(2)

「きょうこそは付き合ってもらうぞ」すっかり外は真っ暗。職員室にはあたしと根岸のふたりしかいない。つい十分前に部活を終え、職員室を休憩所に使ったり、補習終わりの先生がたがいたが、たった十分で閑散とする始末。職員室に盛況の二文字は不必要だ。閑散であればあるほど職員室の強度は高まる。

「いやですよ。峰岸先生と飲むと天辺を超えるのがあたりまえじゃないですか」根岸は嫌そうな顔で言う。失言と思い至らない辺りに本音が見え隠れしている。「締切が近いですから、付き合っている暇がそもそもありません」

「まだ執筆活動しているのか」

「失言ですよ、それ」仏頂面で根岸は言う。「これでも売上に貢献しているんですよ? 世間的に有名ではありませんけど。有名になりたいと思わないですけど」

「変わっているな、根岸は」あたしは言う。小説家というものは押し並べて有名になりたいものだと思っていた。億万長者になりたくて、一攫千金を狙って、小説を書くのだと考えているがどうも根岸は根本からちがうようだ。

「そうですか?」根岸は首を捻る。「教職を退きたい気持ちを押さえているんですよ、これでも」

「何故だ?」答えなど解り切っているのにあたしは素知らぬ振りをして尋ねる。

「作家としてやっていける見通しが立っているからですよ」根岸は無表情で言う。感情を学生時代に思い出と一緒に置いて来たのかと疑うほどに表層に表れない。

「退職を考えているのか?」それは困る。大いに困る。

「そう言いましたよ?」根岸は当惑顔で言う。自分の言葉が理解してもらえないことに憮然としている。「瑠璃元先生が困りますからね。彼女に引き留められましたよ」

 瑠璃元先生? あの瑠璃元先生か?

 彼女と仲良いというのか? そんな素振り微塵もなかったではないか。鬼の居ぬ間にとは良く言ったものだが、あたしが介入しない間に勝手に仲良くするんじゃない。

「彼女と接点、あったか?」

「ありませんよ」根岸は首を振る。誤魔化しているのか? 揶揄っているのか?

「それでは引き留められたという根岸先生の言い分は罷りとおらないと思うが?」

「校内で接点がないと言っただけです。向こうが一方的に好意に向けて来るんです」

「は?」

「節分でもないのに鬼の顔をしないで下さいよ。折角の美人が台無しですよ?」

「煽てる趣味があったとは意外だ」あたしは言う。はぐらかすのが以前より上手になっているのが腹立つ。新人の頃が本当に懐かしい。先輩としてあれこれ教えてあげた日々が遠い過去に感じる。今では教師が板についている。立派な先生だ。根岸は教職を退こうと考えている。小説家業が上々であるならば無理に続ける謂れはない。しかしあたし個人としては根岸がいなくなるのは矢張り寂しい。

「そんな趣味を持った覚えはありませんよ」薄く微笑む根岸。「帰らないんですか?」

「そういうお前こそ締切が近いと言う割に帰る気配がないが?」

「仕事してますよ」根岸はそう言って、ラップトップの画面を見せる。確かに発言どおり、執筆をしていたようだ。「行き詰まってますけど」

「息抜きがてら飲みに行かないか? お酒を飲み過ぎなきゃいいわけだろ?」あたしはジョッキを飲み干す仕種をする。根岸の前ですると毎回のように酒好きみたいで見ていて不快ですと言われる。古来より存在するジェスチャーのひとつだろと言うが、認めてもらえない。過去に厭な思いをしたことでもあるのか。

「遠慮します」根岸は帰り支度をする。これ以上、職員室で仕事したところで無意味と判断したかあたしとの会話そのものに生産性はないと思ったか。後者であった場合、悲しみで三日の断酒を敢行しなくてはならなくなるだろう。あたしが断酒するときは精々、失恋と推しの結婚くらいだ。

