第364話 エピローグ ハルジア



 穏やかな陽気の中、乾いた空に祝砲が何度も打ちあげられる。


 勇者イリアの死から6年、人界統一国ハルジアでは盛大な祭りが催されていた。

 その名もイリア祭。ハルモニア世界を魔の手から救った勇者イリアを讃える年に一度の大祭り。


 ハルジアの属領となったアスキルド、アニマカルマ、フロンタークからも大勢の人がハルジアの城下街に押し寄せて幾日もの間、平和とそれをもたらした勇者に感謝を捧げて騒ぎ楽しむ。


 これはまた同時に、宗主国となったハルジアの威を示す祭りでもあり、この祭事を重ねるごとにハルジアの権威はより確かなものとなっていく。


 かつて、勇者イリアの死が報じられてから1年が経過する頃に最果てのハルジアは奴隷大国アスキルドと商業連合国アニマカルマへ同時に宣戦布告し、二正面作戦を電撃的に展開した。

 両国ともに主流の通貨がハルジア金貨であり、事前に賢王グシャがハルジア金貨の貨幣価値を意図的に操作したことでアスキルド、アニマカルマともに大きく経済が混乱していたタイミングと重なっていた。


 そもそも魔族と敵対してから200年もの間、人間の国同士での戦争を想定していなかった両国は人工魔法使い、魔法剣、最新鋭のオートマタ、歴戦の精鋭たちを揃えたハルジアに軍事力でも完全に劣っており、時期を同じくして前線都市フロンタークの支配権もハルジアが握ったことで、両国とも援軍は期待できずに敗北を待つしかない状況にあった。


 本来、二正面作戦を展開するハルジア対して持久戦に持ち込めばハルジア側が苦しくなるはずだったが、両国ともに国内経済が混乱しているためそれも困難。

 魔族の侵攻を度外視した賢王グシャのあまりの愚行に両国は驚き呆け、しまいには魔王軍の到来による現状打破を期待する者まで現れるしまつだった。


 だがハルジアの宣戦布告と申し合わせたかのように魔国アグニカルカから人間に対しての停戦宣言が出されたことで逆に両国は戦況打開の可能性を失い、アスキルド、アニマカルマはハルジアへの無条件降伏を受け入れることとなった。


 アスキルドの王族とアニマカルマの首長たちは各領地の象徴として残されたが、自治権はハルジア国へと没収され、ハルジアは人界統一国ハルジアと名を改めた。


 その際の賢王グシャの占領政策の手腕は凄まじく、そもそも無血で占領したこともあり両国内の反発も少なく、混乱していた国内市場を瞬く間に安定、さらには活性化させて占領前の国民所得がたった1ヵ月で全て2倍以上に増加した。


 またハルジアが秘匿していた技術解放も行なったことで大衆の生活レベルも著しく上昇、魔族からの停戦宣言と重なり200年続く戦争の終結を期待するムードが広がったことで、ハルジアによる突然の占領を非難する声は驚くほどにあがらなかった。


 賢王グシャは勇者イリアの死後1年となる節目に彼女の英雄的な死を讃えるイリア祭を開催。同時期に『魔族を真に支配して人間を苦しめていたのは魔王ではなく、魔界に隠れ潜んでいた魔神であり、勇者イリアはその命と引き換えに魔神を討ち滅ぼし、世界の平和の礎となった』という伝説が民衆の間で定着しつつあったこともあり、彼女を讃える祭事を催した賢王グシャの名声は相乗的に高まることとなった。


 今日は、そんな国民的行事であるイリア祭の第5回目となる開催。

 人々はそれはもう盛り上がり、皆笑顔でこの世の春を謳っている。


 そのように国全体が浮かれている中、そのハルジアの王城では、しめやかにある会合が開かれようとしていた。


 王の間に集うのは儀礼装備に身を包んだ警護に最低限必要な数の騎士たちと数名の文官、そして黒騎士アベリアと白騎士カイナスを側に控えさせて玉座に座る賢王グシャのみ。


 厳かで張りつめた空気の中、王の間へと至る扉が開く。


「魔国アグニカルカより、魔王アルト・ヴァーミリオン様のお越しであります」

 入場を告げる声とともに開かれた扉から、気品に満ちた女性が玉座の間へと足を進める。


 魔王アルト・ヴァーミリオン、現在のアグニカルカを統べる女王が堂々とした佇まいで人間たちの居城に来訪した。彼女は豪奢ながらも品格のある紫色のロングドレスを纏い、床に流れるようなスカートを二人の従者、ユリウスとカタリナが裾を持って静かに付き従う。───彼女の胸には、灰色の薔薇が慎ましく飾られていた。


