眠をとると、また、単調な高速走行を再開する。あと二時間程度で函館到着を目標にひたすら車を走らせる。慣れない道をカーナビの指示に従って車を走らせるのは、楽しい作業ではない。せめてバイクをレンタルして欲しかった。

 木下が予約してくれた函館市内のビジネスホテルまであと少しだ。結局、運転しただけで、ろくにどこを走ったのかさえ分かっていない。レンタカーをカーナビ頼りで走らせるとこんなもの。味気ないものである。


 ビジネスホテルにチェックインすると、ネットで調べて近くの居酒屋に入った。

 「いらっしゃいませ。お一人ですか?」

 俺は軽く頷くと、ビールとツマミを注文した。あまりの疲れと、この二日間の混乱で食欲がなかった。程なくして店主と思しき中年の男がビールをテーブルに置き、小さな声で話し掛けてくる。

 「お客さん、あんたには、凄いものが憑いているね。俺はね、人をみればわかる質でね。」

 何を言ってるんだ?この人。

 「それは霊的なもののことですか?」

 俺は少し怖くなってきいた。

 「そうだなぁ…霊とかじゃなくもっと強いものだよ。何て言ったらいいのか…ちょっと俺には表現のしようのない強いものだよ。そう、もっと物理的に強い、想像を絶するほどのパワーを感じるんだ。そいつにあんたは守られてる…。

 つい最近、同じようなお客さんみたんだよな。すいませんね…突然話し掛けてちゃって。ゆっくりしていってくださいね。」

 と言って店主風の男は去っていった。彼は、一体何が言いたかったのか?俺は考え込んでしまった。

 俺は強いものに守られており、もう一人、そんな客が最近やってきたというのか。それは、一体どういうことだろう。考えてもわからない。さっきからのアルコールで眠くなってきた。ホテルに帰って寝ることにした。


 どのくらい寝たのであろうか。俺の夢に川崎が現れた。川崎は穏やかな表情で語りかけてきた。いつもの険しく歪んだ顔ではなかった。

 「高橋さん、俺が整理を頼んだあのファイルはみたかい?あれは、想像以上にヤバいものだ。成仏する前の俺からの忠告だ。必要以上に嗅ぎ回っちゃだめだぜ。俺もこうしてやられたんだからな。小林部長には気をつけろ!」

 突然鳴り出した携帯のアラームにかき消され、川崎は夢から消えていった。

 川崎は俺に何を伝えたかったのであろうか?あのファイルは、やはりヤバいものだったのか?俺は、既にその兆候を掴んでいる。首を突っ込むと、命の保証はないのか?それともただの夢なのか?


 俺は川崎の夢に混乱しながらも、川崎の事故現場に向かっていた。途中で現場に手向ける花を買い、ワイシャツの襟を正し、ネクタイを締め直した。いくら北海道とはいえ暑い時期なので上着は省略した。現場に着くとちょうどいい空き地に車を止め、現場に向かった。

 買ってきた花を手向け手を合わせていると、

 「あの…事故に合た遭われた方の会社の高橋さんですか?私はバス会社の営業をしております奥山といいます。」 

 声を掛けてきたのは三十歳前後の女性である。俺が軽く頷くと、彼女は名刺を差し出し、

 「この度はご愁傷さまでした。昨日、御社の木下様からご連絡をいただきまして…今日の朝から高橋さんという方が来られると伺って、私もここにまいりました。」

 「わざわざお越しいただき、ありがとうございます。この度は当社の者がご迷惑をお掛けして誠に申し訳ありませんでした。聞くところによりますと、御社の運転手様はじめ、乗客の皆様にもお怪我がなかったようで当方としましても安堵しているところです。」 

 俺も名刺を相手に差し出しながら、

 「こんな真っ直ぐで見通しの良いところで、どうしたら事故になったんですかね?ここにきて一番の疑問なんです。」

 奥山を名乗るバス会社の女性は、

 「そのことなんですが、うちのドライバーが妙なことを言っておりまして…。ぶつかる直前にレンタカーの助手席に女性がいたのをみたというのです。」

 そんなことがあり得るのか?テレビや新聞、インターネットの報道にも死んだのは川崎一人とでていた。助手席に人がいたのなら、当然怪我くらいはしているはずだ。

 そんなことを考えていると奥山が、

 「しかも、その女の人と目があって、『大丈夫』って声が聞こえたって言うんです。訳がわからなくて、気味が悪いというか…。」

 俺も訳がわからない。しかし、唐突に先日の夢を思い出した。中学生の時に経験したあの事故の夢を。バスに乗っていた俺は、事故の直前に『大丈夫』という女性の声を聞いている。その時と同じじゃないのか?あの事故と今回の川崎の事故は関係ない。いや、何か関係があるのか?俺は混乱してきた。

 更に奥山と名乗る女性から不思議な話を聞くことになった。

 「事故車を見た整備士から、妙なことを聞きまして…左のタイロッドは変形してないのに、ナックルが折れてた…こう見えて、私も整備士でして…。」

 タイロッドとは、ハンドルの軸に繋がっている鉄製の棒、ナックルとは、タイロッドと繋がっていて、前輪の向きを変える部品のことである。

 「事故の影響でナックルが折れることはあると思うんです。でも、それに繋がっている細いタイロッドが変形してないって…。私は、ナックルが折れて、事故の原因になったんじゃないかって思いまして。でも、結局、事故車はすぐにスクラップに回されて、証拠は残っていません。何か腑に落ちないというか…。」

 そこまでいうと、村山は黙ってしまった。単純なトラブルなのか?意図的に川崎は消されたのではないか?俺の頭の中に、そんな疑問が湧いてきた。

 「このことは、他の人に話されましたか?」

 村山に聞いてみた。彼女は、小さく首を振った。まずいことに巻き込まれたくないのだろう。

 「お忙しい中、お話をいただいてありがとうございました。私も、事故の状況を聞けて、助かりました。会社に報告書を出さなければならなくて…。」

 「さっきのタイロッドとナックルの件も書きますか?」

 「いや、普通の会社の上司には、そんなこと言っても分かりません。その辺りは適当に書いて、あっさり済ませるつもりです。あなたも、できるだけ早くこの件は忘れてください。」

 村山の表情に安堵の色が表れた。恐らく、誰かに言いたかったが、ことが大袈裟になるのは困るといったところか?俺も面倒は避けたい。

もう一度礼を述べて、事故現場をあとにする。川崎、あんた消されたのか?急に奴が可哀想に思えてきた。

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