ほくほくで満たして

@pianono

ほくほくで満たして

 すぅ、と息を吸うと鼻いっぱいに夏の香りが広がっていく。燦々と降り注いでいた太陽の残り香が、ひんやりとした空気が肌を撫でるのが、あの人のことを、あの日々を思い出させる。小2の夏、ひょっこりと現れた1人の魔女のことを。


 私の家はお父さんがいなかった。私が幼い頃に亡くなって、私と母の2人きり。頼れる親戚はおらず、母は夜遅くまで仕事を掛け持ちしていた。忙しい母が夜ご飯として私に用意できたのはおにぎりだけ。サケとこんぶのやつで、ぎゅっぎゅっとしっかり握ってくれたおかげでずっしりしていた。

 私にはそんな生活が当たり前だったから、嫌だなんて思わなかった。でも、ちょっとだけ、静まり返った部屋が自分の咀嚼音と、秒針がひたすらに時間を刻んでいく音で満ちていくのが苦しくて、大きなおにぎりを持って近所の公園に出かけるのが日課だった。

 

 公園には誰もおらず、辺りはしんとしていた。昼間の暑さなんてまるでなかったみたいに夜は涼しくて、それが私の胸をキュンと縮こませた。

 蛍光灯が煌々と光る中、いつものように1番奥のベンチでおにぎりを頬張っていると、ふいに女の人がやってきた。入口のところで公園内を見渡して私の姿を捉えると、真っ直ぐにこちらに向かってきた。その人は、もう夜だというのに麦わら帽子をかぶって、白いワンピースを着ていて、スラリとした体躯や肌の白さも相まって当時の私に確実にユーレイだと信じこませた。

「あなた、ひとりなの?」

 女の人は私の前で立ち止まるとそう声をかけた。私がブンブンとうなづくのを見て、女の人は「そう」とそっと隣に腰を下ろした。

「お名前は?」

「……アマネ」

「アマネちゃん。いい名前だね。」

 本来なら、ここで危機感を感じて逃げるなりなんなりした方が良かったのかもしれない。誰か大人に助けを求めたほうがよかったのかもしれない。けれど、この人が他の人には見えないかもしれないという子供ながらの心配と、どこからか湧くこれは絶対に言っちゃダメだという使命感とが勝った。

しばらく2人して並んで座っていたけれど、私は意を決してユーレイに話しかけてみた。

「ユーレイさんはなんで名前?どこから来たの?」

 この質問を聞いた時の、あの人の顔は忘れられない。呆れているような、拍子抜けしているような。そんな表情を浮かべながらまじまじと私を見つめた後、ぱっと弾けたみたいな明るい声で大笑いし始めた。何が何だかわからなくて、今度はこちらが呆然とする番だった。