 ゆっくりと、静かに、魔王アルトは王の間の中心へと辿り着く。


「ようこそハルジアへ。遠路はるばるの来訪まことに感謝する、魔王アルト・ヴァーミリオン殿。それにしても随分と美しい姿、まるで花嫁のようですらあるな」

 賢王グシャは玉座から立ち上がることなく、淡々とした重く低い声で、対等な国同士においては侮蔑的ともとられかねない言葉を口にした。


「なに、ついぞ着る機会がなかったものでな。せっかくの機会なので華やかな衣を用意してみたまでのことじゃ。……別にこの国に嫁入りに来たつもりはないぞ?」

 しかし魔王アルトは眉を顰めることもなく、普段の彼女とは違う老獪な口調で賢王に相対した。もちろん彼女なりの皮肉も込めて。


「無論、承知している。気を悪くしたのなら謝罪しよう、新しき魔王よ」

 対して賢王グシャは先ほどの発言が本当にただ思ったままのことを口にしただけだったのか、素直に玉座から立ち上がって謝罪しようとする。


「ほう、こんなドレスひとつでかの賢王の頭を下げさすことができるなら妾も捨てたものではないな。じゃが謝る必要もない、こたびはそんな小さな成果を求めてここにきたわけではない」


「そうか、ではそのようにしよう。それで、いかがだったろうか、城下街の様子は」

 グシャは再び玉座に座り、魔王アルトの人界統一国ハルジアへの評価を求めた。


「……まったく、たかだか数年でよくもここまで発展したものじゃ。妾たち長命な魔族には望むべくもない、まるで生き急ぐかのような変貌ぶりじゃ」

 アルトはお忍びで覗いたハルジアの城下の様子を思い返す。人々は溢れかえり、街は活気と熱気に満ちていた。誰もが、自分たちの明日の幸福を疑いもしていない。

 自分の国アグニカルカが、その地点からはまだはるか遠い場所にあることも実感して。


「我々が生き急いでいるというなら、それはそうだろう。貴殿たちのように数百年のスパンで物事を考えていては我らはすぐに年老いる。残された時間で何ができるのか、いや残る限られた時間の中で何を成さぬと切り捨てるか、私たちの生は所詮その程度のことを選ぶ自由しか持ち合わせていない」

 蒼い瞳の王は、諦観も交えながらそう告げた。


「ふん、何が私たちじゃ。そこまで切り詰めなければならないほどに未来を見据えることができるのはそなたくらいなものであろう。だからこその人界統一国、しかし賢王グシャよ何をそんなに急いでおる?」

 アルトが抱く直感的な疑問。彼女からすればこの国は、この王は生き急いでいた。アスキルドやアニマカルマの占領もこの賢王であれば軍を動かす必要もなく、円滑かつ安全に他国を占領することもできたはずだ。なのに、ハルジアは少なくない反感を買うリスクを背負ってまで統一国を作る暴挙に出たのか。


 まるで、何かの時間が迫っているとでもいうかのような。


「ふむ、特段に急いだつもりはなかったが、魔王アルトには私がそのように見えたか。だが私は所詮、私にできる最善と最速を心がけただけに過ぎない。私が望むことは私自身の保身と、私が継いだこの国ハルジアの繁栄のみだ。今のところ、求めたモノと手に入れたモノが一致しているのだからとくに問題はないと思われるが」

 自身の行動に何か問題があったのか、まるで聞き返すようにグシャの瞳が見開く。


「呆れたものじゃ、問題がないことの方が問題であろうよ。普通は求めたモノが求めた通りに手に入ることなどないというのに、貴様にはそれができてしまう。─────さぞ、つまらぬ人生であろう」

