黒百合晩夏

緑山陽咲

黒百合晩夏

 地方に一件、ポツンと建つその遊園地が潰れてから、勤務中の実働時間が明らかに減った。


 最寄り駅からバスで一時間ほど、山間の遊園地──地方の草臥れた遊園地だと笑ってはいたが、いざ潰れてしまうと笑う事もできなくなっていた。子供もほとんど見なくなったし、町全体の活気も磨り減るように無くなっていく。子供の頃からこの町で生きてきた人間としては、過疎の一途を辿る故郷の姿を見ると胸に苦しいものを覚えてしまう。


 そんな町でタクシードライバーに仕事が回ってくるのかと言えば、答えは否である。平日の昼間ともなれば客は全くと言って良い程に来ない──だから少し気を抜いていた。蝉時雨にゆっくりと浸っていた。後部座席の窓をノックされるまで、彼が来た事に気が付かなかった。


 彼は花を手に持った青年であった。


「すいませんね、この時間だとお客さんも少なくて」


「いえ──鳴澄高原遊園地まで、お願いできますか」


「鳴澄高原遊園地ですか」


 少し、面食らう。最近はこういう客も少なくなってきていたが。


 時々、あの遊園地が潰れた事を知らずに鳴澄まで来る観光客がいる。とは言っても本当に時々だし、その大半はネットで調べるという習慣の無い高齢者であった。だから目の前の若者がそういう勘違いをしているというのは、どうにも違和感がある。


「お客さん、あの遊園地は──」


「潰れている、でしょう?承知しています」


「なるほど」


 やはり、何かしらの事情はあったらしい。


 彼はスーツケースも持っていたから、墓参りか何かを兼ねての帰省で、実家近くの目立つ場所を言っただけだと考えれば納得もいく。


 シートベルトを締め、アクセルを踏む。ルームミラーを覗いてみると、彼は窓から外を眺めていた。その視線はどうにも現実の世界を見ていないような気がして、不気味さを感じてしまった私はいつの間にか目を逸らしていた。




 その花は黒百合という。彼の腕の中に抱かれた黒の花。


 夏に花を咲かせる高山植物。その毒々しげな様相と、反面愛らしさすら感じさせる名前で一定の知名度を持つ。


 独特な悪臭を放つ事でも有名なはずだが──香りの強い咲きたてを避けたのだろうか。不思議と、後部座席からそのような匂いは香ってこなかった。


 墓前に供えるにしても贈り物にしても、あまり明るい意味を持つ花ではない。何故その花を選んだのか、と疑問に思わないではなかったが、青年の姿を見ていると不思議と納得させられてしまうようなところがあった。


 彼は陰気な青年であった。二十代後半に差し掛かった頃であろうか。刺々しい若さを捨て大人としての慎みを覚えたのだと言えば聞こえは良いが、そう評するにはどこか不安定さを感じさせるような。それは最早、鬱屈と言える程度であったかもしれない。


 木陰の中を抜けていく。塗装が剥げ、錆びついた金属製の柵の並び。間もなく、遊園地の入出場ゲートが見えてくる。


 煩わしく思っていた陽気なメロディーも、聞こえなくなって久しい。


「お客さん、こちらで良いですか」


「はい、ありがとうございます」


「運賃がね、六千円になります」


 青年の出した札と引き換えるように、一枚の名刺を差し出す。


「──岩堀さん、ですか」


「ええ。いつも鳴澄駅の周辺にいますし、客もそう来ないですからいつでも連絡して頂いて構いません。病で妻を亡くして以来、花を育てるぐらいしかやる事も無いんです」


 上手く笑えていただろうか。彼に少しでも寄り添えたならと、思ったのだが。


 彼は微笑みながら、「ありがとうございます」と言った。笑ってみれば気づくが、中々綺麗な顔をしている。


「大切な人に、会いに来たんです」


 不器用な気遣いの礼だろうか。彼はそう言葉を残して、タクシーを降りた。




 来た道を引き返す。駅に向かう中で考える。それは鳴澄の山にも咲く花だから、一度調べた事があった。


 青年は、花束を抱えていた。私は、その花の名前を知っている。黒百合。花言葉は確か──。


 ──恋と呪い。



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 避暑地として知られている鳴澄もその日の気温は三十度を超えており、照り付ける強い日差しもあって、登山は存外に過酷なものとなっていた。


 うだるような暑さと一人で抱えるには多すぎる荷物。眠気にも近しい。単調な風景の中、意識は微かにぼやけつつある。一つしか無い足音が、二つに重なって聞こえる。


 ──否、それは事実として二つあった。僕のそれよりも幾分小さく、連続した足音が僕を追い越した。


「ねえ、瀬那」


 名前を呼ばれる。顔を上げ、眉を顰めている彼女と相対した。


「なに、紗希」


「今日、鳴澄遊園地休みなの?」


 遊園地が静かなら子供でも違和感を覚えるものか。でも紗希は利発な子だから、気づかないという方がおかしいかもしれない。


「そうだよ」


「えー!じゃあ何で今日鳴澄来たの」


「うーん、キャンプでも」


 言いながら、紗希とは反対方向に──生い茂る森の方向へ、視線を向ける。丁度、探していた林道の前まで歩いてきたところであった。もう使われていないのかある程度草木が茂っていて、林道というよりはむしろ獣道という方が近いかもしれない。


「こんな道歩きたくない」


「駄々捏ねるなよ、置いてくぞ」


「良いよ別に」


 言葉は強気であるが、いずれにせよ彼女は僕に着いてくるだろう。彼女は確かに強い子であるが、山中に一人で置いていかれて平気なほど強くはない。


 捲っていた袖を直して、飛び出した枝葉をかき分けるように進む。噎せ返るような森の匂いが嗅覚を支配した。


 途中で振り返ると、紗希はしっかりと後ろを着いてきていた。随分草葉の濃い道ではあるのだが、彼女の身体には傷も、汚れ一つだって見当たりはしない。


「なに」と不服そうに彼女が言うので、「いや」とだけ返してまた前を向いた。きっと、僕の思い通りになってしまったのが気に食わないのだろう。こういうところはやはり小学生らしい。


 そのまましばらく歩くと、枝葉の隙間に明るい光が見え始めた。光の方へ歩き続けると、そこには四方三、四メートルほどの野原がある。林道の終着点であるから、何かしらの人的作業の跡地なのだろう。最も、林道を覆う濃密な草木と、原っぱの外周にある低木からして、使われなくなって久しい事は確かであろうが。