「まさか、まさかねえ……ユーレイだなんて言われると思わなかったなあ。でもそっか、これじゃ仕方ないよね。」

 その人はひとしきり笑った後、そう言って苦笑を浮かべた。

「でもちょっと惜しい」

「おばけ?」

「ちがうちがう。私生きてるし。」

「生きてるの!?」

「失礼な。ほら、ちゃんと触れるでしょ?」

 恐る恐る、差し出された手に触れると、しっかりとしたぬくもりが伝わってきた。間違いなく、まさにいま生きている人の温かさだった。

 明らかにがっかりした私の様子に、その人は少しむっとして「で、なんだと思う?」と聞く。

「わかんない、答え教えてよ。」

「ふふ、いいよ。私ね‥‥‥‥‥魔女、なんだ。」

「魔女?」

 その人————魔女さんがもったいぶって言うのに私は首を傾げた。

「知らないの、魔女」

「知ってるよ。でも絶対違うよ」

「なんでそう思うの?」

「だって、魔女って黒い服着てるんじゃないの?」

「いつも黒だったら飽きちゃうじゃない」

「とんがってる帽子は?」

「あれ、ちょっとダサいし?」

「空飛べるほうきは?」

「最近の魔女はほうきに乗らないの。ずっと乗ってるとおしりが痛くなっちゃうのよ。今はみんな車とか電車とか使うかな。」

「……じゃあさじゃあさ、魔法、みせてよ!」

「うーん、魔法かあ。見せてあげたいのはやまやまなんだけどさ、本当に必要な時にしか使っちゃいけないって魔女の世界ではルールがあるんだ。」

「本当に必要な時?」

「そう。もうどーしょーもない!人生の一大事!ここぞ!ってときだけ。」

「じゃあ見れないの?」

「……まあ、そういうこと。」

「えーつまんない!本当に魔女なの?」

 私が疑いの目を向けると、魔女さんはいたって真面目な顔をして、それは本当と大きくうなずいた。でも、そんなんで納得なんてできっこない。魔女だという証拠がない、と再び反論しようとしたところで、自分の手の中に、食べかけのおにぎりがあるのを思い出した。このままじゃいつまで経ったって終わりが見えない。いつ、残りを食べられるかわからない。そう判断した私は若干むくれつつ、夕食を再開した。

 しばらくおにぎりに夢中になっていると、隣からきゅう、とかわいらしい音がした。驚いて隣を見ると、魔女さんがうつむいて、真っ白な頬をほんのりと赤らめているのが傾向に照らされて見えた。

 私は無言でまだ手を付けていなかったおにぎりを魔女さんに差し出した。すると、魔女さんはあわててそれを突き返した。

「だめだよ、それはアマネちゃんのごはんでしょ。」

「いいの、今日はいつもよりおなかいっぱいだから。」

 そう言っても受け取ろうとしない魔女さんの手に無理やり握らせると、魔女さんは遠慮がちに周りのラップをはがして、器用にはんぶんこにした。そして片方を私の方に戻した。半分でもうけとってくれたのが嬉しかった。

「おいしいねえ。これ、アマネちゃんのお母さんが作ったの?」

「うん、お母さんお仕事で忙しいから。」

「……さみしくないの?」

 その質問にドキリとした。さみしくないなんて、はっきり言うことができなかった。でも、言っちゃいけいない気もしていた。このもやもやしたものを、どう言っていいかわからなかった。

「わかんない」

「ふーん」

 魔女さんはそれ以上深く聞いてはこなかった。あの時は、本当にわかんないと思ってくれたと心底ほっとしたけれど、今はそうじゃなかったとわかる。魔女さんはとっても優しかった。その証拠に、私たちの話題はすぐに別のものに変わった。

「それにしても、なんか、不思議な感じがしない?」

「不思議な感じって?」

 魔女さんの発言はどれも抽象的というか、ぼんやりとしていた。まるで聞いてもらうのを楽しみにしているみたいだった。

 魔女さんは私が質問をすると、ちょっと嬉しそうにしながら「そうだなー」と天を仰ぐ。

「なんかね、こう、体の中でむくむくしてるというか、いや、ふぁってしてるような……ああなんか違うかも。じーん、かなあ。それともぶぁっ」

 魔女さんの「むくむく」とか「ふぁっ」とか、とにかく出てきた音を想像してみたけれど、どれもピンとこない。何が言いたいのか、さっぱりだった。

「それじゃわかんないよ。」

「ちょっと待って、あとちょっとでわかりそう」

 そのまま腕まで組んですっかり暗くなってしまった空を見つめていたけれど、やがて「わかったあ!」と勢い良く立ち上がった。人類史上新発見をしたらこんなふうにきらきらした顔になるのかもしれないと思った。

「ほくほくだよ!ほくほく!」

「ほくほくぅ?おにぎりが?」

 母がこれを作ってくれたのはもう何時間も前。当然温かいはずがない。それなのにほくほく?私の頭ははてなでいっぱいだった。

「うーん、おにぎりが、じゃないかな」

「じゃあなに?」

「知りたい?」

「知りたい!」

 私がそう言うと、魔女さんは「ないしょ」とにやっとして見せた。

「えーなんでよ、ケチぃ」

「ただで教えちゃったらつまらないじゃない。でもね、そうだな。もしかしたら、また一緒に食べたらわかるかもしれない。うん、そうしよう。また明日、同じ時間によるご飯持ってここに集まるのはどう?そうしたらアマネちゃんもわかるかもしれない。明日は私もおかず持ってくるからさ。」

