羽化②───虫追う少年の悩みと不思議な笑顔


 少年は飛ぶセミを追う。

 追うが、楽しくはない。

 頭の中にぐるぐると、食い荒らされる死骸の幻像が再生されてしまう。


 灯奈は、最初、虫を追う様子をニコニコと眺めていたが、すぐに、やめた。


「どうしたんだい」


「……ぼく、べつに、虫好きじゃないです。虫取りも、虫を飼うのも、もう、しない」


 少年は、「小3で虫好きなんて、みんなダサいって言ってるし」と下を向く。

 嘘だ。誰も、そんなことを言っていない。


「虫嫌いになったのだったら、自由研究のテーマがおかしいだろうに」


 だからこうして看破される。


「なぜ、嘘をついたんだい?」


 虹人は無言になった。

 灯奈も、彼が何か言うまで待ってくれていたから、夜の公園は虫の音だけが響きわたる。

 だが、結局は、だんまりを通した。

 灯奈に、手を引かれて、公園を歩いていく。

 地面に転がる蝶やセミの死骸を眼にする。

 それらに砂がかかり、アリがまとわりつき、蝿が集るようすは気分が悪いものだった。

 見るつもりはなかったのに、と前を向く。

 電灯を飛び回る蛾が落ちたのを眼にして、ため息をついた。

 きっと、あの子も、同じように虫に喰われるだろう。

 自分のことではないのに、自分の心の奥に爪を立てられていると感じる。

 あの時から、ずっとそうだ。

 いいや、さらにひどくなっている。

 前は、まっさらな死骸を新しく荒らされるのが不快だったくらいなのに、今はもう、現在進行形で食われる、いわば、アリやハエ、土の所有物になっている死骸を見るだけでも、腹の底がふつふつと煮えてくる。

 どうしたら消えるんだろうか。

 誰か教えて欲しい。

 思い歩く中。また、虫の死骸を眼にした。

 食い破られた形跡も砂で汚されてもない。

 まだ真新しい、セミの屍。

 思わず手のひらに乗せて、腹を見る。

 一匹のアリが、腹の中から這い出した。

 一瞬、息を吐いて、灯奈を見ると、彼女の笑顔は、電源が落ちたように消えていた。

 少年は、もう一度、食われる屍を見る。

 沸騰した。

 目の前が真っ赤になった。

 渇いた音が、握った拳の中で炸裂した。

 粉々に粉々に粉々に、擦り潰した。


「あ、は───、ぁ、う」


 セミが、己の手中が粉末になるにつれ、過熱していた頭が冷えていく。

 正常な判断力を、少年は取り戻す。


「あ、ああ、ああっ、ちが、ごめんなさ……」


 情けなくうめいて、どうしようもなくなって、彼女を見上げる。

 と。


「───ぇ。ぁぇ?」


 笑顔が、電灯の白光に艶かしく照らされていた。黒いセーラー服の彼女は、心底、安心したような笑顔を向けていた。

 明らかにおかしなことをしたのに、意味がわからなく、動きが止まる。

 対して灯奈は、ダウナーで中性的な声はそのままに、熱っぽい笑みを深めて、


「虹人くん……」


 たおやかな指が頬へ伸ばされる。

 シャープな顔が、笑んだまま、近づいて。

 彼女の持っているスマートフォンから、アラームの音が響いた。


「……今日は、帰ろうか」



 手を引かれて、家の前で別れた後。

 寝巻きになった虹人は、横になりながら、灯奈の不可解な笑顔を思い出す。

 自分が虫を潰していたのに、なぜ?

 ふつうの人と、感覚がズレてるのだろうか?

 それを言ったら自分も同じだ。

 でも、もし自分の隣で、アリのたかった死体を急に握り潰していたら「そんなことはダメだよ」と止めるだろう。

 アリは、生きるために虫をバラしているだけだ。きっと本当はやりたくないに違いない───と思ってなくても仕方のないこと。

 虹人は、昔見た、優しい祖父がニワトリを絞めている様子を思い出す。

 アレと、同じだ。

 だが自分は、その様子を見たとき。「優しい人が命を殺す」のにショックを受けても、「生きるものが殺される」姿は平気だった。

 なのに、今回、セミへは。

 ……死んだ虫をバラすのと、生きたニワトリを殺すのに、違いはあるのだろうか。

 死んだとしても、同じ生命じゃないのか?

 あるのだとしたらそれはなんだろう。ないのだとしたら、なぜ後者は平気なのだろう。

 ひょっとして自分は、とんでもない人間なんじゃないか?

 と、益体のないことを、眠れぬ頭で考える。

 それにしてもなぜ灯奈は笑っていたのか。

 小学生には解決できない問題だった。


 

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