「瀬那って性格悪いよね」


 到着するなり彼女はそう言って、目を合わせてくれなくなった。随分とお冠のようだが、彼女はこれで割り切りの良い性格をしているから、昼頃になればまた話をしてくれるようになるだろう。


 野原だというのは山中の森の中ではという話であって、テントを張って時間を過ごすのに些か不快な程度には背の高い草も生えている。スーツケースから軍手を取り出す。


 こうして実際にこの場に来てみて、存外活動的な自分に驚いた。もう少し、ぼんやりと時間を過ごすものと思っていたが。実感が無いのか、恐怖を感じないのか。


 ふと、紗希の方を見る。視線に気づいた彼女は、咎めるように僕の名前を呼んだ。


「早くしてよ、瀬那」


 耳に馴染んだ彼女の幼い声。その声が僕の名前を呼ぶ度に、くすぐったいような悦びが身体の芯を震わせる。


「もうすぐだから待ってて」



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 彼女と初めて出会った時の事は、よく覚えていない。クラスが一緒になったのは小学三年生の時だったか。少なくとも初めて彼女を認識した時は、僕と彼女はただのクラスメイト同士でしかなかった。だけれど僕らはよく気が合って、時間と共に自然と距離も縮まっていった。


 お互いに人付き合いは悪くなかったが、特にこれといって仲の良い友人もいなかった。僕たちは同級生の中では比較的ませている方であったから、普段から友人の話についていけないようなところがあった。だから話の合う同年代というのは珍しく、僕らは二人で多くの時間を過ごす事となった。小学生の男女があまり親密にしているとからかわれたりもするものだが、不思議と嫌な気分にはならなかった。


 五年生になるとクラス替えがあった。僕と紗希は同じクラスにはなれなかった。

 新しいクラスに馴染む事自体は人並みにできたし、学校生活も楽しめてはいた。違うクラスになったからといって紗希との交流が無くなった訳でもない。客観的に見て、僕の日々は充実していた。


 しかしもどかしいような、判然としないような、満ち足りないような。そんな感覚を覚えるようになったのも、その頃からだった。




「遊園地に、行こう?」


 大人にも物怖じせず堂々と喋る彼女が、どうにも態度がはっきりとしない。声をかけられたのは小学五年生、一学期の終業式の事だ。


 場所の名前自体は聞き覚えがある、という程度のものであった。ディズニーリゾートであるとか、USJであるとか、皆の知っているようなテーマパークではない。でも僕はそれでも、紗希と二人でどこかに出かけられるというだけで良かった。嬉しいと思うよりも先に、紗希が僕をまだ不要としていないのだという事に酷く安堵していた。


 親無しの遠出というのも初めてだった。紗希と二人で、というのは少し気恥ずかしかったけれど、それ以上の幸福感がその日一日を支配していた。満ち足りなかったものが満ち足りたような。だけれどその何かの正体には、僕はまだ気づけていなかった。




 君は、その花を「綺麗だね」と言って、しばらく見つめた。


 僕は、その花の名前を知らなかった。夏の日照りに、黒く咲き誇る幾輪の花。鼻を衝く匂いが、辺りに漂う。


 後に彼女から聞いたのだが、その花は黒百合というらしい。愛らしい名前に反しどこか醜悪さすら感じさせる花を、君は食い入るように見つめた。


 僕にはまだ、その花の美しさが分からない。だけれども、君のその恋に落ちたかのような横顔を見て。


 君が綺麗と言うのなら、きっと、その花は綺麗なのだろう。


 そう、切に感じた。




 また、知らない感情が満ち足りていく。



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 悶々とした感情が積み重なっていく。紗希と同じ中学になっても日々は変わらず、中学を卒業するまで彼女は遊園地に誘ってきて、そしてまた、晩夏の帰りに黒百合を見る。


 中学生活は何事も無く終わった。漠然と紗希と同じ高校に行きたいとは思っていたものの、机に向かうだけの熱意は湧かず、紗希は隣の市の進学校に、僕は地元の平凡な公立高校に進学した。


 それまでと同じだ。紗希がいなくとも学校生活は楽しかったし、同級生ともつつがなく付き合えていた。


 どうしようもない苦しみを覚えるようになったのはいつからだろうか。小学生の頃から続く不満感。もどかしく、歯痒い──誰が僕を満たしてくれるのか、幾年の中で僕は既に分かっていた。




 久しぶりに紗希と会った。メイクを覚え、ヘアセットをして、彼女は高校生活の中でいつの間にか大人になってしまったようであった。薄紅色の感情が、差し込むように心に芽生える。


 ゆっくりと、その高鳴りを噛み締めた。名前の知らなかった感情。なるほどと、その感情を咀嚼してやっと、僕は初めて自覚した。


 その感情を表す言葉を、「恋」以外に僕は知らない。



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 草むしりとテントの設営は思っていたよりもすぐに終わった。フルメッシュである為にある程度涼しいテントの中では、葉の擦れる音と蝉の甲高い鳴き声、それに本のページの繰られる音だけが響いている。


 紗希は紺のスカートから覗いた足を、テントに敷いたマットに暇そうに投げ出している。懐かしい、だけれど最近は見慣れてしまった中学時代の制服。勉強はできたが本を読む子ではなかった。女子中学生が楽しめそうなものなんてこのテントには無いから、彼女がそんな様子でいるのも当然の事と言えば当然の事かもしれない。


「最初からキャンプやるつもりだったの?」


「まあね」


「家出る時は遊園地行くみたいな顔してさ」


「悪い」


 まだ機嫌は直っていないようで、言葉には若干の棘があった。気を遣って差し障りの無い返答を選んだつもりであるが、紗希としてはそれが却って退屈であったらしく、溜め息の音が一つ聞こえてくる。


 ──時間の経つのは早いもので、いつの間にか時間帯は昼過ぎになっていた。


「お腹空いた」


「そうだな」


 適当な返事しか返ってこないのに痺れを切らしたか、スーツケースを勝手に漁り始める。紗希は頭が良いから中身を見ればここに来た意図もおおよそ理解できるだろうが、彼女は何も言わなかった。幽霊にとって、それはただの一飯にも及ばない程の些事なのだろう。例え彼女が幻想であったとしても、僕の深層心理が生み出しているのならば最終的には止めはしまい。


