第363話 エピローグ アルト


 ふと、窓の外を見る。黒と白と、灰色が混ざり合うモノクロの世界。

 魔素に覆われたアグニカルカでは、かつて人間の世界で目にした鮮やかな色合いを見つけることはできなかった。


 もう一度、この目で見てみたい。


 そう、気がつけば、あの色彩豊かな景色を懐かしく思うほどの時間が過ぎていた。


 私が、アルト・ヴァーミリオンが最後に城の外の世界に出たときからは既に3年の月日がたっている。


 ─────アイツが死んでからは、2年半の月日。


 ルシア、あの男が私にとってなんだったのか、忙しい日々の隙間で時折思い返す。


 私が気まぐれに手を差し出した男。


 私の手を嫌々ながらも、力強く握り返してきた男。


 私が彼を欲しかったのは、彼がとても希少でお値打ちモノだったから。



 嘘は、言っていない。…………とても価値のあるものに、不当に安い値が付けられていたのは本当だ。


 そのことを知っていながら彼を見過ごすことが、見逃すことが私にはできなかった。



 私は過去の記録を鑑賞できる。人の記憶ではなく魔素に刻まれた記録を。


 魔素を記録ごと結晶化させる『メモリーストーン』、この技術を完成させてから、私は自分の部屋にいながらにして悪辣にも傲慢に他者の人生を眺めつづけた。


 それは、とてもとても楽しい日々。


 安全圏から他人の内情を覗き見る。私の前では恭しくこうべを垂れた貴族が、仲間内では私のことを小娘と嘲っている。おおやけの場で強く対立していた両者が、裏ではこっそりと密約を結んでいた。

 私はそこで本音と建て前の何たるかを知り、政治の表と裏を知り、理想と欲望が混在する現実を学んだ。

 その過程で私がいくら歪もうと、私が魔王となったのちの優れた治世に繋がるのなら構わない。

 私には力が不足していて、歴代の魔王と比べて圧倒的に戦いの才能がないから、代わりに別のカタチでお父様やお祖父様を超える魔王にならなくては。

 そう思いながら、私は無遠慮に他者の記録を閲覧し続けた。


 ルシアの存在に気付いたのは私がそんな風にいびつな青春を送る中で、彼が私の父である魔王アゼル・ヴァーミリオンへと無謀にも戦いを挑んだからだ。


 城を飛び出して10年間も行方をくらませていた父の記録、足跡そくせきを『メモリーストーン』の力を応用しながら追いかける途中で、私は魔人の少年を見つけた。


 その記録では、路傍の石ころのような少年が天上の貴石とでも呼ぶべき魔王に牙を剥いていた。


 分不相応、身の丈に合わない愚行。当然ながら、彼は為す術もなく私の父に敗れる。


 …………最後の瞬間まで魔王に牙を突き立て、死が目前に迫ろうとも抗う意志を失わずに。


 それが、とても不思議だった。私には彼がまばゆくさえ見えた。


 弱者は強者に従う。弱者は強者に逆らわない。


 これが、昔から変わることなく続く魔族の絶対のルール。何故ならその力の差は天地がひっくり返っても覆ることはないからだ。強い者はずっと強く、弱い者はずっと弱い。

 よって弱者は強者に媚びへつらい、わずかでもと恩寵のおこぼれを受けようとする。


 なのに、彼は魔族の頂点たる王に挑み続けた。


 敵うはずのない摂理に、その身が砕けようと噛みついた。


 だから、私は彼が知りたくなったのだ。どのように生まれれば、どのように育ったのなら彼のような人物が出来上がるのかを。


 私の命題、、それを成し遂げるためには彼を知る必要があると思った。


 私は使い魔の魔鳥ハリスを放ち、彼のいた研究所を突き止め周囲の魔素の残滓に刻まれた記録を蒐集しゅうしゅうすることにした。



 やめておけばよかったと、後悔した。



 他人の記録じんせいを見て、生まれて初めて嘔吐した。



 あんな人生はないと思った。こんな人生があるのかと、温室の中で生まれ育った私は勝手に彼に同情した。


 いや、あの場所も温室といえば温室だ。


 徹底的に管理された環境で、彼は育てられた。


 虐待でもなく、育成でもなく、あれはただひたすらに実験だった。


 人間と魔族との間に生まれた魔人という希少な存在から手に入るデータを、彼が擦り切れるまで収集し続けていた。どれだけの攻撃で傷つくのか、どれほどの治療で傷が癒えるのか、それを何度も何度も繰り返す。魔人の身体の組織は魔族とどう違うのか、人間とはどう違うのか、何十箇所も肉を刻んで採取する。知能は、筋力はどこまで成長するのか、強制的に知識を与え、強引に筋肉を引き延ばす。魔素の総量は、生成速度はどの程度か、何日も一睡もさせることなく負荷をかけ続ける。魔素のない場所で生きていけるか。魔素しかない場所で死なないか。空気がなかったら苦しむのか。食事は必要か。与えすぎるとどうなるか。毒を混ぜるとどうなるか。決して死なないように、大事に大事にギリギリまで苦痛を与えられる。


