驕傲が生んだ獣③
学舎の訓練場を越えた先に開放された木造門があり、その傍らに見張りが駐在する物見櫓が建てられている。そのまた前方には村と外を繋ぐ連絡橋が架けられていて、今はそこで見回り隊の数名が横並びになってバリケードを張っているため、橋より先の景色は見通せない。
一見して隊列に乱れはないが、沈黙を保つ彼らの背中からは、どことなく緊迫した雰囲気が漂っているように感じられた。
ガゼルたち一行は外の様子を伺うべく、物見櫓に乗り込んだ。頂には見知った顔があった。
「お、おいっ、お前たち、どうしてここにいる?」
丸顔に団子鼻が特徴の男、トライデンは突如として現れたガゼルたちの姿を認めるなり、狼狽した反応を露わにした。
トライデンは着任したての衛兵で、ガゼルたちより年は上だが、つい三月ほど前まで同じ学び舎の教室で苦楽を共にしていた仲だ。
気心の知れた彼が本日の見張り番だと知って、ついてるとガゼルは思った。兵役に就いていない村人は櫓に立ち入ることは基本的に禁じられているため、人によっては問答無用で追い返される可能性もあったからだ。彼が相手なら多少の無理を突き通すことも難しくない。
「ガキたちやジジババどもの避難誘導は済ませてきた。やることはしっかりやったんだから、少し持ち場を離れるくらいのこと大目に見やがれってんだ」
荒っぽい口調でノヴァがトライデンを丸め込もうとする。
トライデンがまた何か言い返そうとしている気配があったが、それを封殺するようにガゼルは質問を重ねた。
「状況は? どうしてこんなに静かなんだ?」
矢継ぎ早に言葉を投げかけられて、トライデンは呆然としたように目を瞬かせている。つかの間当惑した眼差しでガゼルたちの顔を眺めていたが、やがて彼らが冷やかしで来たわけじゃないことは通じたらしい、嘆息して指を櫓の外に向けた。
「自分たちの目で見てみろよ」
三人は直ちに見張り台の柵に駆け寄って示された方角を見た。
そこには絶句を強いる光景が広がっていた。
連絡橋を越えた袂辺りに、武器を構えた衛兵たちが塊となって佇んでいる。その前方の平原に、外敵と思しき人影の軍勢が揺らめいているのが見えた――そう、
ざっと見渡す限り、その数は少なく見積もっても100は優に超えているだろう。
対してこちらの兵士の数はというと、せいぜい30弱といったところ。加えて、先の『大斧』との大戦から期間が空いていないため手負の者が大半を占めている。
「やっこさんら、雁首揃えるばかりで一向に攻めてきやしない。だから、ずっとあんな調子でにらみ合いが続いてる。何を企んでるのか知ったこっちゃないけどよ、あの軍勢に一気に攻め込まれたら、今のうちじゃあひとたまりもないぞ」
渋面で不安な心境を吐露するトライデン。
聞き捨てならないとばかりにノヴァはふんと鼻を鳴らして抗論した。
「数がなんだ。衛兵の鉄壁の布陣を甘くみるなよ。『大斧』みたいな大罪人が相手でもなけりゃ、そう容易く打ち破られやしねえよ」
トライデンは額に手を当てて、嘆かわしそうにため息を零した。
「てめえの目は節穴か? よく見ろ。あいつらが掲げてる旗の紋様をよ」
言われた通り、ガゼルたちは再度平原に視線を投げた。
群衆の中、ぽつぽつと軍旗が掲げられているのが目につく。紋様を視認して、また息を呑んだ。
白地の画布に墨汁で描かれた黒影。俯瞰でみた蜂のシルエットのようだ。
「うそでしょ……あれって〈メリッサの会〉じゃないっ」
フーリエが慄き声で漏らす。
〈メリッサの会〉とは、あの『大斧』のグラシエルと双璧を成すと言われる大罪人、『隷属』のミストレスを首領に擁する一大組織だ。
最大の特徴はなんといってもその構成員の数で、一説によると島の人口の過半数が〈メリッサの会〉かその傘下組織に属しているという。
元は外界で隆興していた宗教団体だったが、時代の進行と共に危険思想集団とみなされるようになり、長きに渡って弾圧されてきた歴史を持つ。〈メリッサの会〉はその教団の末裔と教団の再興を希うシンパたちの集まりだ。
眼下の光景を唖然とした心地で眺めていたところ、群衆の先頭にひときわ強烈な存在感を放つ人物を見つけた。
黒のハンチング帽に右目の眼帯、腰まで伸びた長い金髪、風を受けてもびくともしなさそうな硬質の黒マント。
初めて見たが、特徴からして間違いない。あれこそ〈メリッサの会〉を束ねる女傑・ミストレスだ。
「俺のいうことが理解できたか? 今目に見えてる奴らだけを相手にすればいいわけじゃない。奴らの後ろには、またごまんと戦闘員が控えてるだろうよ。対してこっちの数は女子供を数に入れても7、80が関の山。まるで蟻と巨人が取っ組み合うようなものだ。多勢に無勢、まともにやり合ったら、到底敵いっこない」
今度という今度はノヴァも何も言葉を返せないようだった。
つかの間、絶望的な空気が場を支配して、総員閉口を余儀なくさせられる。
その時、衛兵の人垣から、ゆらりと人影が抜け出るのが見えた。その姿を認めるなり、ガゼルは虚をつかれた。我らが恩師、プルートであったからだ。
「どうして先生があんな前戦に出てるんだ?」
ガゼルは掴みかかるような勢いでトライデンに尋ねた。
魔術師は小回りの利かない戦闘スタイルから後衛を務めるのが定石だ。通常ならば見回り隊の列に混じって援護射撃を行うのがプルートの立ち位置であり、間違っても先頭に立って単身で敵陣に乗り込むなんてことはありえない。
