権野堂家の夕食前

待居 折

五月も半ばの頃

 …これはまずい事になったわね。


 スーツのままソファーに深く座った私は、舌打ちしたい衝動を必死にこらえている。

 垂れ流されているバラエティー番組の内容なんて、一切頭に入って来ない。


「あれ?お母さん、今日遅くなるんだったっけ?」


「ん?言っておいたでしょ、前に。会社の人達とご飯済ませてくるから。晩ご飯の支度、お願いね?」


 カレンダーの予定をしげしげと見つめていた娘に、そう頼んで家を出たのが朝。これ自体、我が家では特に珍しい光景でもない。

 そこを突いた完璧な作戦だったはずなのに…なぜ今、私の足元の少し先に、今日のホテルディナーのレシートが落ちているんだろう。


 プロジェクトがひと段落した今日、「たまには良いでしょ」と同僚達と羽根を伸ばした金額、二万八千円(税別)。

 気軽にひょいと食べに行ける金額じゃないのは、家族の誰が見ても分かってしまう。


 あれが見つかる事自体はそれほど問題じゃない。厄介なのは、あの金額から私のへそくりの存在が発覚してしまう事だ。

 それだけはなんとしても避けたい。…いや、避けなければならない。


「お先にお風呂いただきましたよー…どれ、ビールはー…っと」


「あ、私持ってくよ。お父さんはお庭で夕涼みでもしてて」


 呑気に脱衣場から出てきた夫を見るや、意を決して動く。


 キッチンに向かい、冷蔵庫からビールを取り出し、夫に渡しながらスリッパの裏でレシートを回収、元いたソファーにすり足で戻る…はずだった。

 でも、ビールを手渡した帰りに思わず目を見開いた。さっきまであったレシートがない。

 なんでなんで?誰か拾った?ソファーには誰も近づいていなかったのに…。


「珍しいね、お母さんがビールを渡してくれるなんて」


「えぇ?そんな事ないよ。母さんはいつだって俺に優しいんだ。な?」


 な?じゃないってば。

 娘と夫の会話は聞こえていたけれど、私はもう全くそれどころじゃなかった。



  ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 



 焦ったー…絶対詰め寄られると思ったー…。


 バクバクいう心臓の音を感じながら、俺は何食わぬ顔を装い、庭を眺めながら缶ビールを開ける。プルタブに引っ掛けた自分の指が、小刻みに震えているのが分かった。


「あっ」


 五日前。


 ガレージの中で降ろしたゴルフバッグを片手に、何かを思い出して振り返った時、壁にドスンとバッグの先が当たった。

 同時に嫌な感触を覚えて見てみると、案の定、大きく壁が凹んでいた。


 今となっては何を思い出したかすら覚えていないが、とにかく、迂闊だったのは間違いない。

 子供たちがとうの昔に飽きたトランポリンを隅から引きずり、大慌てで立てかけて凹みを覆った。


 分かっている。言うなればこれは対処療法。

 こんな子供だまし、そのうち誰かに見つかって明るみに出るに決まっている。もうある程度観念だってしている。


 …そのつもりだったけど、見つからないならそれはそれで、安心している自分も確かにいた。


「あなた…本当にそそっかしいんだから」

「お父さんってそういうとこあるよねー」

「パパ、いっつも僕にはこういう時、怒るくせに」

「小さい頃から変わらんのう…誰に似たのやら」


 …見つかった時を想像しただけで肩幅が狭まる気がしてくる。


 ダメだ、考えるのを止めよう。


「優亜、そう言えば今日学校早かったんだろ?」


「うん、創立記念日近いから、なんかその式典準備だって」


 …よし、大丈夫。ちゃんと普段の俺をやれている。



 ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ 



 ちょっと!急に話しかけないでよ!