 これが彼の、ルシアの日常。何のために生きているのかを見失うほどの、おぞましい日々。


 彼がこの研究・実験の日々から逃れて自由を手に入れることができた時の理由も簡単だ。


 肉体があらゆる機能不全をきたしてしまう強化実験を何度も繰り返し、ついにボロボロに動かなくなった彼を廃棄しようとしたタイミングで、その日担当していた研究員が反旗を翻されただけ。


 私は研究員に落ち度があったとは認めない。だってはどう見たってゴミだった。


 どう見てもゴミにしか見えないほどのボロ屑になるまで、彼らはルシアをいじり尽くした。


 だからおかしかったのは、それでもなお反抗する意志を失わなかった少年の方。


 世界全てを呪い尽くすほどの強靭な意志で、ルシアは生まれ育った研究所を完全に破壊した。


 彼という研究素材をひたすらに実験した果てに完成した、魔聖剣オルタグラムと魔銃ブラックスミスを使って。



 私は、大きな思い違いをしていた。


 彼は特別に育ったから、特別な心を手に入れたんじゃなかった。


 どれだけ劣悪な環境で育っても傷をつけられないほど、彼の心が何よりとうとかっただけ。


 さながら、天上の貴石のように。



 そんな彼が、生まれて初めて優しくしてくれたイリアを好きになったのは当然の帰結。


 イリアとお父様が想い合う関係になっていなかったら、ルシアはずっとイリアが特別なままだったと思う。

 お母様には申し訳ないけど、お父様グッジョブ。



 だって私は、それほどまでルシアを手元に置きたかったから。


 貴石のような男、奇蹟のような少年。彼が側にいるだけで私の何かが変わると、根拠もなく確信する自分がいた。



 そして、私は彼に手を差し出した。


 そして、彼は私の手を握った。



 だから、つまりは、彼は私に会った時点で、どうしようもないほどに終わっていたのだ。



 どれだけ心が貴くても、彼の肉体は、彼の寿命は、どうしようもないほど詰んでいた。


 どんなに手を尽くしてもどうにもならないほどに。彼をそんな状態に追い込んだ元凶、ジェロア・ホーキンスの手を借りてもルシアの肉体を救うには至らなかった。


 決して顔には出さなかったけど、毎日が苦しかったはずだ。息をすることが苦痛だったはずだ。


 それこそ、世界全てを呪いたくなるほどに。



 なのに、彼はそんな身体で、と、口にした。



 ─────ああ、やっぱり今でも、この時のことを思い返せば涙が止まらない。


 世界に呪いを刻み残せればそれでいいと思った少年が、誰かの役に立って何か一つ残るのならと妥協した。


 その想い一つで、魔天を統べる邪王にも、絶対たる魔神を相手にも立ち上がり続けた。


 ああ、だから、今でも思う。



 私が愛したのは、この男で良かったと。



 ディスコルドでの戦いの後、ギルトアーヴァロンの居城に帰還してから半年後にルシアは死んだ。


 よく、頑張ったと思う。


 ハルモニア世界に帰りつけただけで奇蹟だった。


 そこからは一日一日を生き抜くごとに奇蹟を必要とするほど、ルシアは死と隣り合わせの日々を過ごした。


 最悪なのは、そんな苦しみの中にありながら、アイツは私の顔を見るたびに微笑んでいたことだ。


 そんなルシアの笑顔を見るたびに、彼がどこか遠くへ消えてしまいそうで胸が張り裂けるくらい苦しかった。


 もうベッドから起き上がることもできなくなったルシアの側を、私は片時も離れることはしなかった。


 それは私がそうしたかったからでもあるし、そうして命を繋ぎ続けないとルシアはすぐに死んでしまうような状態だったからでもあった。


 だけど、今でも不思議だ。


