第3話 再会

 そんな彼とは、卒業式を迎えた次の日から会わなくなった。連絡先などは交換していなかったので、近況を報告し合う術もなかった。

 私は片時も彼のことを忘れることはなかった。高校の卒業資格を得るためだけに、好きで選んだわけでもない高校に入学し、授業を受ける気など全くないような連中がひしめき合う教室で一人虚しく黒板の文字をノートに書き写している時も、帰りの電車の窓から射し込む夕日が私を焼き殺そうと企んでいた時も、いつだって忘れたことはなかった。もし忘れてしまったら、あの時の思い出が私の記憶から全て消え去ってしまう気がしたからだ。何気ない日常の中に佇む彼を忘れたくはなかった。

 学問に励むでもなく、高校生活を謳歌するでもなく、惰性で三年間を過ごした私は何の思い入れもない校舎を後にした。

 それから何年経っただろう。五年は経っていただろうか。ある冬の日、近所の川辺で散歩をしていた私に思いもよらない出会いが訪れた。それはほんの一瞬だった。

 その川というのは住宅街のど真ん中を広々と流れており、数十メートルごとに橋が掛けられていて、鯉の背鰭が水面上にやや出てしまうくらい水位が低い川だった。シラサギやアオサギ、鵜や鴨など沢山の野鳥が餌を探したり水浴びをしたりしていて、長い望遠レンズが付いた一眼レフを構えてシャッターチャンスを待っている人も多かった。

 凍えそうな冬の風が絶えず頬を撫でていく感覚を堪えながら、早歩きでその川沿いを歩いていた時だった。前方から、ジーンズ生地のジャケット一枚をTシャツの上に羽織っただけの、季節にそぐわぬ格好をした男性がこちらに向かって歩いてきたのだ。小さな文庫本を目の前で開いて読みながら近付いてくるので、私が対向してきている事に全く気付いていなかったのだろう。すれ違う瞬間に、その男性は急に視界に現れた私に驚いたのか、ビクッと肩を震わせ、その後私の顔を見て軽く頭を下げた。

 一瞬。その時ほんの一瞬だけ目が合った。綺麗にカールした長いまつ毛に、黒々とした瞳。整った鼻と控えめな唇。記憶と違うところといえば、両耳に小ぶりな黒いピアスを付けていたということだけだった。

 ──案外人は何年経っても変わらないのだなと思った。彼だった。中学の時の思い出の中で色褪せずに私の心に刻まれている彼。時が止まったのかと思うくらいに、その瞬間が永遠のように感じられた。

 彼はすぐに目を逸らすと、再び本へと視線を戻して歩き始めた。

 私は暫く彼がやってきた方を呆然と見つめたまま立ち尽くした。ぽっかりと大きな穴が空いた心の隙間にピタリとはまる欠片を見つけたような気持ちだった。

 慌てて後ろを振り返ると、彼はもう次の橋の向こうまで遠ざかっていた。私は彼に何か一言でも声をかけたくて、急いで彼のあとを追った。曲がり角を幾つか曲がり、彼との距離があと少しのところまで追いついたところで、私の足は止まった。特に何かを考えた訳でも、深い理由があった訳でもなかった。それ以上踏み出せなかった。ただ、心のどこかで、大切にしている思い出が崩れ去ってしまう気がした。私は乾いた北風に吹かれながら、どんどん遠くなる彼の背中を見えなくなるまで見つめていた。

 それから今まで、一度も彼を見かけたことはない。まだ地元にいるのか、それとも都会に出て行ったのかは分からない。彼にとって私という存在は数ある出会いのほんの一部で、既に過去と化した存在なのだろうが、それでも、どこかで幸せに暮らしてくれていればそれでいい、と恋愛小説で散々使い古された定型文のようなことを未だに思うのである。

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