 冷やかに、魔王アルトの言の葉が王の間を舞う。


「貴様!! 王に対してなんたる無礼を!」

 賢王グシャの側に控えていた黒騎士アベリアが思わず声を荒げる。


「よいアベリア、魔王アルトは正しい指摘をしたに過ぎない。つまらぬ、人生か。なるほど、確かに私のこれまでの人生において面白いと思えたことは数少ない。あったとすれば、……いや、やめておこう」

 グシャは何か昔の記憶を思い起こそうとして、かぶりを振ってそれをやめた。


「ん? 何か大切な記憶があったのなら触れはせぬが。────クッ、妾が記憶に触れぬなどと言うとは面白い、まさに『どの口が』というヤツじゃ。ハハハハハッ」

 自身で口にした言葉が笑いのツボに入ったのか、魔王アルトは腹に手を当てて大笑いしてしまう。


「あ~、すまぬな賢王よ。我が身に足りぬ経験を他人の記憶で詰め込んだツケじゃ。くだらぬ些細なことでも面白おかしく感じていかんな。……だが、そういうことか」


 そう口にしながら彼女は同時に気付く。『つまらぬ人生』、自身が先ほど口にしたこのワードがこの王の行動の根幹にあることに。

 つまりはこの王は自身の人生を『あがり』にしようとしているのだ。人の人生を遊戯に見立てた時、もうこれ以上は何もすることがない地点にまで賢王グシャは早く着きたがっている。競う相手も、生きる目的もないこの男にとって、少しでも早くその『あがりおわり』に辿り着くことだけが唯一の救いになっているのだと。


「まったく、本当に貴殿たちは生きるのが楽しそうだ。本当、羨ましいほどに。─────だが、これ以上無駄な話を重ねる必要はないだろう。建設的な話題に移ろうか魔王アルト。『平和』の、話し合いだ」

 賢王グシャは空気を変えるように重く本題を口にする。


「話し合い? 此度こたびは会談じゃったか? 和平の式典と聞いてここに来たが」

 魔王アルトも空気が変わったことを理解し、彼女の言葉にも一触即発の緊張が走る。


「間違ってはいない。この会談で和平は完全に結ばれ、すぐにそのまま式典となる。どうせなら一度に済ませた方が効率が良いだろう」


「ほう、言ってくれるものじゃな。まあ妾も別にそれで良い、本当に円満な結論が出るのならじゃが。…………して、『平和』か。不思議な話じゃのう賢王グシャよ。妾が先ほど見た街並みこそまさしく平和じゃった。これ以上何を望むという」


「違うな、平和とは一時的な瞬間を切り取って指すものではない。恒久的なそれを望むほど愚かではないが、せめて世代をまたぐくらいの強度を持ち合わせていなければ、平和の意味があるまい」


「はて、別にそれが無意味と妾は思わぬが。戦乱の日々を過ごす中で、ひと時の平穏に希望を感じる者も少なくはなかろう。それにじゃ、今のお互いの治世であれば世代を越える平和であろうとも実現しうるのではないか?」

 アルトが抱くのは当然の疑問。今現在ハルジアとアグニカルカは緊張関係にない。それならば今こそがまさに世代を越える平和の始まりではないのかと。


「その通りだ魔王アルト・ヴァーミリオン。だからこそ貴殿をここにお招きした。これから先、世代をまたぎうる平和のために私から提案させていただくことはひとつ、魔族の魔界ディスコルドへのだ」


「…………なんじゃと?」

 魔王アルトの眉がピクリと動く。


「な、なんてことを! それのどこが平和のためだって言うんだ!?」

 賢王グシャの言葉に思わず従者であるユリウスが声を挙げて抗議する。


「やめよユリウス、話がこじれる。それで賢王よ、その言葉の意味を履き違えぬようもう一度口にしてみるがよい。それ如何によっては、文字通り世界の平和などあっさり崩れるぞ?」

