第365話 ラストエピローグ アゼル

 アゼル・ヴァーミリオンは空を見上げる。

 青に蒼を幾重にも重ねた広大な空が、彼に永遠を錯覚させた。


 小高い丘の岩に腰かける彼が視線を下ろすと、さらに色彩溢れる雄大な景色が広がっている。


「──────、」

 アゼルの瞳に映るのは彼と勇者イリアの旅の始まりとなったハルジアの国。そこでは今まさに勇者を讃えるイリア祭の真っ最中だった。

 彼女の死から6年、勇者の死すらも美しい物語に変えて祭事へと利用する。

 勇者イリア・キャンバスの生前も死後も『みんな』の幸せのために消費されていく。そのようにしてまで繁栄を求める人間たちを見て、彼は何を思うのか。


 彼の腰には魔剣ではなく聖剣が、今もなおアミスアテナと呼ばれる剣が差してあった。

 ただ触れているだけで常に激烈な痛みが襲うその剣を、アゼルは当然のように所持し続ける。


 それは、


「アゼル~、さっきからどこ見てるの? ちゃんと私を見て描いてよ~」


 彼とともにいる少女との、絆を守り続けるために。


「わかってる。でも一応あのお祭りはお前のためにやってるらしいぞ。顔を出さなくていいのか?」

 アゼルは目の前の少女の声に応える。黒く美しい長髪に白銀の瞳を宿した、おそらくは10歳にも満たない少女。かつてイリア・キャンバスと呼ばれた勇者に、どこか面影の似た誰か。


「いいよ、私が行ったら大騒ぎになっちゃう。私、もうこんな身体だし……」

 イリアと呼ばれた少女は、自身の肉体を確認しながら自虐的な笑みを見せると同時に、


「みんなの笑い声は、今も聞こえてる気がするから。それでいいの」

 瞳を閉じて耳を澄まし、聞こえてくる多くの雑音を慈しむように抱きしめた。


「……そうか、ならいい」

 納得したのか、アゼルは筆を執って膝の上の木枠に張った画布へ新たな色彩を加えていく。

 そこには、目の前の少女と美しいハルジアの国が描かれていた。


 彼は黙々と、真剣な表情で細やかな線を描き込んでいる。

 だが時たま、その筆が止まって丘の下へと視線が向いていた。


「どうしたのアゼル。もしかしてハルジアに行きたかった? ここに来るのはアゼルと初めて出会った頃以来だもんね。あの時とは立場が逆だけど」

 黒髪の少女の声には悲哀も後悔もない、ただそれが彼には少しだけさみしかった。


「そう、だな。今は、俺がイリアを封印している立場だもんな」

 アゼルは腰の聖剣に目を移し、そのコアとなっている場所を見つめる。そこに封印されているのは魔神アーシェ・アートグラフ、ではなく今では魔神と呼ぶべき存在の力だ。



 かつてディスコルドでの戦いの果てに勇者イリア・キャンバスは肉体を失い、一度は聖剣の中に魂を宿すもそこに定着することはできずに魂すら消滅した。


 魔王アゼルの悲しみの涙を、頑張り続けた彼女の人生に与えられた、たったひとつの報酬として。


 しかし、ここににひとつの奇蹟が起こる。

 イリアの肉体と魂が消失したと思われた直後に聖剣アミスアテナが光り輝き、黒髪で白銀の瞳をした少女が魔王アゼル・ヴァーミリオンの前に現れたのだ。

 それは以前に魔王アゼルを封印した時に起きた現象と同じ。聖剣の中に封じ込めることのできなかった魔神の残滓が形取った姿。つまり少女の正体はアーシェ・アートグラフ、のはずだった。


 だが、彼女が発したのは、


『あれ、アゼル? え、なんで私まだ生きてるんだろ。……あはは、あんなお別れしたのにカッコ悪いね』

 正真正銘、イリアの声だった。


 アゼルは呆然としながらも、わけもわからずに彼女を抱きしめた。ただひたすらに強く、強く。


 その後、黒髪となった幼い姿のイリアを見て苦々しい顔をしながらも賢者リノンは語った。イリアの魂は今、魔神アーシェ・アートグラフの肉体に宿ることで生き永らえているのだと。同時に、イリアの魂のラベルは書き換えられ、すでにイリア・アートグラフと呼ぶべき存在になっているとも。