 魔女さんはいろいろなことを勝手にぱっぱと決めていってしまった。私は答えを知りたかっただけなのに。

 でも、嫌な感じはしなかった。また明日魔女さんに会えるんだと思うとワクワクした。

「うん、約束だよ。」

 こうして、私と魔女さんの日々は始まった。


 翌日、同じ時間に昨日と同じように大きなおにぎりを二つ持っていくと、すでに魔女さんはベンチに座って待っていた。

「お、来たね。」

「魔女さん早い」

「魔女だからね」

 よくわからない理屈を言いながら魔女さんは私を横に招くと、ベンチの上で持ってきていた包みを開いた。すると、なんと魔女さんが持ってきていたのはただのお弁当箱なんかじゃなくて、立派なお重だった。もちろん一段ではあったけど、それでもテレビでしか見たことのない大きさに私は興奮した。

「おっきい!」

「やっぱりふたりぶんだったらこれくらいのほうがいいかと思って。」

 魔女さんはさらりと言った。ふたりぶん、と。

「これ、私も食べていいの?」

 そう聞くと、魔女さんは昨日みたいにポカンとして、当たり前じゃん!と笑った。

「昨日、おにぎり分けてもらったしね。アマネちゃんはおにぎり二つ、私はおかず二人分。だから半分こしたらちょうどいいかなと思って。」

 そこで、前日に魔女さんはおかずを持ってくると言っていたのを思い出した。

 魔女さんがフタをぱかりと開けるとお重のなかは色とりどりのおかずがぎっしりと詰まっていて、お店で食べる料理の何十倍も美味しそうに見えた。いや、実際どれもすごく美味しかった。

「これ、魔女さんのお母さんが作ったの?」

「ううん、自分で」

「えっ、そうなの!?すごい!こんなにおいしいの初めて!」

「そんなことないよ。アマネちゃんも大きくなったら作れるようになるって。」

 私がベタ褒めをすると照れくさそうに魔女さんは笑みをこぼす。私も釣られて笑った。

 出会った次の日にはもう、魔女さんは私にとってかけがえのない友達になっていたと思う。もちろん学校にも仲のいい子はいたけれど、それとは少し違う、もっと特別な感じがした。もしかしたらそれは、友達ともまた違う関係性だったのかもしれないと、今になっては思うのだ。

 

魔女さんと話している時間はあっという間に過ぎて、そろそろ家に帰ろうという雰囲気になった時、魔女さんはいたずらっ子みたいな顔で、「それで、どうだった?」と尋ねた。

「どうって?」

「何がほくほくだったか。わかったかなって。」

 魔女さんとのおしゃべりが楽しくて、すっかり忘れてしまっていた。慌てて目をつぶってどんな感じか想像してみたりもしたけれど、わからずじまい。

「その様子だと、忘れてたみたいだね。」

 魔女さんは笑いをこらえるように、肩を震わせた。

「うん、ごめんね。でも、魔女さんのごはん食べるのも、一緒におしゃべりするのも楽しかったから。」

「……そっか、そうだね。私も楽しかった!明日はこそはわかるかも!」

 魔女さんは一瞬驚いた表情をして、ほおを緩めたかと思うとすぐにぱっとさっきのような生き生きとした顔で、そう提案した。明日こそはわかるかも。そうやって、また明日、会うことを当たり前みたいに言ってくれたのが嬉しかった。また明日も、そしてその先も、こんな楽しい時間が待っているかもしれないのだと思うと胸が躍った。

 