 思わず止めた手をまな板の上でまた動かしながら、あたしは口の中がカラカラに渇くのを感じてた。


 お父さんの言う通り、今日は学校が半日で終わった。


 お父さんはいつも通りとしても、お母さんが遅いのは割と珍しい。だから、コウ君を家に呼んで部屋で思う存分イチャイチャし倒してた。

 それが良くなかったんだよなぁ…くっついて映画を観てるうちにいつの間にか寝てしまっていて、下からあたしを呼ぶおばあちゃんの声で目が覚めた時には、家族全員が帰って来てた。


 そう…帰りそびれたコウ君は、今もあたしの部屋で息を潜めてる。


 勿論、今まで彼氏を家に連れて来た事がないわけじゃない。

 でも、うちの家族はそういう時の立ち振る舞いが絶望的に下手だ。


 笑顔で根掘り葉掘り問いただすお母さんはまだしも、当時十三歳の初彼氏に強張った顔で「娘との将来をどう考えているのかな」とか言い出すお父さん。

 弟は興味本位でどうにか部屋に忍び込もうと大して読みたくもないマンガを何度も借りに来るし、おばあちゃんに至ってはニコニコしながら、おもむろに財布から一万円をあげようとする始末。

 そりゃ翌日ふられるのも納得できる。


 何にせよ、こうして晩ご飯の支度をする今も、どんどん時間だけが過ぎていく。

 どうにかしてこっそり帰らせないと…いや、その前にまずはトイレだけでも行かせてあげなきゃ…。


 コウ君が気になって、料理がちっとも進まない。

 イライラが募ってきて、ついあたしは矛先を弟に向けた。


「あんた、今日テストじゃなかった?」



 ◇ ◇ ◇ ◇ 



「それ来週」


 僕はわざと短く答える。どうかな…今、おかしな顔してないかな。

 

 急に話題が来たから、びっくりしてちょっと飛び上がっちゃったけど、隣に座ってるお母さんは、じっと集中してテレビを観てる。

 大丈夫だ、気付いてない。


 姉ちゃんはいつも、変に物覚えが良い。僕のテストがいつあったって姉ちゃんには関係ないのに。

 でも…今のは本当に危なかった。


 姉ちゃんが言った通り、漢字テストは今日。

 そして点数はかなり悪かった。

 今までのをちゃんと覚えてないけど、たぶん、ワーストを塗り替えたはず。


 お父さんもお母さんも、うるさく勉強しなさいって言うタイプじゃないのは、僕も分かってる。

 でも、物には限度ってものがある事も僕は知っているし、今回の結果はそれを明らかに越えてきてた。


 去年の春、ひどかったテストの結果から決まったゲーム禁止の暗黒時代は辛かった。思い出すと今でもちょっと泣きそうになる。

 「良く学び良く遊べ」ってことわざもあるぐらいなんだし、遊ぶのを禁止するのはちょっと違うと思う。

 良く学ばなかった結果でしょ…って言われたら、もう何も言えないんだけど。


 ソファーにあぐらをかいて、僕はみんなをチラチラ見てみる。

 姉ちゃんはずっとこっちに背中を向けて料理の真っ最中。お父さんは庭先で遠くを見ながらビール。

 どうやらテストの話は終わったみたいだ。


 良かった…安心した僕は、リビングに入ってきたおばあちゃんに声をかけた。


「おばあちゃん、週末温泉旅行でしょ?お土産買ってきてね!」



 ◇ ◇ ◇



 土産か…全く考えておらんかった…。


 思わず溜息をつきかけた自分に気付いて、アタシは慌てて笑顔を取り繕う。


「そうじゃなぁ…忘れてなかったらの」


「あー!おばあちゃん、ひどいー!」


 ゲラゲラ笑う孫をよそに、アタシは掌に嫌な汗をかいていた。

 土産を買ってくるのが億劫だという話じゃない。


 アタシが老人会の仲間と行くのは南の温泉なんぞじゃなく、都内のアイドルグループのライブだからだ。


 人間、いくつになっても趣味があるのは素晴らしい事だし、アタシの場合、二年前にたまたまテレビで観た男性ボーカルグループがそれに該当したというだけの話であって、何ら後ろ指を指される様な覚えも謂れもない。