『まあその辺りは僕と似ているね。リノン・W・Wがかつての姓を思い出すことができないのと同じように、もう今のイリアを見てイリア・キャンバスという勇者を思い起こす者もいない。僕はちょっとだけ例外だけどさ』

 賢者は難しい顔をしながらも、イリアという存在が続いていることが心の底から嬉しそうだった。


 そしてアゼルはリノンを一人連れ出して大事なことを聞き出す。


『魔神アーシェの魂かい? う~ん、それは難しい質問だね。方向性のない澄んだ魂だから、イリアのそれと同化しているのかもしれないし、どこか余所に行っているのかもしれない。───まあいいじゃないか、きっといつか分かる日がくるさ。まだこない未来を心配するより、確かに存在する今を大事にしなよ』


「あのバカ賢者が、適当なこと言いやがって」

 苦笑しながらアゼルはリノンの言葉を思い出していた。


「?? リノンに何て言われたの?」

 アゼルの思い出し笑いを見て、黒髪の少女、イリアは彼に質問を投げる。


「……イリアの封印は絶対に解くなって話だよ。一度解いてしまえばもう一度封印できる保証がないってな」

 アゼルは考えていたこととは別のことを口にするが、それもまた彼がリノンに強く釘を刺されたことであった。魔王よりもさらに強大な魔神の魔素をかろうじて聖剣の中に封じている状態であり、封印を解くと最悪の場合イリアの魂が塗りつぶされて消えるかもしれないと。


「え~、そのせいでアゼルとずっとキスできないんだけどなぁ」

 アゼルの気持ちを知ってか知らずか、イリアは不満そうに頬を膨らませる。


「アホか、今の子供の姿でそのセリフは人聞きが悪すぎるだろうが」

 イリアの奔放な発言にアゼルは頭を抱える。魔神と化してからの彼女はこれまでの抑圧から解放されたとでも言うように自由に生きている。まるで、


「人聞きが悪くたっていいよ。それで私が消えることになったとしても、ね」

 いつその生を終えても、構わないとでも言うように。


「は!? 何でお前それを、ってしまった」

 アゼルは慌てて口を塞ぐが、もはや意味はない。そもそも彼女は、


「実はリノンとの話は聞こえてたから。私、前より耳が良くなってるから隠し話とか大体聞こえちゃってるよ」

 全てを知った上で、彼とともに生きているのだから。


「……それを今になって言うとか、前より性格悪くなってないか?」


「あはは、そうかも。でも私、そんな自分、嫌いじゃないよ。いつかくだらないことで消えるかもしれなくても、誰かの魂との混ざり物だとしても、誰も私を見て勇者イリアだったって思い出せなくてもね」

 黒髪の少女が、屈託のない笑みを見せながら丘の上の草原を踊る。


「本当に、全部筒抜けなんだな。さみしくはないのか?」


「私がしたことが消えたわけじゃないから。いい意味でも、悪い意味でもだけど。それに、死んだイリア・キャンバスと今の私を同じ存在として見てくれる人がほとんどいなくなったとしても、私の側にはアゼルがいてくれるから、全然さみしくなんかないよ」


「そりゃ、約束したからな。俺の全部をくれてやるって」


「変な人、死んだ女の子との約束に縛られてさ」


「イリアとの約束だ、破ったりはしないさ」


「永遠に、続くかもしれないよ?」


「……」


「私がいつか簡単に消えるかもしれないのと同じように、私は永遠に死なないかもしれない。魂がこの身体に定着してしまえば、私は消えて死ぬことはなくなる。私たちが魔神アーシェ・アートグラフをどうやっても殺せなかったみたいに、オージュ・リトグラフが何千年の時を重ねても生き続けてるように、こんな時間が永遠に続くかもしれないんだよ?」

