第012話 天空回廊の清拭女
……聞いてしまった!
けれどこれは、美術学芸員を目指す者として、聞かずにはいられない。
ギャロン様がこの天空回廊で、美術品の流出を防いでいるのだとしたら……。
わたしは清拭女として、全力でお役に立ちたい。
「……ふむ。わたしが、美の
「噂……ということは、違うのですか?」
「さあ、どうでしょう? 善悪は、とかく不確定ですから。美術品の国外流出を悪とする者もいれば、異国の美に触れられることは幸いである……という者もいます。どちらかの肩を持つ気は、ありませんね」
「それは……仰るとおりです」
「ですがもしも、粗雑な運搬で美術品を傷つけるブローカーの類が、この天空回廊へ迷い込んできたら……。身ぐるみを剥いでやろうとは、思わなくもないですね。フフフ……」
瞳を閉じて、にっこりと笑むギャロン様。
目元があどけないギャロン様がこの表情をすると、まるで少年のよう。
豪邸の主が見せる無邪気な笑顔。
そのアンバランスさに、わたしの心はざわつき……そして、ときめく。
「えっ……。それじゃあ……やっぱり!」
「あくまで、迷い込んできたら……ですよ。ここは見てのとおり、上流階級の遊技場。窓の隙間から小バエが入り込むことは、たまにしかありません。マスターの仕事は、
「では、けさ……。わたしに言った──」
わたしの手を握って、言った──。
「──二人で世界を変える……というのは、世界を良き方向へ……ですか?」
「ふむ……。さて……」
ギャロン様が不意に、わたしの顎へ親指と人差し指を添えてくる。
これってまさか……顎を引き寄せてのキスっ!?
と……唐突すぎませんっ!?
……………………。
でも……あの、ギャロン様の少年めいた瞳で……。
あれで見つめられながら、唇を奪われるのなら……。
わたしは拒めない……かも……。
子どものころ、ゼグにふざけてチューされた黒歴史も、上書きできそう……。
「……………………」
……ん、来ない。
女のわたしがうらやましくなるくらい、細くて、しなやかで、鮮やかな桃色の爪を持つ指が、顎を固定してるというのに……。
彼の……ギャロン様の唇が……なかなか近づいてこない。
このままだと、息が詰まりそう……。
──くいっ!
「あっ……」
ギャロン様の腕力で、無理に真上を向かされる。
少年っぽい顔を見せていても、女性のように細くてしなやかな指でも、大人の男。
その男らしさを見せつける、手首の力強い捻り。
真上を向いたわたしの目に映るのは、天窓の遥か向こう……でも、すぐそばにありそうに見える、大きな満月。
うっすらと地表の模様を浮かべながら、煌々と輝いてる。
そうだ……今夜は霜月の満月。
夜空一面が薄く白く染まる、天体模様──。
「このホール……この回廊場は、天と地の狭間にそびえる世界樹の
「ひっ……!」
ギャロン様の指によって下げられたわたしの視界に、入ってきたもの。
それは、いままさに回廊の席から転げ落ちる、例の貿易商。
彼はギャロン様とのゲームに負け、そしていまのゲームでも負けたのだろう。
あの様子から見て、恐らくは……大敗。
力なく床に膝を着いて固く瞳を閉じ、溢れ出る涙をみっともなく垂らしている。
まさに世界樹から落ち、地へ叩きつけられた様──。
「彼は貿易商の才こそありましたが、多方面の商売人へ、後ろ足で砂をかけるまねを続けてきました。彼を潰したい者たちが、今夜この回廊場へ彼を招いたのでしょう。『そろそろきみも、ここで遊ぶにふさわしい』とでも、褒めそやしながら」
「出る杭は打たれる……ですか」
「ここはそういう場でもあります。この回廊場で世界を変えるということは、そうした醜いやり取りを見続けること。清拭女はただのホールスタッフや場の色添えではなく、欲に塗れ、血塗られた駒を拭う職務──」
「……………………」
わたしの無言を受けて、ギャロン様の指が顎から離れた。
大きな喪失感が、唇から喉の奥まで生じる……。
どことなく寂しげな笑みを浮かべながら、再び彼の唇が開く。
「
ああ……。
この人は恐らく、きょうまで独りで戦ってきた。
欲望が渦巻く、この回廊場で。
わずかばかりの正しさを、己に守れる範囲で……。
そして……わたしと出会った。
世界を少し、良き方向へ変えることができるパートナーと。
いまギャロン様が……キラキラと輝いて見える。
月光……?
……ううん、この輝きは、けさ見たチャドックの「冷たい背中」と同じ。
さっき間近で見た、ロミア様の美しさと同じ。
このお方は容姿だけでなく……魂も、きっと美しい。
その魂が、この回廊場を訪れる老獪、狐狸、魑魅魍魎の類に穢されるというのならば……。
清拭女のわたしの指で、輝きを失わぬよう磨かなければならない──。
「…………いえ。続けさせてください、ギャロン様。頑張ります」
今度はわたしから、ギャロン様の手を握る。
指は絡めず、そっとギャロン様の右手だけを、両手で覆う。
使用人から主の手を握るなど、不躾の極みだけれど……。
これは、わたしの手を、指を、あなたへ委ねますという意思表示──。
「……ありがとう、クレディア。美術学芸員というきみの夢につけ込んで、半ば強引に連れてきたのでね。罪悪感が、正直あった」
「もちろん、学芸員の勉強はしっかりさせていただきます。今夜の賭けで持っていかれずにすんだ美術品も、拝見させてください。アハッ」
「フフッ……正直者、結構。ところで……」
「……はい」
「爪の手入れは、もっと念を入れるべきだな。縦筋が目立つ。後日リッカに、教えを乞うがいい」
「えっ、あっ……!」
爪の縦筋……。
この階級の人たちは、そんなところまで見るんだ。
わたしてっきり、指紋みたいにあって当たり前のものだとばかり……恥ずかしい。
でも、そうやって自分を磨くことが、美術品を見る目を養うことになりそう。
……………………。
それにしても……。
爪と指の腹を撫でてくる、ギャロン様の手つき……ちょっと、淫らな感じ。
指摘してくれているだけなのは、わかっているけれど……。
「……そろそろ、ホールも落ち着いたようだね。では、閉場のあいさつに行こうか。
「……はいっ!」
翻ったギャロン様の背中を見ながら、少し遅れてついていく。
これからしばらくの間、この背に付き従おうと思う。
お父さんのコーヒーの香りが引き合わせてくれたこの人の、手指となって。
わたしは、
天空回廊の清拭女 椒央スミカ @ShooSumika
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