 お互いに苦しみの中にいたはずなのに、振り返ってみればあれほど穏やかな時間もなかった。


 半年の間、離れることもなく、彼の手を握った。


 ずっと、たわいもない話を続けた。


 一緒に過ごした、たいして長くもない二人の日々を、まるで永遠の物語のように語り合った。


 結局、自分の父親に剣を一撃も当てられなかったことが悔しいと、子供みたいに拗ねていたのが可愛かった。


 私の一番好きなところはどこって聞いた時、『……顔』と答えて意地悪そうに笑った時のアイツが憎たらしかった。


 私の人生の中で、あれほど長い時間をともにし、言葉を交わしてた男は、いまもって彼以外にいない。


 きっとこれからも、そんな男が現れることはない。


 きっと、絶対に。



 アイツの呼吸が止まった日、涙は流れなかった。


 それまでの日々で、もう全て流し尽くしてしまったから。


 最後に、傷んだ灰色の髪、二度と開くことのない目蓋、整った輪郭を私の指でなぞり、彼の綺麗な顔に口づけをして別れを告げた。



 ルシアが死に、それから私は正式に魔王の座についた。


 だって仕方がない、先代魔王、我が父アゼル・ヴァーミリオンは再び放浪の日々に出てしまったから。


 今度は正式に、魔王の座を退位して。


 貴族たちからはせめて『大魔王』として立場を残して欲しいという声も挙がったけど、父はそれを拒否し、私もその想いを尊重した。


 最後の大魔王は、たった一人の偉大なる魔王はお祖父様、アグニカ・ヴァーミリオンだけでいい。


 以降、魔王となった私は魔族の全実権を握ってやりたい放題やっている。


 私に唯一真正面から反論できるのはセスナくらいだけど、彼女こそお祖父様が亡くなって以降は覇気を失い、毎日大魔王の扉の前でせつない顔をして佇んでいる。本当に、彼女は祖父様のことを愛していたんだ。


 あとお母様もお父様がまた出ていったり、小さな子の面倒でそれどころじゃないから私が何をしたってお小言を言われることもない。まあそもそもお母様が政治に興味を持つなんてないんだけど。


 だから、私はなんでもやった。


 まずは恩寵制度の撤廃、無力化。


 魔族は魔素の支配力が全てを決める。魔素を生み出す力の弱い魔族には発言権すら与えられない。

 生きるために上位の魔族から魔素の恩寵を受けたが最後、子々孫々未来永劫にいたるまで逆らうことは許されない。


 そんな世界はまっぴらだ。


 弱く生まれついた人も、強く生まれついた者も等しく同じ地点から競い合う。


 私があの日見た、最弱の少年が最強に打ち勝った夢のような光景を、幻にしてしまわないためにも。


 やったことは、恩寵の三角化。私は、下位の魔族に恩寵を与え支配している貴族たちに恩寵、いわゆる『魔王の寵愛』を与えることにした。私に未来永劫反逆することができなくなるとはいえ、いずれにせよ魔王相手に勝ち目のない彼らにとって恩寵はただの僥倖ぎょうこうでしかない。これで貴族たちが下位の魔族へ横暴な振る舞いをすることへの抑止にはなる。


 でもこれだけだと、強者がより強い強者に従うだけで魔族全体のシステムは変わらない。


 だから、私は下位の魔族、底辺を生きる彼らからことにした。


 彼らを集めてその勅命を下した時は、当然ながら恐れおののいて辞退する者ばかりだったけどそんなのは私の知ったことではない。魔王様の命令は絶対、別に暴君と呼ばれたって構わない。私は萎縮する彼らから必要最低限の魔素を恩寵として強制的に徴収した。

 

 これによって支配権の三すくみが完成する。上位の貴族は魔王である私に逆らえない。下位の魔族は貴族に逆らえない。そして私は本来であれば最底辺の魔族に属する彼らに逆らえない。


