接近
はぁ、憂鬱だ。
今日はいつもの素敵な二限の講義の日である。
逃げるように喫煙所を去ったあの日から一週間。
彼と顔を合わせるのが億劫で仕方なく、あのお気に入りの喫煙所を避けてきた。彼とはあの喫煙所で出会すことが殆どであったから、別の喫煙所を利用していたこの一週間は彼と遭遇せずに済んだ。
だが今日は彼も受講するあの講義の日だ。講義前後は別の喫煙所を使うことで彼との遭遇を防げるだろうが、講義室での遭遇は可能性を排除しきれないだろう。さすがに隣の席になるなんてことは無いと思うが、講義室の出入りの際にばったり鉢合わせるとか、目が合ってしまう確率はこれまでの一週間の日々よりは高くなるはずだ。それだけでも私にとっては考えたくもないシチュエーションだ。
全く、どうして私がこんな悶々と悩ましい思いをしなければならないのか。
なぜあんな訳の分からないことを急に口走ったのか。理解に苦しむ。
大体、彼と私の関係はほぼ他人じゃないか。喫煙所でよく会うだけの人でしかなかったはずだ。それなのになんであんな……浮ついた言葉を…………
素敵なお顔ですよ
そういう初心なところも可愛いですけどね
あの時の言葉が頭に響く。
この一週間、何度となく思い出された彼の言葉。
行動では彼を避けているというのに、意識の上では彼を何度となく呼び起こしてしまっている。
いや、彼を求めているのではない。断じて違う。だってほぼ他人じゃないか。そういうのに発展するような親密な仲じゃない。大して会話をした訳じゃない。もしそれでそういうのだとしたら些か節操がないのではないかね私。だから違う。私はそれほど軽くない。きっと異性から言われ慣れてない言葉を言われた、という状況に困惑しているだけだ。そう。きっとそう。……しかし、いくら言われ慣れていないとはいえ、たかだか一言二言でこんなに浮き足立つなんて、ちょっと他愛なさすぎやしないか私。
そんなことを独り考えながら歩いていたらいつの間にか講義室のある棟の前に着いていた。腕時計を見た。いつもより早く着いている。いつもとは違う喫煙所に行くために早めに家を出たから、目論見通りと言えば目論見通りである。この棟に最も近い喫煙所はいつもの階段下の喫煙所だが、二番目に近い喫煙所はこの棟の前をさらに奥に進み三分ほどまっすぐ歩いた所にある。
さて、少し遠いけど優雅な一服のためにもう少し歩くか……
そう思って腕時計から目線をあげた。
講義室へ繋がる階段に見覚えのある人物が腰かけていた。
彼だった。
――――――――――――
いつもの喫煙所。階段の下の暗がりの中で2つの蛍火が点っている。
彼は少し深めの呼吸をしてから、私に問いかけてきた。
「酷いですね。逃げようとしなくてもいいじゃないですか」
「…………」
「この前も逃げられちゃったし」
「…………」
「嫌われるようなこと、しちゃいましたか」
「…………」
困った。顔が見られない。口が渇いて上手く言葉が出せない。
階段に腰掛ける彼と目が合った瞬間、私の心臓は急にリズムを早めた。一方で、全身は固まって動けなくなってしまった。
彼はと言えば、あの悪魔じみた笑みを私に向け、その後すぐにいつもの喫煙所に向かって歩いていった。私に手招きしながら。
私は動かぬ体で目線のみが彼を追ったが、同時にどうしたら良いかわからなくなっていた。
無視して別の喫煙所に行くか……?いや、流石にそれは感じが悪すぎるかな……いやでも近くにいるのもなんか気まずいし…………
そんな葛藤がぐるぐると頭を駆け巡っていた。
答えも出せずに立ちつくす私。
そこへ彼の一言。
「おいで」
私の足は彼の元へと向かっていたのだった。
「お返事いただけませんか」
「……嫌いってわけではないです」
「そうですか。なら良かったです」
「…………はぁ………」
「せっかくの煙草友達ですから」
「…………煙草……友達?」
思わず聞き返してしまった。
なんだそれ。普通の友達もあんまりできたことないのに、妙な枕詞のついたものを出されても。
「そう、煙草友達。一緒に煙草を吸う友達です。喫煙者にとって逆風のこのご時世で非常に貴重な存在ですよ」
「たしかにこの喫煙所にいるのは専ら貴方と私くらいではありますが……」
これは事実だ。この喫煙所で見かける喫煙者はそれほど多くない。繰り返す増税による値上がりは貧乏学生にとっては大きな負担だろうし、吸える場所もどんどんと減っている。おまけにクサイとくれば、このご時世において煙草は魅力的に映らないものの代表格の1つだろう。
「でしょう? 僕の交友関係においても煙草を吸うのは僕だけなんですから。誰も喫煙所についてきてくれやしない。だから一緒に煙草を吸える貴方は僕にとっての初めての煙草友達。貴重なんです」
……初めて。その言葉に戸惑いと言いようのない嬉しさを覚えた。
私にとって友人は非常に稀有な存在だが、彼にとっても――煙草という枕詞が付いているが――私は貴重な友人であるという。特別な関係性が築かれたような気がした。
「だから。これからもこうして喫煙所で会って、一緒に煙草を吸えると良いですね」
「…………そう……ですね」
否定できなかった。ライターの貸し借りですら重荷に感じていたはずなのに。つい先程まで顔を合わせるのも億劫に感じていたのにはずなのに。不思議と彼の言うことは否定できない。どうしてだろう。自分の急激な変化に戸惑いを隠せない。でも何がどうしてこうなっているのか?
わからない。
先に感じた特別な関係性のようなものの所為だろうか。
「いけない。もうすぐ講義が始まってしまう」
「えっ、あっ、本当だ、もうこんな時間」
知らぬ間に講義の開始時刻が迫っていた。
彼と私、二人とも急いで煙草を灰皿に押し付けて揉み消した。そして喫煙所を出て、階段を登った。
講義室に入る瞬間、彼が囁くように言った。
「講義が終わったらまたあの喫煙所で」
「……はい」
いつも退屈な講義であるが、今日は余計に時間の経つのが遅く感じた。
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