 推しの結婚は学生時代の友人が結婚するよりメンタルに響く。素直に応援出来なくなるからだ。推しが幸せになってくれるのは嬉しい。しかし、推しの隣にいるのは自分ではないおんなである事実を素直に受け止められない。人生に於いて、それほどまでに推しの比重は大きいのだ。

 失恋もそうだ。

 推しの結婚くらいに悲しみに暮れる。

 あたしではなく別の相手を選ぶのがどれほどに愚かかプレゼンしなくてはならないからだ。

 あたしは斯様にして女々しいのだ。おんなだから女々しいのでも姦しいのではない。あたしという人間が女々しく愚かなのだ。そこだけは履きちがえないでもらいたい。なかには吹っ切れる性格の人もいるがあたしが出来ないだけの話。

「お疲れ様です」もの思いに耽っていると根岸はそそくさと職員室を出て行った。ひと声掛けてくれるのはありがたいが、無感情に言わなくてもいいじゃない。


「……それで俺を呼び出したと」鍵島は不満げな顔で生ビールを呷る。飲んでいないとやってられないのではなく、代わりにされたことにクレームのひとつでも言いたいようだ。仕方ないじゃない。根岸を誘ったけど、断れてしまったのだ。ひとりで飲むには寂しい。あたしは柄にもなく寂しがり屋なのだ。

 鍵島に呆れられても仕方がない。

「済まないな、新婚のお前を呼び出して」

「今に始まったことじゃないだろ。シチュエーション問わず、あんたは俺を縋って来ただろ。いまさら過ぎるんだよ。優香も呆れてたよ」鍵島は鼻で笑う。秋刀魚の塩焼きを頬張る。魚の食べかただけは何年になっても下手。手こずる姿は何度も見て来たけれど、この光景をこれから何十年も見られる奥さんと出会えた鍵島は幸せ者。

 それに引き換え、あたしはどうだ。

 独身、彼氏ナシ。実家に顔を出せば、お前は何時になったら孫の顔を見せてくれるんだと父親に執拗に聞かれる。双子の姉はあたしの年齢の頃には子どもをふたり産んでいる。あたしの立場的には双子の姉が繋いでくれたのだから、妹のあたしが頑張る必要はないだろうと思うのだが、自分の娘には子どもを産んで欲しいようだ。

 前時代的な思考をする人と言ってしまうと現代の価値観にアップデート出来ない老害と捉えてしまいそうになるが、実際そうなので致しかたない。

 母親も老害な父親に毒されている。どうしようもない両親だ。

 この仕事をしていれば、多種多様な考えかたをしている保護者と対峙しなくてならない。実の両親で慣れているとは言え、慣れたくはないものだ。

「申し訳ない」残り少ないビールを見て、自分の人生もこれくらいであれば変に悩まずに済むのかもしれないと思ってしまうあたしが嫌いだ。アルコールに身を委ねてしまうとどうもあらぬ方向に思考が傾いてしまう。

「謝らないでもらえます? 鬱陶しいんで」鍵島はにやりと笑む。「酒入ると面倒臭い人になりますよね。そりゃあ根岸も断りますよ」

「グサっと心に刺さる発言をするなよ」ジョッキを傾けようと思ったが踏み止まる。残り少ないビールを急ぎ足で腹に収めるのはちがう気がした。理由は判らない。自分でも不思議だ。ややノスタルジックな気分になっているようだ。あたしらしくない。

「事実を述べただけですよ」

「なぁにぃよぉ」強く握りしめた拳を鍵島の眼前に掲げる。

「教師が暴力に訴えるのはどうかと思いますよ」鍵島はニヒルな笑みを口元にうかべる。店員を呼び、ビールと焼き鳥、枝豆、唐揚げを注文する。「唐揚げ好きですよね?」

「気が利くな」

「気を遣うのも遣われるのも好きなんですよ」鍵島は焼き魚を一時間かけて平らげる。本当に焼き魚を食べるのが下手だ。

「変な奴だ」残り少ないビールを飲み干す。ずっと残していたところで人生の苦味を飲み干すのと美味しいまま満たされるのを天秤に掛ければ自ずと後者が断然良いに決まっている。苦味はコーヒーと人生だけで十分。ビールに求めるのは喉越しだ。

