みんなが幸せになれる場所

ふじこ

みんなが幸せになれる場所

「チャンスは残り三回です」どこか楽しげに声は告げた。よく知っている声だ。よく知っているフレーズだ。またここに戻ってきた。わざわざ見なくたって、楽しそうにしているのは声だけだと分かっているのに、振り返ってしまう。お姉ちゃんが、いまにも泣き出しそうに目元を真っ赤にして、けれども潤んだ目と眉毛をつり上げて、怒っているようにも見える顔をして、そこに居た。お姉ちゃんの後ろの自動ドアが開く。くたびれたスーツを着たサラリーマンが出てくるのと一緒に、パチ屋の騒々しいBGMと環境音が漏れ聞こえてくる。お姉ちゃんはわたしだけを見ている。泣きそうになった。

「なんのチャンス?」涙を堪えていたら、少し声が震えてしまった。怒られるのを恐れているのだと誤解してもらえただろうか。お姉ちゃんは、さして高くもないヒールをカツカツと鳴らしながらわたしのすぐ前までやってきて、わたしのカバン代わりの紙袋に手を突っ込み、がさがさと中を探る。何を探しているのかわたしは知っている。お姉ちゃんはいつもわたしを心配してくれた。

 お姉ちゃんが紙袋から取り出してわたしの鼻先に突きつけたのは、一通のハガキだ。圧着が剥がれて、下手なくの字のように紙が丸まったハガキ。「琴が借金をどうにかするだろうって、私が待つ回数だよ」と、やっぱり楽しげにお姉ちゃんは言った。お姉ちゃんの手の中で、わたし宛ての消費者金融の督促状がひらひらと揺れている。この時点での残額はいくらだったっけ。百万円借りて、一年くらいは毎月返しはしていたから、七十万円ぐらい? 確か、携帯電話の着信に気付かなかったら、自宅に電話が掛かってきて、お姉ちゃんに知られたんだったか。

「もう借金はしないって、約束したじゃない」

 お姉ちゃんはしんどいときほど楽しそうにするんだって、小さい頃から知っていた。お母さんが奨学金を使い込んで大学に行けなくなったときも、異動した職場の上司がクソ野郎で三日も家に帰ってこられなかったときも、遠い海辺の街でお父さんが死んだという電話を受けたときも、お姉ちゃんは楽しげな声で話した。声だけ聞いたら場違いだと思われるかもしれないけど、表情とはひどくアンバランスだから。お姉ちゃんが無理してそうしているんだとようやく気付いたのは、わたしが何度目か彼氏の家を追い出されて実家に帰ったときだった。それからしばらくは、パチンコにも競馬場にも行かなかった。

 ハガキを持つお姉ちゃんの指先は震えている。丸く整えられた爪の先がきれいだ。腕の中にある景品をどうしようかと考える。前のわたしは「すぐに稼ぐから大丈夫。ほら、今日だってこれだけとれたんだから」と、お姉ちゃんに自慢した。お姉ちゃんは、スナック菓子とペットボトルだけを見たんだろう、わたしの頬を引っぱたいて帰って行った、その隙間に挟んであったプラスチックケースの中身の方がよっぽど価値があったのに。

 今回は、どうしよう。

 お姉ちゃんはわたしをじっと見上げている。わたしの返事を待っている。これまでと同じことはもうしたくない、どうせ同じ結果になるんだから。毎回そう思って、色々やってみた。お姉ちゃんの手を引っ張って景品を換金して見せたこともあった、お姉ちゃんはほっとした顔をして、一緒にコンビニでご飯を買って帰った。お姉ちゃんを無視して走って逃げたこともあった、お姉ちゃんの叫び声で胸が痛んだけど、連絡も来なかったからこれで大丈夫だろうと思った。この場でお姉ちゃんに頼み込んで、消費者金融の借金の残額と同じ額だけの借金を頼み込んだこともあった、お姉ちゃんは泣きながらそれを了承してくれた。これまでにしていないこと、何があっただろう。俯くと、腕の中の景品の、購買欲を誘うパッケージが目に入る。赤色のペットボトルの蓋を見て、ふっと思いついた。

「お姉ちゃん、センセのところに行きたい」お姉ちゃんは目を丸くして、ゆっくりと頷いた。


 部屋の真ん中のテーブルに、持ってきたペットボトルを置く。「どうしたの、それ」コーヒーのにおい。ペットボトルをはさむように、マグカップが二つ置かれる。一つはブラックコーヒー。もう一つはミルクコーヒー。わたしに近い方にミルクコーヒーが置かれている。淡い緑色の、取っ手がなくてお茶碗に近い形のマグカップ。マグカップとは呼べないのかもしれない。

