空き家の猫

午前0時過ぎ

私は猫が苦手だ。

何を考えているのか分からない。

わがままで。

自分勝手で。

こちらの都合なんてお構いなしで。

でてあげようとしたら嫌がって。

遊ぼうとしたら逃げていく。

無視していたら寄ってきて。

膝の上。

乗っかってきたら、もうどいてくれない。


なに考えているの?

何を見ているの?

わがままで、好き放題。

うらやましくて。

私は猫が苦手。


当時住んでいたアパートの近くに空き家があった。

空き家になったが正しいかもしれない。

朝、私が出勤時、そこのお母さんが掃除、お父さんがゴミ出しに、そんな姿は見ていたけれど、いつの間にかそれを見なくなって。

表札も外されていた。


気になることはあった。


(あの子はどうなったかな?)


しなやかな体を優雅に。

尻尾を立てて、すまして。

我がもの顔で塀の上を歩く、トラ猫はよく見ていた。

首輪していて、あそこの家に入っていって、おとらちゃんとか呼ばれていたのに返事していた。

時々、目が合った。

撫でろ!

なんだかそんなことをいわれている気がして、撫でてあげたら目を細めて。

満足したら逃げるようにして去っていった、生意気な子。


(いいなあ、猫は。好きなように生きられて……)


当時は仕事が忙しい時期だった。

いやもう、忙しいなんてもんじゃない。

控えめにいっても、地獄だった。

上司はカリカリしているし、同僚はギスギスしているし、クレームの嵐で電話口はガンガンだし。

帰りはいつも終電になった。


疲れ果てていた。


寝るためだけの部屋。

コンビニ弁当の味なんてわかりゃしない。

冷蔵庫には何も入っていない。

シャワーだけは、女の子だし、浴びてはいたけれど。

髪も乾かないうちに床で寝ていた時もあった。

夜明け前に目が覚めて、意味もなく、わけもわからず、涙がぽろぽろ流れていた時もあった。

たまの休みなんて、洗濯に追われて終わり。

休みたい。休めない。行かなくちゃ。行ったところでまた……。

体も、思考も、ゾンビみたいだと乾いた笑い。

朝、のろのろ靴を履きながら胸から湧き上がるものを抑えていた。


それが日常。


真夜中、午前0時過ぎ。

足を引きずるようにして、それこそゾンビのように帰ってくる。

空き家の前を通ると、二階の一室に明かりが点いていた。


(ああ、誰か越してきたのかな?)


そんなくらいに思っていたのが最初。

首を上げるのも億劫で、すぐに地面を見ていた。


そのうち、そのすりガラスの向こうにゆらゆらと人影が見えることに気が付いた。


背の高い女の人。

何故か、そんなふうに思った。

猫がうるさく鳴く夜に。


午前0時過ぎ。その時間にはいつも明かりが点いている。

それはもちろん、おかしなことじゃない。

こちらはくたびれて帰る深夜でも、あちらにとってはこれからが楽しい時間帯か。

今日もなんか、人影は揺れている。

音楽でもかけて踊っているんだろうか?

でも、何か引っかかるものがある。

本能的に。


(疲れているんだな)


他人の幸せをねたむ思考がそもそも……。

首を振って、ため息も深く、通り過ぎる。

部屋に帰ればもう着替えるのも、ものを食べるのも、シャワーも、何もかも面倒。

心も体もボロボロで、何かの異変を感じたとしても、そんなことよりも寝かせてほしいとさび付いた日々になっていた。


猫が、うるさく鳴いていた。


あの夜。

午前0時過ぎ。


終電で帰れるだけましか。

何が働き方改革だ。


追い詰められていた。


ふと重い頭を上げる。

月は出ていなかった。

深夜でもむわっと蒸し暑く、嫌なにおいまでも漂ってくるよう。

体に湿気がまとわりつくのは心を侵されるようで気持ち悪い。

あの部屋のカーテンが揺れていた。


(え?)


