(3)

 三十歳を超えて独身は変わり者扱いされる。

 もっと言えば、友達と遊ぼうと思っても、子どもが小さいからという理由であたりまえのように断られる。二十代であれば気軽に行こう! 行こう! と、アルトにおんな四人で鎌倉にドライブに行ったりするのだが、結婚をし、出産を経るとそれまでとがらりと変容する。

 グループラインの会話も子育て一色になる。

 以前のようにその日あった出来事を話したり、くだらない話題で笑い合えたりした。しかし子どもがいるとそれまでの関係性ではなくなる。次第に独身であるあたしは輪から外され、何時しか存在しない人物と化す。

 終いには、小夜子はいい人いないの? 結婚したいと思わないの? 自分の家庭を持ちたいと考えたりしないの? 両親みたいにお節介なことを言い出す。

 それが厭になったあたしは友達と距離を置いた。

 連絡する頻度が眼に見えて減り、グループラインは稼働しなくなる。久々に開くと、ひとりまたひとりと退会している。気がつけばあたしだけになっていた。

 ひとりで会話するのも可笑しいので誰にも勘付かれることなく退会した。

 自分の人生を満喫する、充実させることのなにが悪いのかあたしは判らない。

 家庭を持つ。結婚することの意義も意味もあたしは見出せない。

 そう言うと、それはただ単に焦がれるくらいに愛したおとこと出会ったことがないからと指摘されたときはぶん殴ってやろうかと思った。

 肉食と言えるほど恋愛に積極的ではなかった。教員になるべく、日夜勉強に明け暮れた。公務員になって欲しいという両親の期待に応えるべく。お兄ちゃんみたいに生き恥を晒すような生きかたはしないでと懇願されれば、恋愛を捨てざるを得なかった。

 兄貴は好きではなかった。

 叶いもしない妄想を事実のように語る姿勢にあたしはこうはなるまいと固く誓った。だからこそ両親の望む自分になろうと決めた。

 試験勉強に時間を捧げたお陰であたしは教師になることが出来た。

 今となっては両親の望む人生を歩むのが正解だったのか判らない。

 それもこれも根岸十六夜に出会った所為だ。

 そう––なにもかも根岸と出会ったばかりにあたしの人生設計は大幅に狂い出した。


 根岸の第一印象は決して好意的なものではなかった。

 教育実習生にしては溌剌としておらず、生気のない淀んだ瞳をしていた。生徒受けは最悪だろうと思っていた。実際、根岸の評判は悪かった。教室内が暗くなるから、笑顔で接してもらえるようあたしから言って欲しいと生徒からの苦情が相次いだ。教師からも指導するよう言われた。

 放課後に空き教室に根岸を呼び出して姿勢と態度を改めるように注意した。

 その場では解りましたと光が宿っていない瞳で口にしたが改善はされなかった。

 このままでは早期に教育実習を打ち切る方針だと教務主任に言い渡された。

 あたしとしてはそのほうが彼のためになると考えた。乗り気ではないのは雰囲気からも明らかだったし、授業中も心ここにあらずで話を聞いていないことが多く、生徒に話し掛けられてもいつも上の空。そんな教育実習生をあたしは見たことがなかった。個人的な感情を優先すれば、根岸の教育実習を打ち切るのに賛成だった。されど学校側の方針としては、実習期間を無事に終えて欲しかったようだ。だからこそ厳しめな態度を取っていたようだけれど、実習生に取る態度ではないだろう。そもそも根岸が教師になるか判らないというのに。

 教育実習生ひとりにそこまでするのは何故なのか当時のあたしは不思議で仕様がなかった。相関関係はないだろうが、あの当時、根岸は既に小説家として世に出ていた。公務員が副業で印税の収入を得ることは禁止されていない。もしかしたら、身辺調査をしているなかで偶然にも行き当たったのかもしれない。それで当初の方針から転換したとあたしは睨んでいる。そうでないとパワーハラスメントすれすれのことをしていた人たちがそれこそ態度を改めるとは思えない。

