第362話 エピローグ リノン


 空を見上げる。清浄なる、一切の魔素が排された世界。遠くからは、甲高い、聖剣を鎚で打つ音が聞こえてくる。

 僕、リノン・ワールド・ウォーカーは2年ぶりに湖の乙女たちの住む神晶樹の森に帰ってきた。


 2年、世界から『勇者』が失われてそれだけの時間が経った。


 幸いなことに、あれから大きな戦争もなく人々は平和に暮らしている。それは、人間も魔族も同様に。

 ああいや一応、人間の側では一つの統一国家が誕生するという大きなイベントがあったけど、少なくともそこで人々の血が流れることはなかった。

 それに人間の意志表明を代表する国ができたことは人間、魔族双方にとって悪いことじゃない。

 おかげで二つの種族の融和は少しずつだけど、ゆっくり確実に進んでいる。お互いに積極的な干渉をすることはないけれど、明確に敵対することもない。


 その状況をさらに助長しているのがある噂だ。


『魔族を真に支配して人間を苦しめていたのは魔王ではなく、魔界に隠れ潜んでいた魔神であり、勇者イリアはその命と引き換えに魔神を討ち滅ぼし、世界の平和の礎となった』


 そんな噂がまことしやかに世間に出回り、今やひとつの伝説として成立しつつある。


 いったい誰がそんな噂を広めたのか?

 勘の良い人間ならすぐに気付くだろう、もちろん僕だ。


 ディスコルドの戦いでチートなスキルを失った僕は、地道にコツコツと勇者伝説の語り部として世界を巡った。

 細部が事実と異なるのはご愛嬌。だって民衆には事細かな真実よりもわかりやすい伝説の方が受け入れられやすいからね。


 自分たちにも悪いところがあったのかもしれない、相手にも事情があったのかもしれない、そんな余分を一切排した耳障りのいい物語こそが伝説として人の心に刻まれていく。


 それもいい、それでいい。


 みんなのためと戦い続けたことで悩み苦しみ、だけど最期には尊い決断へ辿り着いた彼女の物語は知るべき人の胸に刻まれていれば、それでいい。


 最期の瞬間に笑顔で消えることのできた彼女のことは、僕らだけが知っていればそれでいい。


 そう、勇者イリア・キャンバスは笑って消えた。


 僕にとっては、それだけで全てが赦される思いだった。


 僕は、勇者の運命を背負ったイリアと出会ってからの日々を、その笑顔ためだけに動き続けた。イリアの前世、彼女の以前の魂が迎えた悲しい最期を、綺麗な終わりに塗り替えるために。


 かつての愚かな僕を、なかったことにするために。


 その目標は果たされた。だからきっと問題ない。


 僕はロクデナシの非人間だから、イリアがその人生を綺麗に終われたのなら悲しみの涙は流さない。


 たとえ、その隣で魔王が悲嘆に打ちひしがれていようとも。


 でも世界はつくづく残酷だと思う。これまで世界を欺いてきた僕を嘲笑うかのように、さっそく次のトラウマを用意してくれていたんだから。


 解決したと、丁寧にしまい込んだはずの想い出の箱を、遠慮なくこじ開けられた。


 賢者を気取る愚か者に目をそらすことなく向き合えと、容赦ない現実を突きつける。


 いやぁ、本当に。僕にとって姿は、本当にトラウマものなんだけどなぁ。



「ひさしぶり~、リノン。げんきにしてた~?」

 色々と考え事をしながら神晶樹の森の中を進む内に、美しい巨大な湖に辿り着く。するとそこで泳いでいた大きな白い鯨が、僕に気付いてのんびりとした動きで湖面から顔を出してきた。

