第6話 引き止めているもの

 このままでいると気が狂ってしまう。自分自身を見失うのはあまりに厄介だ。ではどうするか。もう痛みすら私を現実に引き戻せない。それを凌駕する対処法となると更に酷いものなのだろうかと恐ろしくなるだろうが、これは至って健全な対処法だ。

 それは散歩をすること。そんなもので自己を保てるのかと問われれば、完全に自分を見つけられるわけではない。が、今までの方法が当てにならなくなったのなら何か他の方法を探すしかない。その結果辿り着いたのが、散歩だ。

 お年寄りが血圧や血糖値を気にして早朝から散歩をしたり、ダイエットの為にと励んでいる人も多くいるだろう。もちろんそれらの理由も素晴らしいが、私は体の健康を気にしている訳ではない。あくまでも精神面を安定させることを目的として散歩をしている。

 では何故、散歩が失われつつある自己を再確認するのに役立つのか。これは、しっかりとしたエビデンスに基づいた話ではないのであくまでも個人の意見として聞いて欲しいのだが、他者との繋がりを嫌でも認識することができるからだと思うのだ。

 私が住んでいる所は田舎なので、一度に多くの人と出会うことは出来ないが、それでも人が作り出す小さな社会を垣間見ることができる。それを見て私は自我を保っているのだ。自分の知らない誰かや、その誰かの人生に間接的にでも、一瞬でも触れることができるから今自分自身が生きているということを実感できる。例えば、コンビニなんかに行けば少なからず店員さんとの会話が生まれる。私の場合コミュニケーション能力に障害があるので、人と一言交わすだけでも大いにストレスがかかるし緊張する。だが、麻痺しきってしまった脳にはそれが丁度よく作用して、その瞬間だけは意識が現実に引き戻されるのだ。この刺激があまりに多いと返って脳が疲弊しきってしまって、その後余計に無感情になってしまうので、意図的に脳に対して与えるストレスの量というのは細かく調節する必要がある。

 自分の存在が他人から確かに認識されていると感じること。それが、自己という曖昧でややこしい物をギリギリで保っている私に必要なことなのだ。散歩といういかにも平和的な方法で、霞んで周りがよく分からなくなってしまった世界の霧を一瞬でも晴らせるのならば頼る他ないだろう。

 散歩と言っても、ただ道を歩けばいいわけではない。おすすめは、どこでもいいので子供が沢山いる場所に行くということ。なぜ大人ではなく子供に限られているのかというと、子供というのは頻繁にイレギュラーな行動を起こすからだ。このイレギュラーさがなければ意味がない。例えば、公園でサッカーをしている子供の集団を見つけたとしよう。そういう時は敢えてその集団の横を通るようにするのだ。そうすれば、運が良ければ(運が悪いともとれるが)サッカーボールがこちらに向かって凄いスピードで飛んできたりして、それに対して一瞬だけだが意識が覚醒する。そういう他人によって引き起こされる小さな意識の覚醒を、外に出ることによって一つずつ懸命にかき集めていくのだ。なんとも惨めなことは自分でも分かっているが、そうでもしないと苔の生えた石ころのような静物になりかねないのだから仕方ない。

 もう一つ、散歩の延長で更に大きな効果を得られそうな方法がある。これは、本来の自分なら思いつかないような行動を嫌でも無理やり起こしてみる、ということ。これに関しては、精神的にも肉体的にもエネルギーが必要になるので、毎日これをしなければいけないということではないのだが、先程述べた一つ目の方法よりは一度で大きな変化が訪れやすいという意味ではより役に立つかもしれない。例を挙げるなら、たまたま見つけた美容室で挑戦したことのない髪型にしてみるとか、全然自分の趣味ではない服屋に入ってみるとか、子供の頃にもう二度と食べないと心に決めたあの野菜を食べてみるとか、いつもは座ってシャワーを浴びているけど今日は立ったままシャワーを浴びてみるとか、小さくて馬鹿げたことでも構わない。とにかくいつもの自分でいれば起こさないようなアクションを起こすということが重要だ。

 私の体験から一つ抜粋して紹介してみよう。私は最近、近所の教会に、詳しく言えば教会前まで行くことを日課にしている。その教会は、川沿いに建つ大きなプロテスタントの教会で、私が小さい時からそこに建っていた。クリスマスになると教会の中が鮮やかに飾り付けられていて、ショッピングモールの楽しげな飾り付けなどとはまた違う、静かで神聖な雰囲気を醸し出していた。子供の頃は、その教会の前を車で通り過ぎる時に車窓越しに覗き見るくらいで、いつか中に入ってみたいなと思っていた。大人になった今もまだ中には入ったことがないのだが、教会の前のベンチに座って、ノームの帽子のように尖った屋根の上の十字架を見ながら、今年のクリスマスまでには中に入ってみたいな、と思いを馳せている。

 なぜこのエピソードが、「本来の自分なら思いつかないような行動」にカウントされるのかというと、私は宗教などに一切興味を持ってこなかったからである。なんなら、神とか仏とかそんなもんがいるなら今私の目の前に出てきてみろ、というなんとも野蛮なスタイルで生きてきたので、教会に足を運ぶという微妙なラインであったとしても、その行為自体が私にとっては思いもよらぬ行動なのだ。

 今までの自分の人生では起こりもしないような出来事を自分で無理やり起こしてみる、ということはそれまでの自分を少なからず覆すことになり、それが広範囲の霧を晴らすことに繋がる(と信じたい)と思っている。

 今こうやって、誰が面白いと感じるのか分からないような自己満足の文章をつらつらと書き綴っているのだって、今までの私ならしなかったことだと思う。それをふと思い立って行動に移したから、私がエピソードを更新する度に読んでくださる素晴らしく貴重な存在を見つけられたのであって、面倒臭いと諦めていたならばこうはならなかっただろう。

 結局のところ、自分が世界に対して閉ざした扉の内側の濃く深い霧は、自分自身の行動によってのみ晴らせるということ。散歩で他人との小さな関わりを作り出すのも、思いもよらぬ行動で先の未来を捻じ曲げてみるのも、誰かがやってくれる訳ではない。白濁した意識の中でも、懸命に目を凝らして一筋の道しるべを見つけ出すのは自分であって他人ではない。中学の時の彼にありがとうを言えなかったのも、せっかくの偶然の再会を素通りしたのも、全てのものに対して自分の内側を隠そうとしたのも、簡単に全部諦めてしまった自分が、何もしないという選択を無意識にしていたから訪れた現実であるということ。それならばその逆も然りだ。多少気力はいるかもしれない。それでも、無理やりにでも自分で選択をすることができたら、未来は捻じ曲げられるかもしれない。今、私がそう思えるようになっているのも、思い出せないだけで、私が過去にどこかで何かを選択したからなのかもしれない。揺るがぬ自己をもう一度見つけられるまで、小さな未来を選択し続ける、ということを選択し続けていこうと思う。

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