 彼らがどこで根岸が小説家として活動していることを知ったのかは定かではないが、手のひらの返し具合がスポーツ観戦に熱狂的なファンと相違なかった。

 話を聞いていないのも、心ここにあらずなのも小説のアイデアを考えているのに必死と好意的に受け取ったようで、早期で実習を打ち切る方針は何時の間にか立ち消えていた。

 あたしとしては負担が倍増するのでやめて欲しかった。教務主任は根岸の面倒を見るよう宜しく頼むねと加齢臭を漂わせて言うので笑顔で解りましたと言う他なかった。あの期間は教師人生でも特に疲労を感じた。

 結局、根岸の態度は改まることがないまま実習を終えた。

 生徒からの心象も悪いまま。しかし役職持ちの教師陣からは異様に好かれていたのはいまでも笑い種だ。時折、この話を肴にお酒を飲むが根岸はいい顔をしない。

 因みに鍵島は教育実習生のなかでいちばん人気を獲得していた。

 休み時間になると女子生徒は鍵島の元を訪れては仲睦まじげに話している姿はあるべき実習生と言えなくもない。実習生のように外部から誰かが来るのは生徒にすれば、刺激になる。物珍しい存在は往々にして興味を持たれるのが自然の摂理だ。

 根岸は根暗ではないのだが、なにか他人には言えない事情を抱え込んでいたのかと勘繰ってしまうくらいに他者から受ける好意を徹底して排除しようとしていた。

 実習最終日にあたしは根岸を食事に誘った。厭そうな顔を向けて来たが、そこは人生の先輩として強引に連れて行った。

 居酒屋でいろいろな話をした。主に話していたのはあたしで根岸は相槌ばかり。自分の話は絶対しないという強い意志を感じた。しかし酔いが回って来たのもあるのだろう、ボソッと、失恋話をしてくれた。誰もが経験する通過儀礼みたいなものとあたしは捉えたけれど、本人は重く捉えているようだった。

 恋愛の酸いも甘いも経験して来たつもりのあたしにすれば、たかだか一度の失恋で失意の底に沈む理由が判らない。それだけ相手が大好きだった。そうでないと未練がましく引き摺ったりしない。

 女々しいなと思いながら話を聴いていると話の様相が変わって来た。

 酒席も手伝ったのだろう、根岸は呂律が回らない状態で自分は他人に恋愛感情を抱けない異常者であることを告白した。

 予期しないカミングアウトにあたしはリアクションが取れなかった。

 他人に恋愛感情が抱けないといきなり言われて、はい、そうですかと納得出来るほどあたしは人生経験を積んでいないことに気付かされた。

 恋愛経験はあれど、本人が抱える悩みに寄り添えるだけの人間力は悲しいかな、備わっていなかった。

 根岸の悲しみを和らげてあげられないことにあたしは落ち込んだ。あんたが落ち込んでどうすんだよ、と内なる自分が突っ込みを入れてくる。こういうときばかりでしゃばってくるのは性格が悪い。

 結局、ふたりだけでしっぽりと開催された飲み会は気まずさだけが取り残されたままお開きとなった。その場では連絡先の交換はしなかった。根岸が非道い酔いかたをしていたのもあるし、交換したところでそもそも連絡を取り合わない。

 実習期間を滞りなく終えたと雖も、一実習生に過ぎない根岸とこの先、会うことはない。密な関係を築くことはないとも思っていた。

 軽い気持ちで口にしていい言葉ではないと判っているが、運命とは悪戯もので根岸は実習先の高校に新任として赴任して来た。

 あたしはびっくりした。

 しかしながら根岸は無表情をとおり越して、はじめましてですが、なにか? と顔にでかでかと書いてあった。それはそれで寂しいが、正しい態度と言える。浅からぬ関係と雖も飲んだ仲であることに変わりない。