「冷たいコーヒーに、ガムシロップとコーヒーフレッシュ一つずつ。合ってた?」センセは、全体は白くて縁と持ち手だけ紺色のマグカップを右手に持つと、一人掛けのソファに深く腰掛ける。湯気が立っていたはずなのに、息を吹きかけることもせずに、マグカップにゆっくりと口を付けた。

「このカップ、まだあったんだ」

 わたしが言うと、センセは少し前屈みになって、マグカップをテーブルの上に置いた。珍しい灰色の目が、白いマグカップの紺色の縁をたどって、それから、淡い緑色のマグカップの縁をたどる。

「そりゃあ、あなたのだからねえ。捨ててほしいともなんとも言われてないのだから、置いてあるよ」

「そっか。わたし、何年ぶりに来たの」

「さあ。夕方のグループには参加していく?」

「ううん」言葉だけでなく、首を横に振った。この部屋とは違う、もっと広くて、少し天井が高い部屋での集まりのことを思い出す。椅子を丸く並べて、飲み物と、ちょっとだけお菓子もあった。あの部屋にもこのカップは持ち込めたから、いつもポットのお湯を入れて、両手で持っていた。前屈みになって、テーブルの上のわたしのマグカップを手に取る。陶器は、中の冷たいコーヒーのせいで、ずいぶん冷たくなっていた。ゆっくり口を付ける。味の分からない冷たい液体を飲み込んで、マグカップを口から離す。ゆっくりと、太腿の上に両手を落ち着けた。センセは何も言わずに座っている。珍しい色は灰色の目だけで、焦げ茶の髪は低い位置でお団子にされている。灰色のカットソーに、黄緑色のカーディガンを羽織っている。ズボンの白色は少しくすんで、生地はくたびれている。

「あのさ」

「うん」

「わたし、味、分からないから。何を用意したらいいだろうとか、これで合ってるかとか、気にしなくていーよ。水道水でいい」

「そう」穏やかな声が短く言った。きっと、次がいつになるかは分からないけど、わたしがここに来たら、センセはまたこのミルクコーヒーを用意するんだろうと思った。それを想像すると嫌ではない。嫌ではないのに、感じかけたうれしさの表面がさざめく。これをそのまま受け取っていいんだろうかと声がする。これは罪悪感というものだと、わたしは知っている。だからわたしはここに来たくなかったんだろう。センセは何も言わず、珈琲を静かに飲んでいる。ここは何を話しても構わない場所。話したいことを話したらいいし、話さなくていいことは話さなくていい場所。だからわたしの足はここから遠のいていた。

「グループってさ、話さなくていいことは話さなくていいし、聞きたくないことは聞かなくていい。話すときは、ウソはなしで話すことって、ルールがあるじゃん」

「そうね」

「わたしには無理だなって思って、行きたくなくなったの。ウソはなしで話すって、よく分からないんだもん。彼氏も友達も、わたしがホントのこと話しても、ウソだウソだって言うし、わたしだって自分で話しててウソみたいだなって思う。だから」だから、今わたしに起こっていることだって、ウソみたいだと思っている。ウソだったら、夢だったらいいのにと思っているのに、全部ホントのことなんだと、わたしの耳が知っている。もう何回聞いたか分からない、いやな報せ。

 グループに参加したとき、グループが終わった後の帰り道で、グループに居た二人が一緒に居るのを見たことがあった。聞くつもりはなかったのに、よく通る声だったから話している内容が聞こえてしまった、駅のホームで、少し離れたところに座っていたのに。二人は、さっきグループで話した内容は全部ウソだと笑っていて、わたしはあの二人が何を話していたかなんて覚えていなかったけれど、二人はセンセを馬鹿にして笑っていた。あんなウソ信じるなんてバカみたいと言っていた。わたしがもしグループで話したら、二人はわたしのこともバカみたいと笑うんだろうと思った。センセなら、ウソみたいな話でも、本当に信じているように聞いてくれるんだろうなと思った。