 アルトの放つ空気が変わり、抑えているだろうにもかかわらず彼女の魔素が漏れ出ていく。彼女のスカートも呼応するように小刻みに震えていた。


「ふむ、私の発言は言葉通りの意味しか持たないが、どこかおかしかったか? 現在、ハルモニアにおいて魔国アグニカルカが存在する場所は元々人間の土地だ。それはお互いの歴史感を擦り合わせた上ではっきりしていることだと思っていたが」


「……うむ、相違ないな。それで?」

 魔王アルトには今の賢王グシャの発言を否定する余地はない。彼女の作成している歴史書『エルダーストリア』こそがまさにそれを証明している。


「その上、先の勇者イリアが散ったディスコルドでの戦いによって、あの世界に魔神はいなくなった。であれば貴殿たちがあちらへ帰ることは自然な帰結だと思うのだが」


「なるほど、そういう話か。じゃが200年以上経ち、我らとてこちらの世界ハルモニアで生まれたものが多数を占めておる。かくいう妾もこのハルモニアで生を受けているわけじゃからの。それをあちらの世界が空いたからと言って、さあ移れと言われても困るというもの」


「だろうな、それは理解できる。しかし、このままハルジアの繁栄が続けば人口が増えて単純に土地が足りなくなる。だからアグニカルカから強引に土地を徴収するよりは、素直にディスコルドへ撤退してもらった方が平和的と考えたのだが」


「かっ、よくぞ吼えた賢王グシャ。お主の手管てくだであれば妾から土地をもぎ取るのも容易いと? その言いようで平和の話し合いなどとよく口にできたな」


「平和とは過程ではなく結果だ。途中で貴殿がいかなる感情を抱いたとしても、決断さえ間違わないのなら問題はない。別段我らも現在アグニカルカが持つ土地全てが必要なわけではない。何十年とかけて段階的に土地を人間に返してもらえるのならそれでいい」


「クッ、何を…………って、急に現実的な話になりおったの」

 魔王アルトは、賢王グシャの提案が実現可能なラインとなったことで少し考え込む。


「まあ、その路線であれば不可能な提案ではない。過去の歴史に対して平和的な解決が望めるというのなら妾も考慮してやる余地がある。それで、魔素の問題はどうするのじゃ? 土地を明け渡したとて、そこに人間が住めぬのであれば意味があるまい」


「そんなものはそちらがディスコルドへの扉を調整するだけで済む話であろう。あれを完全に閉めさえしなければ魔素の侵食する領域もコントロールできるはず。もしもそれができないとなれば神晶樹の森の聖剣で土地に楔を打って魔素を浄化するしかなくなるが」


「ちっ、聖剣を持ち出すなどと妾たちにとっての厄介ごとを増やされても面倒じゃ、扉の調整で手を打とう。だが全ての土地を返すことはできぬな、魔族の中にはどうやってもディスコルドへは戻れぬ者がおる」


「ほう、何故だ?」


「完全に体質の問題、明け透けもなく言えば身体の性能の話じゃな。元々ディスコルドからハルモニアへ逃げた我々の祖先はあちらでは弱小魔族の集団に過ぎない。その上で魔素の比較的薄いハルモニアで生まれ育った者たちの中にはディスコルドの魔素には耐えきれない者がいる」


「そうか、ディスコルドでは適応できずとも、ハルモニアの環境でなら生まれ育つことができた命が少なからずいたわけか」


「そういうことじゃ、故に最低でも現在の3分の1の土地が我らに残らねばならん。それすら叶わぬのであれば今の平和を打ち破ってでも勝ち取るしかあるまい、妾たちの後に続く平和のためにな」

 覚悟を込めて、魔王アルトは瞳を鋭く絞る。


「ふむ、つまりは3分の2の土地ならば我ら人間に明け渡す用意があると? その条件だとこちら側に譲りすぎだな魔王アルト。自国を売ったと反乱が起きるぞ。それにディスコルドの魔素に耐えきれない位階の低い魔族だけが残っても我らに対する抑止力にならん。いずれ私が死した後にでも今度は人間たちがアグニカルカへ攻め込む火種となろう」