 妖精のように踊り続けた少女は止まる。静かな瞳をして、託宣のようにこれから起こりうる未来を告げた。


「…………」


「私は、悪い女の子だから、アゼルのこと離してなんかあげないよ。そんな『永遠』にだって、アゼルを付き合わせる。アゼルは気付いてるんでしょ、自分の身体がだんだん変わっていってるってことに」


「まあ、な」

 自身の手をアゼルは見つめる。外見が変わらずとも、彼の内側の変化は明白だ。

 日に日に、力が強くなっていた。たった6年の間に彼はかつての父の強さを越え、かの三大魔王の力さえ越えようとしている。


 だけどそれは、彼自身の努力などではなく、


「『魔王の寵愛』ならぬ『の寵愛』ってやつか? アミスアテナに封印しきれなくて漏れ出した魔神の力は全部俺に返ってくるからな。それを全部喰らっていれば、こうもなるか」

 イリアとともにいることで半強制的に魔素を体内へ送り込まれ続けた結果だった。


「私の自我を保とうなんて思わなければそうはならないのに。アゼル、これは全然いいことなんかじゃないよ。今の状況は前にアゼルのお父さん、アグニカ・ヴァーミリオンが置かれていたものと同じなんだから。膨大な魔素に晒され続けて、だんだん死ぬことができない魔素結晶の身体になっていく」


「薄々はそうじゃないかと思ってたが、はっきり言われると堪えるな。今のところとくに不調はないが、なんとかなってるわけじゃなかったのか。このままだと俺は、いずれ物言わぬ石にでもなるのか? 本当、前と立場が逆転したな」


「ううん、そんなことさせない。私はアゼルに石になって欲しくないから、アゼルに流れる魔素の量には気を配ってるもん。それに、アゼルがアミスアテナをずっと持っているのも大きいと思う。このままいけばアゼルは自由に動く魔素結晶になって、ただ永遠だけを手にするよ」


「聖剣の浄化の力が、俺の結晶化をほど良くしてくれてるってわけか。またアミスアテナに感謝しないといけない日が来るとはな」

 激しい痛みを無視してアゼルは聖剣を握る。その痛みが、彼という存在を保つために必要だったと知って。


「感謝するのは早いでしょ、永遠に生きることになって苦しい思いをするのはアゼルなんだから。リノン、言ってた『死ぬ恐れもなく生き続けるのは、たいして面白いもんじゃないよ』って。そんな思いをするより、早く私にキスして封印を解いた方が賢いと思うけどなぁ」

 イリアは人差し指を唇に当てて、少女ながらに妖艶な仕草をする。だが、


「それこそ愚問だろイリア、本当に賢いヤツなら大切な家族をほっといて好きな女との二人旅を選ばねえよ」

 一瞬も迷うことなく、当然のようにアゼルは答えていた。彼は既に、何よりも『イリアと一緒にいる今』こそを大切に選んでいたから。


「……そっか、ホントに馬鹿だねアゼル。キスもできない女の子のために身体張ってさ。あ~あ、今だったら魔神の力も全部どこか遠くへ持っていって、アゼルを解放してあげたのに。選択、間違ったね」

 可愛く舌を見せながら、イリアはアゼルに意地悪な笑みを見せた。


「そんなことあるわけないだろ。俺は、間違いだと知りながらイリアと一緒にいる道を選んだんだ。──────だから、自分は何一つ間違えてなんかいねえよ」

 真剣な瞳が、声が、アゼルの覚悟を何よりも正しくカタチにする。


「自分から間違えにくるなんて、本当に、馬鹿なアゼル。でも、信じてあげる。私たちの在り方が間違っていても、この気持ちに間違いなんてないんだって」

 彼女なりに、彼を突き放したつもりだった。だが、彼は離れることはなく、彼女は突き放そうとした手で彼を掴んでいたことに今さら気付く。


「お前も俺も勇者と魔王として正しく生きてたら、ただどっちかが最後に殺されるだけの話だったんだろうけどよ。その在り方から外れたからこそ選べた未来が今なんだ」


「本当、道を大きく踏み外したよね、私たち」

 言葉とは裏腹に、イリアは後悔なく笑っていた。


「ま、お互い勇者と魔王の肩書きがなくなったんだ、気楽に行こうぜ」


「気楽にって、私は勇者から魔神っていう凄い感じのになっちゃったんだけど。でもアゼルの場合はもう魔王じゃないからなんだろ。つよつよ魔族? それともやっぱり、かな?」