 それから、毎日集まって一緒に時間を過ごしては「また明日ね」と言って家に帰る。そんな日々が続いた。魔女さんはいつも、おいしそうなお弁当を食べさせてくれた。そしてそのうち、私も自分で作ってみたいと思うようになった。けれど、まだ小学2年生。料理なんて全くやったことない。だから、私にできたのは————。


 

8月も半ばに差し掛かった月曜日。私はいつもと同じ時間に家を出た。夏休みももう半分以上終わってしまったけれど、まだまだ夏真っ盛り。夜になってもまだ、昼間のけだるい暑さが残っていた。

 おにぎりが入ったいつものバッグを汗ばんだ手で握りしめて、ずんずん歩く。いつもよりドキドキする。楽しみだけじゃない、緊張と不安とが織り交ざって私を取り巻いていた。

 公園につくと、今日は、いつも先について待っていてくれる魔女さんはいなかった。私はがっかりした。早く、早く魔女さんに会いたい。会って全部話したい。そして、食べてもらいたい。

 はやる気持ちが体中を駆け巡って、私は動かずにはいられなかった。ブランコをビュンビュン漕いでみたり、鉄棒で逆上がりを何べんも連続でやってみたり、意味もなく走り回って見たり。

 でも、それでも魔女さんは来なかった。公演の大きな時計を見ると、約束の時間を大きく過ぎていた。

 もしかしたら、今日は忙しい日なのかもしれない。それか、いつもよりとっておきのお弁当を作っていて遅れているのかも。そうだ、もしかしたら『本当に必要な時』がきて魔法を使っているのかもしれない。

 希望は捨てなかった。決して魔女さんが来ないだなんて思わなかった。絶対に来てくれる。いつもの笑顔で「アマネちゃん」って呼んでくれる。ほっぺが落ちそうなくらいおいしいお弁当を一緒に食べられる。ふたりでふざけあってゲラゲラ大笑いできる。そう、思っていた。

 でも、結局その日、魔女さんが公園に現れることはなかった。その日だけじゃない。それから一週間、魔女さんは一度たりとも公園にやってこなかった。


 夏休みになってから初めて、一人でおにぎりを食べた。自分で握ったそれはお母さんが作ったみたいにぎゅっとはしてなくて、魔女さんが作ってくれるお弁当ほどきれいでもない。一口かじると、すぐにボロボロと崩れてしまう。どれだけ噛んだって味はしなかった。

 胸にぽっかりと大きな穴が開いたみたいだった。何を入れたって埋まるどころか、どんどん私を飲み込もうとする大きな穴。それにぱっくりと呑まれてしまわないように、毎日思い出すのは魔女さんの太陽みたいな、私に投げかけてくれていた温かい笑顔だった。


 一週間、ぱったりと姿を消していた魔女さんは、またも突然に表れた。初めてであった日のように、真っ白なワンピースに夜だというのに麦わら帽子をかぶって。でも、何かが違う、と遠目でもわかった。白かった肌はさらに透き通るように、細かった体はさらに折れてしまいそうなほど弱弱しく、頼りなさげになっていた。

 魔女さんは私の前まで来ると、消え入りそうな声で「ごめん」と謝った。

「約束守れなくて、しかも何日も。今日もお弁当持ってこれなかったし、本当に————」

「忙しかったんだよね?」

 私は必死になって魔女さんの言葉をさえぎった。魔女さんのそんな顔なんて見たくなかった。

「魔女さんだって、ヒマじゃないもん。おいしいお弁当の研究してたんでしょ?あとは、魔法のお勉強とか、えっと、お友達が『ここぞ!』ってときで魔法で助けてたんでしょ?……そうだよね?」

 まくしたてるように言葉を紡いでいく。魔女さんの表情は全く晴れない。私はそのまま続ける。

「それでもね、来てくれて本当にうれしい。あのね、今日ね、私も魔女さんみたいに料理ができたらいいなって、おにぎり作ったの。魔女さんがいつも作ってくれるみたいに上手じゃないし、すっごいおいしいわけじゃないんだけど」

