第2話 彼という存在

 だが、自己嫌悪に苛まれる中学時代の私の心を救ってくれた存在がいたのも事実だ。それは中学二年の時から同じクラスだった男子生徒なのだが、彼とも幼稚園から中学までを共にしてきた仲だった。

 彼は何故だか知らないが、手当り次第に周りの人間に毒を吐き、嫌がらせをし、無駄に敵を作るようなことを好き好んで行うおかしな人だった。特に女子生徒には酷く憎たらしい顔でちょっかいをかけるせいで、大いに嫌われていた。

 ある日私は、理科の授業で分からない事があったので、彼に教えてもらいに行こうと思い立った。彼はクラスの中でも成績はトップクラスで、特に理数に強かった。

 私だって学業そのものを疎かにしていた訳ではない。自分の好きな教科、つまりは英語、理科、美術、音楽だけは真面目に勉強していた。

 どうせ毒を吐かれて終いだろうと思いながら、休憩時間に本を読んでいる彼の元へ問題の解き方を教えて欲しいと頼みに行ったのだが、その時の反応が思ったものとは正反対で驚いたのをよく覚えている。

 彼は何食わぬ顔で本を閉じると、「どこを教えて欲しいのか」と私に尋ねたのだ。思いもよらぬ返答に驚いたが、何事もなく問題の解説をしてもらい休み時間が終了した。

 彼とよく話すようになったのはそれがきっかけだった。

 節目ごとに行われる席替えでは、不思議と毎回彼と同じ班になった。校外学習などでは、その殆どが班行動だった為、自然と話す回数も増えていった。

 中でも特に記憶に残っていることが二つある。

 一つは校外学習で行ったバーベキューでのこと。食材をスーパーに買いに行くところから始まるのだが、田舎なせいで近所のスーパーが学校から遠いところにしかなく、そこまでの移動はもちろん徒歩だった。

 そのスーパーまでの道のりを、彼と何ともない話をしながら歩いたのを未だに思い出す時がある。本当に何ともない会話だった。同じ班の生徒の歩くスピードが遅いせいでなかなか追いついてこないだとか、スーパーで何を買うかとか、そんな他愛もない話だ。だが私にとって、その意味の成さない時間が心休まるひとときだった。

 二つ目は、職業体験の時のこと。私の記憶が正しければ、恐らくあれは中学三年の半ば頃の事だった筈だ。どこでもいい、近所の店などに自ら電話をして了承を得られれば、決められた二日間はその店へと出向き、実際に働くということを体験するといったものだ。

 私は昔から人と話すことが酷く下手で、学校でも道化師のように常ににこにこしているだけの人間だったので、見知らぬ人に電話をかけるということがそもそも心底嫌だった。しかも、その電話で了承を得てしまったら二日間全くの初対面の他人と仕事をしなければならないのだ。これ程までに心を病むことがあろうかというほどに、私の心は参ってしまったのであった。

 結局私は、祖母の知り合いが経営している小さな服屋へ行くことになった。その服屋へは何度か行ったことがあったので、店主の顔ぐらいは知っていた。気の優しそうな三十代くらいの女性店主だった。

 一先ずは安心かと思われた矢先、実際に職業体験へ行く前に顔合わせをしなければならないということを担任から聞かされ、私は渋々その店へと向かった。

 てっきり私は女性店主との顔合わせだと思っていたのだが、いざ店へ入ってみると見知らぬおじさんが私を出迎えたのだ。

 面食らってその場で立ちつくしているとそのおじさんが私に向かって、「何をぼうっと立っている。自己紹介をしなさい。失礼にあたるぞ」ときつく言い放った。確かに言っていることは何一つ間違っていない。間違っていないのだが、家と学校という環境しか経験したことのない中学生に対して、その言い方はどうなんだと内心思った。もちろん口に出してはいない。私は「すみません」と頭を下げ、柔和な笑みを作って自己紹介をした。するとそのおじさんは満足気に頷くと、私を店の奥へと案内した。

 その後知ったのだが、いつもいる女性はただのアルバイトで、そのおじさんが店主だったそうだ。普段は店にいるのだが、用事があって顔合わせの前日まで東京に行っていたとのことだった。私が店主の顔を見たことがなかったのは単なる偶然だった。

 その後の打ち合わせで知らされたのが、職業体験の二日間はその気難しそうな店主が私につき、業務内容を教えてくれるということ。当日はメモとボールペンを持ってくるように、ということだった。

 私は落胆した。あの女性アルバイトなら良かった。どうして店主と二日間も過ごさなければならないのかと。一目見た瞬間にその店主からは所謂、昭和の男尊女卑の中でおだてられて育った男、といった雰囲気が滲み出ていた。

 翌日の放課後、このことを彼に話した。正直、こんなことを言ったら馬鹿にされるだろうと思っていた。お前が弱いのが悪いのだと、憎たらしい顔で意地悪を言われるのだろうと思っていた。

 だが、実際は違った。彼は勢いよく席を立つと私の方を向き、真剣な顔つきでこう言った。

「頑張ってください」

 私は、彼に理科の問題を聞きに行った時と同じように面食い、ありがとうと返事をするのが精一杯だった。

 彼は深く礼をしてから、じゃ、と言って手を振り、教室から出ていってしまったのだった。

 暫く彼の去っていった方を眺めていた私は、心の奥深くに彼の言葉が沈んでいく感覚に神経を集中させていた。

 彼の、たったの一言が、私の心を軽くした。それ程までに私の心に沁み渡ったのは、投げやりに言い放った上辺だけの言葉ではなかったからだろう。

 それから卒業の日を迎えるまで、彼の存在にどれだけ救われただろう。せめて私からも感謝の気持ちを伝えられればよかったと、行き先のない後悔が未だに私の心を蝕むときがある。

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