変化
それからも彼とよく会った。
だからといって談笑を楽しむような間柄になった訳ではない。火の借りも返せていない。貸す機会が無かった。ライターの燃料が切れかけていることすら無かった。
彼と遭遇するのは決まってこの喫煙所だ。ここ以外では不思議と出会すことがない。そして彼はいつも私の後に喫煙所に入ってくる。
喫煙所に入ると彼は決まって私を一瞥し、少し首を傾げる。そして私の目の前に立つ灰皿の左側に陣取る。
会話はない。一瞥をくれる際に目が合うだけだ。
吸い終わるのはいつも彼が先だ。
火種の根元を折るようにして灰皿に煙草を擦り付ける。火種が灰皿の水にジュッと落ちる音を聞いてから、フィルターを灰皿に落とす。
そして私にひらりと左手を振って去って行く。あの悪魔じみた笑みを浮かべて。
その度に私の心臓はドキリとする。意地の悪そうなあの笑みに当てられているのか知らないが。そしてじわじわと腹が立ってくる。いつになったら借りを返せるのかと。いつまでも借りっぱなし。非常にバツが悪く感じる。早く返させてほしい。
今にして思えばあれはもはや呪いの言葉だ。あの一言のせいで私はいつまでも自身の借りを思い出さずにいられない。彼のあの一言が私に借りの意識を植え付けたのだ。
人によってはそんなもの、取るに足らない戯言にしか思わないかもしれない。気にしすぎと一蹴するかもしれない。
だけど私には楔のように刺さってしまったのだ。
強烈に刺さって抜けそうにない。
はぁ。
溜め息が出た。苛立ちは煙草の味を曇らせた。吸った気がしなかった。それなのに火種はフィルター近くまで迫っていた。もったいない、そう思いながら灰皿に煙草を擦り付けてもみ消した。
二本目を吸う時間は無かった。そろそろ講義が始まる。
「今日の講義は刺さる内容かしらね」
ひとこと呟き、喫煙所をあとにした。
――――――――――――
刺さらなかった。
いつも通りするりと時間が過ぎて言った。
トゲが無さすぎる。灰汁も無ければ毒もない。刺激が皆無だ。流石にもう少しくらいは聞き手を意識した方が良いのではなかろうか。
なんて生意気なことを考えながら階段を降り、いつもの暗がりに入り込んだ。
煙草を取り出し、口に咥える。
左手を煙草の先端にかざし、右手に握ったライターを近づける。
石を擦った。火花が散る。火はつかない。
…………まさか……な。
もう一度石を擦る。火花が散るのみだ。
待て。落ち着け。燃料はほんのわずかだか入っているのが見える。大丈夫だ。着くに決まっている。落ち着け。
再度石を降った。火花が散り、火がついた。少し遅れて煙草から煙が出る。
良かった……。
言いも言われぬ焦燥感から解放された瞬間だった。
「おや、着いたのですね。残念」
聴いたことのある声がした。
彼だった。
彼に見られていた。来ていることに気付かなかった。
いや、彼が来るだろうことは予想していた。だからこそ火の着かないことに焦った節がある。
「人の不幸がそれほど面白いですか」
嫌味たっぷりに言ってみる。
「そんなそんな。また貸しができるかもなと思っただけですよ」
貸し。冗談じゃない。
「それは危なかった。まだ前の借りを返せてもいないのに、また借りるなんて借金まみれもいいところです」
「借"金"ではないですけどね……。というか、火の借りのこと、そんなに重く捉えていたのですか」
この男…………自ら発した言葉で人の意識を絡めとっておいてなんて言い草だ……。
ふつふつと湧く憎々しい感情が隠せない。思わず睨みつけるように彼を見てしまった。
「おお、怖い。そんな表情もできるのですね」
「はて、なんのことでしょう。いつも通りの顔ですが」
「ええ、素敵なお顔ですよ」
固まった。耳を疑った。
ここには二人しかいないのに、自分に向けられた言葉だと理解するのに時間がかかった。
口に咥えていた煙草を落としそうになった。すんでのところで口をつむぎ煙草の落下を阻止するが、代わりに右手に握ったライターが滑り落ちそうになった。
落とすまいと何度かお手玉した挙げ句、結局ライターは地面に衝突し、二度三度バウンドして、彼の足元に転がっていった。
それを見た彼はひょいとライターを拾い上げた。
「そんなに慌てなくても」
「違っ」
「人間らしいところもあるのですね」
「だから違っ…」
そこにはまたあの笑顔があった。悪魔のように美しい笑み。それを目にした途端、その後に発しようとした言葉を忘れてしまった。
絶対に気付いている。今晒した醜態が彼の言葉に動揺した結果であるということを。不覚にも覚えた胸の高鳴りを見透かされていると思うと、身悶えしそうだった。
「せっかくなので火、お借りしますね。これでチャラだ」
「…………はい」
彼の煙草に火が点る。白い煙がたちのぼる。
「ありがとうございます」
彼は礼を述べると共にライターを右手で差し出した。
「いえ、どういたしまして」
左手でそれを受け取り、鞄にしまった。
鞄から視線をあげると彼と目が合った。何か言いたげだ。
もうやめてくれ。これ以上なにを……。
「ところで」
「はい」
「顔、赤いですよ」
「きっ、気のせいでは?」
「ふーん」
たしかに顔は熱い。こちらの動揺を見透かされたと悟ったときから。意識しないようにしていた。懸命に。だのに、指摘されたら余計熱くなった気がする。身体まで。変な汗まで出てきたような……。
「そういう初心なところも可愛いですけどね」
「……ふっ、ふざけないで」
限界だった。裏返った声で発した。その後はもうそこに居ることすらままならなかった。
咥えていた煙草を直ぐさま灰皿に押付けて揉み消し、逃げるように暗がりを抜け出した。
「あっ」
彼の声がした。振り向けなかった。
かつてないほどの早歩きで校門を目指した。
日差しが暑い。心拍数が上がる。身体も火照り、汗が出てきた。
しかしこれが早歩きによるものだけではないとわかっている。
初めて異性から向けられたあの言葉。
先程からずっと頭の中を巡っている。
どうしようもなく意識してしまっている。
この事実は否定のしようがない。
いや、なに、普段言われ慣れていない言葉を急に言われたから動揺しているだけだ。
気にしない気にしない。
何より、火の貸し借りはチャラになったのだ。今後はあそこで煙草を吸う度に妙な義務感を覚えなくて済むのだ。それを喜ぼうじゃないか。
このときの自分はそう自らの心に言い聞かせるのだった。
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