 白鯨、この巨大な神晶樹の湖の同位体。無垢を体現した幼い言葉遣いながらも、僕を含め通常の存在ではとても太刀打ちのできない神獣だ。


「久しぶりだね白鯨、僕は見ての通り元気さ。キミも何一つ変わらないようで何より、ここへ前に来たのはイリアたちと一緒だった時だったかな」


「うん~、そうだね~。きょうはひとりなの~?」

 白鯨は僕の後方をキョロキョロと見渡しながら、不思議そうに首を傾げる…………代わりに身体全体をゆっくりと横向きに回転させ大きな水しぶきが舞った。


「ああ、そうだよ。でもまあ前回が特別だったのさ、僕はお喋りなヤツだけど意外と一人でいる時間の方が多いんだよ」

 口にしながら、少しだけその言葉の虚しさに襲われる。


「……じゃあ白鯨、僕をトキノたちのところまで運んでくれるかい?」


「う~ん、いいよ~。だけどリノン~、なにかかわった~? へんなかんじ~?」

 僕のなんとも言えない心情を読み取ったのか、白鯨が不思議そうに問いかけてきた。


「別に、変わったところはないさ。しいて言うならほんの少し歳をとったくらいかな。ああ、でも永劫に不変であるキミたちからすると、この変化は些細ではないのかもしれないね」

 半分ホントの半分ウソ。確かにこの身体も心も2年分の時間を刻んでいるけど、究人エルドラである僕に大きな変化はない。

 それよりも、やっぱり一人でこの場所に来たという実感が、僕を思ったよりもナイーブにしているのかもしれない。


「まあ大丈夫だよ、僕はとくに問題ないさ」

 いつものように、薄っぺらい笑顔を作る。


「そうなの~、まあいいや~。せなかにのっていいよ~」

 白鯨は僕の心情に深く踏み込むことはせず、ゆったりと旋回して僕に背中を向けてくれた。


「ありがとう、キミの無垢さは、こういう時にとても癒されるよ」

 僕は遠慮なく白鯨に乗って、湖の乙女たちのいる浮島へと運んでもらう。


 悠々と白鯨の背に一人きりで湖の霧の中を進んでいく。もうここにイリアと来ることはないのだと、少しだけセンチメンタルになったけれど、それも歳をとるようになったせいにしておこう。


 浮島に辿り着くといつものように湖の乙女たちが僕のもとに駆け寄ってきてすぐに囲まれた。


 長女であるトキノを始めとした二十余名の乙女たち。だけどいくら見渡したところで、そこにアミスの姿はないし、イリアの姿もあるわけがない。


 この世界に転生はある、だけどそれは真っ当な命に限った話だ。

 無垢結晶に宿った命には生まれ変わりの次はない。始まりが奇蹟とも言える存在には当然と言えば当然のことだ、同じ奇蹟が二度も続くことはない。

 だからアミスやイリアが、新しい湖の乙女として生まれ変わることも決してない。


「ねえねえリノン様、どんなお話をしてくれるの?」

「私、また楽しい物語が聞きたいわ」

「今度はどちらへ旅に出ていたのですか?」

 娯楽に飢えた湖の乙女たちは次々に僕へと話しかけてくる。


「あらあら、みんなそんなに急かしてはリノン様がゆっくり語れないわ。さあリノン様、あちらでゆっくりと此度のお話しを聞かせてください」

 始まりの湖の乙女、トキノが姉妹たちを制して僕を落ち着ける場所へと案内する。だけど彼女の瞳もこれからどんな話が聞けるのかと期待でウズウズしているのが見て取れる。


「まったく、キミたちの好奇心には負けるね」

 まあ元々そのためにここに来たんだ、オーディエンスがすでに暖まってくれているのは悪いことじゃない。僕はいつも椅子の代わりにしている広場の大岩に座り、湖の乙女たちが腰を落ち着けるのを待つ。


 カーン、カーンと、聖剣を打つ清浄な金属音が規則正しく鳴り響き続ける。


 さあ、今回は彼女たちにどんな話を聞かせようか。


 僕の物語、魔王の物語、人間と魔族の物語にディスコルドで起きた大魔王や魔神の物語もある。


 でも、だけど……


「それじゃあ、このお話をしようか。勇者と、聖剣の物語を─────」

 