 すっかり冷めてしまった、不格好なおにぎりを取り出して、魔女さんに差し出した。魔女さんはそれをじっと見つめていたけれど、やがて、ちょっと笑って「ありがとう」と受け取った。

 ゆっくりと、細い指でラップをめくっていく。どきんどきんと大きな音がして、心臓が飛び出てしまいそうだった。

 魔女さんは緩慢な動作で口元までおにぎりを運び、一口、かじろうとしたところで動きを止めた。どうしたの、と聞く勇気はなかった。

「……アマネちゃんも、一緒に食べてほしいの。一緒に。ね、お願い。」

「う、うん」

 思わぬ魔女さんのお願い。私も、緊張しながらラップをはがす。

「いただきます」

「いただきます」

 ふたりで、同時におにぎりを口にした。そのまま無言でもぐもぐと食べ続ける。すると、隣からなにやらぼそりとつぶやく声が聞こえた。

「魔女さん、今何か言った?」

「……ほくほくする」

「え?」

 聞き返しても、まだ聞き取れなくて、再度問う。すると魔女さんはこちらを向いて、にっこり微笑んだ。その頬を一筋、涙がつーと駆け抜けていく。

「おいしくて、ほくほくする……!」

 その瞬間、火花がはじけたような感覚に陥った。今の今までガバリと口を開けていた大きな穴がさーっと小さくなっていった。胸がジーンとして、鼓動が早くなって、声を出そうにも全部、音にならず空気になって抜けていった。体の内側から、ぼうっと温かくなっていく。

「アマネちゃん?」

 しばらく茫然としたままの私を心配して魔女さんが覗き込むと、ようやく私のこわばりはほどけていく。私は興奮したままに言う。

「私、わかったよ!ほくほくするって、こういうことなんだね。ドキドキして、あったかくて。魔女さんと一緒だから、ほくほくするんだよね?あったかいんだよね?」

 私が矢継ぎ早にそう言うと、魔女さんは正解という代わりに、何度も何度も首を縦に振り続けた。その顔は、晴れ晴れとした、私が待ち望んだ笑顔だった。


 その日、魔女さんは紹介したい人がいるんだと私をとあるお店に連れて行った。

「ここね、『ひまわり食堂』っていうんだ。アマネちゃんと同じように、夜、ひとりでご飯を食べている子たちが集まって、みんなでご飯食べるの。もちろん、お金はいらないよ。」

 お店の看板を見つめながらそう説明する魔女さんは微笑んでいたけれど、どこか寂しげだった。けれど私には、その表情の意味も、「ひまわり食堂」を紹介してくれた意味も分からなくて、ただただ首をかしげるだけだった。

 お店に入ると、ふくよかなおばさんが机を拭いているところで、私たちの姿をとらえると「待ってたよ」と快く迎えてくれた。

「おばさん、久しぶり。」

「本当に。最近姿見ないと思ってたんだけど。あら、また痩せた?」

「今ね、ダイエット中なの。」

 魔女さんがおどけて言うと、おばさんは「若いんだから必要ないのにねえ」とあきれたようにいいながらカウンター席に座るよう促した。

「この人はここのお店でみんなにご飯を作ってくれている安藤美津子さん。私も昔はよく、お世話になってたんだ。」

「あの、なんで」

「私ね、もう、アマネちゃんと一緒にご飯食べられなくなっちゃったの。」

 魔女さんの声は震えていた。きっといつ切り出そうかとても悩んだに違いない。

「なんで」

 そう、聞かずにはいられなかった。あんなに楽しかったのに、やっと、おにぎりも自分で作れたのに、やっと、ほくほくがわかったのに。もう、あんなに楽しかったおしゃべりも、おいしかったご飯も、魔女さんの笑顔も、全部なくなってしまうのだと思うとたまらなかった。涙が堰を切ったようにあふれて止まらなかった。