「駆け出しのな。そもそも絵を売って生計を立ててるわけじゃねえから、絵描きを名乗るのもなんか違うだろ」


「知らないの? 稼げなくても売れなくても描きつづける、それが真の絵描きだってリノン言ってたよ。あとそんなヤツ結婚相手に選ばない方が身のためっても言ってた」


「ぐはっ、なんでこの場にいないアイツからピンポイントでダメージ喰らわないといけないんだよ! そもそも俺があちこちで絵を描いてるのだってイリアが言い出したからだろうが」


「え~、だってまだ誕生日プレゼントもらえてないもん。『世界征服』、ちゃんとしないとね」


「だからって絵に描いた土地は自分たちのもんって理屈は流石に子供過ぎるだろ。ていうか逆にいつまでたっても終わらねえ」

 今のイリアとアゼルなら、実力で世界征服する方が彼には簡単に思えた。


「あ、気づいちゃった? 終わらないことが一番の目的だって」

 イリアは再び可愛く舌を出す。それこそ小悪魔のように。


「……まあ薄々は気付いてたけどよ。やり口が汚い大人だ、誰か悪いヤツ賢者の影響を受けたんだろ」


「そうかも、私の周りにはどうしようもない大人が多かったから。なんでも暴力で解決したがる人とか、平気で詐欺を働く人とか、私の目の前にいる、妻子を放り出して幼い女の子を連れまわしている人とかね」


「ぐっ。おかしいぞ、最終的にダメージが俺に返ってくるんだが」


「まあでも半年に1回はギルトアーヴァロンに帰ってるんだから父親としてはマシになった方じゃない? 前は10年も家出してたんだし」


「そりゃ、な。たまには帰らないとエリスにすごい泣かれた後にマジ切れされるからな。あと、アーシャもちょっと見ないうちにすぐ大きくなっちまうしよ」

 初孫の名前を出した瞬間だけ、アゼルの頬が少しだけ緩んだ。


「もう、私の前でおじいちゃんおじいちゃんしないでよね。私なんか城に行くたびエリスさんに『まだアゼル様を返却していただけないのですか?』って言われるんだから。『アゼルを返す』って言ったのはイリア・キャンバスの約束でイリア・アートグラフには無効ですって毎度言うのも疲れるんだよ?」


「メンタルつよつよ過ぎるだろ。そのくせ二人して俺の悪口で盛り上がるんだもんな。本当たくましくなりやがって」


「そりゃそうだよ。初めて出会ったころの無垢で純白な女の子はもういないんだから」

 草原の上を自由に、優雅にイリアはまた踊っていた。


「もう、綺麗だった私とは程遠いけど、私らしい私にはきっとなれたかな」

 風が吹く。黒髪が流れ、白銀の瞳が星のように瞬く。遠く蒼い空を見上げながら舞う彼女が、彼にはひどく美しかった。


「……ああ、なれたさ」

 アゼルは再び筆をとる。彼が目にした一瞬を、永遠のものにするために。



 二人の始まりの場所、ハルジアの空の下、彼女と彼は終わりのページに刻まれた。





 パタンッ、本の閉じる音がする。


 勇者と魔王の旅は終わり、数多の出会いと別れに彩られて白きキャンバスは一枚のアートグラフへと至った。


 鮮烈で、純朴な、どこにでもある、誰かが心を尽くした一枚の絵に。


 もはや彼女は勇者でなく、もはや彼は魔王でなし。こうして二人の魔勇譚は幕を下ろした。


 それでも、終わることなく紡がれる夢と奇蹟がある。


 彼女と彼の永遠を寄り添う旅は、終わらない。


 世界に新しい彩りを加えながら、永く遠大な物語エルダーストリアは今もどこかで続いている。

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エルダーストリア‐純白彩加の魔勇譚‐ 秋山 静夜 @akiyama-seiya

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