 こうすることで、貴族は自身の支配下にあった魔族をないがしろにすることができなくなった。

 だって弱者であるはずの彼らは、いざとなった時に貴族を支配する魔王わたしに命令ができるのだから。


 ついでに言うと、私は恩寵を受けることで彼らの身に何かあった時の異常を感知することができる。だから貴族たちもおいそれと強行な手段を取ることはできなくなった。


 もちろん、この行為は私にとっては自身のリスクをただ高めるだけの蛮行だ。何もしなければ支配階級の頂点に君臨する者が、容易く最下層の者たちの反逆を許すことになる。


 でも、我ながら本当に歪んでいると思う。


 これまで弱者とされていた彼らが本当にそんな判断をできるのなら、私の夢が叶ったも同然と思ってる自分がいるんだから。



 私が次にやったのは人間文化の奨励。


 魔族の文化においては、やっぱり魔素が全てだ。十分な魔素があれば食事もいらないし、衣服も作れるし、家も作り上げることができる。力の強い者になれば、城や、街だって。


 だけどそれじゃ支配の解消ができても貧富の格差は埋まらない。


 だから私は魔素を十分に生成できない魔族に人間たちの文化を積極的に取り入れるように奨めた。


 畑を耕し食物を作り、繊維を編んで衣服を作り、木々を倒して家を作る。


 魔素によらない生きるための文化の醸成。そうすることで彼らは生まれ持った魔族としての才能に左右されない新しい価値を築くことができる。


 いずれ、人間たちと同じように築き上げた新しい価値の間で富の格差が生まれる日も来るだろうけど、それすらも私たちがいつか乗り越えるべき課題だ。人間たちと、同じように。



 そして一番の改革は、魔族と人間の融和だ。


 相手が敵だと争っていては社会が育たない、相手を知ろうとしなければ文化は育たない。相手と手を取り合う余裕がなくては、何よりも心が育たない。


 個人的な私情としては、友人が命を懸けて守った人間の世界と、もう敵対したくなかったというのもあるけれど。


 私は人間に対する敵対行為を禁止して、定期的にアグニカルカから講和の使者を出すようにした。

 窓口はいけ好かない王のいるあの国だけど、その判断は最終的には間違ってなかったのだと思う。


 だってあの国、ハルジアが人間の世界を統一してしまったから。


 人工魔法使いや魔法剣、最新型のオートマタに幾多の死線をくぐり抜けた精鋭たち。その絶対的な武力を背景にして、そもそも他国の貨幣経済をも牛耳っていたハルジアは奴隷大国アスキルド、商業連合国アニマカルマを無条件で降伏させて属国とした。

 何が恐ろしいかというと属国になったはずの民衆は大手を振ってハルジアへの属国化を喜んでいたことだ。


 ハルジアは元々が良政を執り行う大国として周辺国にも知られており、さらにはハルジア国民の生活レベルが短期間で引き上がっていたことで、他国からの移民希望者が多く出るほどにハルジアは羨望を集めていたからだ。


 自分たちもそんな生活ができるのなら国家の肩書きが変わっても構わない。そう思わせた賢王グシャの手腕は私も見習いたいものがある。


 それに人間側が一枚岩になってくれたおかげで、魔族と人間の融和は一気に、とはいかないけどゆっくりと確実に関係修復が進んでいる。


 なにせ私が生まれるよりもはるか前、200年にも渡る人間と魔族の敵対の歴史だ。ほんの数年で全ての溝が埋まるなんてことはない。


 私が一度でも判断を失敗すれば、人間と魔族は簡単に元の関係に戻るだろう。人間にも、魔族にもそうなることを望んでいる者は少なからずいる。それが今は、私とあの賢王の支配力で表に出てこないだけの話。


 だからこそ、架け橋が必要だ。


 かつて、勇者と魔王が手を取り合って魔神を打倒したように。


 人間と魔族、双方の価値を理解できるような─────、



 考えながら、筆を止めた。


 今、私の目の前にあるのは魔王アルト・ヴァーミリオンとしての最大事業。歴史書の作成だ。


 いつかどこかで起きた失敗も、かつて誰かが遺した偉業も、これまでの全てを歴史書として編纂する。


 私の『メモリーストーン』で過去を閲覧できる力、ユリウスとカタリナを貸してあげた鍛冶師クロムの持つ記憶と文献、悔しいけれどあの賢者の知識や力も借りながらこれまでの歴史を限りなく正確に紡ぎ出して書き上げる。


 その名も『長く偉大な歴史エルダーストリア


『これまで』を『これから』に繋げるためのひとつの架け橋。


 どれだけの失敗と犠牲、努力と達成の果てに今があるのかを忘れないための記憶帳。


 お祖父様は自分たちの罪を子供たちに背負わせないために何も伝えなかったけど、知らなければ向き合うことのできない現実がある。親の罪を子が引き継ぐなんてことはしないけど、その罪や失敗を知って今とどう向き合うかを決めるのは自分たちだし、その次に続く子供たちなんだから。