 出会いとは奇妙なものだ。偶然で片付けるにはお粗末で運命と呼ぶには大仰だ。

 根岸はあたしの運命の相手ではないことは既に確定している。根岸は絶対にあたしに恋愛感情を抱かない。恋愛対象になりはしないと判り切っている。

 解り切っているのにあたしは迂闊にも根岸に恋心を抱いてしまった。

 タイミングは? と、質問されたらあたしはこう答える。


 根岸十六夜に出会ったその日、だと。

 

 ご都合が過ぎると言われればそのとおりだけれど、そもそも誰かに恋に落ちること事態が立派なご都合主義だ。絶対に好きにならないと無意味な宣誓をしたところで、知らぬ間に恋に落ちている。これほどまでに人間を悩ませ、弄び愉悦に浸らせる感情はない。

 それほどまでに恋愛感情はままならないのだ。


「幸せになれないと解っていてする恋愛ほど空虚なものはないと思うけど」と同期で学生時代からの腐れ縁である長月円樹に臆面もなく言われた。あたしの恋愛遍歴を誰よりも熟知しているのは彼女だけ。

「似たようなこと鍵島にも言われたばかりなんだけど」あたしは言う。

「妻帯者になるとあれだけ遊び呆けてた人でも丸くなるんだ」円樹は小馬鹿にしたような口調で言う。実際に虚仮にしているんだろうけど。「一気に腹たって来たわ」

 鍵島と円樹のふたりは男女の関係にあった。

 その当時の鍵島は最低なおとこと言ってもいいくらいにおんな遊びが烈しく、毎晩、ちがうおんなと遊び歩いていた。ど派手だったと言ってもいい。そんな鍵島が奥さんと出会ってからは人が変わったようにおんな遊びをやめた。

 その時代を知っている円樹にすればいまの鍵島は別人に映るのも至極当然だ。

 あたしでさえ、信じられない気持ちだ。元彼女であれば余計にそう思うのもむべなるかな。

「あんたは捨てられたようなもんだったからね」

「浮気されても仕方ないほどにつまらないおんなだったからね。その点は認めますよ、認められるようになりましたともさ。けどさー、あいつはそんなのお構いなしにいろんなおんなに手を出しては遊び呆けてた。

 うわぁ、思い出すだけで腹立たしい!」

 円樹は過去の恋愛を引きずるタイプでは全然ないのだが、鍵島との交際はトラウマになっている。あれだけのことをされたら誰でもそうなるなと話を聴いていて、何度も思った。あたしは非道い仕打ちをされたことがない点は幸運だったと言える。

 叶わない恋愛を続けると頑なな決意をするより、恋愛で傷付き、より良い恋愛を迎える心構えを身につけたほうが良いのだろうか。

「傷付く恋愛は恋愛で神経を擦り減らすだけだから、しないほうがいいに決まってる」本人が言うと説得力がちがう。「好きになった相手が最低なおとこかどうか見定められる審美眼は身につけたほうがいいかもしれない。でもそれだって、やっぱり、経験するしかないからね」

「なにごとも経験か」職員室の窓から見る景色は変わり映えがしない。グラウンドで生徒たちが遊んでいる。十代も後半に差し掛かり、小学生の頃と変わらずにああやって、なににも縛れることなく遊べる彼らが少しだけ羨ましく感じる。「あの子たちも恋愛の苦さと辛さをこれでもかと言うほど経験するんだろうな」

「イニシエーションと思えば、変な話ではないよ。死ぬまではじめてのことばかりを人間は経験する羽目になる。思いも寄らない感情に巡り合う。それが早いか遅いかだけの話に過ぎない」人生の苦味をたくさん経験して来た彼女が言うと重みがちがう。

「金言を言ってくれるな」肘で揶揄うと円樹は厭そうな顔であたしを睥睨する。決して、彼女の睨みに臆したわけではないが、咳払いをひとつし、体裁を調える。

「恋愛をしたいのか、その人と添い遂げたいのかを考えてみる余地くらいはあるんじゃない?」昼休み終了を告げるチャイムが流れる。もうそんな時間か。幸い、あたしと円樹は授業が入っていない。ふたり揃って、なにもないのは非常に珍しい。円樹は英語を担当している。

