起点



 いた。

 彼がいたのだ。私が受けている講義を彼も受けていたのだ。かれこれ4回くらいはこの講義に出ているが全く気付かなかった。受講している人もそれほど多くはないのに。

 これで合点がいった。私がこの講義に出ることを彼が知っていたことに。彼は私をこの時間のこの講義室で見かけていたのだ。彼にとってはカマでも博打でもなんでもない。この講義を受けているということをただ事実確認しただけだ。


 しかし待て。同じ講義に出ているのなら、講義の後にまた喫煙所で会ってしまうのではないか?なんだか気まずいな……いや、ライターを返せるな。

 講義の後に1本吸えたらもう十分なのだ。吸った後、帰りしなにコンビニに寄って新しいのを買えば良いのだから。

 いくら100円とはいえ貰い物は気が引ける。仲の良い親戚でさえ貰い物は恐縮するというのに、知人でもない人から貰うのなら尚更だ。貸しだの借りだの面倒くさい。返せるものは返せるうちに返してしまうに限る。ずるずると関係を持ちたくない。



 また今日も盛り上がりのない淡々とした語り口で時間が過ぎた。

 

 他の学生はいそいそと荷物をまとめ部屋を出ていく。急がないと学食が混むからだろう。そんな慌ただしい学生たちの中で緩慢な動きをしている者が二人。

 一人は彼だ。どうせ喫煙所に寄るからいま急いだところで、という考えだろうか。

 もう一人は私だ。私はそもそも学食に寄る気がない。安いし美味いことを知っているがあえていつも寄ってない。講義の後、寄り道してご飯屋さんを散策しながら帰るのが好きだからだ。まぁ、その前に煙草は吸うのだけれど。


 席を立ったのはほぼ同時だった。

 椅子を引く音が重なった。思わず目を見やった。目が合った。

 何も言葉は発さなかった。だがお互いに何をするかはわかった。

 彼と私は歩き出した。階段を降り裏に回る。いつもの暗がりが待っていた。そう感じた。


 ひとつ、ふたつと暗がりに灯りが点る。

 白い煙がたちのぼる。

 2人の呼吸の音がする。


 次に私の声が響く。


「あの」


「はい」


「やっぱりこれ、お返しします」


「そうですか。僕としては差し上げてしまっても全く構わなかったのですが」


「ありがたいお言葉ですが、やはり貰い物は気が引けますので」


「随分と律儀な方ですね。燃料も切れかけている安ライターなのに。けどわかりました。では返していただきます」


彼はそう言って左手を差し出した。

私はすかさず借りたライターを右手に取り、手渡した。


「すみません。ありがとうございました」


 彼はライターを受け取って、ポケットにそれをしまうと思い出したかのようにこう言った。


「いえいえ。でもひとつだけ」


「……なんでしょう?」


「ライターは返していただきましたが、火そのものは返してもらっていません」


「そ、それは」


言葉に詰まった。まさかそれを気にするとは思ってなかった。なんだこの人? やけに細かくないか?

 私が口ごもっているのを見るや、彼は私を見る目を細めた。

 そして静かに口角が上がる。

 悪魔のように美しい笑みだった。

 

「だから」


「僕が火を忘れたとき、火、貸してくださいね」


 彼と私に貸し借りの関係ができた。

 これが彼との始まりだった。


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