「食べ物無いじゃん」


「そうだな」


「即身仏にでもなるつもり?」


「まさか」


 開いていた本を閉じ、立ち上がる。しおりを挟む必要は、もう無いだろう。


 紗希の横にしゃがみ込む。少し散らかったスーツケースの中には、一切の食糧が無かった。テントとその設営器具を出してしまえば、後の荷物はわずかばかりしか残らない。


 ゆっくりと、緩慢に伸ばされた手は、ざらりとしたそれに触れる。心臓が一拍、その存在を主張するように大きく高鳴る。息が速まり、手が震え、肉体が抵抗しているのを感じる。


 紗希の方を見た。彼女はそんな風にしている僕の顔を、何の感慨も無く真顔で見つめているのみであった。



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 告白というものは存外に淡白で簡素なものである。大学生にもなればお互いがお互いをどう思っているかなんてうっすらと分かっているものだから、恋人同士になるまでの時間は短かったし、そのハードルも低かった。


 彼女が僕にどんな感情を向けているか、若干の不安感があった事は否めないが、実際に聞いてみれば小学生の頃から想いを寄せてくれていたらしく、毎年遊園地に誘ってくれた事にもある程度の含みはあったらしい。


 大学一年生の夏休み、僕の告白によって、僕らは交際を始めた。


 元々の性格の相性が良かった事もあり、恋人としての生活は幸せに満ちていた。毎年の遊園地も変わらず、変わったのは、帰り道に手を繋ぐようになったという点だけであって。


 緩慢に時は流れていく。人並みに喧嘩もしたし、互いの全てが好きというほど盲目的な恋をしている訳でもなかった。だけれど、そこには確かに愛があった。きっと、このまま社会人になっても共に時間を過ごし、いつかプロポーズをしてこの人と結婚するのだろうと。ごく漠然と、そんな事を考えていた。


 そんな事には、ならなかった。



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 大学四年生の、冬。


 大学を卒業したら同棲しようと、夏頃から話し合っていた。紗希は一人暮らしだけれど彼女の部屋は二人で暮らすには狭すぎたし、僕は実家暮らしであったから新しく物件を探していた。年が明ける頃にはもう物件も決まっていて、付き合いも古い互いの両親が最初は家賃を出してくれるという話で、二月には引っ越しが終わる予定だった。


 多分、この頃が人生で最も幸せな時期であっただろう。お互いおおよそ希望した会社から内定を貰えていたし、紗希との付き合いも順調に進んでいた。同棲を決めた際に紗希の御両親には挨拶に伺ったし、社会人二年目になる頃にはプロポーズをしても良いかもしれない、なんて事も漠然と考えていた。


 肌を突き刺すような冬の風が吹きすさむ。迎えに行くと言ったのは、僕だった。最後に彼女の部屋を訪れておきたいという気持ちもあったし、どうせならエスコートしてあげたいという気持ちも若干だがあった。ロマンチストと言われれば、そうなのかもしれない。


 革靴がコンクリートを叩く音が聞こえる。腕が痺れるようなスーツケースの荷重と共に、アルミニウムの階段を登る。コートの下は少し蒸れていて、息苦しさを覚えながら吸う息は酷く冷たく、痛烈に意識を覚醒させる。覚えている、全ての感覚を。或いは、忘れられないと表するのが正確か。


 彼女の部屋の前に着くと、息を整えてインターホンを押した。ドアの向こう、呼び鈴の音は確かに聞こえてきたけれど、いつもは聞こえる紗希の足音が聞こえてこない。いつもならドタバタと、少し慌ただしい彼女らしく音を立てながら出てきて、出迎えてくれるのに。


 何だか微かな不安が頭の中をよぎった。もう一度インターホンを押す。結果は変わらない。連絡は先にしているはずだ。時間が早すぎるという事も無い。体調不良で倒れている可能性を、考えてみる。考えてみれば、その可能性しか無いように思える。


 押し寄せるような不安感に、こじ開けたバッグから部屋の合鍵を取り出す。許可を貰っているとは言え一人で入るのは何だか申し訳なくて使ってこなかったが、そんな事を言っている訳にもいかないだろう。鞄に入れるのももどかしく手袋を床に脱ぎ捨て、鍵穴に捻じ込むように鍵を差し込む。開錠音が聞こえた。ドアを開ける。


 ドアの向こうには明かりが点いておらず、空気は冷たく静かであった。息も白むこんな真冬に、暖房を点けていない。仮にちょっと外出しているだけというならば、まだ暖かさは残っているはずだ。嫌な予感に、自然と足は急いて歩みを進める。


 玄関前にあるトイレと風呂をそれぞれ見てみるが、紗希はいない。紗希の家は居間と寝室の二部屋の構成になっているが、やはりどちらの部屋にも彼女はいなかった。かと言って部屋が荒らされたような形跡もなく、緊急性はあまり感じられない。


 全ての部屋を回る頃には思考も落ち着いてきていて、後には疑問と不安だけが残った。特段、喧嘩をしていた訳でもなかったし、昨日には同棲が楽しみだと通話でも話していた。気分屋な子ではあるが、度が過ぎるほど破天荒な事をする子でもない。


 体調不良の可能性しか考えていなかっただけに、他に考えられる理由がパッとは思い浮かばなかった。もしかしたら僕のこんな性格が嫌になったとか、そんな理由もあるかもしれないが、少なくともその時の僕は何らかの事件に巻き込まれたのだろうという結論しか出す事ができずに、警察に電話をかける事にした。


 彼女の両親にも電話をしてみたが、彼らもまた何も知らないようであった。家具や小物はほとんどが新居に送られているから、実際、住居を変えたという事はないのだろう。やはり、何か不安感を煽られるような状況であった。


 十分程すると警察が来て、事情聴取という形で僕は警察署に連れていかれた。何か疑われているのかもしれないと思ったし、実際、僕が何か事に関わっている可能性も充分に考えられていただろう。だが、少なくとも警察の人たちは僕に対して優しく接してくれていたし、決して悪意や懐疑心を見せるような事も無かった。




 夜になって、警察から連絡があった。紗希の遺書と見られる手紙が発見されたのだという。紗希の両親が夕方に郵便ポストを開けたところ、紗希名義の手紙が入っていたらしい。


 警察は紗希の捜索に本腰を入れ始めた。どうにも、行方不明者に自殺の疑いがあると判明すると、その人は「特異行方不明者」というものに分類され、警察の捜索対象になるようだ。