 僕はとつとつと語り始める、彼女たちの、お話を。




 ひとりの少女がいた。


 純朴で、善良で、誰もが幸せに生きることを願い、誰もが彼女が幸せになることをこそ望んだ。


 だけどその願いも望みも叶うことはなかった。


 命は残酷に絶たれ、鮮血が真白なドレスを真っ赤に濡らした。


 これが勇者になる前の、ある女の子の話。



 ひとりの少女がいた。


 純粋で、独善で、誰もが幸せに生きるのだと願い、誰もが幸せに生きる世界などないことを知った。


 誰かを救えば、必ず救われない誰かが出てくる。


 それでも彼女はその独りよがりをやめることはしなかった。


 自らの肉体を代償に、魔を断罪する力をその身に宿す。


 誰かの罪を裁くことそのものが、赦されぬ罪なのだと知りながら。


 これが聖剣になる前の、ある乙女の話。



 ふたりの少女がいた。


 純粋で、無垢で、人々が幸せに生きる世界を望みながら、自らの歩む道を誰かの血で濡らし続けた。


 お互いを必要としながら、世界に自分たちが不要なことを理解していた彼女たち。


 だから彼女たちは自分の命の使い道を決めていた。


 誰もが幸せに生きる世界がないと知りながら、それでも他者の幸福を求める愛した者のために、彼女たちは最期に自身の命を捧げた。


 その結末を尊いと思う必要も、独りよがりだとけなす必要もない。


 ただ彼女たちはそう生きて、そう死んだだけ。



 これが僕の知る、勇者と聖剣の物語であっただけなんだから。




 ──────────何日、何十日、こうして話し続けただろうか。



 肉体と精神の時間が止まっていた以前と違って、今の僕は疲労も空腹も人並みに感じる。

 何度も何度も休憩を挟みながら、ついに僕は彼女たちの生き様を語り切った。


 聞き終えた湖の乙女たちは、みんな何も言わずにじっと僕を見つめている。


 中には瞳に涙を湛える者もいた。中には悔しそうに口の端を結ぶ者もいた。満足そうに、その瞳を閉じる者もいる。


 それでも、誰も口を開くことはなかった。


 規則正しく鳴り響く、聖剣を打つ音も止んでいた。


 当たり前だ、その音を響かせている本人こそが僕の話を静かに聞き入っていたのだから。


 オージュ・リトグラフ、神晶樹の同位体にして聖剣の作り手。

 ディスコルドに存在する魔晶樹の同位体、魔神アーシェ・アートグラフと同質の存在。


 大きくずんぐりとした身体、愛想のない瞳、壮年の男性を思わせる顔つきはとても魔神アーシェの幼く可憐な外見とは似ても似つかない。


 ─────ああ、今さらの話だけど、魔神アーシェがオージュのような外見でなくて本当に良かったと思う。


「キミが聖剣を打つ手を止めるなんて珍しいね」

 僕は答えを期待しないながらもオージュに声をかける。


「娘の、アミスの話が聞こえたからな。だがそうか、アミスは死んだのだな。わしの剣から生まれた娘が死ぬのは初めてのことだ。しかしその末期まつごが、それほど悪いものではないと知れた、わしにはそれで十分だ」

 端的に、胸に浮かんだ言葉をただ並べるようにしてオージュは答えた。


「それに、剣を打つことを中断したのではない。ひとつ、。だが、それがいつもと違う。貴様の意見が聞きたいワールドウォーカー」

 驚きだった。彼が自ら話題を切り出すなんて初めてのことだ。それに、いつのまにか新しい聖剣が出来上がっていたなんて。

 だとしたら聖剣の同位体、新しい湖の乙女も生まれるはず。僕は岩から腰を上げようとして、その必要がないことに気付く。


「あなたが、賢者リノン、か?」

 オージュの後ろに付き添うように、一人のが立っていたからだ。

 白銀の髪に瞳、他の湖の乙女と同じ薄い絹のような衣を纏いながら、彼は確かに男性体だった。


 僕自身、驚きを隠せない。

 オージュ・リトグラフが聖剣を作り始めて数千年、聖剣と一緒に生まれてくる同位体はみな女性だったはずだ。何故ここに来て男性の同位体が生まれるなんて変化があらわれたのか。