カーテンが揺れている。模様も分かる。

つまり、窓が開いている。

部屋のなかには誰もいない?


(ま、どうでもいいか)


暑い夏の夜、窓を開けていることなんてよくあること。

いま部屋にいないのは、トイレに行っているか、暑さをしのぐために階下の冷蔵庫の美味しいアイスでも取りに行っているか。

……アイスか……。

最近、そんなデザート的なものも食べていないなあ。

ああ、あそこのアイス、好きだったんだけどなあ。

買いに行こうという気にもなれないな。


ため息がまた深く。

このまま何の楽しみもない人生を送るんだろうか。

気持ちが沈んでいく。


ねこ?


いきなり目の前に現れた。

街灯に照らされた目が、ギラリと光る。

私をじっと見ている。


シャーッ!


ものすごい顔で威嚇する。

な、何?!

なんで? なにを、そんなに怒っているの?

っていうか、いたんだ、あんた……。


(おとらちゃん……)


懐かしいものを見た気がした。

癒しを求めるとでもいうように、自然と猫に手が伸びた。


その手の先は、でも。


白い人。

女の人。


「キャ、キャアッ!」


尻もちついた。

深夜に悲鳴も、誰も出てこない。

静まり返っている町。


唐突に理解した。


(そうか。あの女の人は、背が高いわけじゃなくて……。踊っていたなんてこともなくて……)


『あなたも、一緒に……』


うつむいて、顔は見えない。

長い髪がさらに顔を隠して。

ゆらり、手が伸びてくる。

疲れ切った私の体はもう動かなくて。


『一緒に……、一緒に……』


あ、あ、あ……。


……でも、それもいいか。

大都会東京。その中で独り。

一人、いなくなっても……。


ひんやりした手。

なんだか頭の中が真っ白になっていく。


ギャー!!

フギャー!!


(おとら、ちゃん?)


私と、白い女の人の間におとらが割って入った。


後ずさる彼女。


フーッ!! と、威嚇するおとら。


泣いている。

彼女は。

そんな気がした。


おとらの声が優しくなった。

彼女にすり寄る。

彼女もおとらを優しく撫でた。


私は道に座り込んだまま、呆然とそれを見ていた。


何が起こるんだろう?

どうなるんだろう?


真夏の夜にガタガタ震えていた。

死にたくない。

いつか、そう思っていた。

強く。


彼女が、こちらを向いた。


「いや、来ないで!」


彼女は止まった。

涙がまた頬を伝っていた。

ぺこりとお辞儀した。

深く、深く。


『おとらを、どうかお願いします。ごめんなさい』


頭の中に声が響いた。

彼女は消えていった。

すぅっと。白い煙が天に上ったような気がする。


町の音が耳に戻ってきた。

遠く大通りから車の音がする。

どこかの家の、テレビの音や笑い声も。

あの空き家の二階の明かりは消えていた。窓も開いていない。カーテンなんてない。


ナァァオゥ。


甘えた声のトラ猫が一匹。

私の手にすり寄っていた。

何を見ているの?

何を見ていたの?




私は悪夢から覚めた。

これはダメだ。

これでは自分がダメになる。

それこそ……。

すぐに仕事を辞めた。


今は実家に帰っている。


「あんた、いい加減にしなさいよ!」


母に怒られても、ゴロゴロと優雅に失業休みとでもいうようなものを満喫している。

反動、だろうなあ。

スマホで求職サイトは見ているんだけど、まだまだ目が滑る。


「もう! おやすみするのはいいけど、家の手伝いくらいしてちょうだい!」


「はあい」


ニャア……。


あきれたようなおとらの鳴き声。

なによ、文句ある?


連れてきてあげた感謝もなく、今日もおとらは我がもの顔。

この家の主は私よとばかりに。

私よりゴロゴロしているのに、家族には全く怒られない。

私は邪魔者扱いされる。


だから私は猫が苦手。

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