 まるでお目付け役の教師のように次々と交渉のミスを指摘するグシャを前に、魔王アルトの忍耐の緒が切れた。


「ああもうっ、土地を寄越せと言ったり、譲るなと言ったり分からないやつね! 貴方が言い出したことでしょうがっ! それで結局どうしたいの、戦争をしたいのか、したくないのか?」

 アルトは素の言葉遣いに戻り、まくしたてるようにグシャへと問い詰める。その威圧に従者であるユリウスとカタリナ、ハルジア側の兵や文官たちは恐れおののき、ついでにアルトのスカートも震えていたが、肝心の賢王グシャは微塵も揺らぐことなく言葉を返す。


「王となって間もなき身としてはよく我慢した方だが、忍耐力にはまだ課題がある。完全にディスコルドへ移住して扉を閉めぬのであれば相応の調整が必要という話だ。それに根本的な誤解があるが、私は戦争を貴殿たちに仕掛ける気などまったくない。何故なら先代魔王たちが加勢に来た時点で我々の敗北は必至となるからな」


「……さあ、あの人たちが私たちに助力してくれるとも限らないけど? それにいよいよ貴方の求めるところがわからなくなってきたわ。平和を求めながら争いの火種となることを口にするし。いやそれとも、火種を消すことすら争いに繋がるわけ?」

 力を持てば戦いが生まれるが、力を捨てることもまた戦いを生む答えなきジレンマにアルトはぶつかる。


「その辺りはおのずと学ぶがよい魔王アルト。私が死した後も貴殿は生き、国を導き続けるのだからな。はっきり言おう、現在のアグニカルカの3分の1の土地を30年かけて割譲かつじょうしてくれるだけでよい。そこで私の治世は終わるからな。後のことはこの国に残った者と、貴殿たちの好きにするといい。少なくとも再び戦乱の日々に戻ることはないだろう」

 賢王グシャははっきりと口にした。彼に演算できる未来の先の先を見据えた上で。


「…………それで、いいわけ?」

 魔王アルトは賢王グシャの思考に追いつこうと頭を巡らせ、結論に問題がないかを脳内で必死に検証する。


「ああ、そちらの民には少しずつ時間をかけて事情を説明すれば問題は生じないはずだ。貴殿たちの方が時間を持っているのだからな。対価に我が国の文化物や伝統技術を無償で提供し続けよう。それが必要なのだろう?」


「そこまで見透かされているとか、本当貴方と対面で話すのはしんどいけど、土地のことはそれで了承したわ」

 魔王アルトは一呼吸置いて、次の言葉を繰り出す。


「でも、そんなに先の平和を考えているのなら、しましょうよ」

 これまで賢王グシャに押されっぱなしだったアルトが、一歩深く彼の懐に踏み込んだ。


「賢王グシャ、貴方が言っているのはこれから先もずっと人間と魔族が不可侵でいることで平和を維持しようってことでしょ。でも今みたいな相互不干渉の関係じゃなくて、もっと積極的に人も物も行き来するようにしましょう? そうしたら貴方の言う平和だってもっと素晴らしいものに、」


「それは、断ろう」

 アルトの発言を全て聞くことなく、グシャは彼女の提案を拒んだ。


「なんでよっ?」

 自身の案が簡単なことではないことは魔王アルトも承知している。しかし、それは普通の王であればの話。この賢王がこれまで行なってきたことを思えばさしたる難題ではないはず、そう彼女には思えた。


 だが、


「──────────そこまで、背負いたくはないんだ」

 重く低い賢王の声が、まるで疲れ果てた少年のように響いた。


「私はこれ以上を望まない。私はこれで『あがり』となって構わない。もう、色々と考えることに疲れたんだ。さして楽しいわけではなかった。時折、喜びに見えた何かもすぐに置き去りにしてしまう。私が子供のころなりたかった『ありきたりな人間』に私はなれないとわかってしまった。だからせめて、かつて自らを人らしく律するために立てた誓い、私とハルジアの安寧が成るのであればそれでいい。もうこれ以上、ゴールを遠くにずらしたくないんだ」