 でもここで問題なのは、呆けた様に庭でビールを手にしているせがれだ。


 アタシがアイドルにハマっているなんて知った日には、ニヤニヤ…或いはヘラヘラしながら、


「どの子がお気に入りなの?」


 だの、


「確かに、親父の面影があるなぁー…」


 などと小馬鹿にして、しどろもどろのアタシを酒の肴にするに決まってる。

 底意地の悪いところは本当に死んだ爺さんそっくりだ。


 部屋に戻って都内のアンテナショップをすぐにでも調べたいところだが、もうすぐ夕飯が出来上がってしまう。

 不審な動きを見せれば、勘の良い嫁の祥子さんあたりが、万が一気付かないとも限らない。


 ここは努めて普段通りに。

 アタシはすり寄ってきたノエルの胴を静かに撫でた。



 ◇ ◇



 そのノエルって猫が私。

 そして今、私は凄く焦ってる。


 小さい動くものを見ると湧き上がってきちゃう狩猟本能に負けて、今日の昼間、野ネズミを庭でとっ捕まえたの。


 本能なんだし、こればっかりはダメって言われても止められないんだけど…つい癖で、その戦利品をリビングに持ってきちゃったんだ、そのソファーの下に。


 「ノエル、良い?何を獲っても良いけど、リビングに持ち込んじゃダメ。分かった?」

「危ねぇー…俺、踏んじゃうとこだったよ」

「お父さん!すぐそれ外に出してきて!ねぇ早く!」

「おばあちゃん、これって死んでるの?」

「ほら、もう止めてあげなさい…なんまんだぶなんまんだぶ…」


 前にうっかりちっちゃいカエルを持ち込んだ時は、家中大さわぎになった。


 ちょっと言い訳させて?

 狩った獲物を「どう?私、凄いでしょ」って飼い主に見せたいのも本能なんだけど、あれからずっとそこは我慢出来てたんだよ?

 でも今回のは…凄く大きくて立派な野ネズミだったの。どうしてもみんなに見せたい気持ちが勝っちゃったんだ…ごめんなさい。


 誰もいない隙に持ち込んではみたんだけど、今になって凄く後悔してる。あんなのが見つかったら、また凄く怒られちゃう。

 さっき、落ちてた紙でそれとなく隠してみたけど、きっと見つかるのも時間の問題…憂鬱だなぁ。


 まぁでも…もう、どうしようもないか。ここは腹を括って可愛らしく振る舞っておこうっと。

 そしたら、叱られた時もちょっとは軽減されるかもだし。



 ◇



『にゃあうぅ』


 盗聴器が捉えた猫の鳴き声に、複雑な計器を前にした兵士が背後を振り向いた。


「これより一家は食事の模様。予定通り、作戦を実行しますか?」


「…いや。撤収だ」


 眼帯をした司令官が険しい顔で言い放つと、傍らの兵士がわずかに口角を上げる。


「お言葉ですが…少し慎重過ぎではありませんか?奴等が我々に気付いている素振りはない様に思われますが」


「…資料には目を通しているとは思うが」


 司令官は静かに目を閉じる。


「あの家の祖母はその昔、第三次世界大戦への危機を食い止めた伝説の女スパイ。

 その息子もまた、この国が秘密裏に組織した機関のトップエージェント。

 義理の娘でもある息子の嫁は、詳細不明だが恐らくは世界有数の天才ハッカー。

 二人の子供、上の女子高生は業界では知らぬ者はいない凄腕の傭兵。

 下の男児は小学生だが、最後にして最強の忍者。

 飼い猫とされている生物は、世界で七例しか確認されていない幻獣の一匹。

 名だたる裏の組織は勿論、我が国を始めとする全世界の上層部が軒並み警戒する日本の特記戦力…それがあの一家だ」


「ですが…それを把握した上での今回の作戦のはずでは?」


 若い兵士の迂闊な一言に、司令官は怒りのこもった目で彼を見下ろす。


「まだ分からんのか…到底一筋縄ではいかん彼らが、今、何かを隠しながら会話を続けているのが」


「何かを…隠しながら…?」


 にわかに緊張を覚えた若い兵士は、周囲を見回した。

 自分より任務に就いて長い歴戦の兵士達が、皆その顔に焦りを滲ませている。


「まさか連中…こちらの盗聴に気付いているのですか…?」


「分からん」


 腕を組んだ司令官はそう応じた後、重々しく続ける。


「…だが、こちらの存在に感づかれている可能性を考えるのなら、これ以上作戦を続けるべきではない。要らぬ国際問題の火種を避ける為にもだ」


「…了解しました」




 こうして権野堂一家は、意図せず今日もひとつの危機から街を救った。

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