「この話もウソみたいだって思われるかもしれない」

「うん、それで」

「わたし、未来から戻ってきてるの。一回だけじゃなくて、何回も、何回も」

 びっくりするぐらい声が震えた。声だけじゃなくて手も震えている。マグカップの中のミルクコーヒーの表面が小さく波立っている。ゆっくりと息を吸って、吐いてを繰り返す。センセは、わたしの方を見ている。灰色の目は、笑っても怒っても呆れてもいなかった。話の先をうながすようにゆっくりと瞬いた。それを合図にするようにゆっくり、ゆっくり息を吐ききって、同じくらいの時間をかけて息を吸う。手の震えはおさまった。

「去年ちょっとだけ付き合ってた彼氏がお金に困ってるって泣きついてきたから、お金借りてあげたの。今月、仕事首になって、返せなくって、パチンコで稼ごうって。結構勝ったんだけど、お姉ちゃんがパチ屋に来て、あと三回は待つって。だから、あと三回はお姉ちゃんに連絡がいっても大丈夫だなって思って、パチンコと競馬で稼いだ。いい線いったんだけど、返済日直前で大負けして、お姉ちゃんから電話があって、そしたら、次の日にお姉ちゃんが事故で死んだって、病院から電話があった。電話を切ったら目の前が真っ暗になって、気付いたら、お姉ちゃんが、生きてて、チャンスは残り三回って、わたしに言ってるときに戻ってきた」

「それから」

「それから、これは夢なんじゃないかと思って、怖くなって、逃げた。走って逃げた。友達んちに戻って、布団被って、夢なら覚めろって唱えてた。でも全然覚めなくって、お姉ちゃんから鬼みたいに電話来るし、夢じゃないのは分かった。でもやっぱり何が起こってるか分かんなくて、怖くて、なんもできなくて、そしたら、友達がお姉ちゃんが死んだって、言って、また目の前が真っ暗になって、気付いたら、お姉ちゃんがチャンスは残り三回って言うときに、また戻ってきてた。その後も、何回も、何回も、なんでかしんないけどお姉ちゃんが死んで、目の前が真っ暗になって、同じところに戻ってくる」

 ケホと、咳が出た。たくさん話したから喉が乾いたのかもしれない。マグカップを持ち上げて、ゆっくりと中身を飲む。ただの水よりもすこしとろみがあるような気がした。気のせいかもしれない。マグカップを持った両手を元の位置に戻す。センセの灰色の目はまだわたしの方を見ている。話はまだ終わっていないと言いたげに、センセは何も話していないのに、灰色の目が瞬くと、わたしの口は次の言葉を言おうと開く。

「何をどうしたらいいのか、分からないの」

「なるほど」センセはマグカップを手にとって、静かにコーヒーを飲んだ。「なるほど」ともう一度言って、テーブルにマグカップを置く。それから「あなたはどうなってほしいの?」と、マグカップを置くために少し前屈みになった姿勢のまま、少しだけわたしを見上げながら、先生は尋ねてきた。

「どうなってほしい」

「うん。あなたは、お姉さんが死んだというのを聞くたびに、過去の同じ時点に戻ってきているんだと教えてくれた。私からは、どうやらあなたが困っているようにも見える。けれども、どこに困っているのかが、まだはっきり分からない。だから、あなたは、何度も過去に戻ってくるというこの状況が、どう変わってほしいと思っているのか聞きたいと思った」

 センセは、わたしの話を信じてくれているように見えた。センセの質問に、何回も何回も繰り返した、お姉ちゃんが死んでしまったと分かるまでの日々を思い出す。わたしは何を考えて過ごしていたんだっけ、同じ結果になってほしくなかった、だからなるべくそれまでと違うことをしようとしていた。

「同じ結果になってほしくないから」

「同じ結果、って?」

「お姉ちゃんが死んだって、分かって、過去に戻ってくるようなこと」

「じゃあ、お姉さんが死んだと聞いても、過去に戻ってこなかったら、それで解決で構わなさそう?」

「は? なんで?」

 顔が、頭が熱くなった。血が上る、なんて久しぶりだ。マグカップをセンセに投げつけようとしているのに、マグカップを右手で持ち上げたところで気が付いて、なんとか思いとどまる。ミルクコーヒーが少しこぼれて、ソファに染みがついてしまった。