 ──だけれど紗希は、いつになっても見つからなかった。警察が関わればすぐに見つかるだろうなんて考えていたが、そういう訳でもないようだ。生きている人間は人間が生きる事のできる場所にしかいないから、ほとんどの場合、警察はすぐに見つけられるのだという。反面、死者はそれ以上痕跡を残さないし、人が立ち入れない場所に死体がある可能性も否めないから、発見の難易度はぐんと上がるようだ。


 生きていてほしいと願っていたけれど、それはいつしか見つかってほしいという願いに変わっていく。そんな思考になっていく自分に失望し、絶望し、虚ろな日々を過ごしながらも、ただ時間だけが過ぎていく。


 気づけば半年の時間が経っていた。紗希の両親からメールが届いたのは、確かその頃であったろうか。



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 紗希の実家を訪れたのは、同棲する際の挨拶に伺って以来であった。既に何度か訪れてはいたものの、流石にかなり緊張していた事をよく覚えている。


 数カ月ぶりに会った紗希の両親はいくらか老け込んでいるように見えた。痛々しいまでの疲弊が手に取ったように伝わってくる。


 夕飯を食べていかないか、と誘われたが、この状態の彼らに自分の夕飯まで用意させる訳にもいかず、最初は断ろうとした。だが、僕を見て紗希を思い出しているのか、或いは手でも動かしていないと気が紛れないのか、縋るような感情がその瞳と声色に見えてしまって、断る事はできなかった。


 話の内容は、予想していたものとある程度一致した内容であった。同棲直前にこんな状況になってしまって申し訳ないだとか、もう紗希の事は忘れて新しい道を歩んで欲しいだとか。紗希の事となると酒が無ければ落ち着いて話もできないという状況であるらしく、紗希の父は泣きながら僕に話をしてくれた。本当に、紗希の事を大切に育ててきたのだろう。




 紗希の父は酔ってから更に度を越して飲むようになり、紗希の母もそれに対して何も言わなかった。これが彼らの日常になってしまったという事なのだろうか。ずきりと、心が痛んだ。


「ごめんなさいね、私この人寝かせてくるから──瀬那君は自由にしててね」


 紗希の母が言う。慣れた手つきで自身の夫を立ち上がらせ、リビングから出ていった。


 ──彼らのそんな様子を見て、少しだけセンチメンタルに陥っていた。もしかしたら僕らも、数十年後は彼らのようになれていたのだろうか。今は痛々しいものの、この家は元々幸せに満ちた空間であったのだ。あの場所は、僕の一つの憧れでもあった。


 だから、僕は紗希が凶行に至った理由を知りたかった。あんなに幸せな家庭で、人生で、何故そんな選択をしてしまえたのか。紗希の遺書はどこかで紗希の両親に見せてもらおうと思っていたが、どうにも彼らはその話をしたがらない。娘の遺書の話をしたくないというのも当然の理由ではあろうが、しかし、彼らの口ぶりからはそれ以上の、何か重々しく、そして苦々しいような感情も感じ取れてしまった。


 遺書を探せる時間は今しか無かった。リビングや一階の部屋を大っぴらに探す訳にもいかない。わずかな時間の間、紗希の遺書を探す事ができる場所なんて、紗希の部屋くらいしかこの家には無かった。


 できるだけ足音のしないよう階段を上がっていく。初めてこの階段を上った日の事を思い出して、そしてもうそんな日々は送れないのだという事も思い出して、階段の軋む度に、心には小さな傷が刻まれる。ひりついた寂しさが、少しだけ動悸を速めていた。


 紗希の部屋は、階段を上ってすぐ、廊下の奥にある。扉には、昔と変わらず「SAKI」と書いてあるプレートがぶら下がっていた。


 ドアノブに手をかける。少しだけ時間を置いて、心を落ち着かせて、捻って、扉を開ける。空気の感触が、一気に変わる。


 ──高校生の頃と同じ、部屋のレイアウト。結局こちらに送られてくる事となった家具類を、彼女のお母さんが配置し直したのだろうか。誰にも使われていない部屋特有の、日に焼けた古い空気の匂いが漂っている。


 目の前、勉強机の一番上にある引き出しを開けてみる。一つの封筒が入っている。存外、簡単に見つかった。


 宛先は書いていない。封筒の表面は真っ白であった。便箋は、一枚。


『未来が不安になりました』


 冒頭はそんな一文から始まった。そこから身辺整理に関して連ね、人生で関わってきた様々な人に感謝を記し、親へのメッセージで最後を〆る。紗希らしく、要点だけを伝えるまとまった内容の文章であった。


 ──一度読み返す。次いで、二度。目を疑った。幾度、紙の上に視線がなぞられていく。


「瀬那君」


 後ろから声が聞こえた。心臓が跳ねる。紗希の母の、声だった。


 振り向く。扉の前に立っている彼女は、痛みを湛えた瞳で僕を見つめていた。


「読んだの? ──いえ、ごめんなさい」


 手に持った便箋を持って、彼女が言った。答えは聞かずとも分かるだろう──視線を合わせる事が、できなかった。


「いや」としか返せなかった。何を言えば良いのか分からないのは向こうも同じだろう。沈黙だけが、そこにはある。


 ──先に耐えられなくなったのは僕の方だった。部屋の外へ歩き出す。入口にいた紗希の母は僕を止めなかったけれど、逡巡の後、振り絞るような声を僕の背中に投げかける。


「私たちは、瀬那君の事は──」


 そこで、声を詰まらせる。何をどう言えば良いのか分からなかったのだろう。聞きたくなかった。言い訳をしている彼女も、言い訳をさせている自分も、醜くて、嫌いだ。


「瀬那君!」


 背中に浴びる悲愴な声は、やはり酷く痛々しい。逃げるように、紗希の実家を出ていった。




 誰もいないバスの中、流れていく住宅街を眺めていた。


 紗希の笑顔と、彼女の両親の声と、今までの彼女との思い出と。全部がぐちゃぐちゃになって、それで崩れ落ちていくような感覚。


 ──紗希の遺書に、僕の名前は無かった。何度探しても、一言だって、僕への言葉は無かった。


 親友への言葉はあった。家族への言葉も、当然ながら。だけれど、彼氏をしていたはずの自分への言葉だけが、抜け落ちたようにその便箋の上には無かった。


『未来が不安になりました』


 何故未来が不安になったのかは、書かれていなかった。だけどそんなのは書かれていないだけで、あれを読めば分かりきった事ではないか。


「そんなの──そんなの」


 受け入れられず、受け止め切れなくて、零れてしまった言葉に嗚咽が混じり込んだ。


 何故、御両親はあんな風に僕を出迎えてくれたのだろう。殴ってでもくれた方が、ずっと気が楽だったのに。


 何故かなんて、知っている。あの優しい老夫婦は、僕を信じてくれていた。あの遺書は、彼女の死は、何かの間違いか紗希の気の迷いであって、僕が悪い訳ではないのだと信じてくれていた。それが、心に棘のように突き刺さって、痛いと胸を掴んでも抜け落ちてはくれない。


