第5話 自我の認識

 スーパーのアルバイトを辞めてから、いや、厳密に言うともっと前だ。中学を卒業したあたりから、私の人生には波風どころかそよ風すら吹かなかった。波風が立ち続けているような人生もそれはそれで問題があるのだが、何も起こらないというのは何か起こるということよりも有害だ。人を人として保つための尊厳や意味が失われるからだ。人が自分自身の存在を認識するには、社会の中で生きているという実感を伴う生活を送る必要がある。もちろん、山の中に籠りっきりの完全自給自足型一人暮らしを満喫している人もどこかには居るのだろうが、しっかりとした自己という太い幹を心に据えている人間でない限り、大抵の人間はずっと一人でいると自分というものを見失う。これは私もそうだ。

 私は実家暮らしなので実質的に一人ぼっちではない。家族は私含め五人で、誰かと話そうと思えば常に誰か一人は家に居る。だが、感覚的には一人ぼっちにも似た寂しさを感じる時がある。きっとそれは周りにいる人間が家族だけだからだろう。生まれた時から当たり前に一緒にいる存在だからだ。ここで言う当たり前とは、居て当然という偉そうな意味を孕んだ当たり前ではなく、事実上当たり前のように毎日顔を合わせているという意味での表現だ。

 多くの体験や思い出を共有していたり、お互いの人生を詳細に知っている者同士で居ると刺激が足らなくなる。自分とは違う世界に住んでいる人の体験に興味を持つ事はよくある事だが、それは脳が新しい経験や可能性を常に求めているからだ。漫画を読んだり映画を観たりするのだって、自分一人では味わえない新しい物語や世界を求めているからだ。その欲求に反して、古びた自分の中だけの世界に留まろうとするならば、五感も自己の統一性もたちまち麻痺してしまう。

 私は人間関係を維持するのが昔から下手だった。幼稚園から中学までは転校してしまう人以外はずっと一緒に過ごしてきたので、あまりその事は気にならなかったし気付かなかった。だが、中学を卒業した途端に連絡を取り合っていた友人からの連絡が途絶えた。そもそも友人と呼べる存在だったかどうかはかなり曖昧だが、少なくとも私は友人だと思っていた。高校でも同じだった。卒業した途端に誰からも連絡が来なくなる。

 何故だかは自分が一番理解している。人を信用せず、自分の心を明かさないから、また同じく人からも信用されず本当の友人になれないのだ。だから私の周りには最終的には誰もいなくなる。慣れすぎた家族と、自己を見失いかけている自分だけになる。

 このエッセイをあまり暗い雰囲気にするつもりはないので、この話を書こうか少し迷った。故にここからはあまり深刻になりすぎずに軽い気持ちで読んで欲しい。

 中学生、高校生の頃私は所謂自傷行為というものを頻繁に行っていた。他人に見せびらかして慰めや同情を買おうとしたわけでは決してない。寧ろそんな事をされれば惨めさに拍車がかかって気が気ではない。若気の至りだったことは誰の目から見ても明白だが、ただその日その日を生き延びるために痛みを欲した。この世の何処にも自分が存在しないかのように感じられる、死に酷似した恐怖を打ち負かすためにはそれ相応の痛みが必要だった。両腕に切るところが無くなれば体の他の部位を傷付けた。

 だが、そんな事を続けていくうちにだんだんとそんな馬鹿げた行為にも慣れてきて、そのうち意味をなさなくなった。痛みをもっても尚、苦しみを上回ることが出来なくなったからだ。

 自己をこの世に引き止めるための痛みや意味を失くした私の意識は、ゆっくりと脳内を蝕み、やがて何も感じなくなった。喜びも悲しみも、まるで濃霧に攫われていくかのように薄れていった。ここに自分が存在しているのかどうかさえ疑わしかった。

 記憶の中の思い出ではそんな事はないのに、今目の前の世界はあまりに平坦で色彩に欠けている。そんな風に思うようになった。色も音も風の強弱も、これではない。草木の擦れる音すら残響のように遠い。頭がぼんやりしているせいなのか、実際に世界が一変してしまったからなのかは分からない。過去は思い出せても、今と未来がふわふわと霞んで見えなくなってしまった。

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