「お姉ちゃんが死んじゃったら意味がない」

 言葉にして、はじめて、はっきりと意識した。わたしは、お姉ちゃんに死んでほしくなくて、頑張っていた。だから、過去に戻ってきてお姉ちゃんの声を聞くたびに、泣きそうになった。わたしは、お姉ちゃんが死んで寂しかった、悲しかった。自分にもお姉ちゃんにも腹が立った。お姉ちゃんが死んだと聞いて、いつもすぐに過去に戻ってしまうから、感じる暇もなかった気持ちが、次々と言葉になって浮かんでくる。ついでに、目からは涙がぽろぽろとこぼれるし、鼻から鼻水が出てくる。マグカップをテーブルに置いて、テーブルの端のティッシュケースからティッシュペーパーをとる。すぐにびしょびしょになった。息を吸うだけで、鼻水がずびずびという。

「難しいね」センセは、本当にそう思っているような声で言った。少し細められた灰色の目の上の眉毛は、ぎゅっと眉間に寄っている。ティッシュペーパーを続けて何枚もとって、涙を拭いて、鼻をかむ。鼻をかみながら、センセに分かるように一回大きくうなずいた。だって、何回、何をやっても変わらなかった。お姉ちゃんはわたしに関係のないところで死んでしまって、わたしは結果だけを聞く。どうしたらいいか分からないのは、本当のことだった。

「ギャンブルだってやめらんないのに、こんなの、何も出来ない」

「まるで、ギャンブルをやめるのは簡単みたい」

「簡単だよ。何回もやめたもん」

「お姉さんに死んでほしくなくて頑張る中で」

「そう。喜んでたな、お姉ちゃん。琴がパチンコやめた、競馬も競艇もやめたって」

「ギャンブルをやらなくてもよかったのか」

「よかったよ。楽しかった」

 未来のことなのに過去形を使うなんて変な感じだなと思って首を傾げた。いま、ちょっとだけ、何かが分かったような気がした。わたしは、お姉ちゃんと過ごす、何でもない毎日が楽しかったんだと、そんなことにもいま気が付いた。センセは少し笑っている。わたしの楽しいが本当に伝わったような気がした。

「このペットボトル、賄賂」

「賄賂?」

「センセ、引き出しの中にいっぱい置いてるでしょ。飲んでるの見たことないけど、好きなのかなって思って。パチンコの景品だから、あげるね」

 わたしが言うと、センセは、灰色の目を丸く大きくして、部屋の隅の机を振り返ってから、わたしの方を見て、机の上の、赤い蓋とラベルの炭酸飲料のペットボトルを見た。ペットボトルを見つめる内に、センセの顔は、困ったような笑顔になった。


「どうして久保先生に賄賂なんか」と、お姉ちゃんは呆れた声で言った。お風呂場だから、ちょっとのため息も響いて聞こえる。お姉ちゃんが洗顔を始めたので、少し大きめの声で「だって、お願いしときたかったんだもん」と言った。お姉ちゃんは、手探りでシャワーからお湯を出して、顔の上の白い泡を洗い流す。それから、体に少し残った泡も流して、湯船に入った。さっきまで胸の辺りだった水面が、肩ぐらいまでにあがってくる。大人二人で入ると狭い湯船だ。お姉ちゃんと私の腕は触れ合っている。

「何をお願いしたっていうの」

「わたしが行かなくっても、お姉ちゃんのことはお願いしますって」

「そんなお願いするぐらいなら久保先生のところにもグループにも通えばいいのに」

「考えとく」

 わたしが言うとお姉ちゃんはまたため息をついた。ちくりと痛い気もするけど、それよりはうれしいの方が勝った。お姉ちゃんはずっとわたしを心配してくれている。わたしよりも、わたしの心配をしてくれている。うれしいの下に、申し訳ないとか余計なお世話とか、暗くて重たい気持ちがたくさんひっついていて、沈み込みそうになるけど、沈んでいる時間が勿体ない。「お姉ちゃん」と、できる限り明るい声で言う。

「今日、チャンスは三回って言ってたじゃん」

「うん、言った」

「どうして三回だったの」

 そんなこと聞かれるなんて思ってもいなかった、みたいに、お姉ちゃんは、目を細めて唇を曲げて、首を左に傾げて、少ししてから右にも傾げて、それからぐるりと首を回す。わたしの方じゃなくて、天井をぼんやりしたまなざしで見ながら、お姉ちゃんは口を開く。

「仏の顔も三度まで、って言うから?」

「つまり適当ってこと?」

「うるさい」少し唇を尖らせて、お姉ちゃんは水面をてのひらで叩く。ぱしゃりと跳ねたお湯が顔にかかって、目をつむった。「何回だって待つわよ、琴のことだったら」と、どこか楽しげにお姉ちゃんの声が言った。目を開けると、少し頬を赤くしたお姉ちゃんが、笑っている。