「恋愛と結婚はちがうと言いたげではないか」あたしは言う。

「事実異なる」円樹は断言する。「恋愛は遊びで結婚は責任。両者の間には決して相容れない。どれだけ否定派が大声をあげようと変わることはない」

「そう言われると結婚するのに怖じ気付いてしまう」両親がいまも変わらずに夫婦を続けていることに尊敬の念が湧いてくる。こう見えてあたしは単純だ。好きと言われれば好きになってしまうし、嫌いと言われれば嫌いになる。それくらいにあたしという人間はシンプルに構成されている。

「そりゃあ結婚はしくじれないからね」円樹は言う。「再婚したり、再再婚する人がいるけど、洩れなく例外。バツがひとつつくだけでも、周囲からは『あー、この人、結婚に失敗したんだなあ』という眼で見られる。それほどまでに結婚の失敗は大学受験に失敗に匹敵する」

「不自由しない生活をして欲しいと希う両親は多いから、そうなるのかも?」

「極端なんだよ。ゼロとイチしかないと考える。実際はそんなことない」

「奇麗事が美徳と考えるからじゃないの? 正論は常に正しく、それ以外の考えかたは邪論である。それが世論というものだ」あたしは言う。正しさこそが誉でそうでないものは悪。何処に行くにしろ、なにをするにしろ、自称・無辜の民が街じゅうを監視している。文脈など彼らには関係ない。面白い、一瞬の輝きによだれを出すような哀れな奴らしかいない。様相はすっかり様変わりしてしまった。

 我々も安易な言動を取れば、彼らの餌食にされ、食い荒らされる。世知辛いでは済まされない。自分たちで首を絞めていることにさえ気付かないほどに鈍感になっている。

 果たしてそれらの行いが美徳かどうかなど言う必要はあるまい。

 道徳的観念から見ても正常とは言えない。

「人差し指で人ひとりを抹消出来てしまえる時代だもんね」円樹は気怠げに伸びをする。「恐ろしい話だよ」

「話、変わるけど、あんたはいい人いないの?」

「急にどうしたの?」

「円樹は恋愛してるのかなあ〜なんて?」取って付けたような理由を述べる。

「ふーん、親友の恋愛事情に興味を持ってくれるとは、お優しいこと」円樹はあたしの鼻を小突く。

「鍵島との話は散々聞かされて来たけれど、そのあとの話はなかったから」

「そういえば、そうねえ。恋愛の深淵みたいな恋を経験した身としては色々と考えるわよ。自分と正面向き合う羽目になるというか、そうせざるを得ないというか。正直な話、おとこはいいかなあと思ってたんだよね。恋愛はいいかなあみたいな」円樹は椅子を正面ではなくあたし側を向く。彼女は真っ直ぐにあたしを見詰める。視線を逸らしたら負けとでも言われているような気がする。子どもじみたゲームをいい大人がするのも如何なものと思うけれど、彼女は到って真剣だから困る。

「どうしたの?」一分も満たずにあたしは痺れを切らす。ホトホトこの手のゲームに弱い自分に厭気が差す。

「小夜子が恋愛事情を尋ねて来たから応えてあげようかと思ってね」

「見詰めた程度でわかるわけないだろ。なに言ってるんだ」あたしは受け流す。

「自分から訊いておいてその態度はないんじゃない?」円樹は頬を膨らませる。いったいなにが気に食わないのかわからなかった。「まあいいけれど」

 円樹は椅子から立ちあがる。どうしたんだと尋ねると授業があるから、準備と言って、彼女は時計を指差す。

 時計を見れば、確かに五時間目も終了が迫っている。六時間目はあたしも授業が入っている。急いで支度をする。円樹は放課後ねと言って、早足で職員室を出ていく。

 態度の変わりようにあたしは首を傾げることしか出来なかった。

 そんなあたしでも円樹の顔が赤面していたことだけは見逃さなかった。


 

 

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これは恋とは呼ばない 蟻村観月 @nikka-two-floor

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