「そっくりそのままお返ししますよ」鍵島は真顔で言った。

「鹿爪らしい顔で先輩を揶揄うものじゃないぞ」緩慢な動きであたしはジョッキをテーブルに音を立てて置く。鍵島の表情になにかを感じ取ったのもあるが、無音に耐えられる保証が持てなかった。


「何時まで、叶いもしない片想いを続けるつもりですか?」


 鍵島は嫌に真剣な眼差しをあたしに向けて来る。

 背けそうになるのを堪える。相対する自信を削いで来る。途方もない時間が流れた感覚があったが、実際は一分も経っていなかった。

 空気をぶち壊す、元気だけが取り柄を主張してくる店員の横槍により、鍵島は作り笑いをうかべて、ジョッキをふたつ受け取る。

 事務的な口調でごゆっくりと言う。

 根岸を彷彿とさせる胡散臭い笑顔で店員は去って行った。店員は別のテーブルから注文の受付をしに早足で今、ご注文承りますーと視界からいなくなる。

「現実と向き合う時期に来たんだと俺は思いますよ」鍵島は店員がいなくなるのを待ってから口を開いた。「根岸がああなのを知っていて、勝手に好意を抱いているのは貴女です。いい加減に夢から醒めて、次に進むべきなんじゃないですか」

「……解ってる。解ってるさ。それでも諦められないんだよ。そりゃあ、簡単に終わらせられたら、楽だ。でも鬼ごっこみたいに途中で投げられるほど単純でもない」

「俺はそう思わないけど」鍵島はジョッキに口をつける。一気に半分まで飲み干す。「勝ち目のない恋愛をし続けるほうが精神的に辛いですよ。振り向いてもらえない。相手の視界に自分が映り込まない現実に立ち向かう勇気、俺にはありません」

「あたしだって……」

「あたしだって、なんですか?」ジョッキ越しに鍵島は続きを促して来る。彼の期待にあたしは応えることは出来なさそうだ。言葉がひとつも湧き出て来ない。あたしだって、なんだ? あたしはなにを言おうとしていたのだ。頭が真っ白になったわけではないことだけは断っておく。断じて真っ白になったわけではない。「判っている、ですか? それとも諦められるんだったら諦めたい、ですか?」

「ちがう。女々しいこと考えたこと一度もない」あたしは鼻で笑う。ビールが小さな波を描く。

「女々しいの認めるんですね」鍵島は悪戯な笑みをうかべる。

「お前を誘った理由がもうひとつあるんだ」

「攻略法ですか? あればみんなが知りたい情報でしょうね」にやりと鍵島は言う。

「そうじゃない。瑠璃元藤見と仲良いのお前知ってるか?」

「瑠璃元、瑠璃元……」鍵島は斜め上を見ながら、復唱する。「聞いたことない。根岸が自分の話をしたがらない」

「一回も口にしたことないの? 口滑らすとかも?」なににあたしは拘泥しているんだ。動揺しているのか? 根岸に親しい異性の友人がいる事実に。

 注文した料理が何時の間にかテーブルに並んでいた。何時運ばれて来た?

 鍵島は満足げな顔で枝豆を汁まで啜っている。こいつの嫌いなところは枝豆から溢れる汁をすべて啜ろうとするところだ。本人に直したほうがいいと注意したことが過去に何度かあるか最後まで直らなかった。

「ないね。そもそもあいつが口を滑らすわけないだろ。失言したところ見たことあります? ないでしょ」

「まあないな。それに比べてお前は失言ばっかりしているな」あたしは言う。

「失言することで存在感を醸し出しているんですよ」鍵島は口の端をあげる。「というは冗談で。失言しまくるから根岸に叱責されて以降はしないよう自制してます」

「そんな場面、一度も見掛けたことないが?」この間も学年主任に失言していたのをとおり掛かりにきこえた。良くもまあ毎度毎度、懲りもせずに失言出来るものと思った記憶がある。学年主任にこっぴどく叱られるのもすっかり見慣れた光景だ。