 そんなの、僕のせいに決まっているじゃないか。あの遺書は僕への当てつけだ。僕が彼女を殺したのだという、ダイイングメッセージに近しいような。


「あぁ……あ」


 紗希は僕の人生の大半を占めていた。紗希もそうだと思っていた。それは、思い違いに過ぎなかった。


 世界の壊れる音が、聞こえた。



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 実際に流れた時間なんて数分か、せいぜい十数分程度のものだったろう。だけれど過去を思い返していた僕の中では、幾年にも思えるほどの長い時間が経っていた。一番楽しかった頃の記憶。一番、苦しかった頃の──苦しい今に続く、その記憶。


 紗希の薄茶色の瞳が、正面から僕を見つめてくる。感情は読めない。十数年ともう見慣れたはずなのに、胸の高鳴りが抑えられない。


 息遣いが荒くなっている。巻いたロープで、首がかゆい。


「結局、そうなんじゃん」


「紗希は嫌なの?」


「さあ。私ってなんなのか、私にも良く分からないから。答え合わせできるっていう意味では、むしろ楽しみとすら言えるのかもしれないね」


 こんな時だと言うのに、紗希は僕に笑いかけてくれていた。不安にならないようにしてくれているのだろうか。でも、紗希は元々から図太いところがあるから、特段何も考えていないのかもしれない。


「早くしてよ、瀬那」


 声が、聞こえた。僕を待ち侘びる、紗希の声が。汗がどっと吹き溢れてくる。ロープを握る手に汗をじとりと感じている。首にかかったロープの繊維が、皮膚を食い破るように突き刺してくる。痛い。痛みに、生を感じる。笑う。今から喪失する痛みに対する未練を、捨てる。未練を捨てる事に対する恐怖を、捨てる。捨てられない。笑う。感情を無理矢理に、昂らせる。


 笑う。紗希も、笑っていた。震える声で、言う。


「もうすぐだから、待ってて」


 息を詰めた。笑った。心を麻痺させる。行ける。行く。足の力を抜いて。首に覚える荷重が急速に増えていくのを感じて。そうして──



 ────────────────────



「意気地無しなんだ」


「──ごめん」


 紗希の目を見る事ができなかった。憐れむような瞳。余りにも惨めで、仕方が無かった。


 死の感触は、生々しすぎたのだ。一瞬遠のいた意識の中で、反射的に足に力を入れてしまった。若干食い込んだロープで、首筋が痛い。


「どうするの?もっかいやる?」


「──後でにする」


「そっか」


 立ち上がり、テントに戻った。小木に巻き付けたロープをそのままにしているのは、一々片付けるのが面倒だというのもあるけれど、『意気地無し』ではないのだという紗希への分かりやすい反論の意も含まれていた。


 保冷バッグに入れていた缶コーラを開ける。紗希は酒が嫌いだったから、いつの間にか僕も酒を飲まなくなっていた。


 流れ込んだ炭酸が、酩酊していたような意識を覚醒させていく。その冷たさが、心の昂ぶりを抑え込んでいく。


「ずるい。私にもちょうだいよ」


 長い髪をまとめた紗希が、こちらにずいと顔を近づけてきた。缶を掴む手に掌を重ね、僕の握っているままに缶に口をつける。喉の鳴る音。喉の動き。それは何だか、酷く艶めかしい。


 視線が交わる。紗希が僕を見つめてくる。目が、離せなかった。


「ねえ、瀬那」


「なに、紗希」


「黒百合の花言葉って、知ってる?」


 紗希が目線を外し、そして僕の手を放した。テントの隅に置いていた花束から一輪、黒百合を手に持つ。息も詰まるような空気から、ほんの少しだけ解放される。


「『恋』と、『呪い』」


「そう。基本的にはその二つ。『呪い』の方は、戦国武将の妻だった早百合という女性の伝説──黒百合伝説っていうのに由来してる。浮気を疑われて殺された早百合が一族滅亡の呪いを残し、そして早百合の夫であった戦国武将はその通りに潰えていった。性質は違うけど、自分の男に呪いをかけてるって意味じゃ私も同じだね」


 自分を嘲るように笑いながら、彼女はそう言った。


 紗希が、黒百合を僕の目の前に置いた。目を伏せ、言葉を続ける。


「『恋』の、由来」


「知ってるよ」


 差し出された黒百合を手に取る。少しだけ、紗希が顔を上げた。


「アイヌの伝承。想い人の傍に黒百合を置いて、相手がそれを手にすれば、二人はいつの日か結ばれる」


「──正解」


 紗希がまた、顔を近づけてきた。高校生の紗希をこんなに近くに感じた事は無い。まだ若干のあどけなさが残っている顔は、だけれど、大人の顔に変わっていく最中であって。


 吐息すら交わる距離で、二人。視界が、紗希で埋まっていく。


 熱を、感じる。


 絡められた舌の上に微かな甘みを覚える。押し倒され、右手に持っていた缶からコーラが零れていった。


 唇を離す。そのまま、彼女の胸に抱き締められる。暑苦しい。汗が蒸れる。


 感じる。白松紗希を。それは、ただの亡霊に過ぎないのに。


 多幸感を、感じる。息苦しさはそのままに、彼女の胸の中で、泣きながら。



 感じる。



 夏の木陰の清涼感と。


 掌に伝わる缶コーラの冷たさと。


 頭蓋に感じるその君の吐息と。


 眼前に覚えるその君の体温は。


 あぁ、それは、どれだけ心地良いだろうと。



 僕は一人、心晴れやかであったのだ。



 ────────────────────



 僕は理系の学部を出ていたけれど、幽霊や精神世界という、スピリチュアルなものに対しては一定の理解があるつもりだった。


 幽霊を見たと友達が言うならきっと彼は幽霊を見たのだろうし、UFOを見たと上司が言うならきっと実際にUFOはいたのだろうと思っていた。


 とは言え、急にそういうものに出くわしてしまえば、誰だって面食らうだろう。僕も例には漏れなかった。一年前、丁度紗希の実家に行ってすぐ後の頃の話だったろうか。


 ある朝、リビングで小学生の紗希がテレビを見ていた。僕は、精神科の予約を取った。



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 精神科には行ってみたものの、紗希に関する事で受けた精神的ショックによる一時的な幻覚症状であろう、との事で話は終わった。症状が続くようならまた来るようにと言われたが、面倒で初診以来病院には行っていない。病名もつかなかった。