 自らの臣下がいる中で、グシャはアルトしか目の前にしていないかのように自身の心を吐露した。その雰囲気がどこか、知ってる男と重なったのは、彼女の錯覚か。


 ただ彼の蒼い瞳は、『我らが交わらなければ余計な悲しみも生まれない』、そう静かに告げていた。


「───そう、思っていた以上に貴方も限界だったのね。その限界からでもアイツは立ちあがったけど、無理にとは言わないわ。貴方の案で十分にお互いの平和は成立するのでしょうし」


「感謝する魔王アルト。それと一応聞いておくが、かつて貴殿とともにこの場所へ来た少年、彼は今どうしている?」


「死んだわよ。貴方にもその未来は視えてたんでしょ?」

 あっさりと、感情を見せずにアルトは答える。


「さあ、どうだろうか。それでも、ただ聞いておきたかった」

 グシャは何かに区切りをつけるように、一度瞳を閉じた。


「では、会談はここまでにしよう。すぐに和平の式典へと移るのでしばしの間、貴殿たち3人は控室で待っていて欲しい」

 賢王は立ち上がり、この場の話し合いを終わりにしようとする。


「3人、ね。やっぱり貴方にはんだ。待ちなさい、賢王グシャ。話が出たついでだし、返しておくものがあるわ」

 そう言ってアルトは頭上の虚空に手を伸ばし、歪曲した空間からを取り出す。それは彼女の魔城に大切に保管されていた一振りの剣。


 魔王が武器を取り出したことで王の間に緊張が走るが、グシャを除くハルジアの者たちはみんなアルトの持つ剣そのものに驚きを見せた。


「それは、王剣グロリア!?」

 アルトが手にしていたのは、かつてグシャがディスコルドで投擲したまま放棄することとなったハルジアの至宝。王権を象徴する1本の剣。


「この話し合いがくだらない結末になるのなら貴方に投げ返しても良かったけど、一応前向きに話は終わったことだしキチンと返却してあげる。出てきていいわよ

 アルトは王剣グロリアを手にしたまま自身の長いスカートに向けて声をかけ、その裾をめくる。すると、


「いいの、お母様? わたし、すっごくキンチョーしたっ」

 魔王アルト・ヴァーミリオンのドレスの中から出てきたのは年端もいかない少女、アーシア・ヴァーミリオンだった。

 彼女は母と同じような薄紫のドレスを身に纏い、緊張で頬を紅潮させていた。


「驚き、だな」

 グシャは言葉通り驚いていた。何故なら、彼が演算した未来の中に、このような少女はいなかったからだ。


「アグニカルカでは衣服の下に幼い子供を隠すのがこのような場での作法なのか?」

 会談の場に予定外の人物を潜ませていたことを、白騎士カイナスが暗に非難する。


「今朝方になって妾が決めた。アグニカルカではこれから皆がマネしないといけなくなるな」

 だがカイナスの発言を気にしたそぶりもなく、魔王アルトは大仰な口調に戻し胸を張って堂々と言い切った。


「ひどい暴君だ」


「そりゃあ暴君じゃからの。ん、こほん。じゃあアーシャ、この剣をあそこにいる王様に返してあげて。あの人が、貴女のもう一人のお祖父ちゃんよ」

 アルトはひとつ咳払いしてから娘へと向き、賢王グシャを指してそう告げた。


「おじい、ちゃん? うん、わかった」

 少女はアルトから自身の身の丈を超える王剣グロリアを受け取り、床を引きずるようにしながらも玉座にいる賢王へと運んでいく。


 周囲の兵士や文官たちがハラハラと見守る中、少女はどうにか玉座の近くまで辿り着く。同時に黒騎士アベリアと白騎士カイナスが聖剣の柄へと手を伸ばそうとしていた。


「やめろ二人とも、幼子に過ぎぬ」


「ですが王よ、少女とはいえ魔王に連なる者です。王剣を受け取るのであれば他に任せるべきです」


「はは、お前たちは随分と私を過保護に扱ってくれるな。子供の剣を恐れる王の言葉を誰が聞くというのだ。よい、二人とも下がっていろ」

 そう言って、賢王グシャは自ら玉座に至る段差を降りて少女の前に腰を下ろす。