 私はできるだけ公平に、公正に、魔族としての立場、私的な主観を捨てて長い歴史を書き上げていく。


 もちろんそれでも偏りは出るものだから、私は一定量書き上げるたびにある意味で公正な目を持つあの王に添削を頼んでいる。……でも、たまに鬼のような修正が入ってて本気で戦争を仕掛けたくなる時もあるんだけど、自重する。自重、自重、我慢しろ私。


 それとあともう一つ、歴史書の作成と並行してやっていることもあって、


 ドタッ。


 私室の書斎でもう一つの課題に手を着けようとした時、少し離れた場所にあるベッドから何かが落ちたような音がした。遅れて、子供が泣き出す声も。


 ベッドの方を見ると、予想通り昼寝から目を覚ました幼い少女がベッドの端から床に滑り落ちたところだった。


 今ユリウスとカタリナは講和の使者として使いに出ていて、お母様も自分の方で忙しそうだったから私のベッドで昼寝しているうちにと思って仕事に取り掛かったけど、やっぱりちょっと目を離すとこの調子だ。


 少しだけ泣き止むのを期待して待ってみたけど、泣き声は止まるどころが力強さを増すばかり。


 仕方なく眼鏡を外して椅子から立ち上がり、我が娘の救出に向かう。


「大丈夫? 頭でもぶつけた? 」

 泣き止まない我が子を抱き上げてゆっくり頭を撫でる。

 私に似た薄い紫色の髪と、前髪に一房だけ混ざったアイツと同じアッシュの髪色。

 この子の名前はアーシア・ヴァーミリオン。私とルシアの、たった一人の愛しい娘。


「おかあ、さま? …………ん、ひくっ、え~んっ!」

 私が優しい声をかけるとアーシャは余計に泣きだしてしまった。

 まったく、安心したらしたでまた泣き出すとか、本当に子供の扱いは難しい。


 この子もそろそろ2歳半、自分で動ける範囲も広がっていよいよ魔王の仕事をしながら子育てをする難易度が跳ねあがってきた。


 2歳半、…………たまに知人たちから誤解されるけど、断じて私は死にかけのアイツに頑張らせたわけじゃない。

 逆算すると、どうやらディスコルドでの戦いの時にはこの子はお腹の中にいたらしい。


 ルシアとはついぞ式を挙げることはできなかったから、おかげで私は魔王にして未婚の母だ。


 魔王の娘である私の妊娠が発覚した時には、そりゃあ城中が大騒ぎに、ならなかった。


 どうやら私のお腹の中にいるのが誰の子供かはみんななんとなく分かっていたらしい。不思議なこともあるものだと思う。


 そして私のお腹に子供がいると知った時のアイツは、


「そう、か…………」

 少しだけ複雑そうな顔をした後に、私の手を強く握り返してやっぱり微かな笑みを私に向けた。

 それがアイツなりの、これから生まれてくる子へ向けためいいっぱいの祝福だったんだと今なら分かる。


 私は泣き続けるアーシャを抱きかかえながら裏庭へと向かった。

 どうしてだかこの子はその場所でならすぐに泣き止んでくれるから。


 裏庭への扉を開け、空を見上げる。あらゆる色彩を忘れ去ったかのような灰色の天蓋。


 だけどこの場所はいつだって柔らかな陽が差し込む暖かさと、誰かがいつも側にいてくるような温かさに満ちている。


 ほら、さっきまで泣きどおしだったアーシャも涙を止めた。


 私の視線の先には、大きな木の側にひっそりと忘れられたかのように置かれた何も書かれていない石碑がある。


 私はアーシャを抱えながらゆっくりと石碑に近づき、


「アルト~、見て見て! アゼル様からまた手紙が届いたわ~」

 背中から聞こえてくる母エリスの浮かれた声に振り向いた。


「あ、おばあちゃんっ」

 お母様の姿を見て、アーシャも嬉しそうに手を振る。


「こらっ、アーシャ。おばあちゃんじゃなくて、お祖母様でしょ」


「いいのよアーシャ、おばあちゃんで。それでねそれでねアルト、またアゼル様が手紙と一緒にたくさん絵を描いて送ってくれたのっ」

 自らをおばあちゃんと自称しながら、お母様は十代の乙女のように瞳を輝かせながらいくつもの絵画を持ってきた。


「お母様ったらはしゃぎすぎです。それにお父様から送られてきた物は一度、魔王である私が検閲する決まりでしょ?」


「だってぇ、待ちきれなかったんですもの」

 叱られた子供のように、お母様は言い訳してくる。

 まったく、『だってぇ』じゃないっての。この前うっかり先走ってお父様から送られてきた物を見て、その絵の中に描かれてたを見つけて1週間寝込んだのを忘れたんだろうか。