「私ね、修行に出ることにしたんだ、魔法の。もっともっと強くなりたいの。」

「本当に行かなくちゃダメなの?」

「うん。」

 魔女さんは小さく、力強くうなづいて、私の頬にそっとてをのばして涙をぬぐった。

「だからね、私の代わりに一緒にご飯を食べてくれる人たち、一緒にほくほくしてくれる人たちがいるところを教えてあげようと思って。そうしたら、寂しくないでしょ?」

 寂しくないわけなんてない。魔女さんとずっと一緒がいい。そう言いたかったけれど、これ以上魔女さんを困らせることになると言い出せなかった。口から出かけた言葉が、急ブレーキをかけてつんのめった。

「……っ、うん。さみしくないかも。……でもね、魔女さんの代わりにはならないんだよ」

 魔女さんは目を見開く。その目はとてもキラキラしていて、揺らめいていた。

「また、戻って会いに来てくれる?」

「もちろんだよっ!絶対、絶対戻ってくるから!アマネちゃんと、もう一回ほくほくするために」

 魔女さんはぐっと私の手を握って、自分の額に押し付けるようにしてそう言った。

 かくして、私と魔女さんの不思議な、ほくほくした日々はいったん、幕を下ろした。


「アマネちゃん、これお願いしていい?」

「わかりました!」

 現在、私————17歳の西川天音は「ひまわり食堂」のバイトとして働かせてもらっている。

 魔女さんにここを紹介してもらった後、親に許可を取って通っていた。びっくりすることに、ひまわり食堂の味は魔女さんの味にそっくりだった。美津子さんに話を聞くと、私が教えたのよと自慢げに語っていた。

 その話を聞いてから、料理をするということに興味を持ち始めていた私は同じように美津子さんに教わることにし、めきめきとその技術を上げ、今では調理師学校に通うほどにまでなった。

 ひまわり食堂には様々な子供たちがやってくる。親が仕事で家にいない子、経済的に厳しい家庭の子。その子たちが毎日口いっぱいに私たちが作ったものをほおばってくれるのが嬉しい。ごちそうさまと笑顔で食器を返してくれるのが幸せ。毎日がほくほくしている。

 それもこれも、あの日魔女さんが傍にいてくれたから。

 最後に会ってからもうずいぶん長い月日が経ってしまった。修行に出ると言っていた魔女さんが今どこにいるかなんて見当もつかない。でも、どこにいたって、何をしていたって、どれだけ会えなくたって関係ない。いつかはひょっこり現れて、会いに来てくれるって信じているから。


「アマネちゃん、今少しいい?」

「はい。」

ある日の閉店準備中に、美津子さんは改まって切り出した。私は洗い物をきりのいいところまで終わらせて、美津子さんの座るテーブル席に腰掛ける。

「実はね、昨日、ある人が来てね」

 今日の美津子さんはなんだか歯切れが悪い。いつもだったら誰が来たとか、真っ先に言ってしまうのに。

「ある人ってのはその、お母さんなのよ。アマネちゃんのじゃなくて、その・・・・・・あなたが初めてここに連れてきてくれた人の。」

「魔女さんの、お母さん」

 私が静かに呟くと、美津子さんはそうだったわね、と苦笑した。言われてみればそうなのだ。私は魔女さんの名前を知らない。

「千佳さんって言うんだけど、その人が来て、その魔女さん?のことを話しにきてくれたのよ。・・・・・・あの子、もう永くないんだって。」

 頭を鈍器で殴られたような衝撃が走った。頭は真っ白で、なんて言っていいかわからない。美津子さんも辛そうにしている。

「ずっと闘病していたんだけど、なかなか、ね。それで、何が食べたいか聞いたらここの料理が食べたいって言ってくれたみたいなの。」

「・・・・・・それで、どうして私に」

 そう返すのが精一杯だった。

「最後に、アマネちゃんに届けてほしいの。私にはお店があるし、それに・・・・・・もう一度、会うんだって言ってたじゃない?このままじゃ」

 美津子さんはその先を言わなかった。店内にどんよりとした空気が流れる。

 魔女さんに、本当に会えなくなってしまうかもしれない。そう考えると、恐ろしくてたまらない。行かないなんて選択肢、ないのだ。でも、「死」という現実を突きつけられて、私はあの頃みたいに笑えるのか、ちゃんと、ありがとうと言えるか、自信がなかった。

