くゆる煙のその先に

山橋 雪

きっかけ



 きっかけは覚えていない。

 会話に詰まった時の間のつなぎとか、1人になりたい時になにかと便利だった。それが煙草を吸い始めた頃の感想だ。美味いとか美味くないとかはよく分からなかった。

 それでも毎日吸っていれば習慣になるものだ。人はこれをニコチン中毒と言うのだろう。


 今日は二限の講義のために大学に出てきた。今日の講義はこれだけ。出席し、聞いているだけで単位が取れる素敵な講義だ。課題とかレポートもなければ、講義中に当てられることもない、教授が淡々と話し続ける講義だ。

 聞くだけの講義となると代筆を頼む輩もいるが、私には代筆を頼めるような友がいない。というか代筆を頼んで何になると言うのだ。確かに一般的に見て華のある面白い類の話が聞けるわけではないが、為にならない訳ではない。刺さる人には刺さる話の内容だ……とは思う。私にもまだ刺さってないけれど。


 講義室のある棟まで着いた。講義の開始時刻まではまだ少し余裕がある。喫煙所で一服しよう。

 講義室へ上がる外階段の下、常に日陰のその場所に喫煙所はある。階段のすぐ下だから、階段を登る人に煙がかかりそうなものだが…………今のところ特に不満を持った人はいないようだ。不満が上がればすぐにでも撤去されてもおかしくないご時世のなか、ありがたい限りだ。私としてはこの喫煙所が最も居心地が良い。


 鞄から煙草を取り出し口に咥えつつ、ライターを右手に握り、左手を風よけの要領で煙草の先端にかざし、ライターの石を擦った。


 着かない。もう一度。着かない。

 何度やっても火花が出るだけで火は着かなかった。燃料切れだ。迂闊だった。昨日の夜は覚えていたのに、ライターを買わなければならないと。というか朝はどうしたっけ?ああ、台所に置いてあった別のライター達を使ったんだ。何度も何度も石を擦って着かなければ他のに変えて、それでやっと着けたんだった。だったらせめてそれを持ってこいよ私。

 ここからコンビニは少し遠い。片道十分弱はかかるだろう。コンビニに行ってライターを買って戻ってきたら講義は既に始まってしまっているだろう。出欠もきっと取り終わっているはずだ。しょうがない、我慢してこのまま講義を受けるか。講義が終わってから存分に吸おう。


 そう自分に言い聞かせて煙草をしまおうとした。

 視界の端に人が写った。

 それが彼だった。

 喫煙所の隅、灰皿から1~2m離れたところで、静かに煙をくゆらせていた。


 顔は知っていた。よくこの喫煙所で目にしたからだ。整った顔立ちをしている。他意はない。好意も何も無い。よく見るから顔を覚えているだけ、どこの科で何をしている人なのかは知らない。時々友人と思しき人と一緒にいる姿も見かけるが、その友人たちのことも知らない。

 住む世界の違う人。偶々同じくこの喫煙所を利用する人。それくらいの印象だった。


 煙と共に深く息をする彼を見ていたら、珍しい気持ちが沸いた。


「すみません、火を貸していただけませんか」

 自分でも驚いた。普段なら絶対言わない。人生で初めて言った。こういうのを気の迷いと言うのかもしれない。けど全く知らない別世界の人だから、今後の関わりもないだろうと思えたからこそ、声をかけられたのかもしれない。中途半端に知り合いになってしまうとその後が面倒だから。



 一瞬の間、少し目を見開いたあと、


「はい」


と言って彼はライターを渡してくれた。

 いたって普通の100円ライター、中の燃料もそれほど残っておらず、私のライターとさして変わらない程度に火は着きにくかった。


「ありがとうございます」


ライターを返そうとした。


「良ければそれは差し上げますよ、もうひとつ持っているので」


「いえ、流石にいただく訳には」


「でもこの講義の後にもまた吸うでしょう?」


「え?いや、まぁ、たしかにそうですが……」


「じゃあ持っていてください」


「はぁ……。ではお言葉に甘えてありがたく頂戴します。ありがとうございます」


「いえいえ、お気になさらず」


いただいてしまった。たしかに助かる。講義の後も吸いたかったから。コンビニに行ってライターを買ってからでも十分だったけど、吸いたい時にいつでもすぐ吸えるという状況は心のゆとりが違う。


 しかしどうして私がこの後講義に出ることを知っていたのだろう。いまはちょうど一限の終わる時間。この後この棟で行われる講義は私が出ようとしている講義だけ。この棟のこの喫煙所にいるだけでは次の講義に出るかはわからないはずだ。言わば出るか出ないかの丁半博打だ。カマでもかけたのだろうか。いやなんのためのカマ?

 私が煙をふかしながら悶々とそんなことを考えていると、彼は颯爽と喫煙所を出ていった。


「それじゃ」


とだけ言って。

あっ、と言葉が出ないうちに彼は行ってしまった。


 しんと静まり返った喫煙所。もともとうるさい場所ではないが、私だけ残された喫煙所は厭に静かに感じた。


 私は3分の1ほど残った煙草を揉み消して講義に向かった。


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