 その辺りのお父様の無神経さにはそろそろ私も思うところが出てきた。

 子供のころは何をしたってカッコいいお父様だったけど、私も大人になって子供ができた今、ああなっちゃいけないと反面教師にすべき点が日に日に増えているところだ。


「はい、チェックですチェック。え~と、うん、今回は大丈夫そうね。相変わらず放浪生活を満喫しているみたいだけど」

 お父様から送られた絵はどれとして同じ風景のモノはなかった。巡るいくつもの土地の、色鮮やかな世界が一枚一枚の紙の中に閉じ込められている。

 送られてくるたびに上達している絵の色遣いが、繊細なお父様の心情をいつも伝えてくる。本当に、あの人はいつも悩んでばっかりだな。


「はい、お母様お返しします。全部良い絵でした、じっくりと楽しんでください。あ、あとあの子に破られないようにちゃんと高いところにしまっておいてくださいね」


「も~、わかってるわよ。私も子供じゃないんだからねアルト。それに貴女もまだまだ仕事あるんでしょ? 私がアーシャを見てるわよ」

 ニコニコとご機嫌な様子でお母様はアーシャの面倒を見ると買って出た。


「え、あ~、うん。お願いしますね、お母様」

 少しだけ迷ったけど、私はお母様にお願いすることにした。

 確かに、この子がもう少し大きくなる前に、仕上げておきたい大仕事があるから。


「それじゃあアーシャ、おばあちゃんとお部屋に行きましょ。アッくんもそろそろ起きるから、三人で一緒に遊んだら楽しいわ」


「アッくん!? うん、アーシャあそぶ~」

 嬉しそうにアーシャは私の腕から降りて再びお母様に抱きかかえられ城の中へと戻っていった。

 魔王としての仕事もある中でのお母様の存在は非常に心強い。お父様と違って日々尊敬の念が増すばかりだ。


「さて、と」

 私も次の仕事に取り掛かりたいところだけど、その前に私の足は無銘の石碑の方へと向いていた。

 この石碑はアイツ、ルシアの墓だ。本当はもっと豪勢なお墓を用意するつもりだったけど、絶対にそれだけはやめろと念押しされてしまった。


『何もない場所から生まれたオレは、死ぬときに持っていくモノもなにもない。記憶も、名前も、全部お前が持っていろ』


 そう、言われた。

 だからこの石碑に名前も残さない。それはまだ全部、私が持っているものだから。


 まだ私が、預かっているものだから。


「だけど本当、殺風景な場所。今日からは机をここに持ってきて執筆することにしようかしら」

 ふと名案を思い付く。私にとって歴史書の作成以上に大事な課題、それはある児童書の執筆だ。

 歴史書みたいに公平でも公正でもない、私の主観で面白おかしく書く、たった一人に向けた本。


 魔王たちと勇者たちがにぎやかに冒険を繰り広げる、世界でたったひとつの魔勇譚。


「せめて、あの子の3歳の誕生日までには書き上げないとね」


 無銘の石碑に手を乗せながら、私はひとり勝手に誓う。


 この声を、アイツは聞いているだろうか。


 それとも、もうどこかで新しい命として生きているのか。



 賢者は言った、この世界に生まれ変わりはあると。


『余人にはわからずとも、それを知覚できる人間には確かにわかる魂の輪廻がある』、と。


 だったら私は大丈夫。


 あの日、私は魔剣グラニアでアイツの魂を縛り付けた。


 魂の盟約を結び、私の全てをルシアに渡してアイツの全部を貰い受けた。


 全部とは本当に全部のこと、死んだからって手放してあげたりなんかしない。

 

 だから今だって、彼の魂と私の魂は繋がっている。


 空に左手を掲げ灰色の陽光に照らしながら、私だけに見える小指の赤い糸を眺める。


 力なく垂れたその糸の先は、きっとどこかでアイツの魂と繋がってるはずだ。


 この世界にいつか再び戻ってくるその時を、私はずっとずっと待っている。


 歳をとって、おばあちゃんになったって、アルト・ヴァーミリオンはずっとルシアを待ち続ける。


 だから、その時にアイツが楽しいって思える世界になるように、私はここで頑張るんだ。



 モノクロの世界、灰色の優しい風が吹く。


 私の小指から垂れた赤い糸が、少しだけピンと張った、そんな気がした。

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