「大丈夫よ、大丈夫。」

 そんな私を見透かして、美津子さんはそう言って頭を撫でた。あったかい、大きな手だった。

「あの子はどんなアマネちゃんでもわかってくれる。何年も見てきたんだもの。それくらいわかるわ。」

「・・・・・・うん。」

 そうだ、魔女さんさはそういう人だった。そうは思うものの、一抹の不安を抱えながら、病院を訪ねる日を迎えた。


 病室の前の「藤原千尋」という文字を確認して、ノックをする。すると、はーいと、意外にも明るい声がした。それはあの頃聞いていたものと全く変わっていなかった。

 ちょっと泣きそうになりながら、グッと堪えて中に入ると、白いワンピースの魔女さん、もとい千尋さんがベッドにちょこんと座っていた。昔よりも一回り、小さくなってしまったように感じたけれど、その笑顔は今日も健在だった。

「いらっしゃい。」

「はい、あの、お久しぶりです。」

「嫌だなあ、アマネちゃん大人になっちゃって。敬語なんてやめてよね。」

 千尋さんはそう言って顔を顰めた。そういう、表情がコロコロ変わるところも、変わっていない。

「今日はアマネちゃんが来るっていうから、ちょっとおしゃれしようと思って」

 どう?、と聞かれて私はまだぎこちなくきれい、とだけ呟いた。

 でも、ぎこちなかったのは最初のうちだけで、美津子さんのお弁当を広げ、9年間のあれやこれやを話しているうちにそんなの関係なくなっていた。

「そっか、アマネちゃんは調理師になりたいんだ。」

「うん、でもまだまだ勉強中。全然遠いよ。・・・・・・でも、ここまで頑張れたのは、私に料理をする楽しさを、誰かと食べることの嬉しさを教えてくれたのは魔女さんなんだよ。魔女さんが、魔法をかけていってくれたから、今日の私がいるの。」

「それは大袈裟。全部、アマネちゃんが最初から持ってたものだよ。」

「でも、それを引き出してくれたのは魔女さんなの。だから、今日はどうしてもお礼を言いたくて。」

 私は別で持ってきていた袋からひ2つ、おにぎりを取り出した。あの頃ほどゆるくも、不格好でもない。

「あ、でもお腹いっぱいだったらいいから。」

「ううん、食べるよ。」

 魔女さんはおにぎりに手を伸ばすと、ゆっくりとラップを剥がして、それさら私にも食べるように促した。私も同じようにする。そして、2人でいただきます、と同時におにぎりを口にした。あの頃の懐かしい味が、感覚がした。体の中からジーンと暖かくなって、じわじわと広がっていく。胸がドキドキして、思わず笑みがこぼれる。

 私たちは目を見合わせると、にっと笑って言った。

「「ほくほくする」」

 美味しくて、あったかくて、ジーンとして、懐かしくて、ちょっぴりくすぐったい。病室はそんなほくほくで溢れていた。


すぅ、と息を吸うと鼻いっぱいに夏の香りが広がっていく。燦々と降り注いでいた太陽の残り香が、ひんやりとした空気が肌を撫でるのが、あの人を、あの日々の記憶を呼び起こす。

あの日から、自然とあの公園を除くのが癖づいてしまった。あの人がいるのではないかと、やっぱりどうしても期待してしまうのだ。いつもは人気のない公園。でも今日は違った。

あの日、私が腰かけたベンチに一人、ポツンと座っている幼い少女を見つけた。

私はためらうことなく進んでいく。奇しくも、今日私が着ているのは白のワンピースに麦わら帽子。私はクスリと笑って、少女の前まで行くと、こう尋ねた。

「あなた、ひとりなの?」

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