 紗希とは喋る事もできれば、触れ合う事もできる。まるで彼女がそこに生きているかのようで、実際、僕の目からしてみれば紗希は疑いようもなく生きていた。


 だけれど、僕以外の人に対して干渉する事ができない。彼女を認知し、話し、触れる事ができたのは、世界で僕ただ一人だけであった。


 また、彼女は現実に有り得ないほどの成長速度を持ち合わせていた。一日の中で中学生になり、高校生になり、大学生になり、そして朝を迎えるとまた小学生に戻る。間違いなく、彼女は人間などではない。彼女は白松紗希本人などではなく、「紗希のような何か」に過ぎない事は明白であった。


 だけれど、僕にとってそんな事は全く関係の無い事であった。


 そこに紗希がいて、話せて、触れられて、僕にとって彼女が存在している事に変わりは無かった。だから僕は、彼女を家に置く事に決めた。


 最初はいつも通り笑って過ごしていた彼女も、自分が誰にも認識されていないと知ると、日数に比例するように元気を無くしていった。僕が紗希の家から持ち出した黒百合の世話をするか、手慰みに家事をするだけの日常。そして、唯一彼女を認識できる僕を、ひたすらに求めるようになっていく。


「ねえ、瀬那」


 ある夜、寝る前に紗希が声をかけてきた。日々に絶望している事は、誰の目にも──否、少なくとも僕の目には明らかであった。


「なに、紗希」


「一緒に寝よう」


 紗希の瞳は、諦念の色に染まりきっていた。




 ベッドの中で、彼女を抱き締める。時々、胸元が濡れている時がある。愛おしくて、また強く抱き締める。


「好きだよ、瀬那」


 一度、震える声で彼女は言った。生前、ベッドの上でだってそんな事を言うのは稀だったのに。


「ああ」


 歓びを、感じる。全身を突き抜けていくかのような。


「僕も、大好きだよ」


 白松紗希は最早、僕だけのものになっていた。



 ────────────────────



 いつの間にか眠っていたようだ。メッシュ越しとは言え地面で寝るとなるとかなり辛い。若干ついた泥を落とし、関節の痛みに喘ぎながら紗希のいる方を見る。外はすっかり暗くなっていて、すぐそばにあるだろう彼女の顔すらもぼやけてよく見えない。


「おはよう」


 横から声をかけられる。ずっと前に、起きていたのだろうか。


「身体、痛くないの?」


「痛いよ」


「じゃあマット使いなよ」


「でも、瀬那の隣にいたいから」


 真顔でそんな事を言う。気恥ずかしさを覚えながら、紗希を胸に抱き締めた。そんな僕を見て少しだけ笑いながら、彼女もまた抱き返してくる。夏虫の声が響く中、暑苦しいまでの熱が胸の中を覆い尽くす。


 紗希は大学生の頃の姿になっていた。スマホを開くと、「0:58」と時刻が映っている。どうりで身体が怠い。些か寝すぎたか。メッシュのテントの、ファスナーを開けた。


「どこか行くの?」


「ちょっと散歩にでも」


「ここ夜の山だよ。正気?」


「多分正気じゃあ、ないんだろうね」


 夜の闇に目が慣れてきた。振り返り、紗希の瞳を見つめながら言う。君のせいでなんて事は言わないけれど、僕が正気じゃないのは全て君のせいなのだ。そんな事は紗希も分かっているだろう。だけれど、紗希は目を逸らさない。まるで僕が正気ではない事が正しい事であるかのように、当然の顔をして、いつも通りに会話をする。


「遭難したらどうするの?」


「良いんじゃない、それも」


 言いながら、靴を履いて外に出る。暗闇というものは人間に根源的な恐怖を呼び起こす。僕も例外ではないし、だけれど、本能の介在する余地など無いほどに僕は疲弊しきっていた。言うなればそれは、惰性で動くだけの肉の人形に近しい。


 そんな僕の投げやりな態度に少しだけ笑って、紗希は後ろをついてくる。幽霊に、一般の人間が持ち合わせている死への恐怖が存在しないなんて当然だろう。驚きはしない。


 適当に方角の当たりをつけ、草木を掻き分けながら獣道を進んでいく。頬に、腕に、熱が生まれる。恐らく傷の証だろうその熱は、だけれど進む事をやめさせるだけの力は持っていない。


 しばらく、進む。前も後ろも分からない世界を。蝉が、鳥が、獣が。暗い森の中で、まるで僕らを罵るように鳴いている。紗希はどこまでもついてきてくれている。もう、このまま死んでも良いと、本気で思えていた。


 どれだけ、進んだろう。




 ──私ね、考えたの。




 いつからか、紗希が語り始めた。身体が悲鳴を上げ、疲弊に倒れ込みそうな頃に。言葉を返す、余裕は無かった。




 なんで私が、こんな事になってるのか。なんで瀬那が、こんな私を見てるのか。私って、瀬那が知ってるよりずっと、ずっとずっと弱い人間なの。ずっと、醜い人間なの。瀬那が私を愛してくれているのは知ってるよ。多分、私が瀬那を愛しているよりずっと愛してくれている。でもね、私不安だった。君の見ている偶像としての白松紗希が崩れ去った時、君はもう私に興味なんか無くしてしまうんじゃないかって。




 何か、人工物に触れた。柵。遊園地の柵。腐食しているそれは、手でこじ開ければ簡単に開けそうな。




 私が瀬那に依存していたっていうのは──何か、違う気がする。ずっと手にしていたものを失うのが怖いだけなのかもしれない。まあ、どちらにしても愚かで醜い事に変わりは無いよね。私が今こんな事を話しているのも、君に甘えているだけなんだよ。どうせ君は、私がこんな事を言うだけじゃ私の事を嫌いにはならないって知ってるから。というか、嫌いになれない──色々と考えたの。でもね、どんなに愛し合っているカップルでも、終わる時は終わってしまうの。離婚率、三十五パーセントなんだって。離婚とまではいかなくても、何十年も一緒にいたら、きっといつかは嫌になる。十数年、私は私を隠し通したつもりだよ。だけどまた数十年、同じ事をできる自信は無かった。ただ、それだけ。死んじゃえば、瀬那は私を私のまま愛し続けてくれるから。