「よく持ってきた。其方そなたにこの剣は重かったであろう」

 賢王グシャは手を差し出し、王剣グロリアを少女から受け取った。


「ううん、ぜんぜんおもくなかったよ。アーシャは剣の練習だってしてるんだから。それで、あなたはわたしのおじいちゃん?」


「……それは、其方の母が言ったことであるからな。私には分からぬよ」

 グシャは、右目が自分と同じ蒼い瞳をした少女を見て、生まれて初めて己に嘘をついた。


「そう、なの? だったら、なんて呼んだらいいですか? わたしはアーシア・ヴァーミリオン、みんなは私のことをアーシャって呼ぶよ」


「私はグシャだ。そう呼ぶといい、アーシア・ヴァーミリオン。だが、私たち人間と君ら魔族はこれから違う場所で関わらずに生きていく。もう互いに名を呼び合うこともないだろう」

 そう告げてグシャは立ち上がり、もはや興味はないとでも言うように少女に背を向けて王の間から去ろうとする。

 少しずつ離れ遠くなる、その背中に、


「まって、もっとお話ししよっ。─────グシャおじいちゃん!」

 少女アーシャの必死な声が追いすがる。

 しかしグシャは振り向くことなどせずに、背後の拙い足音すら聞こえないフリをした。


 だが、


「あっ、」

 足音が途絶え、少女は床に躓いた。その光景を見ていた誰もが彼女の転ぶ未来を予見する。


 ただ一人、少女から目を背けていた男を除いて。


「大丈夫か、足元には気をつけるといい」

 その男は、少女が転ぶ前にすで駆けつけて彼女を抱き支えていた。手にしていたはずの王剣を投げ捨てて。


「うん、だいじょうぶ。ありがとう、グシャおじいちゃん」

 男は自分がお礼を言われていると気付いて驚いた。いつのまに、自分は少女を助けていたのかと。

 小さく、軽い身体、なのに何故か男には彼女がとても重く感じられる。


「名は、なんと言ったか?」

 男は初めて、一度聞いたはずの名をもう一度聞いた。


「も~、さっき言ったよ。アーシャ、わたしのことはアーシャって呼んで」


「そうか、アーシャ。道を歩く時に、慌てるのはよくない」

 男は、知らず知らずの内に少女の頭を撫でていた。男から、賢王グシャの口から自然に優しい声音が響いている。


「道を、急ぐことは、ないんだ」

 グシャは心のどこかで何かが剥がれ落ちる音を聞いた。今まで彼が積み上げたモノ、これで正しいと積み重ねてきたモノが音を立てて崩れていく。


「は~い、わかりました。へへ、もうひとりのおじいちゃんも優しい人でよかった」

 少女アーシャの満面の笑みを、計算のない彼女の笑顔を見ているだけで、賢王と呼ばれた男の演算した未来が意味を失っていく。



「─────、」

 その様子を見ていた紫髪の魔王の瞳が、『私たちが交わったからこそ生まれた喜びだってある』、そう静かに告げている。


「魔王アルトよ」


「何、賢王グシャ?」


「先ほどまでの話を、白紙にさせて貰えないだろうか? 私には何も見えない、見えないが、其方たちと手を取り合う未来というものを、夢見たくなった」


「そう、それはよかったわ」

 アルトは目を細めてグシャを見る。そこにいたのは、賢王と呼ばれるような偉大な男ではなく、初孫に絆されるどこにでもいる老人だったのだから。


 それは、いつか彼が望んだ『ありきたりな人間』の姿だった。


 ここに、魔人の少年の刃は賢王に届く。


 彼が遺したつるぎが、父をただの人へと貶めた。


 この日を境に、賢王の治世は翳りを見せる。


 かつての万能の執政はなりをひそめ、さらにはまるで魔族を優遇するかのような融和政策を始めたグシャを稀代の愚王と呼ぶ者まで現れるほどに。


 それでも彼の王は穏やかに笑っていた。


 交わるからこそ生まれる物語があると、彼はもう知っているから。

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