 その様子を真顔で見守っている根岸も。

「そのはずないでしょう。大巻先生に次、失言したら処分すると言われたんですよ? 失職しかねない情況を作出されたら、嫌でも言うの控えますよ」

「追い詰められる前にやめるでしょ。良識のある社会人であれば」説教がしたくて鍵島を呼び出したわけではない。根岸と瑠璃元の関係性を知りたくて鍵島を誘ったのだ。何も鍵島の愚行に苦言を呈したいわけでも不甲斐ない後輩の言動に愛想を尽かしたいわけでもない。

 ただ恋愛の相談に乗ってもらいたかっただけ。

 呼び出した相手が悪かった。気兼ねなく相談出来る相手は精々鍵島くらい−−というより、あたしの恋愛事情に詳しいのが彼しかいないが正確か。

「なんでこんなおとこしかあたしの周りにいないんだ」悲しくなって来る。

「失礼ですね。これでも既婚者ですよ?」

「その自信、何処から湧いて来るんだよ」あたしはテーブルに顔を突っ伏す。

「酔ったんですか? 酒豪で知られている峰岸さんがらしくありませんね」こいつは人を小馬鹿にする以外の発言は出来んのか。実に腹立たしい。親しくなる相手を間違えた。自分の人の見る眼の無さに落胆する。

「もういいよ」あたしは右手をあげて降参の意を表明する。「瑠璃元藤見と関係性を知りたかったのに肝腎な部分を聞き出せないのであれば、お前は用済みだ」

「その言い種はないんじゃないですか?」頭上から鍵島の声がきこえる。どんな顔で言っているかはわからない。「拗ねてるだけですから、この人。気にしないでください」

 体調を崩したか泥酔と勘違いした店員が気を遣って声を掛けてくれたようだ。

 鍵島が釈明してくれたらしい。有難い話だが、拗ねてるだけとは聞き捨てならない。

 あたしは子どもじゃない。三十も半ばを迎えようとしている立派な大人の女性だ。確かに子どもっぽい部分があるのは認める。認めるが、なにも好き好んで拗ねているわけではない。

 鍵島ももう少しやんわりとした言い回しをしてくれてもいいだろうに。

 こんなんで良く結婚出来たものだ。奥さんに愛想尽かされて離婚しろ。

「お開きとしましょう」鍵島は言う。「妻に怒られたくないので」

「既婚者のマウントかぁ? なんだぁ! 結婚がそんなに偉いかぁ! そんなわけないだろうが! おひとりさまでも十分に楽しいんだぞ! 恋人がいなかろうとなあ、楽しい人生をこちとら送ってるんだ!」一気呵成に喚き散らす哀れな独身女性に人生に溢れんばかりの余白がある鍵島はげんなりした表情であたしを見据える。その眼が怖いったらありゃしない。何故だろう、妙に責められている感じがする。

「自分の恋のお悩みを相談するような人が人生を楽しめてるとは思いませんけどねえ」

 図星を言われてからの記憶が朧げでどちらが支払いをしたのかさえ憶えていない。

 鍵島と何処で別れたのもあやふやだ。気がつくとあたしは誰もいない公園にひとりっきりでブランコに座っていた。どれくらい公園にいただろう。酔っていないのに千鳥足で帰路に着いた。

 お風呂に入らずベッドにダイブする。この瞬間がなによりも気持ちいい。こんな堕落な生活をしているからあたしは恋人が出来ないのかもしれないと思ったが、そんなこと知ったことではない。

 一日の終了を告げるベッドにダイブはなににも代えられない。

 次第に瞼が重くなる。睡魔が押し寄せ、視界がブラックアウトする頃には意識は特段期待を膨らませるのでもなく、押し寄せることもないまま遥か彼方へと遠ざかって行った。

 遠くに行かないで、傍にいてと懇願する暇を与えてはくれなかった。

 それはまるであたしの片思いを想起させる。

 あたしの恋愛は成就しないと言われているような気がして胸が少しだけ苦しくなった。

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