 ──多分私は、間違えてなんかいなかった。




 こじ開けた柵を越える。草以外の匂いを、久々に感じた。


 しばらく、廃遊園地の中を進む。たまたま倒壊したアトラクションで死んでしまえたら、なんて思うけれど、アトラクションは既にほとんどが解体されてしまっていた。毎年来ていたはずなのに、今自分がどの辺りを歩いているのかという事でさえ、漠然としていまいち分からない。


「ねえ、瀬那」


 後ろから、また声が聞こえる。振り返る。紗希が、いた。


 嘘みたいに透き通った肌だ。随分と歩いたはずなのに、息の一つだって切らしちゃいない。じっと、僕を見つめてくる。何かを告げようとしている。唇が、微かに震える。心が一色に、染まっていく。


 胸の奥に、熱く、感じた。


「私はずっと、愛して欲しかったの。ずっと、ずっと、いつまでも──ね」


 切に、君は美しい。



 ────────────────────



 黒百合の発芽率は、そこまで良くは無い。加えて手入れも面倒なもので、水やりや肥料を与えるタイミングを間違えると、すぐ弱ったり枯れたりしてしまう。それでいて育ち切ると悪臭を放つというのだから、もっぱら家で育てるには向いていない。


 それを紗希は小学生の頃から育てていたというのだ。母親と喧嘩をし、果ては家出までして育てる許可を得たという黒百合。話を聞いた時はどうせすぐに飽きるだろうと思っていたし、親だってそう考えて紗希に許可を出したのだろうが、意外な事に紗希は失踪するまで黒百合を育て続けていた。匂いの強い個体の処分という簡単な方法ではあるものの、匂いを抑えるよう改良まで施したというのだから驚いた。




 紗希がいなくなった後、紗希の育てていた黒百合は僕が引き取った。最初は家の中に漂う悪臭に耐えられず捨てようかとすらも考えたが、慣れてしまえばそこまで匂いも感じなくなり、不快感は徐々に失われていった。恐らく、嗅覚が麻痺していたのだろう。


 とは言え、僕が育てていたのは半年程度の期間だけで、一年前に紗希が現れてからは彼女に育ててもらっている。と言うか、黒百合が無ければ紗希は壊れていたかもしれない。僕がいて、黒百合があって、そうしてやっと、紗希は自我を保てていた。


 蕾は、七月頃についた。開花時期と比べれば遅いけれど、とりあえず花はできそうで安心した。




 まだ、僕には黒百合の美しさが分からない。でも、君が綺麗と言うのなら、きっとその花は綺麗なのだ。


 一輪。たった、一輪だけれど。


 君の残した黒百合は、今年も綺麗に花を咲かせた。



 ────────────────────



 紗希は、いなくなっていた。何故かは分からない。けれど、今見ている世界が僕にとっての真実だ。それが、紗希が現れた頃から変わらない僕の答えである。


 一人の世界は久しぶりだった。今まで、何をするにしてもどこに行くにしても、紗希がいたから。一人はこんなに寂しいものだったかと、思い出す。


 スマホを開く。時刻は一時四十五分。四十五分かかる山道を戻るつもりは無かった。生きたい訳でも死ねる訳でもない、どうすれば、何をしたいのかも分からない。


 呆然と。崩れてしまったこの世界は最早思い出の場所ですらない。とりあえず、遊園地を出たかった。この場所にいて半端に苦しい気持ちになるという事が、僕には耐えられなかった。


 疲労に柵へと寄りかかる。噎せ返りそうな匂いに近くを見てみれば、一輪だけ柵を越えて、黒百合が咲いていた。握るように、茎に触る。アブラムシが、手を這い上がってくる。茎を折った。


 天敵であるアブラムシに侵された黒百合。可哀想に。どちらにせよ、この花は長くない。茎と花弁を軽く撫で付け、目に見えるだけのアブラムシは追い払う。黒百合の匂いが、一帯に広がる。気持ちの悪い匂いに、吐き気がする。


 歩いた先にあった入場ゲートは、工事現場にあるような白い簡易壁で封鎖されていた。外からでは入れないだろうが、内側からならゲートを足場にして越えられる。よじ登り、越えるが、着地するだけの気力と体力が湧かなかった。背中から落ちる。衝撃が胸と腹を突き抜け、咳き込みながら蹲るしかできない。それは酷く、惨めな姿であった。


 嗚咽が聞こえた。聞き慣れた声。僕の涙。


 君が消えなければ、何も。全てが満たされていた。僕は君を愛し続けるのに。僕と過ごす未来は、そんなに不安だろうか。僕は君を、一度でも憎んだ事があったろうか。いや、今は酷く憎たらしい。愛おしい君がいなくなって、僕の全てを壊した君が、殺してやりたいほどに憎らしい。いっそ、殺してしまえば良かった。殺してしまえば、僕は君を殺した僕を、心置きなく殺せる。


「ねえ、瀬那」


 声が、聞こえたような気がした。愛おしく憎らしい、君の声が。


「瀬那」


 薄紅色の情動。今の僕には似つかわしくない感情。だけれどそれは、否定する事の出来ない感情。


「瀬那」


 立ち上がって、声の在処を探した。


「瀬那」


 かけられた声に、振り向いた。しばらく先に、彼女がいた。


 よたついた足で彼女の下へ駆ける。黒い、ワンピースを着た彼女。


「紗希」


 たった数メートル走っただけなのに、息が切れている。


「紗希」


 彼女は慈しむように、僕を見つめていた。心が縛られて、締め付けられて、心臓が爆発してしまいそうなほどの、鮮烈な情動。


 それを、僕は何と呼んだか。


 その感情を表す言葉を、「恋」以外に僕は知らない。



 ────────────────────



 紗希は、何も言わなかった。それでも、僕は彼女が傍にいるだけで、ただそれだけで良いと、そう思えていた。


 簡易壁に寄り掛かるように、座り込む。紗希もすぐ傍に、同じように座り込んだ。


「なあ、紗希」


「なに、瀬那」


「僕さ、今ぐらいの時期にプロポーズしようかなって、思ってたんだ」


 顔についた汗と泥を、ハンカチで拭いながら言う。紗希は静かに、僕の話を聞いてくれていた。




 大学、卒業してさ。社会人一年目じゃお互いに忙しいから。本当なら三年目にプロポーズしたかったんだけど、そんなに待たせたくもないし、待ちたくないし、二年目ぐらいが丁度良いかなって。それなのに、急に消えて、僕もお前の両親も、皆苦しんだ。お前を恨んだよ。なんでって、思った──僕、おかしくなっちゃったんだ。誰も見えない紗希が見えるんだ。小学生になったり、高校生になったりさ──でも、やっと気づいたよ。