「不思議だった、わしが剣を仕上げたと思い最後のつちを振るった時には、コレが剣の柄を握っていた。何か見解はあるか、ワールドウォーカー?」

 静かに重い口調でオージュは僕に問い質してくる。

 まったく、ずいぶんな無茶ぶりだ。数千年を生きた存在にとってすら初めての体験に対して知見を求められるとか。

 それでも僕は一応は大賢者を名乗る以上、ここで無回答ともいかないのがつらいところ。


「見解と言われても困るよオージュ。男の子が生まれるなんて良かったじゃないか。この湖の男女比が少し改善したんだ、素直に喜べばいいさ。……それで、キミに名前はあるのかな、少年?」

 僕は回答を濁して時間を稼ぎながら、少しでも情報を得るために期待薄ながらも少年に声をかける。

 すると少年は利発そうな瞳を見開いて答えた。


「アグニ・エイミス」

 どこかで聞いたような、名の響きだった。

 その名を頼りに彼の姿をあらためて見ると、どこか面影があるような気がしてくる。


「アグニ、そしてエイミス、か。それはどちらもキミの名かい? それともどっちかはキミが手にする聖剣の?」

 湖の乙女たちは名前をもって生まれてくることはない。だからこれまでは聖剣と同様にオージュが彼女たちに名を与えてきた。

 だけどこの少年、そして聖剣は初めから名を持つという。


「この名は自分と剣、二つを合わせて指す響き、だと思う。私は、この剣を手放すことはない」

 彼の持つ聖剣はこれまでのものより一回りは小さい、だけどその造形はかつて勇者が手にしていたととてもよく似ていた。


「誰かが、自分にこの名を与えてくれた気がするんだ」

 少しだけ誇らしそうに、少年はそう言った。


 こんなことも、あるのか。


「そうか、それはいいことだと思うよ。アグニ・エイミス、この世界にようこそ。キミはキミの生を十分に楽しむといい。きっとあの子もそれを望んでいる」

 誰かが望んだ奇蹟に精一杯の祝福を。同じ奇蹟が二度続くことがなくとも、違う奇蹟が何度だって繋がっていく。


「生を、楽しむ? どういうことだろう賢者リノン。私は自分の生まれた意味さえわからない」

 少しだけ困惑するように少年は自身の胸に手をあてる。


「うん、そうだと思うよ。誰だってそうさ、そこにいるオージュですらきっとそうだった。だけど自身の存在する意味も分からず手探りで握り締めたモノを離さなかったからこそ、この場所やキミたちがある。だから、今知らなくたっていいんだ。その意味を探すことが、それを見つけるための長い旅路が、生を楽しむってことなんだよ」

 適当に、無責任に僕は告げる。

 僕にとって彼が生まれてきたことには十分な意味と価値があるけれども、それはあくまで僕にとっての話。


 彼、アグニはかつていた誰かの生まれ変わりや代替品なんかじゃない。きっとあの子アミスが望んだ、未来へのほんの小さな夢なんだから。


 夢、そう夢だ。世界はそんな小さなモノを繋ぎ繋いでできている。


「生まれた意味を探すことが、生を楽しむ、か。わかった、自分なりに努力してみようと思う。であるのならば賢者リノン、私にも聞かせて欲しい、貴方の話す物語を。生まれた意味を探し求めた、─────誰かの旅路を」

 僕の言葉を胸の内で反芻した後、真摯な瞳で彼は僕に求めてきた。


 まったく、僕はここまで幾日も話し続けて疲労困ぱいだっていうのに、この湖で生まれた子たちは本当に容赦ない。


 ああ、でも構わないか。


「いいよ、アグニ・エイミス。とっておきの物語が、まだ残っているからね」

 小さな物語を繋ぎ繋いで、長く偉大な歴史エルダーストリアは綴られる。


「さてさて、これから語るのは偉大なる魔王と、ある乙女の話……」


 奇蹟も、夢も、物語も、望む者がいる限り、いつまでだって続いていくんだから。

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