トライデンは険しい顔つきを崩さないまま、ガゼルの質問に答えた。
「向こうさんの要求らしい。俺も人づてに聞いたことだから真偽のほどは定かじゃないんだが……奴ら、戦争を仕掛けにきたんじゃなく、和平を結びに来たんだとさ」
和平、とガゼルは反復した。見渡すかぎりの軍勢を前にして、まったく現実感の湧かない言葉だ。
「どうもこの村にある『何か』を求めてお越しなすったみたいだ。その交渉窓口に先生がご指名されたってわけさ。しかし、何が目的なのかは皆目見当もつかないぜ。こんな辺鄙なところに、やっこさんが求めるお宝なんざ、あるはずないと思うんだけどな」
その発言にいち早く反応を示したのもガゼルだった。
ガゼルはノヴァに視線を送った。ノヴァははじめ、いまひとつ要領を得ていないような顔をしていたが、ガゼルから意味ありげな眼差しを浴びるうちに、ようやくひらめきを得たのか口が半開きになった。
前例を鑑みるに、恐らくミストレスが所望しているのも、あの『禁術目録』と題された漆黒の魔導書に違いない。ははあ、だから魔術師である先生に白羽の矢が立ったわけだな、とガゼルは得心する。
「交渉が決裂すれば、即刻開戦だろう。そうなると手数の薄いこちらが蹂躙されるのは火を見るより明らかだ。うちが生き残るには和平を結ぶ以外に道はない。……頼むぜ、先生」
トライデンが指を噛みながら祈りの言葉を口にする。
無論その思いは彼ひとりだけのものではない。この現場に居合わせている同胞たちの誰もがプルートに向けて同様の期待を寄せているに違いなかった。
祈ることしかできない現状にもどかしさを覚えている者もいるだろう。ノヴァなどはその格好の例で、ずっと難しい表情で歯ぎしりを奏でては内心の苛立ちを露わにしていた。
ガゼルも平和的解決を望む気持ちは一緒だったが、それとは別の懸念も胸中に同居していた。
もしも〈メリッサの会〉が想像通りのものを求めていたとして、なおかつそれを差し出すことが唯一、衝突回避の交換条件として提示されているのだとしたら――その要求はプルートにとって呑めるものだろうか?
人類史に仇成すとみなし、心中覚悟でこの最果ての地にまで持ち込んだという曰く付きの書だ。大切な家族に累が及ぶからといって、おいそれと手放せる代物ではない。
言うなればこの村の平和と世界の安寧秩序が天秤に掛けられているようなものだ。
人類史や外界のことなど知ったことでないガゼルなら即決できる択だが、外界出身の学者としての顔も持つプルートがどちらを選択するかは未知数といえる。
一同が固唾を呑んで交渉の成り行きを見守る中、やがてミストレスの右手が挙がった。振り返り、声を張る。その重厚な出で立ちを裏切らない、ハスキーな声だ。聞き違いでなければ「撤収」といったように聞こえた。
その声を合図に、数百の軍勢は一斉に回れ右する。そして、不揃いな足並みでぞろぞろとこの場から引き上げはじめた。
ノヴァ、フーリエ、トライデンの三名は、揃って安堵の息を零した。さすが先生、頼りになる、もう足を向けて寝られないな、などと口々に褒め称えるようなことを言い合っている。
その傍らでガゼルだけはその輪に加わらず、複雑な笑みを浮かべていた。
こうもあっさり退散してくれたということは、禁術書の引き渡しが決まったということだ。それは本当に喜んでもいいことなのだろうか――
「あれ? 先生?」
ちらと櫓の外に視線を戻したフーリエが怪訝そうな声を漏らした。
ガゼルもそちらに目を遣って、おや、と思った。
ぞろぞろとこの場を立ち去るメリッサの群衆。最後尾にはミストレスの無骨な背中が見える。不思議に思ったのは、そのミストレスの隣にプルートが肩を並べていたことだ。
どうしてプルートまでもが村から遠ざかっているのか?
その理由は後の衛兵からの報告により明らかとなった。
傍目には円満に終わったかのように見えた取引だが、実はまだ交渉の真っ最中ということらしく、一時的な話し合いにより成立に至るにはもう少し時間をかけて詳細を詰める必要があると判断されたため、一旦腰を落ち着かせられる場所に移動しようということになったのだという。
話を聞くかぎり、交渉は穏便に進んでいるようで、早晩村に大量の軍兵が送り込まれるような事態には転ばない風向きだ。
死人を出すことなく難局を逃れられたことに、村人たちはひとまず胸を撫で下ろした。だが取引内容がプルート以外の誰も把握していない以上、彼が不在の中で事が上手く運ぶという保証はどこにもなく、まだ楽観視できる状況ではなかった。
一夜明けてもプルートが帰ってくることはなかった。
時間がかかるとは聞いていたが、それにしても遅すぎる。
プルートの身は無事なのか、まさか交渉がこじれているのではあるまいな、などと村人たちの間で不安がる声が勢力を増しはじめた。
ガゼルもその一員だった。
先生に限ってへまをすることはないと信じたいが、よもやこのまま村に帰ってこないなんてこともあるのではないか――時間を経るごとにそんな悪夢染みた予感が現実味を帯びてきて、マグマのような焦燥感が胸の底から突き上がってくるのだった。
イノセント・レボリューション 西木 景 @nishiki_k
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