 左手を、彼女の右手に重ねる。彼女はそれに指を絡めて、応えてくれる──答えを、くれる。




 僕、もう紗希の事忘れられなくなっちゃったんだ。紗希の事、嫌いになれなくなっちゃったんだ。全部、紗希に埋め尽くされちゃったんだ──僕の心の一番の思い出が、いつも目の前で動いて、話して、笑ってるんだ。それで、肝心のお前はどこかに行っちゃって、死んでくれないんだ。割り切ろうにも、割り切れない──失ったものを、人は忘れない。取り返せるかもしれない何かは、もっと忘れられないから。




 紗希は、何かに浸るように──自分の中の何かを咀嚼するように瞼を閉じて、僕の肩の上に頭を乗せた、それに更に被せるように、僕も頭を寄せる。




 心の傷は、記憶になって刻まれるんだ。死すら考えるほどに僕を傷つけたあの手紙を、僕は生涯忘れられない。




 黒百合を、空いた右手に取る。忌々しく美しい、呪いの花。




「あの手紙って、紗希が僕に向けて書いてくれたラブレターだったんだな──あれが、お前なりのプロポーズだったんだ」




 黒百合を、紗希の足元に置く。黒百合の花言葉の一つは、「恋」。


 ──僕は、彼女の呪いを受け入れてしまった。この呪いは、紗希という存在への強い渇望が無ければ成り立たない呪い。もしも僕が心の底から紗希を拒絶すれば、効果を失ってしまう類の呪い。


 紗希が手を伸ばす。香り、眺めて、花を楽しむ。恍惚たる声が、聞こえる。


 ──はるか昔の記憶を思い出す。小学生の頃、初めて一緒に遊園地に行った帰り、二人で黒百合を見た時の。たった一言、あの時に発した彼女の言葉を。黒百合を見つめる彼女の横顔を。僕が君に恋をしたあの一瞬を。僕は忘れる事ができなかった。


 深夜二時の、遊園地前。


「綺麗だね」


 あの夏の平行線を、辿る。


 それは、あの日の純粋な恋情とは交わらない。



 ────────────────────



 タクシードライバーという職に就いていると、実に色んな人間と出会う機会がある。テレビで見るような有名人もそうだし、奇特な人間も多く乗ってくる。だから少しくらいアクの強い人が来たって寝て起きてしまえばすっかり忘れているし、昨日の昼頃に乗ってきた青年も決して例には漏れなかった。


 昼頃、社用の携帯に一本の電話がかかってきた。知らない番号。いつも通り、タクシーの利用だろう。電話に出る。


「すみません。昨日利用した者なのですが──」


 スマートフォンから聞こえてきた声は、印象に残っているものだった。昨日の気がかりな青年。何ら異常なく無事そうで良かった。青年の様子からして最悪なケースも考えていたが、少なくとも過ちは起こさなかったようだ。


 廃遊園地に向かって車を走らせる。タクシードライバー冥利、とまでは言わないが、こういう事があるとこの仕事に誇りを持てるようになる。自分が彼に名刺を渡した事は、恐らく間違いではなかったのだろう。




 青年の姿を見て唖然とした。全身土だらけ泥だらけと言った始末で、何があったのか聞いてみても「キャンプでヘマしまして」としか答えない。余りにも怪しすぎるし、タクシーに乗せるには汚すぎる。いつもなら乗車拒否をするところなのだが、そんな事をしてしまえば今度こそこの青年は危ないかもしれない。


「お客さん、どちらまで」


「鳴澄駅まで」




 山道を駆けていく。メーターが上がっていく。ふと、ルームミラーを覗いてみた。


 来た時と同じだ。外を見ている割に、景色を見ているような感じがしない。意識は確実に別の方向へ向いている。彼の視線がミラーへ向かう。目が合う。咄嗟に目を逸らしてしまった。タクシーの中には沈黙ばかりが広がる。


 あくまでただの感想に過ぎないが、彼は人に対して無意識に壁を作っているように感じた。少し話してみた感触としては人当たりは良さそうだから友達に困っているという事は無いのだろうが、恐らく、彼は一定以内の距離に人を入れる事を酷く嫌うタイプの人間なのだろう。こういうタイプは無意識に、それも笑いながら人を拒絶するからたちが悪い。鈍感な人間ならまだしも、そういう事にすぐ気が付いてしまうような人間は、彼のような人を相手にすると傷ついて終わるだけだ。


 人を傷つける自覚が無いほどの鈍さは、自分の抱えている寂しさにも気がつかせてくれない。往々にしてこういう人間は、破滅の道を歩んでいく。




 平日の昼間。鳴澄駅には全くと言っていいほどに人がいなかった。ロータリーにタクシーを止める。


「お客さんね、六千円になります」


 既にメーターを見て用意していたのだろう。青年はすぐにトレーにお金を置いた。


「ありがとうございました」


「毎度」


 それでも彼は、本当は優しい人間なのだろうと思うのだ。礼を言う声は、温かな人間のそれであった。


 彼が出て行ってしばらくして、駅の階段まで目で追ってみると彼が笑っていた。誰かに笑いかけているような。電話をしているようには、見えなかったけれども。


 考えるだけ無駄かと、思う。人が人を理解しきるなんて、夫婦であろうとできる訳がないのだ


 シートを押し倒して、横になる。バスですらがらんどうな平日の昼間なのだ。タクシードライバーに仕事などそうは回ってこない。


 気が付けば、蝉の声はもう聞こえなくなっていた。既に暮れかけていた今年の夏は、どうやら本当に終わりを迎えようとしているようだった。

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黒百合晩夏 緑山陽咲 @hinata2791

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