「だって、琴を信じてるもん」

 お姉ちゃんはわたしを愛しているんだと、わたしはずっと知っている。


 お姉ちゃんは、わたしを信じているから、わたしを愛しているから、口では三回なんて言いながら、無限のチャンスをくれていた。何回も何回も繰り返した日々でもそうだった。お姉ちゃんは、わたしなら大丈夫だと、わたしなら立ち直れると、無条件に信じて、わたしを受け入れてくれていた。わたしはそれを知っていた。そして、わたしはお姉ちゃんの愛情を受け取るに値しないとずっと思っている。だから、お姉ちゃんが死ぬのはわたしへの罰で、過去に戻るのはわたしが覚悟を決めるための猶予だったんだろう。もしかしたら、本当は全部、私の脳みそが見せた夢だったのかもしれない。

 どこなら失敗しないだろうと考えて、思いついたのは卒業した中学校だった。多少変わっているかもしれないけど、ここなら忍び込み方もよく知っているし、屋上への行き方もよく知っている。来るのだけ大変だった。お姉ちゃんにばれずに家を抜け出したまではいいけど、住宅街では流しのタクシーなんて全然見つからなかった。でも歩いてこられる距離でもないし、終電の時間は過ぎているし、なんとか駅前でタクシーに乗れたのは幸運だった。裏門を乗り越えて敷地に入って、通用口から校舎に入るのは簡単で、上靴に履き替えずに土がついたスニーカーのまま校舎にあがるのだって簡単だった。

 中学校を卒業して、お姉ちゃんと二人で引っ越したのは、もう何年前だろう。ここにいたらダメになる、とお姉ちゃんは言っていた。きっとそうだったんだろう、今よりももっとダメになっていた。でも、それだけじゃなかったんだよとお姉ちゃんに教えてあげたい。わたしだからダメだったんだよと、伝えて、一人で行ってしまってほしい。どうせならそこまで戻れれば良かったのに。

 それまでより短い階段を上って、屋上に通じるドアのドアノブの、鍵穴に、まっすぐにしたヘアピンを差し込む。左手をドアノブに添えて、左手に感じる振動を手がかりにヘアピンを動かせば、鍵の開く音がした。ヘアピンをジャージのポケットに戻して、左手でドアノブを回してドアを開ける。満月が明るい。ドアが開く音が大きくて、思わず後ろを振り向く。月の光で出来た影が、長く、ドアにかかる程まで伸びていた。

 お姉ちゃんが死んでしまう理由は分からない。でも、きっとわたしのせいなんだと思う。そうじゃなかったら、お姉ちゃんが死んだとわたしが聞いてすぐに、過去に戻るのはおかしい。わたしがお姉ちゃんが死ぬのに関係があるから、わたしがその報せを聞くと過去に戻ってしまうのだ。

 お姉ちゃんはずっとわたしを心配して、わたしを愛して、わたしと一緒にいてくれたから、もしかしたらもう手遅れなのかもしれないけど、これ以上わたしがお姉ちゃんにかかわらなかったら、お姉ちゃんは死なないかもしれない。お姉ちゃんは悲しむかもしれないけど、死んでしまうよりずっといい。だから、これでいいはずなのだ。考えながら、スキップしながら前に進んでいるのに気が付く。ずっと昔に、お姉ちゃんにも褒められた。幼稚園で覚えたのをやって見せたら、上手だねと笑ってくれた。スキップのまま、一段高くなった屋上の縁に飛び乗る。見下ろすと、中庭の木が小さく見えた。間違ってもあれには引っかからないようにしなければいけない。わたしは、何にも出来なくて、頭も悪いし、お姉ちゃんに迷惑をかけ続ける自分が嫌いだから。お姉ちゃんみたいに、無限のチャンスなんてわたしにはあげない。わたしがわたしにあげるチャンスは、この一回きりだ。パチンコで、一回目で大当たりを出したのなんて、数えるぐらいしかない。競馬の三連単はまだ当てたことがない。でも。このギャンブルには負ける気がしなかった。

 後ろを向く。黒く伸びた影のあたまのてっぺんを見ながら、左足を少しずつ後ろに下げる。左足のかかとが地面から離れたタイミングで、立ち止まって、息を止める。アーメン、と声に出さずに唱えて、かたいコンクリートを両足で強く蹴った。

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